私は、長男で家の墓(曹洞宗)を継がなくてはなりません。

ところで、現在、聖書を読んで感動し、教会(カトリック)に通いだしています。
できれば、毎週のミサに出席し続けたいです。洗礼を受けなくてはならないでしょうか。

家の墓も継がなくてはなりません。洗礼を受けると、家の墓は放棄しなくてはならないでしょうか。

悩んでいます。どなたか、教えてください。

A 回答 (5件)

お礼有難うございました。


又、No.4さんへのお礼も読ませて頂き、色々真剣に悩み、考えておられることがわかりました。
まだまだ、考えに整理がつかないかもしれませんが、本質問の4週間後応当日である明後日5日に管理人から強制締切される前に、どうぞベスト・アンサーを選び、締切をお願いします。(必要であれば、別質問を立てられれば、今後も回答可能です。)

本日、教会で、神父様とこの問題につき討議しました。
又、No.4さんへのお礼文を読んで考えたこともありますので、以下に記します。

1)カトリックが、禅宗のように「自力本願」でもって個人の能力を上げ「自己を修行し救済する」ことを目指す宗教ではなく、浄土宗や浄土真宗と同じく他力本願の考え方を持っていることは、我々「普通の人」には受け入れやすいと思います。
又、新約聖書に出てくるザアカイ或いはマグダラのマリアや姦通の現場を捉えられた女性のような、当時社会からはとんでもないとみなされていた人々をも救済する話は、キリスト教が社会的弱者(含・当時卑しいとみなされていた職業従事者、女性、少数民族など)のサイドに立っていることを明確に示していると言えます。

この世の中で、色々な問題に悩まされ、泥をかぶりながら現世を行き抜き、救済に向かう人間を神様は癒して下さいます。それは聖書の中のキリストの言動を見れば明らかだと思います。

2)キリスト教が「愛」を最上の価値とみなしているのと同様、仏教も、「慈悲」を重んじ、民衆サイドに立って、救済に努力してきたのはご存じの通りであり、この点はキリスト教と比べても決してそん色はないと思います。

3)私は、夫々宗教には優劣がなく、どの宗教を信じてもそれなりに救済に通じるという考えを今後も一生継続していくつもりです。(相対主義或いは多元主義)
 ただ、キリスト教の教義では、前回回答でも書きましたが、諸宗教とは腹を割って対話に励むものの、やはり救済はキリスト教のみで達成されるという考えであり、他宗教の人も究極的にはキリスト教の神で救われるのだという考えを保持しており、相対主義は誤った考え方と定義しているようです。
 私は、こうしたカトリックの教えには信念として決して従う意思のないことを、今日、神父様にはっきり伝えましたが、それぞれ色んな考えがあり、それでもキリストを信じている以上は、「棄教」の必要はないと諭されました。

4)又、仏式の葬儀や法要の際、焼香をし、霊前に頭を下げるとしても、心の中では静かに○○さんの冥福を自分なりにキリスト教の祈りで行う、という考えにも決して承服できないし、仏教で葬儀を行った自分の先祖の冥福をキリスト教で祈ったり、その墓をキリスト教墓地に改葬したりすることも決して承服できないことも伝えました。
 神父様はそれもひとつの考え方だと言いましたし、物理的に読経が流れている所で、それをかき消すようにキリスト教の祈りをするのは実際的でないことも認めました。その神父様自身、親族の多くは仏教であり、故郷に帰れば、仏式の葬儀や法要に参列しており、そうした宗教混在の日常には全く違和感を持っていないということです。

5)墓地に関しては、カトリック墓地やクリプタ(大きな教会に併設しているロッカー式墓地)でも、現在、カトリック信者ではない人の骨壺も受け入れていることが確認されましたが、私のように公設墓地を利用することが一番気兼ねなく良いと思います。

6)まあ、教義を突き詰めて行けば、色々自分の考えと違う所などもあるのは仕方がないと思いますが、現代は、昔と違い、人間の生活に合わせるように、宗教も敷居を低くしてラブコールを送っている時代だと思います。
 カトリックも第二バチカン公会議前に比べ、大分とっつきがよくなりました。
(恐らく、第二バチカン公会議前であれば、私は信者になれていなかったと思います。)

 それは他の宗教にも言えることだと思います。
 仏教も、坐禅や読経や写経やお坊さんの法話などを通じ、大衆とのつきあいに気を配り、日本人の生活の根底にいつも寄り添っている気がします。

 それでも多くの人は、宗教を普段は敬遠し、何かうさん臭いもののように遠ざけていることが残念でなりません。

 是非、仏教であれ、キリスト教であれ、アレルギーを持たずに、日頃から接して行って頂きたいものだと思います。

 そして、どちらかに自分の軸足を移すとしても、他方の宗教、或いは宗教全般への関心も失わず、常に広く学ぶという姿勢を続けて行ってほしいと思います。


 以下、私の過去の回答・質問です。時間があったらご参考にして下さい。
但し、私の思い込みによる記述も多いと思うので、何度も言いますが、
いつも訪問されるカトリック教会の神父様や信徒の皆様、そしてお寺の
皆様などにも、相談してみて下さいね。

日本人は無宗教?(回答No.24)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7392484.html

海外で無宗教と言ったら無神論者ととられてしまった(回答No.13)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3211328.html

自分が何教かわからない。(回答No.4)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5308582.html

クリスチャンとノンクリスチャン(回答No.8)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3591349.html

信仰を目的とする,道具的存在としての偶像について(回答No.1)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7298873.html

キリスト教とその信者に反感を持つ理由(回答No.9,14)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7204518.html

クリスチャンの方に伺いたいのですが、(回答No.2)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7163727.html

宗教について(回答No.7)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4889486.html

複数の宗教を同時に信仰してる人っているのでしょうか(回答No.13)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8670273.html

「普通名詞としての神」に祈ること (小生質問、
回答No.9など参考になると思います。)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html

クリスチャンの彼氏をもっと知るために(長文) (回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7890685.html

道を究めるのにどの宗教かは関係ない(回答No.4,5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8450068.html

“クリスマス”ってキリスト教の祭典なのでは?(回答No.16)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7789533.html

宗教と初詣(回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7749358.html

宗教とは?(回答No.17)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7667585.html

お墓や仏壇については、次の質問と文章末尾に挙げた過去問をご覧下さい。

キリスト教徒とお墓、位牌(回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7655620.html
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この回答へのお礼

御心遣い、ありがとうございます。匿名ながら、真摯なご回答とご教示を受け、感謝しております。私の人生上の悩み、生き方、救済、幸福を考える中、ご回答者お皆様には御礼申し上げます。私は東京近郊現在会社員をしております。
皆様の回答につきましては、優劣つけ難いのですが、5,3,2,1、の皆様の解説が役に立ち、3と5の方が詳述されていると思います。
ただ、この質問のお礼の最後としまして、やはり、現在、私(中年にさしかかりましがた)が生きてゆくに当たり、「人間への愛、生への希望、人類愛、家族愛」といったものが、「振り返って、これから」必要なんです。「聖書」(特に新約聖書)に魅せられております。いわゆるどこかの(カルト系の)教会は遠慮させていただきましたが、カトリックの教会には通わせていただきたいと思っております。
「実家のお墓」は親族間でもどうすべきを考えて、いずれは話し合いたいと思うのですが、私には「キリストの愛」には心打たれます。
これを記載している時点ではベストアンサーを選択できておりませんが、3と5の方は非常によく詳述されていて感謝しております。

お礼日時:2014/08/04 01:43

親が仏教徒だから子供も仏教徒にならなければならないと言う決まりはありません。


家の墓があるからとかも、まずは置いといて良いです。
一番重要なのは、あなたがどうしたいかです。

聖書を読んで感動し、キリスト教に入信したいと思ったのならばそれで良いのですが、
その前に一つ確認していただきたいことがあります。
あなたは、親や先祖が信仰していた仏教をどれぐらい知っているかです。
おそらくですが、あなたは自分の事を仏教徒と言ってますが、受戒会を受けておられないのではないでしょうか。受戒を受けていないのであれば、あなたは仏教徒ではなく、親が仏教徒というだけです。
仏教の事を何も知らずに、ただ単に初めて知った宗教だから感動して入信したとなっては、ヒナ鳥が初めて餌をくれてものが親だと思うのと一緒です。

教会のミサに出席するのは良いことですが、それと同じだけお寺の法座にも出席してください。両方学んで比べて、その上で、自分が信仰できるのはどちらかを決めていけば良いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに私は「受戒」は受けておりません。ただ残念ながら(私の実家のお寺は都内にありますが)「法座」がミサのように毎週日曜日に開かれているといったお話を聞いたことがございません。ほかの方への回答には関係にしてしまい、あまり記すことことができずに1回しか記載できなかったので、ここでほかの回答者の方への応答もかねて記載させていただきます。
私は人生で悩みを抱え、道元禅師の「正法眼蔵」の解説書をよみました。「画餅」の話、その他の法話。親から聞いた話では、私の祖先は江戸時代は庄屋で関ヶ原以前は武士であったとのことを聞きました。
「正法眼蔵」はまさに「武士」(孤独な支配者、支経営者・支配者はいつも孤独)が独自に自立するための精神力を養うための教義のような気が(も)します。
浄土宗や浄土真宗などは、仏教とはいえ「大船」といった他力本願の考え方がありますが。
曹洞宗、禅宗系においいては「自力本願」といって、大乗仏教ではあるが「自己を修行し救済する」といった考えで成り立っているように思います。道元禅師は民衆の救済もお考えであったと思いますが、それでも「他人のその人の自己を修行させることにより、その人の自己を救済する」という考え方えあるような気がします。要するに「その人の自己の救済」なのです。
そして、その方法論は「明らかに悟る、あきらめる」「『無』、『無限・無間』」のようです。
ただ、この世、いうならば「現世」はそんなに単純に行くとは思えなくなってきています。
より、世の中(いうなれば現世)は複雑であり、人間関係がドロドロとしていたり、複雑怪奇であったり、よくわからなかったり、「世にも奇妙な」ことが生じるのです。
「長崎の鐘」の1シーンではないが「理解できないこと」が起こるのです。
「知ってか知らずか」罪を犯し、「道理のない・理不尽な事」で他人から傷つけられ陥れられ、「どんなことがあっても」生命体としての人であるから「(或いは辱めをうけ)生きながらえること」を強いられるか自殺せざるを得ないような状況に陥ることすらあります。そして、(人間関係で)悲しい悲劇が起こることもあります。
このような時、「自己鍛錬と悟り」「『無』『無間』」だけで、この世の事物を解決・救済できるとは思えなくなってきております。
「(結果的に見れば)他人も・自分も罪する」「この世は理不尽な事だらけ」(私は民間企業に行ってからこのことを思い知りました)「よくわからないことだらけ」
私はこれまで、割と「一匹狼」「一本独鈷」というような生き方が中心となっていましたが、現世の社会人としての年月を重ね自分の生き様(こんなキザな言い方もできない代物ですが)を振り返って、「救済」「やさしさ」「愛」というものが必要であると思い考えるようになりました。
「自分が生きるにあたっても」、「(乗り越えて)他人との関係を築く、あるいは他者との関係を結ぶにも」
なので、「聖書」と「ミサ」を考えるに至ったのです。そして実家のこともあり、表題と質問本文のような質問をさせていただくこととなりました。
長男として親から生を受け、そして悩んでおります。実家のお寺は都内にありますが、あまり特定できません、申し訳ございません。
また、特にこの私の質問とこのお礼の記載については、特に禅宗系の方々には一読いただきたい気がします。
「新約聖書」に出てくる、たとえば「ザアカイ」、とんでもない者をも救済する、その他困難にも負けない姿、2000年前でありながら、現世の苦しみにもがきながらも救済へと向かってゆく姿と愛、打ちひしがれても進む姿、いかがでしょうか。
「自己鍛錬・悟り・無」の考えだけでなく、「(泥だらけの)現世で救済へと邁進する姿」、私は感動するのです。
年配の方なら知ってる方もいる「長崎の鐘」の映画と藤山一郎の「長崎の鐘」の歌。
「映画」の一節には確かこのようなシーンがあった「(主人公とともにいた老人が)世の中には人間にはわからないことがある、神にしかわからないことがある。」

私は基本姿勢は形成しつつも、悩みを持っています。

お礼日時:2014/07/28 23:46

以下、長文ですが、あなたの疑問の「本題」に迫るつもりです。


是非、あなたの反応(この回答が、あなたの疑問の解明に役立ったのかどうか?)を聞きたいです! よろしくお願いします。


私も高校の時に洗礼を受けて40年になる信者ですが、家は元々曹洞宗で、私自身、坐禅や読経の経験も多く、仏教や神道はじめ他宗教にも深い共感を持っています。
私の宗教に対する基本的考え方は、「神様は一つだとしても(この部分は一神教)、そこに至るには色んな宗教があり、キリスト教はその一つに過ぎない」という、まあ、日本人によくある考え方を持っています。

実際、ほとんどの日本人は、「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれた場合、「特定の宗教に帰依しない」ことを理由に、「無宗教です。」と答える人が多いのですが、それは、決して宗教心が薄いことを意味するものではなく、各宗教に親近感を持ちつつも、等距離を保ちたい、という気持ちの表れであると思います。

加えて、仏教にしても神道にしても、キリスト教の「洗礼」に相当する「入信」の儀式がない(坊さん者が「得度」を受けてその資格を得るのは別として)為、仏教徒或いは神道の信者という意識があまりない、「ゆるやか」な信仰を持っており、むしろあなたのように「仏教徒」と名乗れるほどの強固な信仰を持っている人は少数派と思われます。

ですから、そのようなバリバリの「仏教徒」であるあなたが、もう一方の一神教ガチガチのキリスト教の洗礼を受けるというのは、確かに「清水の舞台から飛び降りる」覚悟でいらっしゃるのではないか、と容易に想像できます。

カトリックが、今や「社会に開かれた教会」であり、信者と信者でない人を問わず、いつもウェルカムな姿勢になってきていることは、前のお二人の回答に書いてある通りです。
「第二バチカン公会議」(1962年~1965)http://www3.synapse.ne.jp/mr826/chu/sem/kokaigi. …
以降、カトリック教会は、各国の文化や伝統に順応し、他宗教との対話を進めるなどの努力を見せました。

No.1さんの挙げられた「カトリック教会の諸宗教対話の手引き」(以下「手引き」と言います)を見れば、仏式の葬儀やイベントなどにも自由に参列を許し、彼ら他宗教の人たちとも自由に交流を促しています。例えば、坐禅なども修行法の一つとしてカトリックに取り入れられており、カトリック司祭の中にも、仏教界との人的交流が深い方や、仏教や宗教全般に造詣の深い方が沢山います。彼らの基本姿勢は、「異なった宗教でも、良い点、学ぶべき点は進んで受け入れ、信仰を深める糧とする」と言う姿勢だと思います。

問題は、こうした「外から見たとっつきの良さ」が、洗礼後も続くのかどうか? と言う点ですね。
以下に、それを判断するための材料をいくつか挙げて行きます。
ネガティブなコメントが多いのですが、最終的には、神父様やシスターや他の信者さんにも相談して決めて下さいね。

1. 一言で言って、カトリックは、信者でない人でもミサなどに受け入れはしますが、仏教や神道などと違い、やはり最終的には「洗礼」を受けて「信者」になってナンボと言う考えだと思います。
 他宗教の存在は認めるとしても、あくまで、最終的に救いに至るには「キリスト教」しかないという立場であり、他の宗教を歩んでも同様に救いに至るという、いわゆる「相対主義」とは厳然と一線を画しているのです。(前記「手引き」p.24 六(2)参照)・・・・まずこの点が、私には今後とも一生涯に亘って、受け入れられない点ですが、これこそキリスト教の前提中の前提であり、ここで早々に私はコケてしまう気がします。

 そういう前提ですから、洗礼を受けていない人のことは「未信者」と呼ばれ、洗礼を受けて初めて、真の意味で「教会」と言うコミュニティに迎え入れられることになります。
(聖体拝領(キリストの肉を象ったパンを頂くミサ中の儀式)も信者だけに限るというのは教義なので致し方なく、そこまで緩和するということが許されないのは当然です。)

2. 前記の「手引き」(p.33, 37, 61, 67など)に書いてある通り、他宗教での葬儀・法要やイベントに自由に「参列」可能ではありますが、そのスタンスはあくまで「お客さん」として、「儀礼」的に「参列」するに過ぎず、「参加」ではない、そしてそこで唱えられているお経などに沿って祈るのではなく、心の中でキリスト教の祈りを唱えよ、と書いてあるのですから、この点も私には違和感を覚えざるを得ません。

3. さて、あなたが一番気にされている「お墓」について・・・
(1)死者を手厚く葬り、墓を大切にすることは、「キリストの愛に基づく美徳」であり、寺に先祖の墓がある場合には、その寺に永代供養料や謝礼を納めるのは「儀礼」上当然であり、家族の中に仏教徒がいる場合にはそれでよいが、家族が全員カトリック信者になった場合は、信者でない先祖に対しても神父に祈ってもらうことも可能だし、信者は心の中でキリスト教の祈りをすることや、出来ればカトリックの祈りが出来る場所に改葬することまで推奨されています。(「手引き」p.54~73)
・・・こうした煩雑さを避けるため、出来れば墓地は公営墓地に置かれることをお勧めします。公営墓地であれば、墓石の裏に先祖の戒名と並べてカトリックの霊名を刻み、一緒に葬ることも可能です。(我が家もそうしています。)
又、私は、仏式で葬儀を行った先祖の回忌法要の際は、お坊さんを読んで読経をお願いする他、自分でも般若心経などは唱えることが出来ます。こうしたことから、私には、上記「手引き」で推奨されていることを受け入れる用意はありません。

 皆様もよくご存じのマザー・テレサ(1910~1997)はインドの貧民街で「死を待つ人々の家」というホスピス施設を創設しましたが、彼女は収容者の臨終に際し必ずその人の宗教を聞き、その宗教で葬儀を行ったと言われています。
死者の信仰した宗教で葬儀や法要を行うことは、人間の尊厳を守るための基本であり、子孫が勝手に自分の信じる宗教でそれらを行うことは、慎むべきと私は考えています。

(2)仏壇については、カトリック信者になったら、出来ればカトリックの家庭祭壇に一本化することが望ましいとされていますが、家族・親類などの都合で、仏壇を維持する必要がある場合には、そのまま維持することも可としています。もしその必要がない場合は、お寺さんと相談して処分方法を決めるよう推奨しています。
 家庭祭壇は家族の祈りの場なので、仏壇を家庭祭壇として利用する場合は、仏像や軸物を他に移して、キリストの像・十字架・マリア像などを置くことも推奨されています。(「手引き」p.57)

・・・我が家には、先祖の仏壇とカトリックの洗礼を受けた父の祭壇の両方があり、毎朝晩、両方に手を合わせています。
 先祖には「お祈り」はしませんが、時にはお経を捧げ、「いつも見守っていて下さい。」と声をかけて手を合わせます。


 私は、40年以上に亘る信者生活の中で、こうした種々の考えの違いに封印をし、日頃の神父や他の信者との会話の中でも、突き詰めて議論をすることがありませんでした。

 私は、宗教の目的の一つは「心の浄化」であり、何教であれ、その人間が少しでも「良い人間」になることが出来るのであれば、何でも良く、各宗教の「教義」は二の次と考えてしまうのです。
 
 仮に、上記のような根幹にかかわる部分で従えないことがあっても、表立って「カミングアウト」しない限り、教会のコミュニティの一員として快適に過ごすことは可能であり、現にそのように私は過ごしてきました。

 しかし、果たしてそれでいいんでしょうか?
 上記の私の考えは、信者になった当初から一貫したものであり、今後も死に至るまで決して変える意思はありません。
 そのような人間が信者として、今後教会に所属していてよいのか、私は今疑問に感じ始めており、正直にその疑問を神父様や信者仲間の間でも相談しようと考えています。

 但し、他の信者から聞いた一つの意見としては、「教会の縛り」をしっかりしておくためには、「手引き」のような文書では、どうしても原則論を述べる必要があるが、運用上は、もっとゆるやかな面が多いのではないかということです。
 昔は、少しでも教義に反する発言をした者は「異端」として追放されることがあったキリスト教ですが、実は色んな考えを持つ人がおり、ある程度(どの程度か確信はありませんが)の考えの違いは内包する寛容さがあるように思います。
 現にジョン・ヒックのように、キリスト教と他宗教との関係をもっと柔軟に考える学者などもおり、カトリック信者としての本分を尽くせば、他宗教との更なるクロスオーバーは許容されると考えてもいいような気もします。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。いろいろ悩みながら、キリストの愛と聖書を学んでゆきたいと思います。

お礼日時:2014/07/24 01:01

私(長男)の家は曹洞宗です。

妻は浄土真宗です。そして私は中学の時に洗礼を受け、堅信も受けています。

第一にミサに出るだけなら洗礼は無用です。信者で無ければできないのは聖体拝領だけです。また告解も不要です。

私は父の葬儀も法事も曹洞宗でやっていますよ。何も問題ないです。
そもそも仏教は生き様を学ぶところです。仏という神を信じるわけではありません。
カトリックだろうと仏教徒だろうと正しく生きることに大差はありません。

釈迦がたくさんの仏を作ったわけではありません。仏像は神ではなく、仏法を具現化したものです。これは仏法を解説する書物や人が言っている事です。
釈迦は当初、偶像崇拝になるからと何も対象を持ちませんでした。しかし弟子らが対象がないと集中できないと言われて「○」を書いただけです。それ以上はすべて後世の僧が仏法を解り易く説明するために作ったのです。
つまり「南無阿弥陀仏」というのは阿弥陀仏を信じるのではなく、阿弥陀如来の功徳という教え(無明の現世に注す光(救済)と安寧を約束した来世)を信じるということです。これはそのまま主のみ御手による救いと天国の幸せを信じるということと全く同じです。要するに表現法などが違うだけで趣旨は一緒なんですよ。

先祖が眠っている墓を放置する必要もありませんし、自分が死んだ後、どこに葬られようと関係ありません。
自分の魂が問題なのです。普通に管理すればいいんです。

これらは私が洗礼を受けるために公教要理で学んだ事です。
形式に捉われてはダメです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。いろいろ悩みながら、キリストの愛と聖書を学んでゆきたいと思います。

お礼日時:2014/07/24 01:01

こんばんは。

不勉強なカトリック信者です(^-^;。家は代々カトリック信者ではありませんので、真言宗のお墓もありますし、法事もやってます。大体が代々カトリックの家は少ないと思います。長崎などでは多いかもしれませんが、殆どが稀ですので、皆さん何とか折り合いをつけていると思われます。また折り合いOKのようなユルイ感じがカトリックにはあります(だから好きです)。
そういった大多数のカトリック信者のためにカトリック中央協議会から「祖先と死者についてのカトリック信者の手引き」という本が発行されています。私も持っているんですが、Q&A形式で法事やお墓参りなどが載っています。今検索したら思いっきり絶版だったんですが、その後継本が出ていますので↓を参考になさって下さい。
http://www.cbcj.catholic.jp/publish/other/jissen …

また洗礼を受けなくてもミサに出席することは可能です。色々と家庭の事情もあると思いますし、洗礼についてはゆっくり考えられたら良いかと思います。何十年もミサに出席しても洗礼を受けていない人もいます、すぐに洗礼を受けても教会から離れる人もいます。教会のミサに出席される理由も様々です、「教会は皆のもの」ですので、洗礼を受けていないからといってミサに行くのをためらう必要はないと思います。
御長男という事もありますし、まずは少し教会に通ってみてから洗礼を受ける事をゆっくり考えられたら良いかと思います。


ご参考までに。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。いろいろ悩みながら、キリストの愛と聖書を学んでゆきたいと思います。

お礼日時:2014/07/24 01:01

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