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責任とは、「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務」ですよね。そして、刑事とは、「刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき事柄」ですから、刑事責任とは「自分がかかわった刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき義務」ということになります。

しかし、刑罰とは、「犯罪を行なった者に国家権力が科する制裁」をいうのであり、刑罰は、犯罪者の義務とはいえないのではないでしょうか。なぜなら、刑罰に義務があるのならば、犯罪の行為は権利となってしまうからです。

A 回答 (6件)

 若干誤解を招く表現がありましたので、補足いたします。



>刑罰において道義上の責任を考慮の対象としないことは、犯罪を犯した時点で責任能力を問わず自動的に処罰されるようになります。(要約)

 申し上げたかったのは責任は法的なものと道義的なものとあり、責任を道義的なものと割り切ったうえで処罰にあたり法的責任(故意・過失を含む)を一切考慮しないということであれば、責任能力の有無・故意過失の軽重による違いを無視することになりかねないのではないか、という問題提起をしたかったわけです。 簡潔な表現ではなかったので、誤解を招いてしまったと思います。申し訳ありませんでした。

>犯罪を犯した者が、基本的人権を制限されたり剥奪されるのは、国家が科する制裁であり、その量刑を判断するときに、過失犯であるか故意犯であるかを問題にするべきではないでしょうか。

 後段は全くその通りです。だからこそ法的責任を考慮すべきであるという定理がまさに妥当します。故意犯か過失犯かという問題は法的責任の軽重をめぐる議論ですから。
 また
 
>第三十九条の第一項 の「心神喪失者の行為は罰しない。」の条項は、病気によって心神喪失や心神耗弱の人達に対する基本的人権を阻害するものでしかありえません。

 基本的人権も憲法も結局は個人を尊重するための原理に他なりません。しかし保護すべき個人の環境・状況に重大な問題があるにもかかわらずこれを放置した場合には、その個人は基本的人権を保障されているといえるでしょうか。貧困に苦しむものには救貧政策を施し、教育を受けたいものには教育環境を提供し、病気のものには治療のためのアシストをするということが国家の責務であり(無論、国家が国民の自由を保障するということは最低限の条件です。これを踏まえた上で厳格に措置の合理性が判断されなければなりません)、こうした諸政策が実現されてはじめて基本的人権が保障されているといえるのではないでしょうか。ですから刑法39条が直ちに基本的人権を阻害するものであるというご意見には疑問があります。
 さらに刑務所は正常な精神を持つ犯罪者を対象とした矯正施設であるのであって、病院ではありません。犯罪者と一緒に精神治療をするということは示唆を与えるご指摘ではありますが、このことが彼らの治療にとって医学的に有効かどうなのかははっきりわかっていません。一般の受刑者でさえ社会復帰するのは難しいのに、障害を治療し更生させ社会復帰をはかるという為にはさらに高度なプログラムが用意されなければならず、それを現状の普通刑務所で他の受刑者と接しながら行うことは現状では不可能でしょう。
 差別と差異とは大きく異なります。差別を助長させることについては断固とした態度をとるべきですが、個人の状況によって取り扱いを合理的に分けることは平等原則のもとある程度は許容されるべきでしょう。

 問題は、精神能力の有無の判断と、精神能力がないとして無罪になった後にきちんとした治療が行われていないことにあると思われます。とくに無罪とされた後に司法の手で何もなされない点について、多くの批判が出てきているのは周知の事実です。ですから保安処分についても議論をタブー視することなく討論の俎上にのせるべきと考えます(個人的には考えがまとまりませんが・・・)。

 なお
>保安処分は、隔離政策は、差別を生みますし基本的人権を阻害します
>その行為者は、基本的人権を制限されたり、剥奪されるという原理原則を持つべきと考えます。
 という点に、若干の矛盾を感じるのですが。こちらのテクストの読み違いでしたら申し訳ないのですが。

 
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この回答へのお礼

毎回のご丁寧な返信ありがとうございます。

>さらに刑務所は正常な精神を持つ犯罪者を対象とした矯正施設であるのであって、病院ではありません。犯罪者と一緒に精神治療をするということは示唆を与えるご指摘ではありますが、このことが彼らの治療にとって医学的に有効かどうなのかははっきりわかっていません。

刑務所は病院ではないというご意見は、ごもっともだとおもいますが、心神喪失で罪を問われない犯罪者が、一般の精神病棟で、事件をおこす確立も高いと聞いています。やはり、社会防衛的な考えによる、刑法の側面は必要なのではないでしょうか。

いたずらに、今回の事件に反応して、保安処分の議論をしたりしないで、精神病は、風邪などの病気と同じで、市民権を与えた上で、刑法の適用も、平等に行うべきと考えます。
精神病患者の犯罪で、保安処分のような隔離政策は、絶対にしてはいけないと考えます。

>一般の受刑者でさえ社会復帰するのは難しいのに、障害を治療し更生させ社会復帰をはかるという為にはさらに高度なプログラムが用意されなければならず、それを現状の普通刑務所で他の受刑者と接しながら行うことは現状では不可能でしょう。

私は、精神医学の進歩を信じます。また、社会の要請があれば、精神医学に従事する者の意欲もたかまるのではないでしょうか。精神病の犯罪者は、一般社会と同じように、健常者の犯罪者とともに、刑に服しながら、社会復帰のための精神治療をしていくことに、挑戦するべきではないですか。

お礼日時:2001/06/14 20:03

 もう少し議論を深めましょう。

 
 前提として刑法上の責任とは『反規範的意思』を持つことであると言われます。ですから一般の『責任』という言葉の使い方とは異なります。また刑罰の重大な要素となるものですからこの場合にはあくまで法的なものであって、道義的なものとは区別されるべきです。
 
>刑法は守るものではなく、犯罪者にたいする、司法の行動や判断の基準ではないでしょうか。

 鋭いご指摘です。では犯罪者がなぜ処罰されるのか。それは犯罪者が判断の基準たる規範(刑法)に反し、不法に、法益を侵害したからに他なりません。重ねて申しますがここにおいて『責任』は法的なものであり、かつその内容は処罰にあたって検討せざるを得ません。

 責任はすべて道義的なものであるから刑罰においては考慮の対象にならない、という考え方を採れば、犯罪を犯した時点で責任能力を問わず自動的に処罰されるようになります。また人を殺したということになれば、人を殺す意思で殺した場合も、未成年の思慮の浅さゆえ殺してしまった場合も、車で事故を起こして殺してしまった場合(過失犯)にもすべて同じ殺人罪で処罰されるということになるでしょう。しかしこのような結論は本当に妥当でしょうか。
 刑罰の目的に反規範的な意思を持たないように市民を誘導し犯罪を減少させることにあるということを挙げるとすれば、反規範的意思を持つことのできない者(責任無能力者)を罰しても彼ら及び市民が規範を重視するようになるとは考えられません。そもそも責任無能力者に必要なのは刑罰ではなく治療又は教育であって、彼らを罰したから犯罪者が減るということにもならないと思われます。
 いわゆる過失犯も故意犯と全く同じように罰することにも問題があります。危険な状況を認識していたからといって故意犯で罰するということになれば、およそ危険な行為は行いえません。そうすると車の運転や医療行為も危険な行為に入るわけで、そうしたものがストップすれば国民生活に重要な影響を与えます。国民の基本的人権をも制約しかねません。さらに軽過失でも厳しすぎる罰を与えると、却って国民の規範を守ろうとする意識を低下させ、有害です。

 なお
>第三十九条の心神喪失及び心神耗弱の条項は、犯罪の不成立及び刑の減免を意味するものではなく、刑の方法を問うべきものであるはずです。犯罪者が、精神鑑定を受け、第三十九条の心神喪失により、犯罪が不成立になることは、市民権を得た精神病患者への差別と偏見をしていることになります。病によって、心神喪失にある者が、犯罪を犯したときに、例外なく平等に裁かれることが必要ではないでしょうか。
 
 精神病患者さんが社会からのケアを必要とされる方々である以上、状況に即した対応がなされるべきです。例外のない平等とは形式的なものであって、憲法上要請される実質的な平等の確保という観点から考えられるべきであると思われます。責任無能力制度も肯定的に理解されるべきでしょう。
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この回答へのお礼

get-miyakoさん再度のご教示ありがとうございます

早速ですが、

>刑罰において道義上の責任を考慮の対象としないことは、犯罪を犯した時点で責任能力を問わず自動的に処罰されるようになります。(要約)

まず、道義とは、「人としてふみ行うべき道」ですが、心神喪失の状態は人間ではないとして、その責任を問えないとすることは、病気によって心神喪失や心神耗弱である人は、人間にあらずということになり、彼等に対する基本的人権を阻害するものではないでしょうか。

>車で事故を起こして殺してしまった場合(過失犯)にもすべて同じ殺人罪で処罰されるということになるでしょう。しかしこのような結論は本当に妥当でしょうか。

犯罪を犯した者が、基本的人権を制限されたり剥奪されるのは、国家が科する制裁であり、その量刑を判断するときに、過失犯であるか故意犯であるかを問題にするべきではないでしょうか。

第三十九条の第一項 の「心神喪失者の行為は罰しない。」の条項は、病気によって心神喪失や心神耗弱の人達に対する基本的人権を阻害するものでしかありえません。

保安処分に関してですが、保安処分は、隔離政策は、差別を生みますし基本的人権を阻害します。刑罰の目的はその犯罪加害者が二度と犯罪を起こさないように再教育をし、 社会復帰をはかるようにするためであれば、精神病の犯罪者は、一般社会と同じように、健常者の犯罪者とともに、刑に服しながら、社会復帰のための精神治療をすればいいのではないですか。

結論として、第三十九条の心神喪失及び心神耗弱 と、第四十一条の責任年齢の条項は、削除するべきと考えます。第三者の基本的人権を阻害したり奪う行為をすれば、その行為者は、基本的人権を制限されたり、剥奪されるという原理原則を持つべきと考えます。

お礼日時:2001/06/13 13:23

言葉は表現の手段です。

言葉を解釈した結果が対応する事象と一致しなければ、その解釈が誤っているのです。
犯罪を犯せば国家の刑罰権が発動し犯罪者は刑罰を受けます。刑事責任とは犯罪者が国家に対して負う責任であり、換言すれば刑罰の受任義務ということになるでしょう。
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この回答へのお礼

beenさん、ご教示ありがとうございます

>刑事責任とは犯罪者が国家に対して負う責任であり、換言すれば刑罰の受任義務ということになるでしょう。

刑事責任という概念があるから、その責任能力が問われる司法のあり方に疑問を抱いたいます。責任の能力=資格を問題にするのは、刑罰は、犯罪者が、国家に対して負う責任や受任義務ではなく、国家権力が科する制裁だと考えます。この考えに立てば、責任能力は刑罰を考えるときに不必要となると考えています。

第三十九条の心神喪失及び心神耗弱の条項は、犯罪の不成立及び刑の減免を意味するものではなく、刑の方法を問うべきものであるはずです。犯罪者が、精神鑑定を受け、第三十九条の心神喪失により、犯罪が不成立になることは、市民権を得た精神病患者への差別と偏見をしていることになります。病によって、心神喪失にある者が、犯罪を犯したときに、例外なく平等に裁かれることが必要ではないでしょうか

お礼日時:2001/06/12 15:00

責任には,「法律上の不利益または制裁を負わされること。

特に、違法な行為をした者に負わされる法律的な制裁。」(国語大辞典(新装版)(C)小学館 1988)という意味がありますので,なんの問題もないとおもいます。
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この回答へのお礼

wakkyさん、ご教示ありがとうございます。

責任の意味に、法律上の制裁と書いてあるのは、知っていますが、それに異議を申し立てています。

つまり、責任行動は、自己の能動的な行動と考えます。社会的責任を取って議員辞職する、経営責任をとって、辞表をだす、などです。また、責任を取って止めて貰うとか、責任を取って切腹させるなどは、あくまで、個人の能動的な行為を促す行為であり、結果は、個人の能動的な行為となる。責任を取って止めてくれないのであれば、懲戒解雇だし、切腹しないのであれば、打ち首となるからです。

とすれば、責任を法的な制裁とするのはおかしい。制裁とは強制行為であるからです。だから、刑事とは、「刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき事柄」であって、その事柄は、責任や義務ではなく、制裁や刑罰ではないのでしょうか。制裁や刑罰は、強制的なもので、それを問うのに、個人の能力や資格は必要ありません。

民事責任は、まだ理解できますが、刑事責任は、理解できないのです

お礼日時:2001/06/12 14:35

 刑事責任を「自分がかかわった事柄や事柄や行為から生じた結果について、刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき義務」(刑罰を受ける義務)と考えると、これに対応するのは犯罪者が自由に犯罪を犯す権利ではなく、国家権力の『刑罰権』(刑罰を与える権利)ではないでしょうか。


 そもそもわれわれは刑法を守ることを義務付けられているのであって、むしろ犯罪行為を犯さないことを義務付けられていると言えると思います。このときわれわれは犯罪行為を犯さない権利があると言うこともできるでしょうが、犯罪行為を犯さない自由があると言ったほうが自然ですね。他の方のご意見もお聞きしたいです。
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この回答へのお礼

get-miyakoさん、ご教示ありがとうございます

>そもそもわれわれは刑法を守ることを義務付けられている。このときわれわれは犯罪行為を犯さない権利があると言うこともできるでしょうが、犯罪行為を犯さない自由があると言ったほうが自然ですね。

国民が守るのは、国民としての行動や判断の基準である法規範である、憲法ではないでしょうか。刑法は守るものではなく、犯罪者にたいする、司法の行動や判断の基準ではないでしょうか。

また、自由は、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為であり、生存権、思想、宗教などいわゆる基本的人権で保証されているものです。国民は、国家から、基本的人権の行使を保証していて、基本的人権を守ることは国家の義務です。ですから、他人の基本的人権を奪ったり、阻害したりするれば、犯罪者となり、国家権力が科する制裁を受けなければなりません。とすれば、犯罪行為をおかさない自由はありえないのではないでしょうか。

関係ありませんが、自由と権利は別物で、自由と(自己)責任、権利と義務を明確にするべきではないでしょうか。現行憲法は、この辺が滅茶苦茶だとおもいます

お礼日時:2001/06/12 15:28

>責任とは、「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務」ですよね。

そして、刑事とは、「刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき事柄」ですから

これを普通に解釈すると「刑事責任」は、「自らがかかわった刑法その他の刑罰法規を受ける事柄もしくは行為によって生じた結果に対して負うべき義務」になると思うのですがいかがなものでしょうか。

刑事の「事柄」を「責任」の「結果」にかけているようですが、「事柄」がかるのは「事柄や行為」であると思います。

そうすると刑罰は義務であっても、犯罪の行為による結果がない限り、その義務は発生しないと思いますがいかがでしょうか。

この回答への補足

kohjiさん返信ありがとうございます。

刑事責任という定義の捉えかたに差異があるようなので、再度確認しますが、

責任とは、
「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務」

刑事とは、
「刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき事柄」

刑事責任とは
「刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき事、自分がかかわった事柄や行為であり、そこから生じた結果に対して負う義務」ですから
「自分がかかわった刑法その他の刑罰法規の適用を受けるべき義務」ではないかと書いたのですが。

結論として、刑罰とは、「犯罪を行なった者に国家権力が科する制裁」をいうのであり、犯罪者の義務とはいえないとしているのですが。

また、犯罪の行為による結果がなければ、それは合法であり、犯罪ではないのですから刑罰ではないのではありませんか。

補足日時:2001/06/12 16:11
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