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邪馬台国の所在地は、九州あるいは畿内というのをよく聞きます。

そこで、質問なのですが以前は畿内説と九州説と扱いが小さかったのが最近は、近畿の内の大和という風に扱いが変わっているというのは事実なのですか?

畿内説はよく箸墓古墳が卑弥呼ないし台与の墓ではないかという説を聞きますが、近畿の内の大和というのは最近聞きました。
それでも、邪馬台国がどこに存在したのかは不明ですが、九州説と近畿説のうち、どちらが有力だと思いますか?

A 回答 (3件)

>以前は畿内説と九州説と扱いが小さかったのが最近は、近畿の内の大和という風に扱いが変わっているというのは事実なのですか?



大和説というのは昔からありましたよ。
畿内説と言うのは大和説を含めて、大和以外の畿内全般の候補を総体的に言ったものでしょうね。

>九州説と近畿説のうち、どちらが有力だと思いますか?

これは決定的なものが出るまで、待った方がいいと思っています。
根拠なく偏ると大事な情報を見落としそうなので。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2015/10/28 22:43

考古学ってのは発掘してなんぼなんで、いやらしい言い方をするなら発掘するための資金や社会的注目度を邪馬台国をダシにしている部分が少しはあります。


畿内なんてヤマト王権が出てきたことが分かっているので、掘れば何かが出てくるんですよ。マキムクとか、邪馬台国とかどうでも良くって、当時の実態を知りたいってのが本音でしょう。

まぁ中には邪馬台国=畿内に異常にこだわっているところもあることにはあるのですが・・・

ところで邪馬台国ってのは魏志倭人伝ってのに書かれているんですが、読んだことがありますか? 無いなら一度読んでみるのがよいですよ。2000字ほどですので(和訳でも)1時間くらいで読むことができます。

でもって、魏志倭人伝を読むと分かることなのですが、魏からの使者が2回来ています。これ、結構無視されているのですが重要なんです。なんでかっていうと、邪馬台国までのルートが2つあるように読めるからなんです。国名=地名で追うと方位が違う・・なんてのがそれで、まぁ2回来てるんだから、2回のルートが違ったんだよって話なんですが、最初に書いたように2回来ていることを大抵は無視しているので、訳分からんことを主張することになってます。
まぁ一度、魏志倭人伝を読んでみてください。

で、ルートが2つで、どちらも着くのは久留米あたりになります。
謎は無かった、残念w
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NHKでやってましたね。



最近の発掘成果から、福岡県糸島市にあった「伊都国」が大和(巻向)に遷都した。という説が有力になってきたそうです。
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