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観無量寿経に、阿弥陀如来がいっぱいお弟子を連れて、金剛台を行者の前に持ってきてくれて、金剛台に乗る様に行者を迎接して、自らその身を見れば金剛台に乗ってかの国に往生する話がのっていますが、金剛台に乗せていただくのは、自分から金剛台の上に乗ろうと思って乗せていただくのか、それとも、気が付いたら金剛台の上に乗せてもらっていたのか、どちらでしょうか?

A 回答 (7件)

私の回答?は“こんな感じ”を述べているだけで、知識の裏付けはありません。


20願とか言う言葉を知っているシャクセンショウさんの方が詳しいと思います。
私心が残っているようだと言っても、決して悪いイメージで言っている訳ではないのです。
合掌して世尊のをほめ讃える、と言う所に“修行僧”としての我を感じただけです。
悟りの世界の事だから想像するばかりです。
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この回答へのお礼

私心が悪いイメージで言っている訳ではないんですね。

お礼日時:2016/02/16 21:49

回答№2に「修行者がわが身をかえり見れば、紫色を帯びた金色の台の上に坐っている。

・・・・・修行者は金色の台から下りて仏を礼拝し、合掌して世尊をほめ讃える。」とあり、これは上品中生であるとの事の様です。

この事に接して私の思う処は、この行者はまだ完全には"わたくし心"は消えてはいないんだなぁ、という事とそれから離れて、この"箇所"は如来(世尊の獲得した悟りの世界)の歓喜と妙楽とに充満する極楽の世界を、この修行者を通じて表現したものであるとも受け止めています。
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この回答へのお礼

この行者はまだ完全には”わたくし心”は消えていないんだなぁと言いますのは、まだ20願の世界で、18願の世界には出ていないということでしょうか?

お礼日時:2016/02/09 10:52

私の回答?は単なる想像です。


たぶんそういう事ではないか、との思いをしたためました。

これは"信"。
信ずる、の信。

悟り、そして涅槃、の世界は"わたくし心"は消えて居る様に思うからです。

この行者は上品上生なのか、上品中生なのか、あるいは上品下生なのか。
回答№3に答があるように思いました。
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この回答へのお礼

上品上生から下品下生まで、全部で9通りあるのですが、分かる様に、観無量寿経を整理しています。

お礼日時:2016/02/09 10:44

回答番号2のplapotiでございます。

我が家は浄土真宗ですが、アホなのでまともな回答はできません。

コメントを拝見いたしました。

>お西の浄土真宗聖典では、修行者ではなくて、行者になっています。

岩波文庫の現代語訳は「修行者」です。『観無量寿経』はサンクスリット語の原文がなく、もとの言葉が何であつたのか確認できません。漢訳は御指摘のとほり「行者」ですね。ちくま文庫に佐藤春夫の訳があるのですが、買つてきます。

繰返しになりますが、おそらくは無意識のうちに乗つたのだと思ひます。「イリュージョン」「ワープ」「どこでもドア」などのシステムがあつたやうには書かれてゐません。
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この回答へのお礼

『観無量寿経』の現代語訳は、いろんな方のがあるんですね。

お礼日時:2016/02/09 10:38

下の文章を読む限りでは、上品上生でも上品中生でも、本人(行者)には「金剛の台」に乗ろうという意識も起きてないし、動作もしていない、気が付けば、乗っていた状態になっていたということではないでしょうか。


「金剛台の上に乗せてもらっていた」の「乗せてもらう」の意味が「乗る動作の支援・介助を受けていた」ということなら、それとは少し違っていて、「気が付けば、(いつの間にか、もう既に)金剛台の上にいた」ということではないかなぁと思います。
また、金剛台に乗りたいものだという願望を行者が持っていたという記載もないので、至誠心、深心、回向発願心とか、経典の文言でなく義趣を解り、心驚動せず、深く因果を信じて大乗を謗らず、功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求していると、金剛台のことなど知らなくても、いつの間にか乗って、かの国に生まれてしまうということを言っているのだと思います。
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http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E …
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。かの国に生ずるとき、この人、精進勇猛なるがゆゑに、阿弥陀如来は、観世音・大勢至・無数の化仏・百千の比丘・声聞の大衆・無数の諸天・七宝の宮殿とともに〔現前す〕。観世音菩薩は金剛の台を執りて、大勢至菩薩とともに行者の前に至る。阿弥陀仏は、大光明を放ちて行者の身を照らし、もろもろの菩薩とともに手を授けて迎接したまふ。観世音・大勢至は、無数の菩薩とともに行者を讃歎して、その心を勧進す。行者見をはりて歓喜踊躍し、みづからその身を見れば、金剛の台に乗ぜり。仏の後に随従して、弾指のあひだのごとくにかの国に往生す。かの国に生じをはりて、仏の色身の衆相具足せるを見、もろもろの菩薩の色相具足せるを見る。光明の宝林、妙法を演説す。聞きをはりてすなはち無生法忍を悟る。須臾のあひだを経て諸仏に歴事し、十方界に遍じて、諸仏の前において次第に授記せらる。本国に還り到りて無量百千の陀羅尼門を得。これを上品上生のものと名づく。
上品中生といふは、かならずしも方等経典を受持し読誦せざれども、よく義趣を解り、第一義において心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗らず。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。この行を行ずるもの、命終らんとするとき、阿弥陀仏は観世音・大勢至・無量の大衆と〔ともに〕、眷属に囲繞せられて、紫金の台を持たしめて、行者の前に至る。讃めていはく、〈法子、なんぢ大乗を行じ第一義を解る。このゆゑに、われいま来りてなんぢを迎接す〉と。千の化仏とともに一時に手を授く。行者みづから見れば紫金の台に坐せり。合掌・叉手して諸仏を讃歎す。一念のあひだのごとくに、すなはちかの国の七宝の池のなかに生ず。
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http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub28.htm
ここで釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの九種類がある。その中で、まず上品上生から説き始めよう。人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
 次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。
 その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天人は七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。すなわち、観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともにその人をほめたたえてその心を励まされる。この人は来迎をまのあたりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。そして仏の後につきしたがって、たちどころにその国に生れるのである。
 このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそなわったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。そして光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってただちに無生法忍をさとるのである。さらにわずかの間に次々と仏がたに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。そしてそれらの仏がたからさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるのである。これを上品上生のものと名づける。
次に上品中生について説こう。必ずしも大乗の経典を心にたもって口にとなえるとは限らないが、その意味をよく理解し、真実の道理を聞いても驚き戸惑うようなことはなく、深く因果の道理を信じて大乗の教えをけなさず、この功徳をもって極楽世界に生れたいと願い求めるものがいる。
 このように修行する人がその命を終えようとするとき、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ数限りない聖者たちとともに、従者に取りかこまれて現れ、金色に光り輝く台座を持たせてその人の前においでになり、< 仏の子よ、そなたは大乗の教えにかなった行いをし、真実の道理をよく理解したから、わたしは今ここに来てそなたをわたしの国に迎えるのである >と、ほめたたえて仰せになる。こうして千の化身の仏がたとともに、皆でいっせいに手をさしのべてお導きになる。
 この人がふと自分を見ればその身はすでに金色の台座に座っている。そして合掌して仏がたをほめたたえると、たちまち極楽世界の七つの宝でできた池の中に生れる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お西の浄土真宗聖典で、お経の勉強を始めました。

お礼日時:2016/02/08 15:28

「詳しい人求ム」のアイコンがついてゐますが、素人の投稿です、すみません。

回答番号1の方の御意見に賛成です。うまいことをおつしやるものです。

『観無量寿経』「正説 観第14」の箇所ですね。

「修行者は観想し終って躍りあがって喜び、わが身をかえり見れば、ダイヤモンドの台に乗ってアミタ仏の後ろに従っており、またたく間にかの仏国土に生まれている。」
(『浄土三部教』紀野一義訳 岩波文庫32ページ)

「上品上生」の場合には何も手がかりがありませんが、つづく「上品中生」では、類似した状況においてこのやうな記述があります。
「修行者がわが身をかえり見れば、紫色を帯びた金色の台の上に坐っている。......修行者は金色の台から下りて仏を礼拝し、合掌して世尊をほめ讃える。」
(上記33,34ページ)

乗るときは不明ですが、下りるときは、修行者みづから「下りて」ゐます。たぶん乗るときも、さうなのだと思ひます。
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この回答へのお礼

お西の浄土真宗聖典では、修行者ではなくて、行者になっています。我々は、修行出来ないですので、修行者ではなくて、行者の方が適切だと思うのですが、岩波文庫の「浄土三部経」紀野一義訳には、修行者となっているのですか?
おりる時は、「すなはち金台より下りて」と上品中生にありました。

お礼日時:2016/02/08 15:53

物理的には、あるいは外見としては、自分から乗ったように見えました。


でも、精神はもうその時は自分で乗ろうとかいう意識はなく、迎えられるままにその台に乗りました。

その時は"わたくしごころ"は無くなっているので、気が付いたら、と云う事はなく唯々安らぎの心の世界に浸ってました。

母親の御胸に抱かれる幼子の様に・・・・・
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この回答へのお礼

No.1回答者さんは、ご自身が阿弥陀如来に救われられる体験をされた時のことを仰って下さっているのですか?

お礼日時:2016/02/08 15:58

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