プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. ひとの存在についてです。

(あ) 存在は 善悪を超えている。

という命題についてです。

2. あるいはつまり:

(い) ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 
存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)を
も 言ってみれば 自由におこなうようである。

(う) ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。

これについて 真偽・成否などについて見解を示してください。



3. 手がかりは けっきょく《信仰》にかかわると思われます。 

(え) 神は 自分にかたどって ひとをつくった。

(お) これによると 神は おそらく――いわゆる善人悪人を問わず 誰にも等しく 
雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはずですから その神の存在に似ている 
と言えば そうなのかなというところです。

つまり

(か) ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは神に似て その自然本性において
善悪を超えているところがある。かな?

という命題です。

なおいただいた回答内容についてこちらが疑問を持ったところは 積極的に尋ねてまいり
ます。

A 回答 (10件)

最終回答です。



《存在は善悪を超えるために!》

ひとまず、これを結論とします。
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この回答へのお礼

ぢゃあ 生まれたときには 《善悪を超えている》状態が潜在性としてあって
やがてこれが顕在化するように進めて行く。
――ということでしょうか?

しかも・しかし そのように努力はするが そのことが達成されることはない。
つまり どこまでも不自由極まりない状態の中にひとはいるのだと。

――こういうことでしょうか?

それとしての結論であるかも分かりません。


つまり・言いかえると わたしが《存在は善悪を超えている》と言うというの
は 想定であるということだからです。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/13 00:24

不自由だからこそ、心は“自然と(無意識的に)”自由を求めて"活動"している。

それが人間であると、云えるのではないでしょうか。

呪縛。
人の心を縛る善悪の縄を解き放とうという意志が「神」を精神の最上位に置く事になった。
そんな気がします。

それに、どうしようもない世界と捉えているなら、生きるエネルギーが湧くはずもなく、何とかなるはずだ。だから何とかしよう、との思いが"生命活動"となって現れている、と云ってみたくなります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

もちろん:
★ 心は“自然と(無意識的に)”自由を求めて"活動"している。
☆ でしょう。そのはずです。

でも いくら《活動》しても:
★★(回答№8) 善悪を超えるどころか、それにがんじがらめに縛られて
いる。不自由極まりない。
☆ という状態の中にいる。

だから:
★ ~~~~~~~~~~~~
呪縛。
人の心を縛る善悪の縄を解き放とうという意志が「神」を精神の最上位に置
く事になった。
そんな気がします。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ となるのですね?

要するに 《存在は 善悪を超えて》は いない。ですね?

★ それに、どうしようもない世界と捉えているなら、生きるエネルギーが
湧くはずもなく、何とかなるはずだ。だから何とかしよう、との思いが"生命
活動"となって現れている、と云ってみたくなります。
☆ えっ? すべては 空元気ということでしょうか?

そんなことはないと思うんですけれどねぇ。

お礼日時:2016/04/12 23:15

敢えて言って見ます。



人間は善悪を体現するために、この世に現れたのだと。
従って、善悪を超えるどころか、それにがんじがらめに縛られている。不自由極まりない。

こう思います。
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この回答へのお礼

ええっと。

目的を達している。
そしてそれは 
★ 不自由極まりない。
☆ ことなんですね。

どうしようもない。ということでしょうか?


わたしは 自由のほうがいいですが。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/12 18:41

超える。



超越。

なぜ、この言葉に拘るのでしょう。

こんな曖昧模糊とした言葉に。

ブラジュロンヌさんらしくありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

もし《善悪を超える》ことがないとすれば 世の中の善と悪との錯綜する構造的
な人間や利害の関係の中にあって人は 行動しなければならない。となります。

善悪のしがらみから 人は自由か? という問題です。どうでしょう。

お礼日時:2016/04/11 23:16

人の心が善と感じるのは「生」への順行からであり、悪と感じるのは「生」への逆行だからだと思っています。



本来は物事、あるいは現象に良し悪しのあるはずはなく"自然の動き(特に生命の)"に逆らうか、または従うかに依って、人の心に"善悪"の心情が現れるのでしょう。

善の象徴としての神、と無理に結び付けなくても良いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人の心が善と感じるのは「生」への順行からであり、悪と感じるのは「生」への
逆行だからだと思っています。
☆ というふうに善と悪が生じて来るというとき その《心 あるいは われなる人
格 つまりは存在》 これは 善悪を超えているでしょうか? という問いになって
います。

★ 善の象徴としての神、と無理に結び付けなくても良いと思います。
☆ というとき 人間存在は善悪を超えているでしょうか?

お礼日時:2016/04/11 22:51

善とか悪とかの感情や意識は人間の心に限って現れるものだと受け止めています。


そう思えば、人間を含めたあらゆる“存在”その物に善とか悪とかがあるはずはありません。
人間は神とか言う“超えたもの”につなげなくても、成長と共にその心情は自然に発生するものと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人間は神とか言う“超えたもの”につなげなくても、成長と共にその心情は
自然に発生するものと考えます。
☆ すなわち この《心情》とは 《人間の心に限って現れるものとしての善
とか悪とかの感情や意識》のことだと受け留めます。

そうすると この《善とか悪とかの感情や意識》を 人間は 《超えている》
のでしょうか? どうでしょうか?――という問いなのですが?

わたしは神につなげてそのことをみちびこうとしたわけです。

どうでしょう?

《存在は 善悪を超えている》か。

お礼日時:2016/04/11 16:41

~~~~~~~~~~



ちょむ
‏@chom
スティングの曲にもなった「愛しているなら自由にさせなさい」は
リチャード・バックの言葉(If you love something…)なのに日本では斉須政雄とか言う人の名言とか言われてるのナンデ?パクった?
23:23 - 2016年4月8日

https://twitter.com/chom/status/7186857141839462 …

~~~~~~~~~~~
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何を言ってるかわかりませんが・・・。



神が人の形をしているのは、人が神を絵にしたからだと思います。
そもそも人型なのかも怪しいです。

神は偶像です。
だって、神自体は人間に何も求めてないと思います。
ただ、人間のルールに則って罰的なもの与えるときもあるかもしれません。

人の善悪というのは、曖昧な定義です。
ただ、種の繁栄の為に、自分たちで争うことをやめる為に善が生まれた。
そして、善というのもあいまいです。時代によっても変わる定義です。

全てが曖昧なんです、きっと。
正解なんてものは数学の中にしかありません。
1+1は2。これは間違いありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 何を言ってるかわかりませんが・・・。
☆ おそらく答えは 出ない。分からない。――というご回答なのかも分かりません。

★ 神が人の形をしているのは、人が神を絵にしたからだと思います。
☆ この《かたち》については 次のように理解してください。

つまり 神は 三位一体と言います。その《かたちに似せて人をつくった》:

 神(三位一体):父なる神 = 子なる神 = 聖霊なる神
 _____________________________
 人(精神)  :記憶 ・・・・知解・・・・・意志
 ----------------------------
 国家(三権) :司法 ・・・・立法・・・・・行政

★ ただ、人間のルールに則って罰的なもの与えるときもあるかもしれません。
☆ ほんとうですか?

★ 人の善悪というのは、曖昧な定義です。
☆ 人それぞれの・その主観による定義で さしづめ いいです。

★ ただ、種の繁栄の為に、自分たちで争うことをやめる為に善が生まれた。
☆ ええ。この《存在・生命とその保守》が 《よいこと》であるという最小限の内容
をおさえていれば よいのではないかという見方です。

時代によって変わるとしても・あるいは情況やその出来事(たとえば戦争)に応じて変
わると言っても それらはおそらく《生命維持に反すること・つまり悪》をも 特殊な
条件をつけて一時的に《悪ではない。善と見なす》と取り決めているだけだと捉えられ
ますまいか。

★ 全てが曖昧なんです、きっと。
☆ なのですが・そうなのですが それでもご自分の主観において《良し悪し》をそう
だと考える判断としていちおう決めていただければよいのではないかと思います。どう
でしょう?

すなわち そのご自身の主観として持った《善悪》を 《人間存在》は超えているか? 
どうでしょう。

お礼日時:2016/04/09 16:32

人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。


「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。

深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。
その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。
そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。
それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために
派生した必要悪に過ぎない。
☆ だれが派生させたのか? は別とするとして もしそうだとしたら・つまりそ
のような《善悪》だとしたら:

 (あ) 存在は 善悪を超えている。

と言えるということですね?

お礼日時:2016/04/09 16:35

~~~~~~~~~~~~~~~~~



「免疫とは?」
平野俊夫
免疫とは一度伝染病にかかったら、二度とはかからない現象を意味します。
予防注射、エイズなどの免疫不全、臓器移植の拒絶反応、自己免疫疾患、及び
アレルギー疾患という 5 つの医学的現象に関係している重要な生体反応です。
また自己と非自己を識別できる生体システムであるともいえます。しかしなが
ら、免疫システムにとっての自己と非自己は、絶対的なものではなく相対的な
ものです。事実、私たちの体自身(自己)は、免疫システムにとってはいつで
も標的になります。言い換えれば、免疫システムにとっての自己は、いつでも
非自己になりうる可能性を有しています。このことがあるがゆえに、自己免疫
疾患というような内部崩壊的な病気もおこりますが、これはそもそも免疫シス
テムの宿命でもあります。

免疫とは?  平野俊夫

免疫学Q&A
http://www.jsi-men-eki.org/general/q_a.htm

~~~~~~~~~~~~~~~


仏教アナキズムとは、アナキズムの理念を仏教(とりわけ禅)の教えと関連させた概念である。

三相にみるアナキズム[編集]


仏教徒にとって、慈悲とは根本的な無私の表れである。すべてではないにせよ、大部分の政治団体は仏教の基礎である八正道と対立する傾向にある。だが、人間への思いやりは仏教の実践者にとってはおおむね追い風となる。よって、アナキズムの柔軟なイデオロギーは仏教徒にとっては受け入れやすいものとみられている。仏教とアナキズムを結び付けたと考えられる人物には、内山愚童、ロバート・ベイカー・エイトケン、ハル・ダヤル、ジョン・ケージ、アレン・ギンズバーグ、ダイアン・ディ・プリマ(英語版)、ケリー・ウェンデル・ソーンリー(英語版)、そして状況主義者のケン・ナッブなどが挙げられる。アナキストのピョートル・クロポトキンは原始的な仏教徒のコミュニティを相互扶助の原則が具現化されたものと見なし[1]、マシュー・ターナーは20世紀初頭の日本ではアナキズム運動にかかわった仏教の僧侶もいたと指摘した。

その他の解釈[編集]
臨済宗の開祖である栄西の著作「興禅護国論」には、一般的なアナキストであれば誰もが否定するはずの見解が記されている。この書は禅宗自体にはほとんど言及していないため、「なすがまま」「学者戦士」などといったアナキズムのあり方を妨げるものではないにしろ、むしろ日本の伝統的な軍事主義に根差した文学的、心理学的な価値観を広めるのに利用された。のちに日本の一部のアナキストはこの軍事主義の影響から全体主義者となった[2]。

仏教アナキズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99 …

~~~~~~~~~~~~~~~

お金がないから無理ですという日本語は理解されないのだろうか。
物資よりも精神があれば平気だとか言うのは旧日本軍のような根性論が
未だに存在しているのだろうか。

善悪の彼岸
即ち旧日本軍は善悪を超えている!?


それはともかく
お金を用意しないとどうにもならないです。



免疫の話は別の人とどうぞ。

というか以前ブラジュロンヌさんとも話したな。

それでは。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

こちらからもツッコミを入れます。

★ 慈悲とは根本的な無私の表れである。
☆ そんなことをまだ言っているのかという思い。

《無私》なんてありはしません。
その理念を《わたし》が思い語っているのですし 実際にも実践するという
かたちでしかないからです。

《慈悲とは根本的な無私の表れである。》というわたしの自己中心的な思想
です。

★ 仏教の基礎である八正道
☆ これは 小学生の教科書にそう書いてありましたというたぐいの思想で
しかありません。あるいは小学生の作文として盛んに好んで――昔は――
書かれたというのみ。と考えます。

足を地につけた思想で回答を寄せて欲しいと考えます。

★ だが、人間への思いやりは仏教の実践者にとってはおおむね追い風とな
る。
☆ ではなくて じっさいに友だちのあいだの思いや助け合いの内容を――
つまり一般に《思いやり》を―― 抽象的な概念とし理念としてつくりあげ
ただけのものです。

アガペーとなると 神の愛として 人間には無理だということわりを前提と
して語っています。良心的な理念――というより かみわざ――でしょう。

《慈悲》という言葉を振り回す手合いに 哲学は皆無です。

★ アナーキズム
☆ は 言葉としてアルケー教の反対ですが じっさいにはゴータマの発想
とも通い合います。

 アン-アルケー  :無‐始原(根源)⇒〔経験世界における〕無‐支配者
 アン‐アートマン :無‐我(霊我):〔霊なる神についての〕無神論

あと アナーキズムは 《無政府主義》つまり人びとの共同自治について何
も考えていないと思われたら アウトでしょうね。

ナロードニキ(民衆派)くらいに名づけていればよいものを。

★ 禅
☆ は 永平寺での修行道場として〔だけ〕生き延びるかも。いちいち《あ
りがたい坊さんだとか 修行だとか》と口にしたら もうおしまい。ただの
原始心性のアニミズムかシャマニズムに落ち入ってしまう。経典は要らない。

ところで 回答は?

お礼日時:2016/04/09 13:19

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