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性善説と性悪説 人によって色々な考えがありますよね。
皆さんはどちらの説が正しそうだと思いますか?
また、その理由をお聞かせください。

A 回答 (12件中1~10件)

ちょっとばかり違った視点からの意見をば



「善、悪とはそもそも何でしょう?」
と私などは思うのです。

私的見解では
「人と人との係わり合いにより生まれ出たルールのようなもの」
となります。

もっと極論を言うと
「人、それ自体が『モノ』であり、その動作原理は『個体を長く存続させる』ことである。
個体を存続させるために個体同士の係わり合いが必要であり、その為にはある一定の規則(モラル)が必要である。
この規則を守った人が『善』、守らない人が『悪』と区別される」
と言えないでしょうか?

結局、人が作ったもので人を裁いているわけです。

性善説、性悪説は「絶対的な『善』『悪』」を想定しています。
しかし、「絶対的な『善』『悪』」は『神』(つまり、すべてを見通し、すべてを決定する存在)の存在を前提としないと出てこないのです。

もし、『神』の存在を抜きにして『善』『悪』を語ろうとした場合、自ら決めた『善』『悪』をもってそれを決定する事になります。
この場合、客観性がなくなり、「説」としての有用性がなくなるのではないでしょうか?
そもそも「~~説」というものは客観的視点で語らなければならないのです。

つまりは性善説、性悪説そのものが無意味だと考察するのです。

とまあ、極論を述べてみました。
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この回答へのお礼

目から鱗・・・。今後の私の考えの参考にさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 09:42

 家族や国を守るために敵を殺します。

その数が多ければ多いほど英雄視された時代がありました。皆が彼を褒め称えても相手方の家族からは呪われるかもしれません。

 眠っている赤ちゃんのために蚊を殺します。お気に入りの花のために雑草を取ります。生きるためにパンを盗むことだってあるかもしれません。どれも仕方がないことです。

 時代や場所、状況によって善と悪は入れ替わることができたり、大きさが変わったりします。しかし、ただ一つ確かなものがあります。それは「考える」「行う」そのときの自分の気持ちです。法に背いていなくてもうしろめたい気分になったり、周りから評価されなくても生きがいを感じたり・・・・・・

 私たちがどんな時に喜びを感じるかを考えたら、心の本質は善だと思います。自分の「考え」や「行い」が悪い、と考えられるのも善い心があるからではないでしょうか。

 
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この回答へのお礼

「考え」や「行い」が悪い、と考えられるのも善い心がある、確かにそうですね。
う~む、いいことを教わりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 10:09

善か悪かの定義がいろいろあると思いますので、仮に人間社会の規範を守ることが善だと仮定します。


だとすれば性悪であるが故に規範が必要なので『性悪』。人間に限らずDNAの本質は排他的でありエゴの固まりですので、他の個体に対しては、本質は『否性善』。
根本は性悪なのですが、平均的にはそれを何とかコントロールして性善たらんとしているのが人間なのだと、考えます。
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この回答へのお礼

この問題を考える前に善悪の定義を考える必要がありそうですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 10:05

なにか文がおかしかったので追加の極論



私の立っている立場は唯物論的というか唯物主義な立場なのです。

「人間は物理法則の連なりから生まれた産物であり、物理法則が体現した存在である。その本質はそこらに転がっている石と変わりがない」
もしくは
「人間の生活や行動すべてが物理法則の体現であり、石を上に投げたら落ちてくるのと同等である」
という、往っちゃってる立場から端を発しています。

んで、
<議論その1>

物理法則はつまり人間を作り出した環境そのものであり、物理法則に『善』『悪』は存在しない。また、人間は物理法則により存在を許された存在であり、人間それ自体が物理法則に含まれている。
物理法則には『善』『悪』は存在しないので、それに含まれる人間にも『善』『悪』は存在しない。

重要なのは「善でも悪でも無い」のではなく「善と悪という概念そのものが存在しない。つまりは幻想である」ということ

存在しないものに対して議論することは無意味である。

<議論その2>

それでも尚、人間は善悪に対して議論しようとします。
このとき前提となっているのが絶対的な何かの存在である。
人はこれを「精神」「意志」などと呼び習わします。
(唯物主義的立場では意志もまた環境の体現であり、物理法則そのものである)

人は『善』『悪』をその精神の有りようを持って推し量ろうとします。

ここで問題になってくるのは測っている物差しそのものが人間によって作られていると言うことです。

唯物主義的な立場では善悪は存在しません。
しかし、人間は規則を作り、犯罪、つまり悪をつくりました。また逆に規範に則った人は善であると定めました。

もともと無い『善』と『悪』がここで初めて出てくるわけです。

より重要なことは「ある行動をした人間を悪と定めた」ために「必ず悪が存在する」ように社会が出来てしまったことです。
逆にある行動をした人間を善と定めているので必ず善も存在するのです。

つまり、人間自らが自分自身の『善』と『悪』を規定しておきながら「我らは善だ」「我らは悪だ」と曰っているわけです。

いわゆる自己矛盾がおきているわけですね。

よって、議論そのものに矛盾があり、それを論じるて回答を得ることはできないというのが私の意見です。

以上です。

-------------------
いやはや、何というか過激に極論を述べてしまった(^^;
分かりにくいところがあったらお礼のところにでも書いてくださいな。

それでは
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この回答へのお礼

2度にわたり、ありがとうございました。
わたしは皆さんのご意見をうかがい、別の意味でこの問題を議論するのは無意味かな、と思いました。あまりにも難しい問題すぎて。
でも大変貴重な意見で参考にさせていただきます。

お礼日時:2001/06/28 10:01

子供みていると善悪もなく純粋ですよね。


環境のなかにある必然や偶然をコントロールするすべを
人類はいまだ知りませんよね。学者はいつも後理屈でコメントするだけだし
未来をシミュレーションしたところで、実社会の機構のレスポンスは遅いし
むしろ人間的な利害関係で抵抗するケースが多い。
ネットワークの社会で個と群の関係が変わるかと期待すれば
既存のメディアのノリでどんどん混沌としノイズが増殖していくし
すくなくともリーダーは善だろうが悪だろうが
群を幸せにするようなことをやっていかないと
善悪論が首をもたげてきますよね。
現在はリーダーを創る、人を育てるカリキュラムに問題あると思いますね。
後継者のいない国も企業も後がないですよね
そもそも善悪なんて立場で変化するのだから意味ないです。
国民が平成であるのならリーダーが大悪党でも大歓迎します。 爆
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この回答へのお礼

「善悪は立場で変化する」 そうかもしれません。でもリーダーが大悪党だったらやっぱりいやだなあ。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 09:55

若い時は性善説派でしたが、お迎えを待つ身になると、性悪説派になりました。

悪環境の生い立ちですが悪人にはならなかったですし、損得計算でも悪の道は割が合わないと考えます。他人を傷つけるぐらいなら自分が傷を受けたほうが気が楽です。他人の痛みを解る(想像できる)と言うことは不幸なことでは有りますが。
悪人と言えども脳みそは悪くないんでしょ? なのに、心の平和のない、犯罪行為を好むのは、生まれつきDNAに悪魔が潜んでいるとしか考えられないからです。
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この回答へのお礼

遺伝子レベルで悪が潜む・・・神はどのような理由でそんな細工をしたんでしょうかね。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 10:15

私は「善とはルールを守ること」だと考えています。


そして性善説や性悪説は必ずしも絶対善や絶対悪を想定しているとは言えないと思います。
性善説って「人は生まれながらにして善である。全てが満ち足りていれば誰も好き好んで罪など犯さない。人が罪を犯すのはその不幸な境遇ゆえである。」という考え方ですよね?法律が性悪説に基づいているとおっしゃっている方もいますが、法律って言うのは世の中で言われるほど冷たいものではないと思います。その証拠に情状酌量って言うものがあるじゃないですか。

私は性善説をとります。
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この回答へのお礼

いろいろな考え方があり、ますます考え込んでしまいますね。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 09:47

どちらでもないんじゃないかなぁ。



理由:人間、生まれてきてから後天的に善とは何か、悪とは何かを学びます。子供って、一番最初にする質問は「これは何?」で、だんだん次元が高くなると、「いつ、どこで、誰が」になり、最後に「なんのために」、「どうやって」という質問をするようになります。そうすると、人間って、善も悪もわからずに生まれてきて、善悪という価値判断をつけるようになって、と順を追うものです。最近は「人を殺すことがなぜいけないのかわからないから人を殺す人」なんてのもいますが、ようするに、それは悪いことと知っているか知らないかであって、知る前の段階を悪いいい云々というのは何か間違ってるんじゃないかな、と思う今日この頃。

あるいは、善悪混在のアンビバレントな存在として生まれてくるのかもしれません。
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この回答へのお礼

性善、性悪という言葉に惑わされこの二つについてしか考えていませんでしたが、どちらでもないという意見はすごく頷か
されました。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 09:39

はじめまして


卑怯な答えですが、性善でも性悪でもないような気がします。
実際、人はどちらにも転んでいますから。
こんな答えは、ちょっと申し訳ないかな。
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この回答へのお礼

人はどちらにも転ぶ、その根底にあるものを考えるのは難しいですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/28 09:38

性悪説が正しいと思います。

人間に限ったことではなく。社会とのつながりを断った場合に限り。詳しくは以下のURLの私の答えを見て下さい。
性悪説は、人間は生まれながらにして悪である、だからこそ道徳や規律を守るべく努力をしなくてはならない、という教えであり、生まれながらにして悪なんだから悪いことをしてもしかたない、ということではありません。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=87994
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この回答へのお礼

たしかに道徳や社会の規律を教わるのは性悪説に基づいているのかもしれませんね。
ありがとうございました

お礼日時:2001/06/28 09:25

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