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つぎの文章を読んで 哲学的なご所見を述べてください。

○ ~~~~~~~~~~~~~~
ひとが人のたましいを尋ね求めるのは わがたましいをいつくしむごとく 相手のたま
しいをうやまうためにと そして そうではなく たかぶりの心によって相手のたまし
いをおとしめようとしてと。

けれどもなかには たましいをころそうとして近づくばあいがある。

かみのごとくいかなる者の下にも立つまいと心に決めたばあいである。
~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ すなわちこのようなたましいが もし現実にあったとしても その毒麦を引っこ抜
くことは人間の為すことではないと考えられます。となりの麦をもいっしょに引き抜い
てしまいかねないからです。収穫のときまで待てと。

たとえば罪を憎んで人を憎まずと言います。 

あるいは その人の存在を生かし持てる能力を活かすようにすることこそ 愛であると。
そしてその傍らで――あくまで傍らで―― 欠点を憎み 批判し 互いにそこから自由
に成って行こうというわけです。

わけですが この務めがいかにむつかしいことか!!
ご所見をうかがいます。

 
 
なお メフィスト―フェレスとは いわゆる悪魔のことです。何ものをも否定する精神。
すべてを削除し削除しまくる人生を送るということのようです。

ひとが悪魔じたいであることはありませんが。ですから そういう思想と捉えるのがよ
いと思います。

悪魔にたましいを売ったというよりも 悪魔を家来に従えたかたち。なぜなら かみの
ごとく如何なるものの下にも立つまいとこころに決めたものだからです。

A 回答 (3件)

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。




yy8さんは素敵なことを言いました。わたしは【善】も【悪】もたいした違いはないと思います。メトロノームや振り子時計はシンメトリーに動くけど人間は【右左前後上下】にズレることがたまにあるというだけのことです。【善】も【悪】もたいして違わないのだから、とりあへずは全て【善】と呼ぶようにしておかないと、自分が【善】をすることができなくなつてしまひます。強い光が射すところには濃い影があるのが当たり前ですが、わたしにできるのはせいぜい影に飲み込まれないやうにすることくらいです。


>たましいをころそうとして近づくばあいがある。
:はい、ねずみ講に誘う奴らのことですか?覚醒剤を売りつける奴らのことですか?週7日子どもに習い事をさせる親たちのことですか?徴兵のことですか?早起会やエホバの証人や天理教やオウム真理教のことですか?


>わがたましいをいつくしむごとく相手のたましいをうやまうために
:はい、目的には同意しますが、細心の注意を払っても判断や手段を間違えて相手を苛立たせたり傷つけたり悲しませたり不愉快な想いをさせてしまふことがあります。すみません。



>かみのごとくいかなる者の下にも立つまいと心に決めたばあいである。
:こんなことをしていたら疲れるでせうね。おのれがおのれを生きることさへままなりません。なぜならかういう人は他人を観ることに人生を費やし、おのれを観ることをしないからです。ご愁傷さまです。


>たとえば罪を憎んで人を憎まずと言います。 
:はい、【坊主憎けりゃ袈裟まで憎い】のは曲解や錯覚や気のせいです。袈裟が【悪い】わけがないでせう。とかいっちゃって。わたしもあまり好きではないヤツの携帯電話や腕時計がその辺に置いてあるのを見ると、ついそれらを睨みつけてしまうのだから笑ってしまひます。何を想ってもよいのではないかしら。表に出さなければ。例えば気に食わないヤツを殴ったりそいつの持ち物を破壊したりしなければ、何を想ってもよいのではないかしら。【想ったこと】の毒性が高ければ、水を飲んで薄めますし、【想ったこと】が破壊的なら、わたしの家にはサンドバッグがありますのでそいつを殴ります。【防衛機制】の中の【代償】です。おしまい。



>何ものをも否定する精神。
>すべてを削除し削除しまくる人生を送
:ふ~ん。それはご愁傷さま。残念な人たちですね。おしまい。だってその人たちを救ったり助けたりその人たちに手を差し伸べるほどの余裕はわたしにはない。そんなのわたしの仕事ではない。



おしまい。


 




単純でせう?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

《この人間は 悪人だ。生かしておいてなお悪をおこない続けるのを
放っておくよりは いま〔神の仏の使いとしてのわれわれが〕ポアし
て死なせてやったほうが その人のためにも・また社会のためにもう
ーんとよいことになる》
――この考えとその実行は 善ではありません。
どこから見ても 悪です。

善と悪とは 水と油です。

★ ~~~~~~~~~~~~~~
  >わがたましいをいつくしむごとく相手のたましいをうやまうた
  めに
:はい、目的には同意しますが、細心の注意を払っても判断や手段を
間違えて相手を苛立たせたり傷つけたり悲しませたり不愉快な想いを
させてしまふことがあります。
~~~~~~~~~~~~
☆ 試行錯誤ではないですか?

それにそのような失敗を繰り返すことも お互いさまではないですか?

★ ~~~~~~~~~~~
  >かみのごとくいかなる者の下にも立つまいと心に決めたばあい
  である。
:こんなことをしていたら疲れるでせうね。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 疲れの問題なのかなぁ。


うかがった限りでは おおむね自己の内側で何らかの処理をしておく
といったところでしょうか。

関わりがたいと思えば そのように距離を置いて見ている。でしょう
か?

心の内側では かなり積極的かつアグレッシヴであるようにもお見受
けしましたが。

こちらがまとめる必要もないでしょうが いまひとつ煮え切っていな
いのか。それとも 煮え切っているからこそ 内なる眼は すでに定
まっているということなのか。

保留しつつ受け留めてまいります。

お礼日時:2016/04/15 22:29

"ワルはワルである"といった見方を本当にブラジュロンヌさんがしているのならば、話し合って分かり会おうなんて云う考えには無理を感じているはずですが。

理が通りません。

正の喜びと負の楽しみ。
"喜び"が生じるのは努力と云うガンバリを通して。あるいは自己放棄(ニュアンス的に誤解されそうですが)に由る。要するに利他の事。
"楽しみ"が生じるのは・・・うまい表現が思いつきませんが、ガンバリに対しての事だから、とりあえず"休憩"のような状態と云ってみます。もっともこれもさらに深めよう(より一層悪に近づこう)とすれば負的に努力することが必須となるけれど。そしてこれも深めることに由って"楽しみ"が"負の喜び"に変化するかもしれない。アクマの喜ぶ顔が浮かんできます。

ブラジュロンヌさんは日ごろから悪は存在しない。善の変化したものでしかない。と、云っているように受け止めていますが、毒麦は麦自体が毒を持っているのではないようですね。ある種の"菌"が寄生する事に由るとか。

わが意を得たり、と云う気持ちになりませんか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ "ワルはワルである"といった見方を本当にブラジュロンヌさんがしている
のならば、話し合って分かり会おうなんて云う考えには無理を感じているはず
ですが。
☆ 《悪は 存在しない。善の傷や欠けとして それを悪と呼ぶ現象があるの
み》と言っています。

そしてこの質問では いまの《現象としての悪》つまり《毒麦》は いるもん
だとも言っています。

ふたつの考えを混ぜて出て来ることは 《ワルをワルと呼び》 その分析をし
っかりとおこなう・つまりは そのワル本人に対して批判をおこなう。――と
なると思います。

《話し合って分かり合おう》と思っていますし そのための考えと行動です。


★ 正の喜びと負の楽しみ。
☆ このくだりは いくらかの《概念》がこんがらがっていませんか?

★ 毒麦は麦自体が毒を持っているのではないようですね。ある種の"菌"が寄
生する事に由るとか。
☆ えっ? そうですか? そうかなぁ。毒を持ってるんぢゃないのかなぁ。

まちがっていたら ごめんなさい。

お礼日時:2016/04/15 22:13

この世界に「人間」が生まれ、そして「人」になって、そして、この「人」は自身の住む世界を"善悪の狭間"にした。


「人」自身の手に依って。わざわざと。

それは宇宙に"引力"があるから。
善の方向にも、悪の方向にも。

誕生と生滅。

この質問の立脚点は"狭間"。
中心、にある。

神と悪魔で作られた長い綱。
この神と悪魔の引き合う綱の中心付近で右往左往して生きているのが「人」。

ブラジュロンヌさんの狙いはこの「中心」にある。

「中心」こそが真、であると。

真、である故に意義を求め、問うのであると。

でも、、、だから、、、。
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この回答へのお礼

うまいことを言うと思いはしましたが。
つまり:
★ ~~~~~~~~~~~
この神と悪魔の引き合う綱の中心付近で右往左往して生きているのが「人」。

ブラジュロンヌさんの狙いはこの「中心」にある。

「中心」こそが真、であると。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このあたり。


一点それでも 思い返すことがありました。
それは:
○ 悪魔はいま措いておくとして でも世の中にあっては 麦と毒麦とが
やっぱしいるんですよ。

と思いませんか?
つまり 《神と悪魔との中心 もしくは中間》に位置しているとしても そ
の同じ地点にあっても 《麦と毒麦》とはやはり互いに違うんです。

現象として・振る舞いとしてだけかも分かりません。
《根はいいヤツであり みな同じ人間である》のかも分かりません。
でも いじめをやるヤツはいじめをやるんです。
ひとの足を引っ張る者は やっぱしワルなんです。

そうぢゃありませんか?

そうして アクマは そういった事態や情況を見物して楽しんでいるらしい。

お礼日時:2016/04/14 23:33

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