あなたの習慣について教えてください!!

ハヤシライスの由来を教えて下さい。林さんが作った⁉️
宜しくお願いします。

A 回答 (6件)

「ハヤシライスの生みの親」、私の曽祖父「早矢仕有的」(はやし ゆうてき)について説明します。



「早矢仕有的」は、現在、書籍・文具等の販売事業を日本全国に展開している「丸善」の創業者としてのみ知られていますが、実はわずか14歳(1851,嘉永4年)にして師の家に住み込んで働きながら医学、蘭学を学び、17歳で実家の岐阜県山県市笹賀(現在地名)に戻り医者を開業、その後22歳で江戸に出て西洋医学の診療所を開いて繁盛し、福澤諭吉の塾に入って英語力の強化に努めるなどをして、31歳(1868,明治元年)の時に横浜に新設された西洋式病院(英国軍医が院長)の医師に任じられ赴任した。
  
横浜では、新病院での多忙な医師勤務の傍ら、明治元年11月には横浜の新浜町に「丸屋善八」(丸善の前身)書店を創業させるという実業家の道も歩み始めた。
横浜には38歳までの7年間居たが、この間 西洋式の新病院での多忙な医師勤務と、「丸屋善八」書店を移転拡張すると共に東京や大阪を始め各地に出店するなど、医師と実業家の両方の仕事に寝食を忘れて信じられないような超人的活動をしました。

Ⅰ.「ハヤシライス」という名前の由来

「早矢仕有的」は明治元年から横浜に新設された西洋式で病院で医師として勤務していた時に、牛肉のコマ切れと野菜のゴッタ煮を作ってご飯にかけて食べる(或いは食べさせる)と栄養があるから病気の回復も早いし、しかも美味で、作るのも簡単、食器も少なくて済むし、後片付けも楽だから是非やるとよい、と患者や家族に勧めた。また病院食としても出した。

当時の横浜では日本の文明開化に協力すべく家族を連れて来日した欧米人達が大勢居住していた関係で牛肉が買いやすく、肉食の解禁は明治5年であるがその前から黙認されていて、横浜市民の肉食に対する関心が高まっていた時でもあったので、ハヤシ(早矢仕)先生のこの勧めが多くの横浜市民に急速に広まった。

「米飯=ライス」というカタカナ英語が市民に普及するのは明治30年代後半であるから、始めのうち市民はこの料理を「ハヤシ先生の料理」とでも呼んだのであろうが、カタカナ英語が市民に普及するにつれて「ハヤシライス」という名前が定着したに違いない。

*「ハヤシライス」という料理名が初めて新聞広告に出たのは明治39年である。  

Ⅱ.この由来を裏づける事実

1.私の母の日出が昭和15年頃、小学校6年生位だった私に何度も話してくれたのが、 次の有的と「ハヤシライス」の話です。

(1) 有的おじいさんは、明治の始めに横浜でお医者をしていた時に 牛鍋が好きで、ある牛鍋屋によく通った。ある時そこの主人から頼まれて そこの子供の診察をしてやった。
そして、お宅の商売の牛鍋の残りをご飯にかけて、子供に食べさせれば簡単だし滋養もあるから病気も早く治る。
デキモノも出ているがそれも滋養をつければ自然に治るからやってごらんと主人に
勧めた。
主人はそれを早速に実行して子供の病気もデキモノも全快した。
当時の子供達は栄養が充分でなく、デキモノのある子が多かったので、 その話が忽ち広まって親達が競って牛鍋に似たものを作って子供に食べさせるようになり、子供の皮膚病持ちが減った。

有的おじいさんは勤めていた病院の患者さんやその家族、また病院の人に 《牛肉のコマ切れと野菜のゴッタ煮を作って皿に盛ったご飯にかけて 食べ(させ)れば、作るのは簡単で、滋養もあるから病気も早く治る。 
しかも美味しいし、食器も少なくてよく、後片付けも楽だ》 と言って勧めたそう
で、それが 「ハヤシライス」の始まりですよ・・・・・。

(2) 上記の話の内容は真実に違いありません。 なぜかというと母は父の「丸家善八」の一人っ子でしたし、丸家善八は幼名を「早矢仕六郎」と言い、「早矢仕有的」({丸善」の創業者)の三男で、有的が晩年病床にあった時には 24歳位で独身でしたから有的の傍らで世話をしたり思いで話しの聞き役を勤めたそうです。
これについては、有的の長男の「早矢仕四郎氏」が縁者に宛てた書簡(私が所蔵)の中に、「有的の事は六郎が一番良く知っていますから聞いてやって下さい」 という文章がある事と符号します。

ですから上記(1)の話しは、早矢仕有的の病床に付き添っていた 六郎に語った思い出話しの一つだったに違いなく、 又、六郎(後の丸家善八)は一人っ子の日出 (私の母)に、ハヤシライスを食べたりする時にその話しを語ったのに違いないのです。

2.有的の長男「早矢仕四郎」さんのお孫さんが、《 有的は患者の食欲増進の為に、この牛肉のコマ切れと野菜のゴッタ煮料理を勧め、又、病院食としても出した 》と、数年前の民放のTVインタビューで語っています。

3.この有的の勧めは、日本で最初の本格的西洋式病院で、米英人医師と対等に活躍している有的の姿を見ている患者やその家族にとっては、説得力が非常に大きかったに違いありません。
それは丁度、横浜では外人居留地があり肉類が比較的容易に手に入る環境が整い、市民が肉食に関心を持ち始めた時期と、肉類を食する事を政府が解禁した時期 (明治5年) でもあったからタイミングも良く、その料理を実行した患者等は、その美味で作るのも簡単な事を周囲に伝え、 かなりのスピードで広がっていった筈です。

4.明治42年7月1日の横浜貿易新報に横浜開港50周年を記念して、横浜の発展史上に記憶されるべき物故者6名(日本人5名・外人1名) と生存者15名を選ぶ、市民の人気投票を行った結果が出ていて、その物故者日本人5名の中に有的が選ばれています。

有的は、その時は横浜を離れてから35年を経過しており、2代目が活躍している訳でもありません。当選ラインは28万票だったそうですから、 当時の西洋式病院等で医師としての活躍(7年間)を記憶していた年配の方々と 横浜の書店・薬店「丸善」のファンの投票だけでは 到底当選する筈はなく、有的医師に勧められて「ハヤシ先生の料理」を実践した愛好者と、そこから年々広がって行った「ハヤシ先生の料理」ファンの大勢が投票した結果が当選につながったのに違いないのです。

http://www.geocities.jp/maruya80/
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この回答へのお礼

大変良くわかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2016/09/27 02:31
「ハヤシライスの由来を教えて下さい。林さん」の回答画像6
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私が聞いたのは、



洋食屋さんで野菜の切れ端やら残ったものでハッシュドビーフをつくって
まかないに出したのが始まりだと・・・

けれどもこちらにも説明がありますね。
http://afun7.com/archives/6687.html

ご参考まで
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早矢仕(ハヤシ)さんが作ったから


http://www.geocities.jp/maruya80/
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