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1. 仏教を信じるというのは 思い入れをして思い込む・念力を込めて
入り込むといったことでないのなら あり得ない。オシヘは 思考するも
のだ。

2. キリストは 神であるのだから オシヘとは別である。聖書が神で
あるのではない。まして神学が 信じるべき神なのではない。ローマ教皇
は ふつうの人間である。

2. オシヘは 人間の言葉で表現されたもの。《考える》ものに決まっ
ているではないか。

3. 《信じる》とは 考えても分からないナゾ・つまりそれが分かるか
分からないかが分からないナゾ このナゾを――神なら神として・あるい
はブラフマンならブラフマンとして何らかの名前をとおして――無条件に
無根拠において わが心に受け容れることを言う。

4. キリスト教を《信じる》などという表現は まったくの自己矛盾で
ある。

5. 哲学は このことに敏感でなければならない。


いかに?

A 回答 (10件)

1. 仏教を信じるというのは 思い入れをして思い込む・念力を込めて入り込むといったことでないのなら あり得ない。



上記がわかんない。でないのなら あり得ない。というところがわかんない。2重否定として読むと、仏教を信じるというのは、思い入れをして思い込むことである。仏教を信じるというのは、念力を込めて入り込むことである。と質問者は言いたいのかな?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 1. 仏教を信じるというのは 思い入れをして思い込む・念力を
込めて入り込むといったことでないのなら あり得ない。
☆ 人びとは一般に《仏教を信じる》と言っている。

ところが 《信じる》というのは (3)に示したように 人間の考える
という世界を超えたところのものを わが心に受け容れるということだ。

仏教は オシヘであり オシヘは人間の言葉で書かれた経験思想である。
☆☆ オシヘは 思考するものだ。


だから もし一般に《仏教を信じる》という表現が みとめられていたと
してもそれは 哲学からすれば 間違いである。

間違いでも 一般にみとめられているというのは おそらく《思い入れを
して思い込む》や《念力を込めて入り込む》といった内容のことを 仮り
に簡便法として《信じる》と 呼んでいるということ。ではないのか?

思い入れも念力も 思考や感情の問題だから そこは哲学は 妥当な表現
を追究するからには それに《信じる》を当てるのは 間違いである。と
しっかり言っていくのが のぞましい。

といった意味合いになるでしょうか。



仏教にも アミターバ・ブッダなる神はいます。これを信じるのだと捉え
ます。

お礼日時:2017/05/15 22:52

これはつまりは、盲信するなと言うことかなと思いました。



しかし一方で、信じなければならない場合があると思います。それは次のような場合です。
教えを垂れた人物が、自分の知見をはるかに上回っていて、しかも自分は未だ迷っている状態の時、その教えを垂れた人物を信じられるなら、その言葉、教えもまた信じられる、と言う場合です。

仏の教えを信じるとか、キリストの教えを信じるとかは、そう言う場合に使う言い回しだと思えます。
しかしこの時には、哲学はそこに顕れないかも知れません。哲学を如何なるものとするかにもよるでしょうが。

哲学の語源は知を愛することだそうですね。知を愛するとは、思考する事とは似ているようで違うニュアンスを含んでいます。
もし、キリストや仏や何らかの師を智慧ある者と見做したならば、彼らの言葉に傾倒し、それを愛し、また信じる事も哲学の延長としてあり得るような気がするのです。
少し複雑ですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

この質問はですね。正直に言って:
★ しかしこの時には、哲学はそこに顕れないかも知れません。哲学を
如何なるものとするかにもよるでしょうが。
☆ ここに力点があります。

きわめてみみっちい議論です。

・ 経験思想たるオシヘは 信じると言うなかれ。

☆ この一点のみをかたくなに訴えています。問うています。

★ 教えを垂れた人物を信じられるなら、その言葉、教えもまた信じら
れる、と言う場合です。
★ 仏の教えを信じるとか、キリストの教えを信じるとかは、そう言う
場合に使う言い回しだと思えます。
☆ これらの表現は あくまで《信じる》の派生的な用法です。

《絶対に》間違いないという表現は じつは その間違いなさが 必ず
100%だというわけではなく 強めるため・あるいは確信の強さを印
象づけるために言っています。

オシヘを・人を信じるという表現も 同じです。全幅の信頼を置いてい
ますとか やはり間違いないことを強めて言っています。

この派生用法を 哲学の本文では使ってはいけない・・・という重箱の
隅をつっつく議論が 目的です。

つまり それが 哲学のふつうの要請であるとわたしは《信じて》いま
す。

・信じる:経験合理性を超えたナゾ―― 一般に神ですが――を無条件に
 無根拠において 心に受け容れること

・その派生用法:信用する・信頼する・確信するという意味でそれらを
 強めるために用いている。

☆ 世間の話し合いでは 別です。

お礼日時:2017/05/12 23:42

>を考慮に入れると けっきょく八百万と言いますが それぞれは一はし


>らの普遍神の分身だとも考えられます。
>つまり 俗に言う一神教です。


自己解釈で、勝手に宗教の神の設定を変えるなら何でもありですよね
もはやそれは宗教では無い

表題の、
キリスト教を・仏教を信じるという表現は 哲学としては 低能である

のキリスト教も、貴方が自己解釈で勝手に変えた宗教であって、
それが哲学として低能という自己解釈になりました
ってだけじゃん

せめて、キリスト教ならキリスト教の概念や決め事
神道なら、神道の概念や決め事に、そって質問して下さい。


その上で、低能であると言うのなら、
貴方が考えた、貴方独自の神はすごいんだね、ふーんって感じ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自己解釈で、勝手に宗教の神の設定を変えるなら何でもありです
よね / もはやそれは宗教では無い
☆ もともと 宗教は 相手にしていません。

《勝手に 神々のあり方やその意味を考え あらたな設定をおこなう》
こと。これが 哲学です。よ。

哲学が どうして世間の言っていること・思っていることに右へ倣え
をしなければならないんでしょう。



★ キリスト教も、貴方が自己解釈で勝手に変えた宗教であって、それ
が哲学として低能という自己解釈になりました ってだけじゃん
☆ そうですよ。あなたは 《自己解釈》すらも出来ないんですか?

せめて わたしの解釈について ご自身の見解をしっかりとまとめ述べ
たら いかがですか?


★ せめて、キリスト教ならキリスト教の概念や決め事 / 神道なら、神
道の概念や決め事に、そって質問して下さい。
☆ じゅうぶんに・そのつど 必要な事項について明らかにして来てい
ます。

総括的な判断で おしまいとするくせを直し しっかりと個別の主題に
ついても自分で考えるというくせをつけるようにしましょう。



★ その上で、低能であると言うのなら、
貴方が考えた、貴方独自の神はすごいんだね、ふーんって感じ
☆ 損はなく 失望もないですよ。しっかりと 注意して行ってみてく
ださい。

お礼日時:2017/05/11 22:55

>☆ ですが 次の聖句での《ことば・ロゴス》は イエスが人間であ


>ると同時に神の子でありみづからも神であるというそのキリストのこ
>とだと受け取られています。:


一神教の神は1つ、キリストも神なら、神は2つ(二神)となる、
そんな矛盾のある教えはない

キリスト教は一神教だからキリストは神では無い
でも八百万もの神々がいる神道ならキリストも神
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 八百万もの神々がいる神道
☆ この世界の初めには アメノミナカヌシなる神もいたと言うんです。

じつは ほかにも四はしらほどいたらしいのですが これらは《独り神
となりまして 隠れたまひき》とも言います。

言わば《隠れたる神:デウス・アブスコンディトゥス》であり これら
を考慮に入れると けっきょく八百万と言いますが それぞれは一はし
らの普遍神の分身だとも考えられます。

つまり 俗に言う一神教です。



★ キリスト教は一神教だからキリストは神では無い
★ 一神教の神は1つ、キリストも神なら、神は2つ(二神)となる、
そんな矛盾のある教えはない
☆ ええっとですね。三位一体なる神について説明します。それが ひ
とつなる神であるということ。

《ひかり》のタトへを用います。
すなわち 光源が父なる神。その発耀が 子なる神。そしてそれらの明
るさや暖かさが 聖霊なる神です。

そして 光として これら三つの位格(ペルソナ)は 一体です。


じつは しかも 神は 霊です。ナゾです。ですから 聖霊なる神だけ
ではなく 父も子もそれぞれ 聖霊です。

ですから 父は子や聖霊とそれぞれひとしく 
子は 父や聖霊とそれぞれ等しく 
聖霊は 父や子とそれぞれひとしい。

また 父も子も聖霊もそれぞれが その一体なる全体とひとしく 
全体は 各個ともそれぞれやはりひとしいのです。

無限は 二で割っても三で割っても その商がつねに元の無限です。半
分や三分の一にはなりません。

三っつの位格があっても 三はしらになるのではなく ひとつなのです。

これが 三位一体なるひとつの神の説明です。これも 普遍神です。

お礼日時:2017/05/11 22:10

>2. キリストは 神であるのだから オシヘとは別である。



イエス・キリストは神ではありません。
イエス・キリストは神の子ですよ。
神の子は神ですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ イエス・キリストは神ではありません。・・・
☆ ですが 次の聖句での《ことば・ロゴス》は イエスが人間であ
ると同時に神の子でありみづからも神であるというそのキリストのこ
とだと受け取られています。:

▲ (ヨハネ福音 1:1~5) ~~~~~~~~~~~~~
はじめに ことばがあった。
ことばは かみとともにあった。

ことばは かみであった。

このことばは はじめにかみとともにあった。
すべてのものは ことばによって成った。
成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
ことばの内に いのちがあった。
いのちは 人を照らすひかりであった。
ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/05/11 19:15

質問者の発想や結び付けには、意味不明な点が多く見受けられる。


まぁ、ここは質問に対して回答をする場であって
論争をする場ではないから、終了します。

信仰新を持たない者より。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

普遍神は――経験事象としての《有る・無い》を超えていますので 人間は
そのどちらかを自由にえらんで 神を呼べばよい。《有る神》派と《無い神》
派とに 自由に互いに同等に 分かれます。

○ 《普遍神とわれとの関係》:梵我一如なる類型 ~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および神の依り代としての自然現象)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

~~~~~~~~~~~~~

☆ これは おそらく誰も言っていない最新の神論です。

お礼日時:2017/05/11 18:17

>一般になになに教を《信じる》と言う場合は 《思い込み》の


ことを言っているに過ぎないではないか。という問い求めです。
 信仰は思い込みです、と応えていますが。

>☆ VIPであることは いまの哲学の問い求めとは 直接の関
係がありません。
 ViPは社会的地位を示します。哲学とは関係がありません。

>☆ 《神ないし 神のワザ》などはおれには関係ないというの
も 或る種のコジツケですよ。どちらも証明し得ていないから
です。
 私には関係ない、などと表現していません。
 証明出来ない事象については
「解らないこと、それを何かにコジツケる必要は無い。
 宗教には、解らないことをコジツケた部分がある」ということ。

>☆ 《キリスト教信者》という表現――つまり《教》と《信》
とが両立するという思考――が 矛盾です。という質問です。
 キリスト教(聖書の記載事項)を信じさせる、信じる。
 大差無いように思いますが。

>☆ 無宗教はあり得ますが 無信仰はあり得ません。神は無い
と言うのは 証明し得ていないのにそう《信仰している》ので
すから。
 神や仏を尊ぶことを「信仰」と言います。
【神や仏が存在しないことを信仰している】とは言いません。
 それらは存在しないと考えている、故に信仰などしない。
 存在しないことを証明する必要などありません。

>☆ いいえ。哲学は 自信家で貪欲で努力家ですから 世の中
>のあらゆるものごとについて 説明のつくように認識しこれを
>あきらかにしようとします。
>宗教とは 信仰から得られた観想を 経験思想として・また倫
>理規範として=その意味でオシヘとして打ち出し あろうこと
>かこれを無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説
>いているアホンダラ教のことです。というのが 哲学です。
 人の考え、言動を洞察し「●●故、◆◆であった」の現象を
 表現し「己はどうか」と考えさせるのが哲学だと認識しています。
 洞察力、思考力、表現力などは必要ですが、
 自信、貧富、努力、宗教、信仰などは関係しません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 信仰は思い込みです、と応えていますが。
☆ その用法が間違いだという物言い(質問)です。

○○教といった宗教の場合には 信仰ではないということ。
そこでは《信仰・信じる》という言葉を使ってはならないという問い
求めです。


★ ~~~
証明出来ない事象については
「解らないこと、それを何かにコジツケる必要は無い。
宗教には、解らないことをコジツケた部分がある」ということ。
~~~
☆ 無神論にも 証明し得ていないものをすでに自分がただしいと言
ってコジツケる傾向があります。その部分には 触れないのですか?
触れるべきでは? と言っています。


★ キリスト教(聖書の記載事項)を信じさせる、信じる。 / 大差無
いように思いますが。
☆ 《大差ない》と言うには 《信じる》を定義してからでは? そ
れとも趣旨説明欄の定義に同意してくれていますか?


★  神や仏を尊ぶことを「信仰」と言います。
☆ 言いません。哲学では。

言うというのは 常識のウソであり 学問じょうの定説の不備です。
という質問です。

★ 【神や仏が存在しないことを信仰している】とは言いません。
☆ 言いませんが 証明しえていないものを ただしいと思い言って
いるなら それは《思考》ではなく じつは《無条件に受け容れてい
る》ということです。

その思想をではなく じつは《無い神》をなのです。


★ それらは存在しないと考えている、故に信仰などしない。
☆ 《考えている》ことについては なお疑ったりその妥当性を補っ
たりして やはり考えるものです。その考えじたいと 信仰とは関係
ありません。

だから 《故に信仰などしない》とか 《いや 信仰するのだ》とか
の判断と態度とが 《考え》からみちびかれることは ありません。

もともと 普遍神を 《有る神》としてではなく 自由にそれと同等
の《無い神》として受け容れた――つまりは もう受け容れないとい
う判断において カカハリを持った――ときすでに その意味での信
仰が この無神論において 成っていたのです。

《神は存在しないと考えた》から 信仰が決まったというつながりは
哲学から見れば あり得ません。

★ 存在しないことを証明する必要などありません。
☆ つまり 《無い神》を 信仰としてえらんだ。

お礼日時:2017/05/11 11:32

自分も詳しいわけではありませんが、仏教は「仏教を信じる」ではなく「仏教に帰依する」です。


またキリストは神ではありません。

意見を述べるならまずはその対象についてきちんとした理解をすべきです。
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この回答へのお礼

ぽこ_2さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

★ 仏教は「仏教を信じる」ではなく「仏教に帰依する」です。
☆ 表現としてはですね。けれども:

▼ (コトバンク:帰依) ~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B0%E4%BE%9D-49887

▽ ブリタニカ国際大百科事典
帰依(きえ):śaraṇa

すぐれた者 (特に人格者) に対して,全身全霊をもって依存すること。
仏教では特に,信仰をいだくことに用いられる。

▽ デジタル大辞泉

神仏や高僧を信じてその力にすがること。

▽ 大辞林 第三版

神仏や高僧などのすぐれた者を信じ、それによりすがること。
・・・
~~~~~~~~~


★ またキリストは神ではありません。
☆ ですが 次の聖句での《ことば・ロゴス》は イエスが人間であ
ると同時に神の子でありみづからも神であるというそのキリストのこ
とだと受け取られています。:

▲ (ヨハネ福音 1:1 ~5) ~~~~~
はじめに ことばがあった。
ことばは かみとともにあった。

ことばは かみであった。

このことばは はじめにかみとともにあった。
すべてのものは ことばによって成った。
成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
ことばの内に いのちがあった。
いのちは 人を照らすひかりであった。
ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
~~~~~~


★ 意見を述べるならまずはその対象についてきちんとした理解をす
べきです。
☆ ね。

お礼日時:2017/05/11 09:54

1.信仰は「思い込み」です。

オシへの思考?
2.キリストは神ではなく「神の子」というポジション。ローマ法王は人だがViP。
2つ目の2 特になし
3.「わからない」ことは「解らないまま」で構わないのだが、
 「それは神のワザ」とかへのコジツケが欲しい人が信仰しているのでしょう。
4.別にキリスト教信者なら矛盾しない。
 無信仰の人間から見たら信仰すること自体が矛盾です。
5.哲学は宗教に関係しない。宗教が哲学の要素を一部取り入れているに過ぎない。
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この回答へのお礼

じぱんぐ_すたいるさん こんにちは。ご回答をありがとう
ございます。

★ 1.信仰は「思い込み」です。オシへの思考?
☆ 信仰ないし《信じる》については (3)に定義しました。

一般になになに教を《信じる》と言う場合は 《思い込み》の
ことを言っているに過ぎないではないか。という問い求めです。

★ 2.キリストは神ではなく「神の子」というポジション。ロ
ーマ法王は人だがViP。
☆ VIPであることは いまの哲学の問い求めとは 直接の関
係がありません。

イエスは みづから自分がキリストであると語っています。
また ヨハネ福音の初めのくだりによれば 神の子であり神で
あったと知られます。

★ 2つ目の2 特になし
☆ ナンバリングをまちがえました。

★ 3.「わからない」ことは「解らないまま」で構わないのだ
が、「それは神のワザ」とかへのコジツケが欲しい人が信仰し
ているのでしょう。
☆ 《神ないし 神のワザ》などはおれには関係ないというの
も 或る種のコジツケですよ。どちらも証明し得ていないから
です。

★ 4.別にキリスト教信者なら矛盾しない。
☆ 《キリスト教信者》という表現――つまり《教》と《信》
とが両立するという思考――が 矛盾です。という質問です。

★ 無信仰の人間から見たら信仰すること自体が矛盾です。
☆ 無宗教はあり得ますが 無信仰はあり得ません。神は無い
と言うのは 証明し得ていないのにそう《信仰している》ので
すから。

★ 5.哲学は宗教に関係しない。宗教が哲学の要素を一部取り
入れているに過ぎない。
☆ いいえ。哲学は 自信家で貪欲で努力家ですから 世の中
のあらゆるものごとについて 説明のつくように認識しこれを
あきらかにしようとします。

宗教とは 信仰から得られた観想を 経験思想として・また倫
理規範として=その意味でオシヘとして打ち出し あろうこと
かこれを無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説
いているアホンダラ教のことです。というのが 哲学です。

信仰の上にさらに屋根をこしらえた。信仰の脱ぎ捨てた蝉の抜
け殻をわざわざ オシヘとして信仰せよと言い出した。おのれ
の支配欲を満たすために。そして金儲けのために。

お礼日時:2017/05/11 09:41

4. 全くおかしいですね。

キリスト教を信じる、とか。人間の罪を贖うためにポンテオピラトの元で苦しみを受け、死んで3日目に死人の中から蘇り、全能の父なる神の右の座につき、十字架での肉体の死とひきかえに聖霊をこの世に送り、今も生きて私達と共にいるイエスをキリスト、救世主、贖い主、癒し主、我が主、として信じるのがキリスト教だから、キリスト教はイエスを神の子だと信じる、という表現が適切です。キリスト教は全て神の霊感で書かれた聖書にある神の言葉、教えが全てで、聖書やローマ法皇が神とは一言も書いてありません。聖書にある言葉を神のみ言葉、と信じるのがクリスチャンです。
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この回答へのお礼

リベカさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

おかしいですか? 

〔番号づけをまちがえましたが〕 2と3にも 異議をとなえる
ということですね。

まづ ここは哲学カテですよ? 宗教はもとより個人の信仰ある
いは神についても 経験科学ないし経験思想として思考し認識す
るのが 基本です。

神は いやしくも神と称するなら 普遍神でしかありません。

ちなみにイエスが キリストとして 民族神としてのヤハヱ―を
外に開き――エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》を ヘ
ブル書8章が引いて明らかにしたように―― 普遍神へと揚棄し
たのです。

人びとの罪をもう〔神が〕覚えることはなく 忘れる。そして人
びとが互いに神を知れと言って教えることもなくなる。この二点
です。

ちなみに ほかにこの普遍神を言ったのは 親鸞くらいです。



いいですか。神は――普遍神は―― イエスが真理と恩恵ととも
に指し示したのですが そんなことをしなくても もとから神な
のです。

★ イエスをキリスト、救世主、贖い主、癒し主、我が主、とし
て信じ
☆ ようが信じまいが 貶(けな)そうが 罵ろうが 泣いても
笑っても 神は普遍神として われわれ一人ひとりの人間に向き
あっています。

普遍神を《無い神》として捉える人びとに対しても まったく同
じくひとしくです。


▼ 文字はころし 霊は生かす
☆ のですから オシヘを信じようが捨てようが 神とわれとの
――わが固有の時における――カカハリは 変わりがありません。

人間は変わり得ますが 神は 変わりません。


★ 聖書にある言葉を神のみ言葉、と信じるのがクリスチャンで
☆ あるのかも知れませんが 哲学からすれば 何でそのように
徒党を組もうとするのか? 

ふたたびイエスを十字架から引き降ろそうとしているのではない
か?

オシヘを《信じている》かも知れないが キリスト・イエスの指
し示した普遍神を ないがしろにしているのではないか? 

聖霊の送られるのは 教会だけだとでも思っているのですか?


ピラトもローマ兵士たちも あるいはサンヘドリンのお偉方らも
みなそれぞれ 役割をになうという人生をも生きて それぞれに
振る舞ったということです。

誰もが一人のこらず それぞれの・普遍神との固有の時間を持っ
ています。

お礼日時:2017/05/11 09:24

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