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ミュラー・リヤー錯視は、線分の両端につける矢印の向きによって、その線分は短く見えたり長く見えたりしますね。
ところで、私が「二つの線分は同じ長さだよ、と(誰に?)しつこく教えても、頑として長短が消えません。

質問は、ミュラー・リヤー錯視は、なぜ、頑固なのでしょうか?

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A 回答 (4件)

前回の質問と合わせて回答します


脳は脳自身が完全であることを望んでいて逆に脳自身が不完全である事を嫌がるのです
ですから脳自身が不完全であることを示唆する事実は脳にとって都合が悪いのです。
遠近によって直線が斜線に見える等が脳にとって都合が割ることです
これに対して脳は補正等してリカバリーしようとするのです。
ですが例えば遠近によって生じるそのような事柄は光の性質によって生じる事からそれを補正しきれないのです。そのような場合に脳はその事柄を知ることによってリカバリーするのです。これはミュラー・リヤー錯視についても「長短があるように見えるが同じ長さ」であることを知ることでリカバリーするのです
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なぜ、頑固なの?


それは、精神がそのような仕組みになっているから。

物質現象は約束通り(理的)に運動しているのは、科学の発達が証明していますが、精神の運動も約束通りの現象を起こしていると云ってよいでしょう。
釈尊の四諦八正道がそれです。

錯視は、精神の“理的で正常な反応”と思います。

ミュラー・リヤーの矢印の図は、矢の羽が内に向いているか、外に向いているかで、同じ長さの線に長短を感じるわけですが、試しに羽を線と平行に描いてみても、心持ち長短を感じられます。

線側(内側)に物(羽)を置いた(書いた)場合の意識は内側に向き、線の外に物(羽)を置いた(書いた)場合の意識は外側に向くという“約束”めいた反応が、認識の基礎としてあるのだろうと考えました。

ただ、二つを比較するから長短が生じますが、比較しなくても一方は長めに、他方は短めに認識しているはずです。

そしてその精神のあいまいさを物理が修正します。
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ヒトは信じたいものしか信じない。

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この回答へのお礼

そうですか。

お礼日時:2024/07/11 09:15

意味不明。


単にあなたが頑固なだけ。
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この回答へのお礼

御尤も

お礼日時:2024/07/10 11:59

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