
この世界で人間として生きていると、
たくさんの理不尽なことに遭遇します。
多くの人はそれに気付きながらも、半ば諦めたかのように
受け入れざる得ないというのが現実ではないでしょうか。
ジタバタしてどうにもならないからこそ理不尽なわけで、
どうにかなるなら、それは理不尽でない。
例えば、不可抗力による事故。
生まれながらにして不遇の環境など、中には、
そこから脱する人もいるかもしれませんが、
数として考えてみたときに、果たしてそれらは
多数を占めるかというと疑問があります。
そういった不遇の理不尽さに負けて、下を向いて生きることは、
人生を楽しめないというのは理解できます。
しかし、その理不尽さをどうしても受け入れることができない場合は
確かに存在します。
そういう境遇の人たちが、理不尽さを理由に理不尽な暴挙に出たとき、
他者はそれを批判できるかという質問です。
ここで、断っておかなければならないのは、
それが、先天的理不尽さである時に限る場合です。
自ら招いた後天的な理不尽さとは異なります。
先天と後天の違いは不明確で、
それがどちらかを決定することは難しい場合もあります。
しかし先天的不遇は確実に存在すると思います。
生まれながらにして、貧困、戦場、生活環境、身体的障害など
自ら望んでいない環境と境遇と運命にある人が、それに耐え切れず、
より恵まれた環境にある者に嫉妬し暴挙に出ることは許されるのでしょうか。
許されないとしても、その行為そのものを批判できる道理はあるのでしょうか。
A 回答 (8件)
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No.8
- 回答日時:
ANo.4です。
八つ当たりは正しい行為でない。
正しい行為でないから、その人のバックボーンがどうであれ批判できる道理はあります。
その人のバックボーンに同情して批判するべきことをしないのは安っぽい同情で、
誰のためにもならないものですし。
No.7
- 回答日時:
>より恵まれた環境にある者に嫉妬し暴挙に出ることは許されるのでしょうか
>許されないとしても、その行為そのものを批判できる道理はあるのでしょうか
許されない。そして批判できる。
恵まれない人側からみたら、許されないのはある種、理不尽でしょう。
でも、生まれつきでどうにもならない、暴挙に出れば潰される、それが質問者様のいう「理不尽」ってやつでしょ?
なぜ暴挙の部分だけが合理的になると思います?
世の中が理不尽でできてるなら、暴挙の部分も当然理不尽であって然るべきでしょう?
もっと言うなら暴挙に出られた方こそ「理不尽」です。
変な言い方ですが、その人たちも好きで「恵まれた環境」に生まれたわけじゃない。
生まれたらたまたまそうだったというだけ。
なのに暴挙に出られたらそれこそ「理不尽です」
どこまで言っても、どうやっても理不尽は消えない。
どこかで誰かは理不尽になる。
でも、理不尽に切れて暴挙をすれば、どこかで誰かが何らかの理不尽を受け、その人が今度はどこかで理不尽な行為をし、そのことで誰かがまた理不尽を受ける。
そうやって理不尽の悪循環が起こり、世界が理不尽に飲み込まれてしまいます。
だから、最初の「理不尽」を「理不尽」なやり方で潰す。
それが結局、一番理不尽が少ない方法なのでは?
No.6
- 回答日時:
不遇の人による恵まれた人に対する暴挙が正当化されることは無いと思います。
その根拠は次の通りです。1)生まれながらにして恵まれた環境に人間も、先天的な不遇にある人と同様に、その生まれを選べたわけではない。あらゆる形で生まれに基づく不当な権利侵害は阻止されるべきである。
2)嫉妬による暴挙は、不遇にある人の不幸を減ずることはなく、ただ恵まれた人の幸福を減ずるだけである。つまり恵まれた人間への暴挙は、人間社会の幸福の総量を減ずるだけの行為である。
生まれながらに苦境にある人が、生まれながらに恵まれた人に対して暴挙にでても良いのではないかという考えの根本にあるのは、「不平等は悪であり排除されるべきである」という考え方だと思います。
私は、平等というのは結果平等にせよ機会平等にせよ幻想であり、人間社会に実現可能なものでは無いというニヒリズムに立っています。
平等という理想を突き詰めて考えると、質問者様の疑問は一見アナーキズムのようでいて、問いかけとしては意義のあるものだと思います。
回答ありがとうございます。
私も許されないと考える立場です。
不遇であることと暴挙に出ることは何の関連もないからです。
ただ私が思うのは、例えば次のようなケースです。
貧困で飢えた人々が金銭的に恵まれた人たちに対して、
我慢ならないと暴挙に出た場合、
それを我々はその行為を批判できるかということです。
確かに暴挙自体は批判されるべきでしょうが、
行為を批判できる道理はあるのかと考え込んでしまったのです。
彼らに暴挙はよくないと諭すことができるのか、
先天的不遇にある人に対して、先天的優遇にある立場の人が
批判できる権利と正当性を語れるだろうかと。
確かに、被害者にとっては迷惑極まりなく、
不運以外の何者でもないかもしれません。
理不尽だと答えるでしょう。
しかし、ここで、そもそもこの世は理不尽なのだと認めれば、
理不尽な行為そのものが、それを行う理由になり得てしまうのではないかと思ったのです。
暴挙に出ることは確かに理不尽ですが、
そもそもこの世は理不尽であるという論理がまかり通れば
あらゆる行為が正当化されかねない。
社会的秩序を考えた場合、これらの行為は決して許されるべきではないというのが、
これらの行為を批判できる根拠にもなっていると思います。
私もそう思います。
しかしその社会的秩序の中で不遇の人たちがその社会的秩序を耐え忍ぶ
ことを認めるかどうかは分からない。
仮に不幸にしてそのような運命の下にあった時、
私にはその秩序を守る自信を持てるのかと考えたとき、
自信がないのです。
ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
許されるかどうか、というのは道義的な問題ですのでその人の価値観によるでしょう。
また誰でも、何に対しても批判できるし、現にしているではないですか。
貴方の仰る「先天的不遇」の人が暴挙に出たなら、それに対して批判できない道理こそないでしょう。

No.2
- 回答日時:
恵まれた環境と境遇と運命にある人が、精神的な度量にも多分に恵まれているなら、恵まれていない人から理不尽な暴挙をこうむったとしても、寛容の精神で許せるのだと思います。
どんな理由があるにせよ暴挙は罪である、という道理を用いれば、示されたような暴挙も批判できると思います。
回答ありがとうございます。
分かりやすいです。
私も暴挙は罪であることは認めます。
暴挙は許されないことも理解でき、私も同じ立場です。
その暴挙を攻めることができないケースがあるように思うのです。
先天的不遇の中にいる人々が、先天的優遇の人々に腹を立てるのは、
否定できない感情だと思います。
許せないと考えるのは誰しも当たり前ですが、
不遇の人の立場になって考えたとき、
それを批判できるかどうかということなのです。
ありがとうございました。
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