人はなぜ本を書くのか教えてください。

A 回答 (6件)

記録媒体と文学に分けて考えます。



記録媒体における世の中の需要と供給という観点から見た場合、
需要:情報の共有として価値がある。
供給:世の中に奉仕したいという自己肯定欲求と、認知欲、金銭欲がこれに該当すると思います。

これが特に文学のみに特化すると、過去に私が質問していたものが参考になると思います。
文学は何の為に存在するのか? 文学の存在意義・定義・役割
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4810789.html
「テーマの核心へ迫る」
「霊長類たる人類が作り得る文化遺産」
「事実描写による哲学的思考の誘引」
「利器」
「美」

または、
文学の意義・役割
┣(1)思想・哲学性
┣(2)感動性(魂の救済として価値があるもの)
┣(3)情報性(未知の情報の社会への展開・摂取)
┃ ┣社会事実の公開
┃ ┣新しい言葉の造成
┃ ┃・・・
┃ ┗その他
┣(4)芸術性
┣(5)娯楽性
┗(6)その他

こうしたものを残す為に人が本を書くのだと私は考えています。
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「本を書く」というのはあまり正確な表現ではないですね。


1)書きたいものがあるので書き物をする。
2)それが本に出来るほど沢山たまった。
3)周囲も勧めるのでまとめて本という体裁にした。
4)世に出して多数に見せたくなったので出版した。

大体こういった流れになるかと思います。
質問者様のご質問は1)~3)のまとまりでしょうか。
1)の理由も分析する必要があるでしょうか。
おおかたは生理的欲求でしょう。
何かが体に溜まって苦しく、吐き出したくて仕方がない。
それで書いて出したたものを確認し、ひと息つく(安心する)。

もちろん例外は沢山あるでしょうが、
おおかたは以上で説明が付くと思います。
本を出すのでなく、こうやってせっせとサイトにカキコするのも同様の動機があるのだと思いますw。
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それでは、直球ど真ん中の回答を試みます。



自分の内側に、あるいは外側に、もしくはその両面に、
書くに値するものがある、という確信が出発点でしょう。

それが一冊の本になるには、何らかのまとまりが必要です。
まとまりを得るために、あるいはまとまりをよくするために、
ひとはもう一度そのことについて熟考します。
考えながら書き、細部を詰めていくことによって認識が深まり、
時として、自分でも思いがけない、ある発見に至ることがあります。

書く行為とは、認識を深めることであり、
それをたどって新しい視点に立つということでもあったのです。

こうして本は、本となった以上は、第三者へ向かって放たれます。
だれが受け取るかはわからない。地球の裏側の人か、時代をへだてた人か。
百人か、千人か、一人か。
たった一人へでも受け取ってもらえる可能性がある。
それは書いた人(書きつつある人)にとって、大いなる慰めとなるでしょう。

それともう一つ。書くという行為は、実生活とはまた別の、
もう一つの自分の生を生きるということでもあると思います。
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そうですね。

なぜ本を書くのでしょうかね。

1)不特定多数の人に知らせたことがあるから。
2)金儲けしたいから。
3)借金を返すため。
4)誰かに命令されたから。
5)本を書いている自分が好きだから。
6)本を書くと褒められるから。
7)本を書くことで暇つぶしができるから。
8)編集者のお姉さんに会いたいから
9)間違ったことが書いてある本を読んでそれを糺そうという義侠心。
10)ライバルより一冊でも多く出版したいから。

などなど。どーれもこれもみーんな正解ですね。つまりはみーんな正解になるような質問をしたということですね。
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 あなたはなぜ本を読むのか?
 
── 本を読む人と書く人がいる。私は書くほうだ。(出典不詳)
 Caldwell, Erskine 19031217 America 19870411 83 /~《Tobacco Road,1941》
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1422174.html (No.1)
 
──「人は、それぞれ《人生》という題名の長編を書いている」あるいは
「誰もが人生という題名の長編を書いている。── シェーファー万年筆」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1833407.html (No.1)
 
── “Life is God's novel. Let him write it.”
(原文:人生は神が書かれる小説だ。神に任せようではないか)
 Singer, Isaac Bashevis 19040714 Poland Florida 19910724 87 /1978Novel
 
 あなたはなぜ人に問うのか?
 
── だれもわたしに問わなければ、わたしは知っている。しかし、
だれか問うものに説明しようとすると、わたしは知らないのである。
── 服部 英次郎・訳《告白(下)19761216 岩波文庫》P114
 Augustinus, Aurelius 03541113 Africa Rome 04300828 75 /~《Confessiones》
 
 わたしの解釈は「だれかがわたしに問うなら、わたしは説明できる。
 しかし、ひとりになって考えると、さっぱりわからない」というもの。
 
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さまざまな動機があると思いますが、つまるところ自己顕示欲です。

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Q文学は何の為に存在するのか? 文学の存在意義・定義・役割

タイトルの通りです。

文学は何の為に存在するのでしょうか? 社会における文学の存在意義・定義・役割とは何でしょうか? 
無知で大変恐縮ではありますが、他に言い様が無いのであえてストレートに質問させて頂きます。

これにまつわる回答をお持ちの方、意見、ご事情などをご存知の方がいらっしゃいましたら、小さい事でも構いませんので教えて下さい。
同意、反論、ご指摘など何でも結構です。
あるいは私が後述で雑感を記載しておりますので、これに対するご意見があればお願い致します。

尚、私自身は極力本を読むようにしていますが、ここにいらっしゃる皆様方と比べて、読書量は全く少ないであろう事だけ先に申し上げておきます。

佐藤優は亀山郁夫との対談で「文学はインテリと話す為の方便」とバッサリ切っており、私も文学と呼ばれるものに対して、実用にはこの編(会話の種)くらいしか使えないのではないかと思うのです。つまりは実用には耐えないが、芸術的な部分で残っているのかな、と推測しているのですが、そうした場合、大学における文学部の位置が芸術的な位置に行くのかと思いきや、現在はパッと見、実学的な位置に置かれているように思えてなりません。
文学は一見何の役にも立たないように見えるけれども、実はこうした部分でかなり役に立っているんだよ、という部分があるのではないかと現在想像しているのですが、皆目どの部分で現実の社会に対して役に立っているのか分からないので質問させて頂きました。

以下、私が思う雑感です。

1.
「怒りの葡萄」は資本主義における社会的欠陥を問題提起しており、社会に対して注意喚起をするという媒体として役に立っておりますが、これは別に当時のニュースや歴史書でも良い。あるいはその事件を発端とした批判や感想などでも良く、最終的に伝えたいメッセージを搾り出す前に「怒りの葡萄」は不要な描写が多すぎるのです(情景の描写など)。

2.
国語力をつけるというのであれば新書などを読めば事足りるのではないかと思うのです。
無論、基本的な部分で国語力をつける為に必要最低限の本は読むべきなのでしょうが、それが今現在、文学を残す為の理由とするには弱いように思えます。

3.
文学から日本国体の体現の為の下地を作るという実用もあるかと思いますが、
枕草子なんかを読んで「ああ、そうそう」と共感を得たり、
芭蕉の俳句で”閑さや岩にしみ入る蝉の声”を読めば「こんなんあるわー」と思ったり、
そうした感覚というのは文学ありきではなく、日本人として自然に身に付く感覚なのだと思うのですね。
むしろ、日本人の教養としては、古典や名文の前に「学問のススメ」などの社会生活を送る際の気構え入門書のような実学的なものを読むべきだと思うのです。

また、上述で挙げた名文を読む際に感動はあるのですが、それでは近年の文学で良作とされるノーベル文学賞を受賞した川端康成の「伊豆の踊り子」を読んだ時に感動はあるかというと、私見ではありますが感動を受ける事ができませんでした(川端ファンの皆様、申し訳ございません)。

霊長類たる人類が作り得る文化遺産を残す為、あるいは何か人に思想やら感覚やらのテーマを与え、文化的な感動を与えたり、冷酷な事実を突きつける事が文学の役割かなと思っておりましたので、個人的な評価ではありますが、普遍的テーマとしての感動が無い作品郡を書いている方が賞で評価される、といった面を鑑みると、川端康成が世間的に評価されている手前、文学というものの意義というのは私が考えている文学の存在意義と乖離しているのではないのかな、と疑問に思ったのが発端でした。

4.
文章を後世の人の魂が震える綺麗な形で残すのも文学の役割なのかな、とも思っています。
「知もて露西亜は解し得ず。ひたぶるに信ずるのみ。」
「知識を持ってロシアという国は理解する事はできない。ひたすらに信じるしかない。」
という二つの文はどちらも最終的な意味として同じものですが、どちらかというと前者が人に感銘を与える、文学的である、そして上の文を残すべきだと私は思っているのですが、これは当たっているでしょうか? 

伊豆の踊り子、斜陽、シェイクスピア4大作品、カラマーゾフの兄弟(現在は上巻のみ読了)などを読み、時間を浪費した、という感じが拭えません。
この文学というジャンルはこれからも読む意義や意味があるのだろうかと、時間を割いて読む必要があるのかという疑問が沸いております。
そこで、文学の存在意義、意味を知れば、そうした観点から文学の実用的意義が見出せるのではないかな、と感じました。

乱文になってしまった部分もあるかと思いますが、どなたか思う所がある方がいらっしゃいましたら、ご教授頂きたく宜しくお願い致します。

タイトルの通りです。

文学は何の為に存在するのでしょうか? 社会における文学の存在意義・定義・役割とは何でしょうか? 
無知で大変恐縮ではありますが、他に言い様が無いのであえてストレートに質問させて頂きます。

これにまつわる回答をお持ちの方、意見、ご事情などをご存知の方がいらっしゃいましたら、小さい事でも構いませんので教えて下さい。
同意、反論、ご指摘など何でも結構です。
あるいは私が後述で雑感を記載しておりますので、これに対するご意見があればお願い致します。

尚、...続きを読む

Aベストアンサー

1.

フーバービルまで辿り着けなかった私が言うのもなんですが。
情景描写対象に何を選ぶかに関しては、作家のこだわりというものがあります。

これは私見なのですが、作家が何かをしつこいぐらい描写するとき、その描写対象を深く愛している場合が多い。きっと「俺の中のこれを文章で再現したいんだよ!」と必死で頑張っているので、温かく読み飛ばしてあげてください。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんか、なぜか無駄に猫描写がありますし。もちろん、単に小道具みたいな感じで、より物語を現実らしく見せるためだけに書かれる描写もありますが。

言いたいことを物語に仮託する作家の中には、自分のことを直接言うのが気恥ずかしいと思っている方々がいます。照れ屋さんなんです。そういう方々は、物語の中の「私」とか「彼」に自分の意見を言わせるんですよ。物語だと「神を信じる」「神を信じない」というような矛盾した考えが同じ人間に生じたときにも、別々のキャラクターに言わせることができます。そうすれば無神論者だとかつっこまれても言い訳が可能です。
言論弾圧されている場合もしかりです。太宰とかあれな作風なのでナルシストとかいろいろ言われますが、戦時中に戦争礼讃の文学なんて一行も書きませんでした。

何を言いたいか、ということよりも、物語を通して、読者にある世界を追体験させたいと思っている作家達がいます。
ミヒャエル・エンデは読者にこう問いかけます。

「小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?」

安部公房はインタビューでこう答えます。

「日本の国語教育というのは、文章があれば必ず「右の文章の大意を述べよ」とくる。文学作品というのは、大意が述べられるという前提、思いこみ。ぼくの作品も教科書に載っているんですが、「大意を述べよ」といわれたら、ぼくだって答えられない。 ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないですよ。 小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を、作者が提供し、読者はそれを体験する。際限なく読み尽くせるでしょう。無限の情報ですよ、現実は」

二人ともカフカに強い影響を受けているのは、興味深いですね。

2.

まあ、役に立たないと言えば、立たない。単なる趣味です。でも古典を読むようになって、ときどき身につまされることがあります。それは、今私達が何気なく日常的に使っている言葉でも、昔の作家が発明したり、頑張って翻訳した言葉だったりする、ということ。
例えば、「猟奇」は「curious hunting」を、佐藤春夫が訳したものです。

3.4.

実学のほうが、確かに万人に受けいれられる「価値あるもの」かもしれません。でも、どうでもいいようなものに慰められることってありません? 道端に咲いている雑草とか、つまらない冗談とか。
文学って、そんなどうでもいいものに似ていて、誰にでも届くものじゃないと思っています。メッセージボトルなんですよ。同じように思っている人間には届くけど、届かない人間もいる、みたいな感じ。要するに合わない人にはとことん合わない。川端がだめな人もいるし、太宰がだめな人もいる。

私が大好きな作家に開高健という方がいて、なぜ書くかと聞かれたときに、「助けてくれのひとこと」だと言っています。また、どんなに絶望的なことを書いていても、字でものを書いている限り、作家はヒューマニストなんだ、とも。
信じられないかもしれないけど、世の中に絶望しきっていて、書かないと死ぬってタイプの人間は確実に存在します。
愛する妻の死後に広島で被爆した原民喜、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レヴィ……
二人とも最期は自殺してしまったけれど、本当に物語を書いていてくれて良かった、と私は思います。

こんな風に必死に文章を書くことで、精神的危機を乗り越えている作家が特に多いのは、文学、今では純文学と呼ばれている分野なんですね。なぜって、絶望的なことだけを書いてもエンターテインメントにはなりにくいから。だからサブカルチャーを楽しむことが多い私は、純文学の偉そうな雰囲気を腹立たしく思いつつも、存続してほしいと思っています。

思うところを書いていたら、長文・乱文になってしまいました。読みにくかったらすみません。

1.

フーバービルまで辿り着けなかった私が言うのもなんですが。
情景描写対象に何を選ぶかに関しては、作家のこだわりというものがあります。

これは私見なのですが、作家が何かをしつこいぐらい描写するとき、その描写対象を深く愛している場合が多い。きっと「俺の中のこれを文章で再現したいんだよ!」と必死で頑張っているので、温かく読み飛ばしてあげてください。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんか、なぜか無駄に猫描写がありますし。もちろん、単に小道具みたいな感じで、より物語を現...続きを読む


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