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人間にも劣等種は存在すると言ってはいけないですか?劣っていて醜い人間は存在しませんか?



21歳男性です。この質問を書かせていただく前に謝っておきます。この質問で気分を害される方が必ずいらっしゃると思います。なので、読んでくださる方は私のような馬鹿げた質問をする若者に対してどうか広い心でご容赦ください。また、運営の方によりこの質問は削除されてしまうかもしれません。そのような場合に運営の方にご迷惑をかけてしまった場合申し訳ありません。


大学で人種差別について議論をする講義がありました。私を含めた生徒が間違った意見を言ったときの先生の反応と、私の隣に座っている障害を持っている人が間違った意見を言った場合でも、明らかに先生の対応が違います。たしかにその障害を持っている人は障害により体の数箇所が奇形であり、それにより人生の大半をいじめられ続け、随分心が荒んでいるように見受けられます。


たしかに私はその人が醜いと思います。容姿も、心も。だから意識をしていなくても冷たく接してしまっている自分にも気付きます。人種差別について議論するという偽善者の集まった大学の講義という教育の場でも無意識に差別は行われていました。しかしこれはしょうがないことだと思いませんか?


もちろん、黒人が容姿によって奴隷にされたり、ユダヤ人がナチスに迫害されたり、絶対に賛成できません。同じ人間としても神経を疑います。そんなことをしていい人はいませんし、悔いるべきだと思います。



私が話しているのはちょっとした日常の中にある差別です。最近ではことあるごとに偏見だ、差別だという言葉が浴びさせられます。誰の心にもあるものなのに、一線を踏み外すと社会的な倫理や世間体を気にして攻撃しますよね。メディアの前でみな神経をすり減らしています。



私は同じ人間なのに、どうしてこうも美しい人間と醜い人間がいるのだろうと思ってしまうことが度々あります。みなさんも感じませんか?容姿が美しく、見とれてしまう人。逆に視界に入るだけでも嫌悪感を感じる人。これは差別じゃないですか?


また、例えば障害者の方が使ったスプーンと健常者が使ったスプーン。AIDS患者が使ったスプーンと健康なものが使ったスプーン(エイズはそんなことじゃ感染しません)それぞれ精神的に違いは生まれませんか?みなさんはどちらを選びますか?



それなのに、平等がどうとか偏見をなくせだとか言う人は、偽善者としか思えません。



結論として私の隣に座っていた人を劣等種とみなしていいですか?オンリーワンがどうのこうのということにより、その人にしか持っていないものがあるかもしれません。しかし容姿も心も考え方も、生きようとする姿勢も、私が見る限りでは魅力を感じません。感情の起伏が激しく私たち集団に理不尽な理由で大きな迷惑をかけることすらあります。何かずば抜けた魅力や才能があるにしても(おそらくないでしょうが)トータルで見ると劣等種ではないんですか?そういう遺伝子は自然の摂理に従い淘汰されませんか?(決め付けるのはよくないですが)


バイト中にとても醜い夫婦が、どう考えても彼らが悪いのに客と従業員という立場でくだらない論理を延々と聞かされ、容姿だけでなく内面まで腐っているのかと思うと、吐き気すらします。申し訳ございません、申し訳ございませんと情けない顔で、相手が納得するまで謝っている中、ちらりと視界に入ったベビーカーに対し、心の中では、こんな醜い遺伝子を受け継いだ子どもはさぞ不幸だとか、ただでさえ生きづらい世の中なのにこの2人に教育を受けてこの2人の遺伝子を引き継いでこの世で人生を歩んでいくなど酷だな、と寒気がします。

人間に平等なんてありえない!無意識のうちに遺伝子レベルでそれ相応の扱いを受け、あなたたち自身与えているのでは?

なお、このような質問をしてしまう私の方が腐っているのでは?という回答も多いに受け付けます。私はたいした人間ではございません。楽しいことには笑い、悲しいこと、辛いことで涙し、人並みに恋愛もしてきました。みんなの前ではこんな考えが言えず、匿名ということを利用し質問させていただきました。実際のところみなさまの本音が聞きたいです。ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

私見です。



先ず、確かに貴方の言われる様な差別は確実に存在します。私自身そう思う瞬間もあります。


これについて私の意見は2点。

(1)思うのは自由だが、積極的に差別を態度・行動に出す者は社会性に欠ける(劣る≒劣等種?)。

(2)見做すのも自由だが、これは自分より優秀な人間に出会った時、相手から「劣等種」と
   見做され、最悪差別を受けても「仕方ない」と受け入れる覚悟は必要。
   そうでないと論理破綻をおこす。


2について、自分が他人に適用するなら、他人から貴方にも適用されるのは当然。
それが出来るなら見做すのは自由です。
出来ないなら、ちょっと自分より劣った者を見て悦に入ってる「ガキの戯言」です。
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30代男性です。


 偏見や差別は、無知故に起こることもあれば、生理的・本能的に起こる場合もあると考えます。
 ただ、生理的に無理!という差別は、人それぞれ違うと思いますが、自分もある人にとっては生理的に無理!と思われてても仕方ないと思っています。そもそも動物の種の保存の法則でいえば、劣性遺伝種は淘汰され、優秀な種しか残れませんし、優秀な遺伝子を残すことが本能的に埋め込まれているとしたら、差別ではなくて区別(選択肢に入るか入らないか)であるといえます。
 でも、価値観や倫理観は人によってのふり幅が大きく、環境にも大きく左右されるので、一概に、この人は美人、この人はブスと思うことが差別?とは思いません。
 平等や偏見をなくすことは無理です。自分に嘘をつくしか実現しません。そもそも平等である必要があるのでしょうか?相手に偏見や差別をもつことは、逆に世間から自分も偏見や差別を受ける可能性を受け入れるということだと考えます。様々な価値観や倫理観、差別や偏見のなかで社会が形成されています。それを受け入れて少なくともなるべく偏見や差別を無くそうと心掛けるだけで十分なのでは?私はそう思います。
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はじめまして。



私もよく人を見下しますよ(もちろん言葉や態度には出しませんが)。
それを恥ずかしいことだとも全く思いません。
ですから当然自分と近い状態や性質の人間と関わることを好みます。

しかし、そういった”人格”が遺伝子に依るものか否かはわかりません。
また、劣等種かどうかもわかりません。

長生きすることが優劣であるとするならば、むしろ自分勝手でストレスを溜めない人間の方が優れている(長生きする可能性が高いという点で)のかもしれませんしね・・・

とりあえず、めんどくさい人間とはあまり関わらないorストレスがたまらないようなコミュニケーション能力を身につけることが大事なのかもしれませんね。

社会人になると、見るのも嫌な上司や客とも付き合っていかなければなりませんので・・・
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うーん、難しい質問ですね!


確かに誰しも、苦手な人、見た目が嫌いな人、生理的に合わない人っていますよね。
ただそれは、人によって違うと思うんです。
例えば私にとっては嫌いな人でも、別の人から見ると違うかもしれない。
だから劣等種とは一概には言えないんじゃないかな。
あなたにとっては劣等種でも、違う人にはそううつっていないかもしれない。

ただ口にしなければいい話で、思うのは自由です。ただ賛同は求めないほうがいいですよ。あなたの言う一部の偽善者に叩かれてしまうから。

つまり、劣等種って思うならそれはそれでいいと思います。

それにしてもあなたは頭のいい人ですね!!私は29歳ですが、あなたの歳の時には考えたこともなかった内容でした。あ、今もですが(^_^ゞ


的外れな回答でしたらごめんなさい( ´△`)
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18歳女です。



いつかわかります。あなたが差別される側に回ったとき。差別される側の感気持ちを知らない人が「差別はいけない」と言うのは偽善です。
しかし、差別される側の気持ちを知った上での「差別はいけない」は本物です。

頭で考えるより、体験が一番です。

これは、私の意見になってしまって申し訳ないのですが、私が一番可哀想だと思ってしまうのはいじめでもなんでも、「差別される人間」ではなく、「差別する事がいけないことだというのがわからない人間」です。

今、差別を受けている人は、差別するのはいけないことなんだ、という事を学んでいるのです。だから、可哀想でもなんでもありません。これで一歩、優しい人間に近づけるですから。

これはたぶん聞くだけではわからないかもしれませんが、差別されたり仲間はずれにされた時のツラさというのはハンパないです。ハンパなさ過ぎて、「これは人にやっちゃいけないレベルだな」って思います。綺麗事では無く、「もう、人にこんな思いさせちゃいけない」って思うんです。

参考になれば、と思います。
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この回答へのお礼

あなたはまだ18才なのにとても立派な考えをお持ちですね。私の考え方も変わりましたし、私は差別される側を体験した方が良さそうです。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2010/06/05 11:46

日常の中にあるちょっとした差別を容認することは、


あなたが嫌悪すると言っている重大な差別を容認することと繋がっているんですよ。


差別の重要な共通点は、差別される側がどうしようもないこと。
どうしようもないことをどうしろというのでしょうか。
例えば現在女性であるのに、女性として差別される。女性に生まれたことをどうしろと言うのでしょうか。
例えば現在エイズであるときに、エイズとして差別される。エイズであることをどうしろと言うのでしょうか。

これに対向する論者は、大概「そんなことを言ったって不愉快なのだから仕方ない。」と言います。あなたと一緒ですね。
この「仕方ない」は何をしたって仕方ないんですか?
これは人によるでしょう。
嫌っても。いじめても。迫害しても。殺しても。

仕方ないよね。汚らわしいんだもの。



それは本当に正しいんですか?

というのが僕の疑問です。
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差別っていうのはとても難しい問題です。



他の回答にあるように、体験してみないとわからない部分がある。

一番難しいのは、差別されている側の心理を差別する側が理解することは決してないということです。

ある他人についての情報を得る場合に、身体的特徴というのは目に飛び込んでくる重要な要素の一つです。音声言語や体の動きがそれに続きます。身体的特徴というのはわかりやすいので差別に繋がりやすいです。

質問者さんの近くにそんな差別される人が存在しているわけですね?

その人と、この質問内容について直接話し合ってみたらどうでしょう?

奇妙なことに、差別されている人の中には、自ら差別されたがる人というのもいます。これは「健常者」からみると奇妙にみえるはずですが、「健常者」を差別しているんです。「健常者」は「障害者」にこんなふうに扱うに違いないと決め付けてしまうことがある。これは向きが逆で気づきにくいんですが差別であることに変わりないです。

日本人が手っ取り早く自分が差別される体験を味わうには、米国(本土)に旅行に行くことです。観光客しか行かない場所ではなく、地元の人がいるような場所にある程度の期間留まれば、そこでは少なくとも人種差別によって差別される体験がほぼ確実に味わえます。同時に、日本では身体的特徴によって差別されている人が如何に多いかに気づくことでしょう。

最近少しずつ改善しているように思いますが、日本は他のOECD諸国に比べて障害者を街中で見かけることが少ないです。これは、日本に障害者が少ないのではなくて、障害者が外に出づらい要因があるからと考えると納得できます。

差別というのは頭でわかろうとしても無理があると思います。
理解するには、差別される人との交流や自ら差別される体験がどうしても必要でしょう。
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回答になっているかどうかは分かりませんが、私の思うところを述べさせて頂きます。




「差別をなくそう」「偏見はよくない」

これらは社会通念上「正」であると思います。
何故ならば、「差別」を許してしまうと、その「差別」意識の共有者達が集まった時、非人道的で暴力的な悲劇が引き起こされることがままあるからです。

私達はそれを、質問者様の文面にもありますが、ナチス等、歴史的事実から知っています。
そのため、集団になったときの私達に内包する残虐性を私達自身は非常に恐れています。


なので、私達は「差別はよくない」という言葉をよく使用します。多様しすぎて偽善的になる程よく使用しています。


ある意味洗脳なのかもしれません。
なので、逆にこの言葉に疑問を持つ方々も出てきます。

本当の差別とは何なのか、差別意識をなくすとは本当はどういうことなのか…


差別を無くそう、と言っている人間から差別の匂いがする。
それは信じられない。だから、差別意識のある自分は、差別がない社会は有り得ない、と言う。


正しいです。
しかし、この考え方は正論ではありますが、生きていく上で「正解」ではない。


どんな人であれ、差別の意識は、日常生活に解け合っており、決してなくなりません。

ただ、それをおおっぴらにして、社会が認めてしまうと、歴史で学んだような悲劇が繰り返されます。
人間は弱いものなので、更に弱い(と感じる)者を探し、駆逐しようとする。

しかし、その「弱い者」が本当に弱く、人間の反映にとって不必要なのか私達は知るすべを持っておらず、往々にして、思い込みで悲劇を招くことがよくあります。


なので、どっちつかずになりがちなスナオナヨイコには「差別はいけません」と教え込む必要があります。
スナオナヨイコが教育によりたくさん育てられる社会ならば、これにより差別による大虐殺等は起こりにくくなります。

なので、質問者様、劣等種だと感じる、また個人的に言葉にすることは自由だと思います。
しかし、やはり社会から見ると悪の要素がありますし、もし質問者様と同じような考え方を持つ方が集まり、弱者(だと質問者が感じられる方)を駆逐しようとすると制裁されることになると思います。

そこまでいくと、スナオナヨイコの第三者からすると一種の狂集団として写ると思います。
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 平等とは、ある極限のことであって、もともと無いように思います。


 しかし、差別を否定する心や生き方、在り方はあるのではないでしょうか。

 あなたの心にも、差別を否定する心があるように思います。
 それで、十分なのではないでしょうか。

 あなたが差別してしまったと認識している具体的な事例については、しばらくの間、自分が差別した事例として、自分の意識の中に留めておきましょう。

 昨日した差別を、明日は乗り越えられるなら、悩んでいる今日を祝福したいと思います。

 乗り越えることができなくたって、あなたが大袈裟に悩むことではないと思います。
 今日このように悩んでいるあなたが、それ以上の差別をする様な人になるとは、とても思えないからです。
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ここにご質問なさった内容そのままを


見とれるほど美しい他人から自分に向けて発せられた言葉として
受け入れられるのであれば、
他人に対して思うのは別にいいんじゃないかと思います。
○○さんの使った食器は使えるけど、
JunkyWalker12さんの使ったのはちょっと躊躇する、みたいに。
実際そういう対応をされたら、どう感じるでしょうか。
見とれるほど美しい人から、「視界に入らないで欲しい」といわれたり
そう思われるような態度で接してこられたら。

ただ、

>たしかにその障害を持っている人は障害により体の数箇所が奇形であり、
それにより人生の大半をいじめられ続け、随分心が荒んでいるように見受けられます。

この場合、心がすさんだのは
劣等種だから、というよりも外的要因が大きくないでしょうか。
つまり、周囲がその人の心をすさむ方向へ動くように働きかけた、ということです。


私は人間に平等に与えられているのは

一日は24時間である
人はいつか死ぬ

ということだけだと思います。
それ以外は平等なんてありえないのでは。
だから人の好き嫌いがあるのは当然のことだし
差別的な気持ちがあるのも当然のことだと思います。
生きている条件が違うし、持っているものが違いますので。
平等にはならないし、差別をなくすことも不可能です。
いろんな人がいて、いろんな考えに基づいて生きているからです。

私も差別をなくそうとか偏見をなくそうとかいう意見は
賛同できません。現実的じゃないからです。
でも、されるといやなことを他人にしない
というのはマナーだと思います。
そこを最低ラインとして
好きな人にはどんどん関わり
そうでもない人には進んでは関わりません。
これは差別かもしれませんが
お互いいやな気持ちにならないように距離をとっており
危害を加えるわけではないので、表立った差別にはなりません。

なので思うのは勝手。と思います。
態度に出すのは、自分の不利益になるので賢明ではありません。

ただ、こんなふうに、こんなふうな考え方で
年を取っていくと
なんとなくいやな顔の中年、老人、になるように思います。
質問者様が嫌悪していらっしゃる
醜い容姿
になるような。
年齢を重ねると、内面が外面に出ます。

なんとなく、日々の色々な鬱憤を
自分が「勝っている」と思っている
自分の中での「弱者」に向けて発散しているような感じがします。
問題をすりかえている、というか。

そういう面はありませんか。
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