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タゴールは、「音楽や芸術を通して人間の内面が洗練される」
と言いました。

1.そう思いますか?

2.ならば、音楽や芸術の何が、

3.人間の内面の何を洗練すると言っているのだと思いますか?

「教育としての音楽・芸術」の質問画像

A 回答 (24件中11~20件)

いつもながら、知的興味を掻き立てるご質問です。


タゴール氏の箴言は、さまざまな意味にとれると思うのです。

一つには、例えば、日本の総合芸術、能や歌舞伎を、芸術として鑑賞する際には、背景の知識が必要です。たとえば歌舞伎では、曽我の敵討ち物が多いので、知らなくても観られますが、知っているほうが、格段に面白くなります。能ですと、歴史に題材をとったものが多いので、例えば、西行の和歌や源氏物語の筋立ては、知っておいたほうが良いです。というわけで、鑑賞者は、劇場の外で知識を蓄える傾向がある、すなわち、洗練される。

インドはどうかなぁ、というのは、疑問ですが。

西欧美術の場合ですと、王侯貴族や教皇が、芸術家を雇って、自分の趣味に合うような絵画や彫刻を創作させてきました。ですから、現在、私たちが、美術館や教会内部で観られる芸術品は、庶民などには手の届かない、至宝であったわけで、それを鑑賞することによって、現在、庶民である我々も、当時の王侯の洗練さを、味わうことができる。

これは、貧富の差の激しいインドでも、言えることでしょう。

もう少し科学的には、イギリスの大学で、千人弱の一般人に、古今東西の名曲や芸術品を見聞きさせて、脳の変化を観察する、という、実験をしたところ、芸術品によって刺激を受けていたのは、島皮質と呼ばれる部分でした。記事の編集者は、”痛みや苦しみなどを司り、人間の根源的な自衛機能に関係する”脳の部位が、美しさによって刺激を受けるのは、驚きである、としています。英語で申し訳ありませんが。

https://www.scientificamerican.com/article/the-n …

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%9A%AE …

日本語のウィキペディアを読んでみると、”瞑想をする人は、島皮質が厚い”、あるいは、”この部位に損傷を受けると、中毒症状が減少する”など、面白い事象が並んでいます。

タゴール氏は、瞑想なさったかもしれませんから、瞑想によって作り出される状態と、名曲鑑賞中に感じる、浮遊感に、共通点を見つけ、芸術鑑賞への共感を持ったのかもしれません。

もっと付け加えることもあるような気がしますが、とりあえず、これにて。
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この回答へのお礼

芸術を鑑賞することによって、貴族的・王侯的洗練さを味わうことができる
という点が、人々が芸術を愛する理由の第一なのかもしれません。

人間の根源的な自営機能に関係する「島皮質」が芸術作品によって刺激を受
ける、ということは知りませんでしたし、大変に興味深いことですね。

お礼日時:2018/02/20 08:35

☆☆(回答№10) >〔芸術をとおして人間の内面が洗練される


ことに〕なる場合もあり ならない場合もある。つまり特に変化は
なかった場合もある
★(同お礼欄) 芸術にも様々あり、鑑賞する側も色々、相性もあ
るでしょうからその通りでしょう。

☆ 微妙に趣旨が違っていると思われますので いまいちど投稿し
ます。

すなわち言おうとしたことは 《芸術作品がさまざまにあったとし
ても 洗練される場合もあれば されない場合もある》というもの
です。

推測ないし観測ですので そこまでとしますが:
▲ 音楽や芸術を通して人間の内面が洗練される
☆ というのは つねに成り立つとは限らないと見ています。

★ 鑑賞する側も色々、相性もあるでしょう
☆ という条件は この命題を定理として成り立たせるかどうか。
それは―― 一面の真理があるけれど 基本的に言って―― 決ま
らない。――と思います。
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この回答へのお礼

分かりました。

お礼日時:2018/02/19 01:50

論点はいくつかもらいましたが、それぞれ重い話でもあるので、一つに絞って回答してみます。



>音楽や絵画などでは間接的にではあっても、所詮は思想・哲学の表現である、ということでしょうか?

どうでしょう。私はそういうことを言っているのでしょうか。「所詮は思想・哲学の表現」という言葉がわかりません。「所詮は」というと音楽を低く見ていることになります。私はそういうことを書いたつもりはないんですが、そう読めたのですか。
しかし音楽の鑑賞の仕方が違うのかなと思って、私の考えを書いてみます。

例えば、クラシック音楽は譜面が同じでも、人によって演奏が異なります。そこには演奏者の作品に対する解釈が混じっています。演奏者は様々な角度から作品を熟慮するわけです。
・作曲家の思いはどういうものか。
・こういう曲が生まれてきた文化的な背景はどういうものか。
・祖国だけではなく、さらに深い根源的なものにまで到達するのか。
・作曲家の表現したかったことは、現代社会と照らし合わせるとどのように考えられるのか。
・他の演奏者はどう弾いていたか。自分はどういうことをすれば独自性を出していけるのか。
・自分が表現したい感情、思想、思い。
・自分の技術的な限界。
などなど。

聞く側も演奏家の思考を追う形で、新しく気がついていくことがあります。特に自分が似たような感情を持ったことがあると、そのことを思い出します。曲の展開に合わせて、改めてその感情を考えていきます。自分になかった視点があることにも気がついていきます。甘い感情、ノスタルジーなどと一言でいっても、言語を超えて、人間の感情はもっともっと複雑なんですね。音楽は言語よりも、もっとミクロな感情に気がつかせてくれます。

まあただ理屈としては上の通りなんですが、実際に音楽を聴いてそれをやったことがない人にしてみると、はあ?なんじゃそりゃ?そんな複雑なことを考えて聴いているのか?ということにもなるのかもしれません。
考える人は考えているとしか答えようがないことでもあります。だから音楽を聴くと、映画を観るのと同じくらいに疲れますよ(笑)。

ゲーム音楽などで、同じことができるのかわかりません。確かに「名曲風」の音楽はありますね。ファイナルファンタジーの浜渦正志など、ものによっては透明感があって、水彩画のように繊細です。曲として私も嫌いとは言えません。
しかし「クラシック=古典=伝統的に何度も鑑賞されてきたもの」ではないと、上のような「解釈学」をやることは難しいかなとも思います。解釈の作法のようなものが決まっていないとできないからです。

それにゲーム音楽やアニメ音楽だと、刺激があるものを作ろうという理由から、意味もなく、とにかく刺激物を詰め込んだだけという曲もあると私は感じています。才能が有り余っていて、とにかく曲が湧いてくるので作り、お金になるのでそれを公開したということもあるかもしれません。そういう曲を聴くと、残念というより、人間の愚かさのようなものを感じて嫌になります。

聴き終えた後に考えをまとめていく中で、「この演奏者はxxxxを表現している」と書くことはできます。人によっては、「深い根源的なもの」を考える中で、哲学や思想を語り出すでしょう。それは思想や哲学の言葉と重なるでしょう。そういう偉大な結論も魅力的です。しかし、私にとっては、音楽を聴きながら考えることの方が楽しみが大きいのです。
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この回答へのお礼

「所詮は思想・哲学の表現」と申し上げたのは、私自身が芸術というものを
そう理解しているということと、

>音楽や芸術に親しむことで、人間について深く理解するきっかけがもたら
されるからです

と仰ったことから、私と同様に理解されていると思ったからです。

尚、所詮という言葉を辞書で引きますと、≪結局は、とか、つまるところ≫とあ
ります。ですから、「低く見る」というよくある用法は誤りだと思います。

歴史に残るような音楽・芸術作品には、その時代だけで終わらない高い普遍性
を持った思想性・哲学性がその基盤として備わっていると思っています。
そこが、人々に愛される一番の点であり、それは、クラシックであろうがアニメ
音楽であろうが同じはずです。

ただ、何のために作るのか、という目的観によって、同じ才能であっても出来栄
えは大きく違ってくるであろうとは思います。

世界的に評価されている、ある日本人アーチストの言葉をここで引用してみます。

≪フランスなどのアートを大切にしている国ではアートから哲学を読み取って自
分たちの生き方にしてゆこうという文化が根付いているのを感じます。
日本では普遍的なメッセージを表現しても理解されにくい。この点では、日本は
世界の中で特殊である。≫

日本では、芸術に対する理解が世界標準に届いていない、と言えるのではないで
しょうか?

あ、それから私の音楽などの鑑賞の仕方ですが、あくまで楽しんでいます。何度も
聴いているうちに「何故」が出てきます。そこではじめて考えるわけです。
映画はかなり考えて観ています。絵画などを観るときは、心をできるだけ開こうと
努力します。

お礼日時:2018/02/19 01:48

デュオニソス的なるものとアポロン的なるものとで、この問いの答えは変わってくるように思います。


デュオニソス的なるものは陶酔、崩しの美学であり、これがアポロン的なるものと掛け合わされると飛躍を生じてその芸術レベルが一段上がります。
アポロン的なるものはイデア的、定律の美学であり、これがデュオニソス的なるものに触れると瞬間の煌めきのようなものが発生し、その芸術に無二性が付与されるように思います。

洗練するのはアポロン的なるものの役目であり、豊かにするのはデュオニソス的なるものの役目であると思います。

この時、洗練されたり豊かにされたりする内面的なものは、人間の感性や技能という事になります。
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この回答へのお礼

むむ、このお答えが卓見であるのか、そうでないのかを判断することは
今の私の芸術に対する理解では、難しいようです。

いずれにしましても、興味深いご回答です。

また、無二性ということで、次のご質問にリンクがされているようです。

お礼日時:2018/02/18 23:21

1. 表現の問題として 芸術について考えます。



2. ひとの思いや振る舞い そのおこないのすべては 自己表現です。

2. まだその中身が何であるかが分からない場合にも 己れの内から
あはっ!とか おおっ!とかの声を表出したり または踊りだすなど体
の動きをも起こします。

3. この何らかの自己表出の起こるのを受けてひとは その意味を確
かめ 他人にも分かるようにおのれというものを表わすのが 自己表現
です。

4. 自己表現は 一般にこの世界にあって感覚としてや思いや考えと
して 経験的なものごとに対応するかたちで――さらには その内容を
なお合理的に整理して――相手と共有することが出来るようにおこなう。




5. それは 基本としてことばを用いて行なうことになる。経験合理
性――有るか無いか あるいは 原因と結果の関係などをめぐる人びと
に共通の物指し――にもとづき 思考と判断をととのえ 文(命題)と
して発表します。

6. この取り決めを重んじるかたちの自己表現に飽きたりそれを嫌が
ったりするときには 合理性の物指しも何ものぞと言って 想像力をた
くましくしいわゆる虚構の世界をもつくりあげます。




7. 合理性をやぶる想像の世界は それでも(つまり ウソであって
も)全体として現実性を表わし得ていると見られるなら 迎え入れられ
ます。

8. 言わば筋道をととのえる自己表現の世界に なおも初源の混沌と
した自己表出のウゴキが舞い戻って来たような恰好になります。

9. このウゴキを 言葉で虚構をつむぐ文学の行き方をも破って す
でに表現の手段をことばには限らずあらゆる感性にもうったえるものを
えらんで おこなうのが 芸術です。

10. あるいはつまり 基本として自己表現一般に属するとうったえ
るかたちで すでに表現の道具はいっさいの制約や禁忌からも自由にお
こなうのが 芸術です。



11. 芸術の創作やその鑑賞をとおしては まづ 人間の表現意欲が
合理性や常識〔としての取り決めによる規則や制約〕から解放されると
いう特性を――それが 嫌がられる場合をふくめて――ひとは味わうも
のと思われます。

12. あとは――というよりむろんこれが基本なのですが―― 美と
いう問題だと思われます。

13. 触れずに来ましたし ここはすでに端折りますが もし物指し
に合ったことばによる論理や倫理の自己表現が いわゆる真理や善を問
い求めそれらを目指しているとするならば 物指しから自由な芸術なる
自己表現は ことばから自由に特に感性において真理や善とおそらく一
体なるものを問い求めている。

14. それが 美であると考えられます。




15. ▲ 音楽や芸術を通して人間の内面が洗練される
☆ 音楽や芸術に接したあとの結果というのは――№9のりゅぱんさん
も触れておられますが―― いろんな場合があるのでは?

16. 哲学に触れて 論理性が洗練されるか? 文学に触れて創造性
が刺激され想像力がゆたかになるか? 芸術をとおして人間の内面が洗
練されるか?

17. なる場合もあり ならない場合もある。つまり特に変化はなか
った場合もある。(そうだとしても 内面のゆたかさは ふつう一般で
あり得ますが)。あるいは 余計にあらぬ方向へ想像力で脱線していく
場合もあれば 確かにきめ細かく綾なすような心のあり方が分かるよう
になる場合もある。

18. 芸術は 絵も音楽も好きですが さすがにずぶの素人ですから
以上の(15)からの議論は 感想を超えるほどの自信はありません。
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この回答へのお礼

>なる場合もあり ならない場合もある。つまり特に変化はなかった場合もある

芸術にも様々あり、鑑賞する側も色々、相性もあるでしょうからその通りでしょう。

お礼日時:2018/02/18 22:58

「洗練」と称すると、何か研ぎ澄まされるとか、純化されるようなイメージになります。


ダコールの発言の真意はわかりませんが、残念ながら私は、そこまで到達は出来ていません。
ただし、音楽や芸術には、人間の感性を豊かにする作用はあると思います。
ダコールほどになると、その豊かになったものを「洗練」出来るんでしょうね。
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この回答へのお礼

そうですね、「芸術による人間内面の洗練」などと言うと、とても
高尚で、凡人には理解できないようなイメージが生まれるのかも知
れませんが、私には次のような言葉を言える人格になること、では
ないかと思っています。

ご存じでしょうが…

「人間は空間と時間との領域の中に住むほかに、もう一つの住居を
持つ。自分の内面の王国の中に」

「人間の歴史は忍耐強く待っている。侮辱された人間が勝利するのを」

「愛が負けるなどということは事実としても、真理と認めるわけには
いかない」

お礼日時:2018/02/18 18:47

まず命題の解釈から始めます。


・「洗練」とは野蛮人が文明化することを言うことが多いようです。
・タゴールの頃、野蛮なインド人は、野蛮なインド文化で洗練されることは不可能で、英語圏の文化で洗練されなければならないという考え方があったようです。タゴールはこれに反対しました。
・タゴールは、インドの文化を英語圏に紹介することで、インドの文化も英語圏に劣っていないことを示しました。
・彼は、音楽や芸術なら、どんなものでも、洗練の作用があると言いたかったのではないでしょうか。

これに対して私がどう思うかを答えます。
・洗練されると思います。
・理由は、音楽や芸術に親しむことで、人間について深く理解するきっかけがもたらされるからです。
・つまり、人間の感情の機微や、日頃の問題などを、よりよく考える機会がもたらされます。
・これによって自分の限界を理解し、同時に、他人に対する気遣いができるのではないか。
・また自分の生き方を確固としたものと見定め、取捨選択ができるようになるのではないか。
・このような「自立した」人間を、私は洗練された人だと考えています。

もっとも全ては「洗練」の定義にかかっています。映画『マイ・フェアレディ』のように、英皇室のような発音で話すことが洗練であると定義するのなら、インド文化は役に立たないでしょう。

しかしここまで排他的ではありませんが、私自身は、正直なところ、サブカルチャーは苦手です。洗練されたもの同士がいたとして、お互いに尊重し合うことはあっても、深く理解し合えないこともあるとは、感じています。ラッパー、DJ、ゲーム音楽、アニメ音楽などの洗練は、正直、どこまでいっても、わからないと思っています。そういうカルチャーに親しんでいる人から、何かの気遣いをしてもらっても、私には理解できない気遣いとも感じます(気遣ってもらっていることは気がつくが、居心地が逆に悪くなる感じがします)。相手も同様のようです。私の気遣いについて「どう対応していいかわからない」という顔をしています。

洗練とは普遍的に共感を得られるものかどうか。同じ方向を向いているものかどうか。
こういう問題が新たに導かれるように思います。
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この回答へのお礼

なるほど。

>このような「自立した」人間を、私は洗練された人だと考えています

この定義はかなり賛成です。
一つ私なりの言葉を付け加えさせていただければ、「どんな立場に人に
も平等に価値をもたらそうとすること」と。

>人間について深く理解するきっかけがもたらされる

文学などではかなり直接的に表現は可能でしょうが、音楽や絵画などでは
間接的にではあっても、所詮は思想・哲学の表現である、ということでし
ょうか?

いわゆるサブカルチャーについては、私も実はほとんどのものが超低俗で
取るに足らないものであると考えています。
しかし、日本のアニメが世界的に評価されているのは、手塚治虫という人
物の影響であると思います。
アニメにもゲームにも高い思想性・哲学性を感じることが私にはあります。

むしろ、メインカルチャーと言われる分野において、権威性とか金銭的価
値に流される部分などは、私にとって苦手なものとなります。

お礼日時:2018/02/18 18:31

1.そう思いますか?


⇒そう思います。

2.ならば、音楽や芸術の何が、
⇒音楽や芸術の感動がです。

3.人間の内面の何を洗練すると言っているのだと思いますか?
⇒音楽や芸術の感動を論理的には説明できないでしょうね。

穏やかさが副交感神経を通して、免疫力を高める構造と同じだと思います。
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この回答へのお礼

音楽・芸術の持つ何ものかが、人間に「感動」を呼び起こし、
それが、人間の内面に作用してゆく、と。

確かに、こういったことを論理立てて説明するには、もっと明確な言葉が
いくつも作り出されなければ無理なのだろうとは思います。

お礼日時:2018/02/18 17:56

そうだと思いますねえ



音楽のリズムやハーモニーや面白さが芸術のように

人間の心の成長とか明るさ・悲しみ。旋律の規則性、秩序性とか構成が人の心が覚えるんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

音楽で言えば、「リズム」「メロディー」「ハーモニー」などが、
人間の心の中の何ものかと「共鳴」するということでしょうか?

お礼日時:2018/02/18 17:48

科学で探究心が養われる。


音楽や芸術に親しむことで感受性が養われる。
でも方向性を間違えると科学や化学は戦争の手段に使われる。
音楽や芸術は薬物に頼ることになる。
志があれば向上できるが、無ければ悪に染まる。
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この回答へのお礼

音楽や芸術の持つ何ものかが、人間の感受性を養う、と。

確かに、音楽・芸術とドラッグは距離が近いイメージはありますね。

お礼日時:2018/02/18 17:43

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