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「優しい人、正しい人が損をする世の中」と、よく言われますが…

それでも、優しい人でありたいと思ってしまうのはおかしいのでしょうか。
それとも、誰でもそのような理想は持っているのでしょうか?

実際、優しい人になるのは非常に難しい事で、私は本心から人の為に尽くせる事や、正しい行いをできる事は中々ありません。

偽善でも良いのでしょうか?

A 回答 (29件中11~20件)

意見を聞きたかっただけなので。

」←意見を聞いても 聞かなくても あなたが判断を下すのだから あなたの思ってる事に なるだけ・・

善とは何か?・・を 問う時に 本来の本当の善を知ってる人に 聞くしか無いのに
 真の善を知ってる人は このサイトには 俺の見た限り 僅か数人・・

あなたの この質問に 果たして
 その人達が回答するのか どうか?


回答したとしても あなたが それを 見つける
事は 恐らく出来ない
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その理論だと、「優しくない人、正しくない人が得をする」?



人や自分自身に疚しい生き方をしてどんな得をしているとしても、たかだか知れていますよ。そんな人は人から愛されないですし、本人も幸せを感じられているのか怪しいです。

「優しくも正しくもない」人間は、金や権力で人に無理矢理言うこと聞かせるしかありません。簡単とか難しいとかではなく、その道しか無いのです。
でも「優しく、正しく」ありたいと思っている限りは、あなたを見捨てる人はいません。私はそう思います。
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そもそもにして、何の目的で、または何のために「優しい人」や「正しい人」をやっていて、何を以て「損」や「得」とするかで全然違ってきます。


それに「得しなかった」ことを「損した」という人もいますしね。

他人の顔色伺って優しいことや正しいことをしようという信条の人にとっては、他者の損得に非常に敏感で、相手が優しさや正しさが足りないことで利益を得ていると、優しい人や正しい人が損をしていると言います。
おまけに得をした人をズルいなどと批難することもあります。

でも何かしらの信念があって、自身の思う優しさや正しさに忠実である人は、そもそも他者が優しさや正しさの足りなさで得た利益を「得」とも思いませんし、自分が「損」したとは思っていません。
何か手助けするにしろ、厚意の押し付けと思われてもいいくらいの覚悟はしてますし、むしろ「余計なお世話だったかな」などと思うこともあるくらいです。

厚意の押し付けかもと思って優しく正しくしている人と、偽善かも思って優しく正しくしている人は別物です。
他人に優しくしてあげたい人(自分が優しいと思われたいわけではない人)はいいですが、自分が優しい人でありたいと思ってやっている人は続かないですし、精神衛生上よろしくないと思います。
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未成年がいうのもなんですが


シンプルに難しく考えず
どんな性格であっても批判されます。
人気者でも容姿端麗でも不細工でも
秀才でも馬鹿でも怠惰でも真面目でも
優しさとは見返りを求めなければ善です。見返りを求めているから損だと感じます。勿論損だという人もいます。
褒められたいからやるとどの性格やってもしんどいです。人を貶める貧しい奴はいますから。
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自分の中で信念があって、それが人の為になるなら素晴らしい事ですが、他人の顔色をうかがって生きるようなら、何もならないと思いますがね。

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世間には 怠惰と勤勉とガリ勉とがいます。



それぞれに〔ひとの意志や心またその自由を踏みにじるような〕悪質の
場合もあります。

悪質の場合は 三者それぞれが互いにどうも共鳴するかのようです。



そのように配置されている世の中では ひとつに《〈情況の法則〉にし
たがう》という行き方が 考えられます。

そして 大原則は わたしがわたしであるというその掛け替えのない大
切なわたしを どうまもり・どう活かすかでしょう。

これが――情況に合わせ情況をあたらしいより良いステージに導くため
に採る選択に際して――われわれに課された判断の中身です。





人間の中には 極悪非道なる人間をも――そのひとの《わたしがわたし
である》自己をよみがえらせ活かす道に就くようにと心を配って――見
捨てず あたかもそのひとの一生をも成るべきところでは成るべきよう
にと願い〔傍らからながら〕引き受けるという道をえらぶ場合もありま
す。

悪をも引き受け自分も悪をかぶるという生き方です。泥の中に蓮の花を
咲かせるという強い信念の場合です。


つまり 情況の中にあって いろんな選択肢があります。人間の心はそ
れほど広大です。また深遠です。


いづれの選択をするにしても わたしがわたしである道を行きたいとは
思いますが どうでしょう。


もっと自由に もっともっともっと自由に。
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優しい人や正しい人がい損をするという判断をするのは世間。


世間というもの自体はとても曖昧な存在で判断基準もありません

だからわかりやすく、正しい経済活動をしてお金を稼いで、それを寄付した人のようなものが評価しやすい。

優しさや正しさはお金に変わりづらいので「損」という事になるのでしょう。

たくさんの「ありがとう」を貰って人にお金が集まれば、徳をするという評価になるでしょう。
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優しい心や正しい心はDNAにもあるでしょうし、親の躾にもある筈です



しかしDNAにも親の躾にもそう言うのがあまりない子供もいます

大人になって改心する人が多いですが 

「夕焼け」と言う詩に 優しい心の持ち主は 知らず知らず・・・になってしまう。

と言う一文がありましたが。そう言う優しい心が多くの人を救って来たのだと思います

しかしその見返りはあまりありません サンキュー くらいでしょう。

情けは人の為ならずと言いますが 情に掉させば流されます。

自分でそう言う信条を持ってそう在るのはいいと思います。

しかし見返りはあまりありません。慈善事業です。個人で慈善事業をやってう様なものです。

そういう人が集まれば心から笑い合えるでしょうねえ。

宗教が元はそういうものだったのでしょうけど 今の宗教は教義が古すぎて疑問が出ます。
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優しい、正しいって誰が判断するんですか?

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この回答へのお礼

世間

お礼日時:2019/03/27 19:31

「優しい人、正しい人が損をする世の中」と、よく言われますが…


それでも、優しい人でありたいと思ってしまうのはおかしいのでしょうか。
 ↑
おかしくありません。
正常な人間なら、それが当たり前です。

英国のエレーヌ・フォックス教授(オックスフォード大学・
感情神経科学センター代表)、ケヴィン・ダットン博士
(心理学者・サイコパス専門)
らの研究によると、大企業の役員とか歴史の英雄には
サイコパスが多いそうです。
特に、歴史の英雄などのほとんどはサイコパス。

冷酷な方が得するのです。



それとも、誰でもそのような理想は持っているのでしょうか?
 ↑
健常者ならもっていると思います。



実際、優しい人になるのは非常に難しい事で、
私は本心から人の為に尽くせる事や、正しい行いをできる事は中々ありません。
偽善でも良いのでしょうか?
 ↑
偽善で良いと思います。
生物学的に言えば、人間という動物も、所詮は
自分が可愛いのです。
利己的なのです。
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