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1. ものごとのよしあしは ヤマシサ反応をとおして知ります。

2. すでに定義した恰好で表現しますが ちょっとよからぬことを思ったりすれば胸の高鳴りが起きます。さらにこれを実行しようとするなら 顔は赤くなったり青くなったり 冷や汗を搔き舌はしどろもどろになります。

3. こういった〔生理的なとも言える〕感覚の反応が ヤマシサ反応です。

4. そこでは さらに恥づかしさを覚えますし その感覚だけではなく 恥ぢという観念でも意識し良心の呵責をおぼえます。

5. このようにヤマシサ反応から恥ぢの意識に足るまでの感覚および知性のウゴキを基準として捉えるなら そのとき心に思ったことや実行しようとしたことは 《よくない》ことだと規定できると思われます。

6. よいことに対して その負の状態を――なぜなら ヤマシサ反応を起こしたときには 生まれつきそなわった自然本性のふつうに自然な状態がゆがみ傷つけられると気づくからですが この《よいについてのマイナスの状態》を――《あしきこと または わるいこと》とよぶのだと見ます。

7. よしあしは 簡単に 善悪ともよぶようになっています。かさねて言えば 善から独立した悪という何ものかが存在しはたらくというものではないと考えます。



     *



8. ひとはなぜ よからぬことを考えたりするのか?

9. ものが ふと曲がるがごとく ひとは・その心は ふと寄り道をする。道の横に入る。ふと へそを曲げる。

10. 道草を喰っているとき むしろその心のゆとりゆえに 赤子のときから親しんできた自然本性の自然な状態から ふと逸れる。離れる。逸れたい・離れてみようかと思う。

11. 自然本性という善が あくまでうつろいゆかざるを得ない相対的なチカラとしてあり さらには存在じたいが 朽ちるべきものとしてあるところから その善のあり方に挑戦したいと思うようになる。

12. 自然本性なる善は いったいどこまで善なのか? これをたしかめてみたいと考える。じっさいにやってみる。善に対して その反対のことを思い浮かべる。マイナスとなることをやってみたくなる。

13. ひかりも曲がると思ったからかどうか。

14. これらは 基本として ウソ・イツハリの問題だと思われる。ホントウが プラスで ウソがマイナスだ。


15. マイナスは プラスを基にしてあらわれる。



☆ お考えをどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • 16. 《へび》ないしサタン・悪魔といったものは 善とそのマイナス状態である悪とについて分かりやすく説明するために脚色された物語に過ぎない。哲学ではなく 文学である。

      補足日時:2022/10/05 03:33

A 回答 (2件)

善は うつろいゆかざるを得ない・・


悪も同じですよ

何故ならば善悪の問題は 一面からみれば、相対的なものにすぎないからです
時代によって、善悪の価値が入れ替わる場合もある
場所により、属する集団や組織により、善悪の価値観が異なる場合もある
善悪の判断は、公式的に原理や規範として定立できるものではなく、流動的な現実のなかで、そのつど起こってくる問題との関連で選択する以外にない、例えば、悪人でも大悪に反対すれば善人になる、善人でも大善に反対すれば悪人になる、すなわち善悪とは相対的な概念なのです。

この問題の答えの鍵として、デカルトが、いっさいの真理を判定する基準として、思索を重ねた末、すべてを疑っても、今それを疑い思索している自分が存在しているということは疑えない。この″考える自分″こそ、すべての真理を断定する出発点であり基準である、としたことを思い出します。
 つまり、善と悪との判定基準の基盤は、生きているこの人間の生命にあり、そして、すべての人はより幸福な生活を求めて、必死の努力をしているということです。もちろん、この場合、幸福を求めているのは自分も同じですが、善悪の判断基準というのは、自分がどう行動するかということですから、自分の幸福ということは、本然的なものであって、あえて、善悪の基準として論ずるまでもないことです。
 したがって、他のすべての人がより幸福を求めているということの認識が、善悪の判定の出発点になります。すなわち、他の人の生命を守り、そのより大なる幸福のために助け、貢献していくことこそ″善″であり、その反対は″悪″になるのです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 善は うつろいゆかざるを得ない・・
悪も同じですよ
☆ ですから 両者は互いに独立したもの(こと)ではなく 悪は 善の関数だと言っています。


★ 何故ならば善悪の問題は 一面からみれば、相対的なものにすぎないからです
☆ 基本として 程度問題なんでしょう。

★ 時代によって、善悪の価値が入れ替わる場合もある
☆ それは わが主観にあってヤマシサ反応が起こるかどうかによる善悪の判定という基礎から いろんな人びととの関係においてさまざまな思わくのもとにおこなわれた意志行為が 一般にどうみられるか。――こういった局面ないし情況へと 善悪問題が展開し移行しているかと思います。

復讐という主題ひとつ採っても 複雑です。主観内のヤマシサ反応に逆らってでも 遂げたいという感情もが 生じている場合があります。



★ 場所により、属する集団や組織により、善悪の価値観が異なる場合もある
善悪の判断は、公式的に原理や規範として定立できるものではなく、流動的な現実のなかで、そのつど起こってくる問題との関連で選択する以外にない、
☆ ですから ひとりの人間を捉えてその主観内に起きるヤマシサ反応を基準としています。

★ 例えば、悪人でも大悪に反対すれば善人になる、善人でも大善に反対すれば悪人になる、すなわち善悪とは相対的な概念なのです。
☆ その場合は 個別の事項について だいたい決まっていて そのことに別の事項がからまってくるといった事例でしょう。


★ デカルト・・・
☆ 主観としての明晰性。これは ウソです。ヤマシサ反応のごとく ほかの人たちにおいても同じ経験があるということにはならないからです。

主観は 主観としてのみ とうとい――というだけのことです。


★ ・・・
したがって、他のすべての人がより幸福を求めているということの認識が、善悪の判定の出発点になります。
☆ その具体的な基準が ヤマシサ反応です。


★ すなわち、他の人の生命を守り、そのより大なる幸福のために助け、貢献していくことこそ″善″であり、その反対は″悪″になるのです
☆ 《いのちを守る》という場合は 医者でなければ さほど多い事例ではありません。そして:
★ 幸福のために
☆ という規定は 基準としてあいまいです。哲学として潤滑油ていどです。

お礼日時:2022/10/02 08:45

それもまた一つの真理ですね

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