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1. 悪は存在しない。

2. 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

3. つまり 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としての確かに意志行為であり現象を言う。

4. 善が――相対的で移ろいゆかざるをえない状態であるゆえ ふと曲がり――善を傷つけるのだ。

☆ この問いを あらためて問います。
 

☆ たたき台を あらためてさらにおぎないます。
 
5. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつはりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

6. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせ(エートス)となれば 善が損傷を受け欠けていきます。

7. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくとき現われるに過ぎないという考え方です。善の関数です。

8. 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。

9. ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。

10. 善が善を傷つける。道草を喰っているとき よからぬ思いや考えがふと浮かぶのだと思われます。

質問者からの補足コメント

  • ★ 善悪は集団社会を維持するための基本的な約束事に伴う評価に過ぎません
    つまり善悪は人の都合による人が編み出した評価

    ☆ 評価すべき人間の意志行為が現象しています。

    これの評価に際して:
    ★ 集団社会を維持するための基本的な約束事
    ☆ が 黙契やナラハシとしてにしろあるいは時に禁止・処罰の対象として法律においてにしろ 成り立っています。

    そのとき 《悪》という評価が成されたなら その《約束事》においてその定義や善との関係における位置づけも すでに出来ているはずです。

    さて この質問では 《悪は 善と同じ実在としては 存在していない。なぜなら 善の関数であるから》という仮説を示して これをめぐるご見解を問うています。

      補足日時:2023/01/07 03:53
  • 山田荘一元主任の振る舞いは 悪なのか? 

    悪でも善でもなくものごとの良し悪しは あいまいなのだ・・・ということか?

    その答えも あいまいに済ますの?


    ぢゃあ これまで百回千回とののしってきた叫びは いったい何だったの?

    No.31の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/01/07 05:30
  • №46へのお礼欄 (入力できなくなっている)

    ご回答をありがとうございます。


    ええ。善を傷つける意志行為または現象として《存在する》と言ってよいと思います。

    ただし――ただしです――この善を傷つけるのは やっぱり善なのだという仮説なんです。

    善のまどろみ・うたたね・寝ぼけ・道草・油断・さまよい・隠し事・ひねくれ・へそ曲がり・いけないあそび・暴走・・・といったふうに あくまで善から出るという見方です。


    なぜなら もし善と悪とが互いに同等・対等に存在するとしたら それぞれが自由に街を大手を振って歩いていることになる。あたかも平和裏に共存しているかっこうになる。善が悪に対して おまえ度が過ぎるぞ! といった咎めを出すことなんて ありえなくなる。

    そんなバカな! ではないですか? どうでしょう。

      補足日時:2023/01/07 16:02
  • №53つづき

    ◆ ⑧ 国家転覆
    ☆ って何のこっちゃ?

    ◆ 犯罪集団(創価学会、公明党、自民党
    ☆ ユヅリ愛を信条とする日本市民は こういった決めつけ表現をつつしむものです。

    ◆ 自公政権を批判したり、テロ犯罪をやめるよう声をあげると、政治的圧力をかけ、警察などを動かして弾圧をしているから、中国やロシアと変わらないのでは。
    ☆ 人間(現実)が変わるしかない。形としては インタムライズムへ。

    ◆ カルトや与党は、・・・国民を煽って犯行に加担させているのですから、テロ政権と認定されるべき存在です。
    ☆ お二階さんは たましいの神格化なるアマアガリ・シンドローム。一階の中からも アマテラス予備軍症候群が出る。

    ◆ ・・・日本は真っ二つに割れ、日本終了の引き金になるでしょう。
    ☆ どうでしょう。

    ◆ ⑨ ・・・間もなく始まるロシアや中国を中心とした世界的政治 / ⑩
    ☆ ははあーん。

    No.53の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/01/08 05:46

A 回答 (52件中51~52件)

此の世に惡が存在しえないという境地は、



汝の敵を愛せ



変貌無い境地です。

人間の境地とは思えにくいですが。

その人の世界観の問題ですからね。
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この回答へのお礼

いいえ。善が善を傷つけるのです。

善と同等と言えるような状態ないしチカラとして悪が 善から独立して実在する・・・のではないと仮説しています。



善を傷つけるのは 同じ善であると。

善が ふと曲がる。クリナメン。その結果 なぜか おのれの善を傷つける。


ただし このとき必ず〔おそらく天与の〕良心というハタラキが控えていて そのひねくれた善の為すことについて ヤマシサ反応をもって応えます。

前提していた主観として・主観においてなのですが しかもこの主観のハタラキは およそじんるいに共通しているという――後付けではあるのですが――定理が みちびかれます。

これが 客観的な《負の善 すなわち 悪》です。


この善悪観は ひとの境地とは関係なく成り立つものでしょう。

お礼日時:2023/01/06 10:26

お早うございます。



主観的な惡は存在ます。例えば、悪い人など。

ですが。

客観的な惡とは、徳を基軸にするならば、確かに悪徳行為はあります。

悪徳行為を犯す人間の痛みを司法は汲み取らないので、抑々、人間社会が律法社会で済まず、立法主義であることに人間社会の不完全さを偲ぶ訳ですね。
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この回答へのお礼

おはよう。ご回答をありがとうございます。


★ 主観的な惡は存在ます。例えば、悪い人など。
☆ ですから 仮説としては――主観の問題であることは 同じく前提ですが―― 善の傷つけ人というのが 実在しており これを別の(一語としての)言葉で 悪または悪人と表現する。こういったかまえです。



★ 客観的な惡とは、徳を基軸にするならば、確かに悪徳行為はあります。
☆ 徳の定義が 先立ちますね。


★ 悪徳行為を犯す人間の痛みを司法は汲み取らないので、抑々、人間社会が律法社会で済まず、立法主義であることに人間社会の不完全さを偲ぶ訳ですね。
☆ でも 善智識(友)が心の中を思いやって助言をすることがあります。

お礼日時:2023/01/06 10:19
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