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新約聖書におけるイエスの言動で、「え?」と思うことってあります?慈悲深きイエスが何故こんなこと言うのかな?って思うようなことです。

A 回答 (6件)

 例えばヨハネ福音書2.15では、縄で鞭を作って過越祭の準備をしていた人たちを叩き出していますね。

当たり前ですが、こういう実力行使も当時の新興宗教の布教(本人は宗教改革と思っていたのかもしれません)のためには必要だったのでしょう。

 ちなみに、「慈悲深い」というコンセプトはキリスト教の本質ではありませんよ。それはむしろ仏教の根幹を成すものです。

 もちろん慈悲深い面もあります。それがゼロでは人口に膾炙しませんから、そういう面が巧みに前面に打ち出されてもいます。しかし、キリスト教の本質は予定説です。人間の意志や思いや行動とは全く無関係に、予め神の立てた予定の下に救済される者は救済されて救済されない者は救済される、というコンセプトです。
 予定説と通俗的な慈悲や道徳がバッティングしたら、予定説が優先されます。その辺の論理性は、ギリシア哲学の影響の大きかったローマで発生しただけあって、明確なものです。
 例えば、生まれつきの盲人を治療するエピソードがあります。ヨハネ9.3で、イエスはその人が盲人であることを「神の業が現れるため」と言っている話です。要するに、その人の人生はイエスが奇跡をアピールするためだけにあると言っているわけですね。素朴な道徳観からすると、奇跡のアピールをするためにその人は生まれてからイエスに会うまでの不自由な生活を神によって強いられたのか、となります。

 もっとも、予定説が本質だということは、あまり人々に、ひどいことに信者や聖職者にすら理解されていないという困った事態があります。

 余談ですが、本当に生まれながらの盲人が急に視覚を得た場合、すぐに視覚を使って環境認識をすることはできません。それなりの時間をかけて網膜に映るパターンを意味解釈する回路を脳内に作る必要があります。普通の人は赤ん坊の時期にそれをやっているので気づきませんし、2000年前のヨハネの時代にそんなことは分かっていませんから、このエピソードが作り話か演出であることが分かります。
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この回答へのお礼

興味深いエピソードとご意見、ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2005/10/18 21:05

新約聖書は一冊の本ではありません。

またイエスキリスト自身が記述したものでもありません。そのために、各福音書や書簡は、時代やそれを書いた弟子または孫弟子などなどの立場によってイエス像が異なっています。

おそらくこれらの新約聖書文書群がテキストとして用いたイエス言行録のようなものが当時存在したと推定されていますが、それもイエスの周囲にいた人たちがそれぞれの立場で見聞きしたイエスの言行の寄せ集めです。

こうした新約聖書を通して感じたイエスキリストに対する個人的な印象ですが、

1.イエスはユダヤ教において、教徒と神を直接結びつける運動を行っていた(キリスト教におけるプロテスタント的活動)。
2.従ってユダヤ教のサドカイ派やパリサイ派を徹底的に否定していた。神の意志を妨げる存在として捉えていた。
3.現世的な利益を否定し、信仰を形而上的な世界に限定していた。従って対ローマに対しては現世的に中立の立場を取っていた。

イエスの言行で、厳格な姿勢が垣間見えるのは、パリサイ派やサドカイ派に対してです。また、周囲の人間が現世的な利益を望んだ時です。現世に絶望した人々に対して、とても優しく包みこむような態度で接していて、同じ人なのかと思ってしまうのは、上記の1.~3.と言う基本姿勢から来ているのだと思います。
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相手が誰なのか?これによりますね


罪びとには私のところに来なさいと・・・
日頃仲間はずれにされていたりしている人たちには
イエスは声をかけ、あなたの家で食事しましょうという箇所もあります
http://www.jhcs2.org/doich/messge/05nen4g3.htm
そしてあなたがたぶん読まれている所で
相手はローマ人や律法学者じゃないかな
彼らはへりくだりがなく、偽善者と呼ばれていますね
下を参考に
信仰というものは行いではなく信じるもの
マルコ12章41~44節やルカによる福音書、第6章 6節-11節を読んでいただければご理解できると思います
http://www.h3.dion.ne.jp/~y-church/20020113.htm

参考URL:http://hajimac.qee.jp/mark018.htm
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 イエスはアナーキーですし、人生に対して結構厳しい目を持っているので何を言ったとしても特に驚く事はありませんね。


それに当時のイスラエルと現在の日本では多くの物が違いますし、そもそもイエスの話を聞いた人が書いたに過ぎませんから正確かどうかの保証もありません。

 キリスト教を無視すれば凡そイエスの教えは人に強烈な覚悟を強いる事になります。それこそがイエスの慈悲でしょう。
「地の塩、世の光たれ」などは多くの人には理解できないかも知れません。
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こんばんは。


聖書違いですし、きっと色々と専門的な解釈があると思いますが、旧約聖書の冒頭に「我々に似せて人を作ろう」とかって表現ありませんでしたっけ?
読んだ時のいきなりの違和感は今も覚えてますが・・・記憶違いも否定できなくて。
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手許に資料がないのでうろ覚えでしかないのですが、海外の作家が聖書の矛盾を指摘した本があります。



例えばアダムとエバが食べたのはリンゴなどとは書かれていないとか、十戒のモーゼは大量殺人を犯しているとか、
イエスが12月25日に生まれたなどと何処にも書かれていないとか、イエスも「私は救うために来たのではない」とか何とか云っているというような内容です。

結局聞いたとか映画で見たとかでしか知らないのを聖書そのものを読まずに思い込んでるだけだと言う事らしいです。
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