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「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中81~90件)

No17です。

脳は肉体の一部ですが、神経系のはたらきである意識というのは肉体のほかの部分からの情報から独立しています。独立しているからこそ肉体からの感覚情報などを認識出来るのだと思います。これと並行的に意識は自分が肉体と繋がっている事自体は感覚の入り口としての肉体と繋がっている事が納得できないのでは無いでしょうか。解剖学的には脳は他の部分と繋がっていることと意識が肉体から分離しているように認識する事とは、別に矛盾する事ではないと思います。又意識という認識主体は自分のことだけは認識できないというようなこともあるのでは無いでしょうか。
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この回答へのお礼

わかりました。ご回答どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/11/29 00:23

#20です。

インスタントラーメン(スーパーカップ鶏がらしょうゆ味)の遅い昼食を食べながらご返事を拝見しました。
私は殆んどと言っていいぐらいしょうゆ味です。いつもは焼き海苔を2枚乗せるのですが今日は忘れました。そう言えば湯がいたほうれん草もあった・・・。
ご質問の意図をあまり理解していないかもしれない回答に対しての丁寧なご返事に感激しております。
ま、いい年をしたおやじに感激されても嬉しくもなんともないでしょうが・・・。

【>「私にとって、この世界が見える」現象は、物質だけでは実現できないということを示しているのかどうか】
そう思います。
kobareroさんがおっしゃる意味での「この世界が見える」ということは可能だと思います。
ただ「私にとって」という場合、『「私」と認識する対象が何か』ということが問題になるような気がします。

「A」は「私にとって、この世界が見える」と思うし、Aのクローンも「私にとって、この世界が見える」と思うでしょう。
しかも、「(脳も含めた)完璧なクローン」であれば、ある一匹の猫を「A」と「同じように見ること」は可能だと思います。
しかし【私にとって】と言う場合、その対象は「AにとってはA」であり、「Aのクローンにとっては再生されたA」です。

「A」と「再生されたA」は別人です。
ただ、再生された瞬間は「ほぼ同じ人間」と言っていいでしょう。
(「ほぼ」というのは「再生された方か、原型か」の違いです。)
その時「再生されたA」が見る猫は、もし同じ条件(同じ日時、同じ角度からなど)でAが見たとしたら(実際には不可能ですが)と仮定した場合と同じような猫に見えるのは確かでしょう。
しかし猫を見たのは「私」と「再生された私」という、それぞれ独立した個人なので二重に見えることはないでしょう。

まとめると「世界が見える」という現象は物質だけで実現できるが、「私にとって」と条件が加わった段階で唯一無二の現象になる。
さらに、見えると意識するだけでも肉体という物質が必要なのであるから、意識はあくまで肉体から派生したものであり肉体が滅びると同時に滅びることは容易に想像できる。

『>私にとって「この世界が見える」ための条件』は物質以外に何が必要かということになれば、「私」という、どのような局面においても一個より存在できない【独自性】であるように思います。
「見ている」という意識(感覚)がなければ見ていることにならないのは、オートタイマーのカメラが被写体を見ているわけではないのと似ているかもしれません。
まとまりない文で失礼しました。

この回答への補足

hakobuluさん、ご回答ありがとうございます。
今、夜中ですが、「スーパーカップ鶏がらしょうゆ味」の字をを見たら俄然食べたくなりました。最近は、ファミレス外食が多くて、貧しい食生活を送っています。先週「私の中の消しゴム」を見てきました。記憶が徐々に消えていき、好きな彼氏の顔も忘れてしまうという悲しい話でした。人間の意識や記憶の不思議さを感じました。

さて、ご回答いただいた件ですが、やっと(?)質問と回答の歯車がきっちり合いました。私もhakobuluさんと同じ認識です。回答の最後の方で、<「私」という、どのような局面においても一個より存在できない【独自性】>と書かれていたので、これについて、もう少し考えてみました。

話をできるだけ公式化できるように、記号を使ってみました。思考の段階に応じて、以下の(1)、(2)、(3)を考えました。まず、(1)ですが、これは、とりあえず、身体だけに注目して、「私の5歳のときの身体」、「私の30歳のときの身体」、「私の30歳のときのクローンの身体」に、それぞれ識別番号A1,A2,A3を付けただけです。また、(1)の身体には、それぞれ、意識がありますから、この意識の識別番号を追加したのが、(2)です。A1(P1)という表記は、通常の数学の関数の意味ではなく、身体がA1で、その意識がP1という意味です。

(1)<身体>の識別記号
私の5歳のときの身体:A1
私の30歳のときの身体:A2
私の30歳のときのクローンの身体:A3

(2)<身体+意識>の識別記号
私の5歳のときの身体+意識:A1(P1)
私の30歳のときの身体+意識:A2(P2)
私の30歳のときの身体+意識:A3(P3)

このように、一応(2)の段階まで考えてみたのですが、ここで、一つの疑問がわきました。それは、以下の通りです。

(2)の表現だと、「5歳の私」と「30歳の私」は、全く共通性のない意識P1と意識P2を持つことになります。これは、記憶や思考や感情については問題ないのですが、「私は5歳でも30歳でも同じ私だし、一貫してこの世界が見えると感じる」部分があるはずだと思いました。すなわち、意識の中には、可変な部分(P1、P2、P3)と不変な部分(Z1、Z2)があるのではないかと考えました。それで、その考えを組み込んだのが(3)です。(3)でわかるように、「5歳の私」と「30歳の私」の間では、不変意識がZ1が共通になっています(このZ1が、hakobuluさんの言う【独自性】になると思います。)が、「30歳の私」と「30歳の私のクローン」とは、不変意識が共通ではありません。

(3)<身体+可変意識+不変意識>の識別記号
私の5歳のときの身体+可変意識+不変意識:A1(P1、Z1)
私の30歳のときの身体+可変意識+不変意識:A2(P2、Z1)
私の30歳のときの身体+可変意識+不変意識:A3(P3、Z2)

だから何なんだ? といわれると困るんですが、とりあえず、2つ疑問があります。

疑問1: 身体を見ると、A1とA2の差異の方が、A2とA3の差異に比べて、圧倒的に大きいはずですよね。それにも関わらず、A2にとって、A1は「私」だけど、A3は「良く似た他人」に過ぎないというのが、何だか不思議な感じがします。結局、自分が自分であるためには、身体はそんなに重要な意味を持っていないと考えて良いのかという疑問です。それとも、身体(多分の脳の中)のある特定部位だけが不変性を保っているために、同じ私という意識を持てるのかなという感じもします。

疑問2: いずれにしても、A1とA2の間(すなわち自分自身の5歳時と30歳時の間)には、共通意識Z1があるので、同じ私という意識が持てるわけですが、そのZ1をA3に持たせることは不可能なのかという疑問です。無理に可能性を考えるとすると、Z1を生み出している脳の特定部位をコピーして(そんなことが可能かどうかは別として)A3の脳に上書きするということになるかと思います。そうすると、A3(P3、Z2)は、A3(P3、Z1)に変わるので、A1,A2,A3全部が同じ私の意識を持てるということになってしまいますが、何か変かなぁー。

今日は、こんなところなんですが、もし、何かコメントがあったら教えてください。

補足日時:2005/11/29 00:17
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追記します。


あなたの考えている同じと言うのには、二つの同じがあることを、きちんとあなたは整理すべきです。
同種性と同一性です。
あなたは自分の肉体とクローンの肉体を、同じ構成物質で作り上げれば同じ認識形式が得られるとお考えでしょう。それは同種性です。
次に自分の肉体がクローンの肉体とは、それが二つあると言うその事実によって異なり、それにより自分は自分、クローンはクローンだと区別を付けられるはずです。これが同一性です。
あなたは最初に
>ここからが、私は、よくわからなくなるのですが、「私にとって、この世界が見える」ために必要な脳の最低限の機能さえコピーできれば、「私にとって、この世界が見える」現象を実現(あるいは、再現)できてしまうのではないかと思うのですが、それは、おかしいのでしょうか?
と言って、同種性を評価しているにもかかわらず、その後に
>確かに、ここでも、やはり、クローンと同じ問題が発生してしまいます。すなわち、もし、コピーを作ると、二箇所で、「私にとって、この世界が見える」現象が発生してしまい、論理矛盾に陥るのです。
と言って、今度は同一性の評価をしています。これは別の議題ですよ。
同じ「同じ」と言う表現を使ったが故に起こったカテゴリー錯誤です。
これならわかりますか?同じ種類と同じものそのものは違いますよ。したがって論理矛盾などはじめから存在しないのです。
りんごの構成物質をいくらぴったり同じにしてコピーのりんごを作っても、オリジナルのりんごとコピーのりんごがあることには変わりないでしょ。
あとは先ほど私が書いた解答を読んで、同一性の評価は現代の哲学の利器を持ってしても無理だと言うことを理解してください。同一性がはっきりと分析なんかされたらノーベル賞モンですよ。
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この回答へのお礼

うーん。難しい話なんですね。同一性と同種性の話、リンゴの話とクローンの話、これらの関係がこんがらかって、さっぱりわからなくなってしまいました。私の頭の限界かも知れません。済みません。馬鹿な私は捨て置いてください。

たびたび、ご回答いただき恐縮です。

お礼日時:2005/11/28 10:25

批判的に受け取られるかもしれませんが、ご質問の内容は疑問と言うよりは妄想に近いものです。


煩悩に基づいています。

理性とは本来現実に従順な性格を持っており、自分自身の存在に疑問めいたことを持つことはありません。

世界を見るための条件とは、肉体ではなく心の再生です。煩悩を打ち払い完全な人間性を(仏性)取り戻すことです。
煩悩の原因は心の中の悪意によるもので、これは神経伝達物質の伝達異常として観察されます。
したがって肉体との関係は薄いです。
本来人間そのもの(仏)であるあなた自身は、煩悩に関わる宿命めいたものを持ち合わせておりません。
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この回答へのお礼

>ご質問の内容は疑問と言うよりは妄想に近いものです。煩悩に基づいています。

その通りでしょうね。納得です。正直言うと、もっとひどい妄想も持ってるんですが......。

>理性とは本来現実に従順な性格を持っており、自分自身の存在に疑問めいたことを持つことはありません。

すばらしいです! 理性を信じておられる方がいることを知ると安心します。

>本来人間そのもの(仏)であるあなた自身は、煩悩に関わる宿命めいたものを持ち合わせておりません。

ということは、救われる可能性があるということですよね!

ありがたいお言葉、誠にありがとうございました。

お礼日時:2005/11/28 10:08

『おっしゃっていることがあまりよく理解できませんでしたが要するに「答えが出るはずがないことが自明である質問」を私がしているということでしょうか』



お分かりじゃないですか。ですから
『スピリチュアル的なことを御考えなのでしょうか』
と申し上げたでしょ?
『要するに自我意識と、その出所、なわけですよね結局。』
とも申し上げました。
アンケートコーナーに行くのが妥当じゃないですか?それとも宗教的な回答を御求めで?

<注意>
 哲学は、ひとつの答えに結びつくことの難しいテーマです。哲学という分野の知識に関する質問をご投稿いただけますようお願いいたします。
 また、質問者と回答者、回答者同士での論争にならないよう、質問背景や質問意図、疑問点についてご説明を添えていただき、議論とならないようご配慮ください。

こういうトートロジーな質問が盛んなところを見ると相も変わらず、このコーナー、ヒマ人の暇つぶしサロンを任じさせられているようですな。
鯖も重たくなるばかり…
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この回答へのお礼

>鯖も重たくなるばかり…

わー、かっこいいですね。こんな言葉、私も使ってみたかったす。でも、私の場合は、その意味すらわかってないのですから、どうしようもないですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/28 09:51

それは考えても結論は出ませんよ。


カントいわくこの世界には物自体とわれわれの認識できる世界が存在しており、物自体、つまり神や宇宙の無限や霊魂などはわれわれの共通にもつ認識の対象外なのですよ?これ以上は客観的な物証や現象はどうあがいたって出るものではないのです。それを他の皆さんに回答を希望したって回答は出ませんよ?これはあなた自身が考えないと納得行かないものだし、あなた自身で考えるから初めて価値が出てくるもののはずです。
いいですか?肉体が私の認識を生んでいる。ここまでは科学である程度説明できます。電気信号が脳や神経系を通ることで人間が認識すると言うことはある程度実験の検証によってそれらしい現象が出ているからです。ではなぜ肉体が私の認識を生むのか。どうやってこれ以上先の事柄を検証するおつもりですか?そもそもこれ以上先があるかどうかも怪しいのですよ?電気信号や脳などの言葉が出た以上、これ以上先に進むことは物質界との縁を断ち切ることに他なりません。物質界の説明では不満なのでしょう?
>上記の3つの事実から、「私」にとって「この世界を見ることができる」ための条件は、「私」の肉体が生きた状態で、この世に存在することだと考えました。もう少し限定すると、「私」にとって「この世界を見ることができる」ための条件は、「私」の肉体がこの世に生まれ出ることが条件だと考えました。言い換えると、「私」の肉体以外の肉体、例えば、太田一郎さんの肉体、上田玲子さんの肉体、鈴木三郎さんの肉体がこの世に生み出されても、「私」にとって「この世界を見ること」はできないと考えました。(すでに肉体から認識までの自然現象的プロセスはあなたは承諾しています。)
>それで、質問ですが、「私」にとって「この世界を見ること」ができる肉体は、何故、今、私が着ているこの肉体でしかなかったのかということです。何故、太田一郎さんの肉体、上田玲子さんの肉体、鈴木三郎さんの肉体ではダメだったのかということです。「私」にとって、「私の肉体」と「他人の肉体」を区別するその違いは何かということです。
(ここであえて反復とも取れる質問をするということは、あなたが自然現象のプロセスに先立つものを求めていることに他なりません。あなたがこの前の文章でわれわれの生誕より過去や死より未来を求めていることが起因していると考えられます。そういう考えは嫌いじゃないですが。)
明らかに物質界の物質や原理に先立つ物を求めていますよね?だからと言ってじゃあ物質界以外の何を私たちは知りえているというのですか?知覚できていると言うのですか?あなたがそれを持っているとして他の人にどうやって知覚に基づき思考によって説明するおつもりですか?できないでしょう?できないんですよ。普通の人間の感覚、直感、思考のみを持ってしてはまず間違いなくできないのです。われわれはこの物質界と、せいぜい他にあったとして自分の心の中の精神界ぐらいしか体感していないのですから、これ以外の材料を求める行為はすでに哲学の領域を超えてます。ある意味神学や神秘学です。これはわかりますよね?われわれは体感できる証拠を元に推論を立ててある程度確からしい話を基に考えるというのは近代以降の哲学の土台です。これ以外の回答を求めるのは、人に質問できることではないですし、質問していい問題でもないです。他人の主観の領域侵犯です。さまざまな可能性が知りたいだけなら他の人間の話を聞いていただいても良いですが、その場合は相手の意見を根本から、「検証不可能である」と言うような発言は避けるべきだし(なぜなら検証不可能な話をあなたがはじめに要求しているからです)、そうでないとしても他人によりどころを見出せないか弱い意見なのですからあまり欠点を直接的に指摘すべきではありませんよ。その人だって不安になりながらわざわざあなたに打ち明けるわけですから。
それともまさか近代哲学の思考基盤そのものをご批判なさるおつもりですか?そんな方ではさすがに無いとは思いますが、だったら新しい論文を書いて自分の思考の方法序説からお書きください。話はそれからです。あなたの思考基盤がわれわれにはわからないのなら同じ土台で話すことはできませんから。
ちょっと失礼な言い方もあったでしょうが、それはそれだけあなたが近代哲学の立場から見て基礎的な、あまりに基礎的な話をしていたからです。そしてあなたがここに質問するほどこの問題がわからないのは、あるいはご自分は自分の胸の中でわかっているのかもしれませんが「人間には考えられないことだから」仕方のないことだし、そして私たち一同もおそらく一生涯わからんから安心していいと言うことです。後はご自分ひとりで道を進んでいただくしかないです。
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この回答へのお礼

おっしゃっていることを、十分理解できたかどうか、心もとないのですが、ていねいなご回答をいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/28 09:44

たびたびお邪魔します。


#16様への補足を拝見して、やっと質問の主旨が分かりました(汗。
魂の問題が絡んでいるんですね、道理で、意見が食い違います。
それにしても、最近、同じ質問に何度も答える羽目になり、すっかり粘着質のいやなおやじの役回りを演じてしまっています(地が出たのか)。

残念ながら私は「魂」一般的な意味で使われる意味として、また、実存在(何者にもよらずそれ自体で存在する物)としても、信じていませんので、以下を私の仮説としてか聞き流しください。

何かの本で読みうる憶えで、間違いがあるかもしれませんが、
赤ん坊の脳は、生後、まだまた成長します、これは、出産時に赤ん坊の頭が大きすぎると、産道との関係で母体の負担が掛かり過ぎる点を上手く避ける方法です。赤ん坊はある時期まで、脳を発達させ、三歳迄で大人並みのニューロンとシナプスを形成します。
問題は、その間に、一旦脳の中の細胞数を最大にして、じじょに不必要な細胞を死滅させて、大人の脳の原型を作ります。
これは、母国語の獲得時期と重なり、恐らくこの時期に、脳の中の「わたし」と言う構造が出来上がるのでは無いかと、推論します。
ですから、別の言い方をすれば「わたし」は「わたしの身体」の中に経験によって生まれる。と言いかえれると思います。

きっと、信じませんよね。相対で顔を見ながら話せば、妙な誤解は避けられるのですが、顔や表情は嘘をつきませんし、言葉だけのやり取りでは大変です、言葉足らずの回答でご迷惑をお掛けしました。失礼します。
PS前回回答の二・三ヶ月の赤ん坊は、三・四ヶ月の間違いでした。ゴメンナサイ
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この回答へのお礼

私もうる覚えなんですが、確か脳細胞って一回できると死ぬまで減る一方で、再生しないんですよね。もしかすると、そのことが、「私」の一貫性を保つ原因になっているのかも知れませんね。それで、ご回答いただいた内容ですが、私の肉体の成長過程、特に、私の脳の成長過程が、私の意識(”見える”も含めて)を生み出すのだ。と考えてよいですか? もし、そうだとすると、将来、今の私の脳と同じ脳が、どこかの母親の中にできたとすると、私の意識も再生されると考えられそうですね。ただ、現実には、全く同じ脳が出来る確率は限りなく低いので、まー、実際には起こりえない。そんなところでしょうか。

私は、心配性なので、つい、考えてしまうのですが、もし、将来、人体複製機が完成し、原子・分子のレベルまで、私と全く同じ脳を持った人間がコピー出来てしまったとすると、どうなるんでしょうか? 瓜二つの他人なら、それは一卵性双生児と同じようなものだと考え、それなりに対処できると思うのですが、もし、意識まで共有化してしまうとなると、私の見る世界は、本来の私が見る世界と、私のコピーが見る世界の二つの世界が、同時に二重写しで見えてしまいそうです。こんなことってあるんでしょうかね。

あっ、全然、話が違うんですが。私は、ずーっと、「うる覚え」という言葉を使っていたんですが、先日、gooを見ていたら、それは「うろ覚え」の間違いだと初めて気づきました。fishbowl66さんも、やはり、「うる覚え」と書いておられるので、もしかしたら、私と同類ではないかと思い、余計なことですが、ちょっと書かせていただきました。

それから、#4で、ベルグソンの話として、「物質である知覚に精神である記憶が重なる事により「私」独自の「世界が見える」」と説明しています。と書かれていますが、ベルグソンが物質以外の精神の話をしているということは、知りませんでした。大変興味がありますので、勉強してみたいと思います。

どうも、色々ヒントをいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/28 09:37

#19です。

ご返事ありがとうございます。
(1)「私」というのは、現在ある「私の肉体」のみ【持つことが可能な認識】ではないかと思うということです。
(2)>逆に「私」の認識は「私の肉体」が再生されれば、再び、生まれると思いますか?
ここが大きな認識の違いだと思います。
私は、厳密な意味での「生命体の完全なる再生」はあり得ないと思います。
確かに「肉体の再生」は可能かもしれません。
しかし、ここで言うところの「見る」という行為が「単純な見る」ではなく、「視認したものに対してある見解を想起する」という意味を含んでのものであるならば、「肉体の再生」によって得られるのは「視認した」というところまででしょう。
「『同じ』見解を想起する」ことに関しては不可能なはずです。

同様に「私の肉体」が再生されたとしても、「『同じ』認識が再生される」ことは無いと思います。
なぜならば、一度滅んだ「私」はたとえ「同じ肉体」が再生できたとしても、「再生された」という動かし難い歴史はその精神に刻まれますから「(元の)私の完全なる再生」とは言えなくなるからです。

答えとしては「似たような認識は再び生まれるでしょうが、『全く』同じ認識にはなり得ない。」ということになります。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。せっかくご回答いただいたのですが、「視認した」とかの言葉を含む文は、私には抽象度が高すぎて理解できませんでした(頭が悪くて済みません)。私の質問は、具体的な感覚に関する疑問なので、以下で、もう少し具体的に詰めた形で表現してみたいと思います。hakobuluさんがおっしゃっていることは、以下の6,7に関連することのように思います。

1.この世界の現象には、全て原因があると考えられます。
2.「私にとって、この世界が見える」という現象にも原因があると考えられます。
3.その原因は、「私の肉体の存在」であると考えられます。でも、私の肉体の全てが必要なわけではなさそうです。
4.将来、人工臓器が発達して、私の肉体のどの部分でも、人工臓器に置き換えられると仮定すると、「私にとって、この世界が見える」ために、どうしても置き換え不可能な臓器は何かと考えてみると、手足や首から下の臓器は置き換えても問題なさそうです。また、眼球も、光を電気信号に変換するだけですから、置き換え可能と思われます。
5.結局、脳が問題になりそうです。でも、脳の全てが必要ではなさそうです。
6.脳をさらに機能分割できると仮定してみます。例えば、記憶機能を置き換えるとどうでしょうか? 確かに、自分の過去の経験に変更が起きてしまったり、忘れてしまったりするかも知れませんが、「私にとって、この世界が見える」という現象は依然として残ると思われます。実際、記憶喪失症でも、「私にとって、この世界が見える」という現象は維持されています。
7.以上のように考えると、「私にとって、この世界が見える」ために必要な条件は、脳の中のある一部(あるいは、脳の中のある一部の機能)ということになると思います。

ここからが、私は、よくわからなくなるのですが、「私にとって、この世界が見える」ために必要な脳の最低限の機能さえコピーできれば、「私にとって、この世界が見える」現象を実現(あるいは、再現)できてしまうのではないかと思うのですが、それは、おかしいのでしょうか? 確かに、ここでも、やはり、クローンと同じ問題が発生してしまいます。すなわち、もし、コピーを作ると、二箇所で、「私にとって、この世界が見える」現象が発生してしまい、論理矛盾に陥るのです。

この矛盾は、結局、「私にとって、この世界が見える」現象は、物質だけでは実現できないということを示しているのかどうか、そこが、よくわからないのです。hakobuluさんは、どのようにお考えですか?

補足日時:2005/11/27 23:31
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#18です。


#17さんへのお礼を拝見させてもらいました。

>「私」と「私の肉体」を関連付けた条件は何だったのか、ということでした。
「私」というのは、現在ある「私の肉体」のみが持つことを許される認識ではないでしょうか。
クローン本人が「私」という認識を持ったとしても、それは客観的に見れば「クローンとしての私」という認識にすぎません。
クローンとしての個性は持ちえますが、決して「私自身」にはなりえないと思います。
「私」という認識は肉体が滅びると共に消え去ります。
精神あるいは心が残るという考え方もあるでしょうが、そしてそれを否定するわけではありませんが、それはすでに「私の心」ではないでしょう。
【他者が認識する】「私であった者の心」ということになるのだと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>「私」というのは、現在ある「私の肉体」のみが持つことを許される認識ではないでしょうか。

「持つことを許される」という表現は、面白いですね。「許す」の「主語」は何でしょうか? 生物学の原理【が】、許すのでしょうか? それとも、自然の摂理【が】、許すのでしょうか? 

>「私」という認識は肉体が滅びると共に消え去ります。

逆に「私」の認識は「私の肉体」が再生されれば、再び、生まれると思いますか? 「クローンにとっての私」の話ではなく、「私」にとっての「私」の話ですが(何んか日本語が論理的に変かなぁ)。

補足日時:2005/11/27 12:44
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#14です。

ご返事ありがとうございました。
>質問: その「私」足りえているところのもの、すなわち、「クローン」との差異は何んでしょうか?

私は人間の父母から生まれたが、私のクローンは私の粒子?の再生によって生まれた。
組成は同じであっても成り立った起源が異なるということは、その精神作用に明らかな違いをもたらすと考えます。

具体的には、私が[海]という言葉に心地さを感じるのに対し、クローンは[山]という言葉を心地よく感じるのではないかという程度の差ですが。
微細な違いかもしれませんが決定的な違いと言えると思います。
乱暴に言ってしまえば、「機械打ちのそば」と「手打ちそば」の違いのようなものとも言えそうです。
(空気密度が違うとかいったような要素は「乱暴な」という断り書きに免じて無視していただければと思います。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>組成は同じであっても成り立った起源が異なるということは、その精神作用に明らかな違いをもたらすと考えます。

これは、「私」と「私のクローン」とは、異なった意識を持っているということをおっしゃりたいのでしょうか? そうだとすると、全くおっしゃるとおりだと思います。

お礼日時:2005/11/27 12:43

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