プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中41~50件)

ご返事ありがとうございます。


名前を混同していただけるとは光栄の至りです。
そのうち機会があれば月など見てみようか、という思いもよぎるほどでした。
こちらの道路事情はひどいものです。雪が分厚く路面を覆っているにも拘わらずマンホール部分だけがポッカリ凹んでいるのです。
それがあちらにポカリ、こちらにポカリ。気付かずに突っ込む車も多くて、町中ボカンボカンという衝撃音が耐えません。
ハンドルを取られたら即事故です。

>(1)【作用のある箇所を切り取る】とは?
#64のマラソンの例では次のようになっています。
<1>「マラソンでビリになっている。いやだなー。」と無意識が感じる。--->【 そのことを意識に伝える。】(←a)
<2>「何とかしなければ」と無意識が感じる。--->そのことを意識に伝える。

とりあえず、{「マラソンでビリになっている。いやだなー。」と無意識が感じる}ことが最初の原因だと仮定したとします。
ただ、その次の作用を切り取ってみると【a.そのことを意識に伝える。】という原因によって【<2>「何とかしなければ」と無意識が感じる。】という結果が生じていることになると思いますが、それは否定されませんよね、という意味です。

>(2)意識は原因系になり得るか?
>?「意識を生み出す脳細胞群」の活動が、先に始まらないと無理だと私は思うのですが、いかがでしょうか?
:全くおっしゃるとおりです。
【hakobuluさんは、「意識を生み出す脳細胞群の活動」=「意識」と考えておられるのではないでしょうか? 私は、「意識を生み出す脳細胞群の活動」の結果が「意識」であり、その「意識」が「意識を生み出す脳細胞群の活動」の原因になることはないと考えます。】という解説で氷解の域に達したようです。

>「意識を生み出す脳細胞群」の活動が、先に始まらないと無理だと私は思うのですが、いかがでしょうか?
:これを否定できる人はいないでしょう。
私は無意識と意識だけを対応させて考えていたため誤解が生じたのだと思います。

>(3)意識を生み出す脳細胞群とは?
つまり、どの場面においても原因・結果系が明白に分担されているわけではなく、ある箇所に注目してみれば逆の立場になっている場合もある、というお考えであることがわかりました。
(1)で聞きたかったことは解決しました。

>(4)ここで、「意識」は「意識活動」担当脳細胞群の活性化の結果として生じる「現象」だと考えます。
:これは同意します。

>(5)その結果、見かけ上は、「意識」が「何とかしなければ」と考え、【「無意識」が「気合を入れよう」と考えた】かのように思えるのだと思います。
:これはよくわかりません。
無意識は、気合を入れて好結果を出した時の身体状況の【記憶を探りだすだけ】で、「気合を入れよう」と考えるのはすでに意識と言っていいように思います。

前回例に出した以下の【】部分で、他の意識が支配していれば{}のように状況は変わっていたでしょう。
【4、今日は彼女が校門の前で応援しているはずだから憂鬱にはなりたくない方を意識が選択する--->無意識が、気合を入れて好結果を出した時の身体状況の記憶を探りだす。
5、丹田に力を込め気合を入れて、早く走ろうと意識する。--->無意識が足の筋肉や腱関係の神経細胞を興奮させる。と同時に心肺関連細胞も活発にする。】

{4、今日は寝不足だし練習だと思って皆ふざけ半分に走っている。走るのをやめたとしても特に不都合は生じないだろう、という意識が支配する--->無意識が、力を抜いて脱力する時の身体状況の記憶を探りだす。
5、あ^^もう止め止め、と意識する。--->無意識が足などと運動神経系統の活動を停滞させる。と同時に心臓から送り出す血液量を減らすよう関連細胞が作用し始める。}

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

マンホールって暖かいんでしたっけ、それとも、誰かが雪かきするのでしょうか? こちらは、夕方、また、強風が一時的に吹いて、目にゴミが入って困ります。おまけに、外に置いてあったサンダルが、片方どこかへ飛ばされて無くなってしまいました。台風のときですら、このようなことは無かったのに、異常です。

(1)【作用のある箇所を切り取る】とは?
ありがとうございます。意味がわかりました。そして、私の説明が間違っていたことがわかりました。前回、hakobuluさんに<「意識」を「意識を生み出す脳細胞群」に置き換える>話をしたのに、私自身が「意識を生み出す脳細胞群」と書くべきところを「意識」と書いていたんですね。済みません、訂正させてください。以下の<1><2>で「意識」とあるところは、「意識を生み出す脳細胞群」の間違いでした。従って、やはり、「意識」は、【「何とかしなければ」と無意識が感じること】の原因にはならないというのが結論です。

<1>「マラソンでビリになっている。いやだなー。」と無意識が感じる。--->【 そのことを意識に伝える。】(←a)
<2>「何とかしなければ」と無意識が感じる。--->そのことを意識に伝える。

(2)「気合を入れよう」と考えるのは意識か?
hakobuluさんの以下の疑問についてですが、ここでも、やはり、「意識」を「意識を生み出す脳細胞群」に置き換えれば、私と同じ考えになります。しかし、もし、「気合を入れよう」と考えるのが「意識」だとすると、では、その「意識」は脳細胞などの物的根拠なしに、「気合を入れよう」と考えることができるのかという疑問が残ります。

================================================================================================================================
>(5)その結果、見かけ上は、「意識」が「何とかしなければ」と考え、【「無意識」が「気合を入れよう」と考えた】かのように思えるのだと思います。
:これはよくわかりません。
無意識は、気合を入れて好結果を出した時の身体状況の【記憶を探りだすだけ】で、「気合を入れよう」と考えるのはすでに意識と言っていいように思います。
=================================================================================================================================

以下に、前回より詳しく、この間の心理プロセスを書いてみました。やはり、「意識」は常に「意識を生み出す脳細胞群の活動」の結果だと思うのですが、いかがでしょうか?

(1)無意識がビリであることに気づく。
(2)「意識を生み出す脳細胞群」が「何とかしなければ」状態になる。----->その結果、「意識」が「何とかしなければ」と感じる。
(3)「意識を生み出す脳細胞群」が「何とかしなければ」状態なったことが刺激になって、「無意識細胞群」が「どうすれば良いか」を考える。
(4)「無意識細胞群」は「気合を入れれば良い」という解決方法を生み出す。
(5)「無意識細胞群」が「気合を入れれば良い」という解決方法を生み出したことが刺激になって、「意識を生み出す脳細胞群」が「気合を入れれば良い」気分になる。---->その結果、「意識」が「気合を入れれば良い」と感じる。

補足日時:2005/12/22 23:31
    • good
    • 0

ご返事ありがとうございます。


プールですか、いいですね。しかし前から感じていたのですが、『プール』とは何と魅惑的響きを持った言葉でしょうか。
まあ、他の言葉であったとしても用途に影響はないのでしょうが、「プーラ」とか「ザール」では泳ぎがい?が多少薄れるような気もします。

>(1)会社の記憶に関連する細胞とは?
念入りなご説明をいただき恐縮です。よくわかりました。

>(4)意識は原因系になり得るか?
【意識が原因系として無意識や感覚に影響を及ぼすことはあり得ない】とkobareroさんのおっしゃっているのは十分(とは言えないかも)理解しています。
それゆえに【作用のある箇所を切り取ると】という注釈を付けたのです。
最初は無意識が原因ということにしたとしても、【部分的には】意識が原因系である、つまり「意識は無意識に作用し得る」ということが言えますよね、ということです。
具体的例として#64の補足欄の内容を、私流に書き換えてみますので誤りと思う点を指摘してみてください。

1、「マラソンでビリになっている。」と意識する。--->「いやだなあ」と無意識が感じる。
2、そのことを知った意識は「何とかしなければ」と考える。--->無意識は「気合を入れて頑張った。諦めて放り出した。」時の記憶を探り出す。
3、それぞれを選んだ結果どうなるか、と意識が検討する--->無意識が気合を入れて勉強して100点取った時の快感と、途中で放り出した結果さんざんな評価を受けたクラス対抗合唱祭の時の憂鬱な記憶を探り出す。
4、今日は彼女が校門の前で応援しているはずだから憂鬱にはなりたくない方を意識が選択する--->無意識が、気合を入れて好結果を出した時の身体状況の記憶を探りだす。
5、丹田に力を込め気合を入れて、早く走ろうと意識する。--->無意識が足の筋肉や腱関係の神経細胞を興奮させる。と同時に心肺関連細胞も活発にする。
kobareroさんの経過よりは単純ですが、以上のようになります。

一連の作用は、意識が「私はビリだ。」と意識したことから始まるという解釈もできそうですが、どうでしょうか。
無論、過去に挫折を知らない人であれば、ビリの辛さも知らないはずですから「気合を入れてがんばろう」などとは思わないように思います。
この場合の「ビリ」は、単なる順番としての記号であって優劣の基準ではないわけです。
しかし、ビリによって屈辱関連の細胞が刺激されない場合でも「気合入れて頑張ろう」と思う人もいるでしょうし、「しんどいから歩こう」と思う人もいるでしょう。
kobareroさん説によれば、【個人的特性と無意識がそれまでに蓄積してきた学習や経験がそれぞれ異なるためだと思います。】
ということになるのでしょうが、この場合は蓄積してきた学習や経験は無いわけですから、純粋な【個人的特性】ということになるのでしょう。
であれば、「私」が【「意識する私を含む全ての意識」+X】で構成されている以上、×に無意識以外の
要素が存在すると仮定しない限り、気合を入れた(あるいは歩いた)のは「意識する私を含む全ての意識」
が原因ということになるように思います。
あまり自信はありませんが、いちおう筋は通っているものと期待します。
不備な点を指摘していただければありがたく思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

『プール』という響きの話で思い出しましたが、実は、私は、hakobuluさんのhakobuluという名前と自分のkobareroをよく混同して書き間違えることがあるのです。不思議に思って理由を考えてみたのですが、思い付いたことは、両者とも大和言葉の響きがあるせいではないかということです。それと、両者とも何か既存の言葉の意味を連想させないという点でも共通点があるように思いました。

(1)【作用のある箇所を切り取る】とは?
済みません、前回hakobuluさんが【作用のある箇所を切り取る】と書かれていた意味が、実は、理解できなかったのです。ただ、何れにしても、「意識は原因にはなり得ない」という私の考えには、特に条件はないので、そのようにお答えしました。あらためて、【作用のある箇所を切り取る】というのはどういう意味か、お伺いしていいですか?

(2)意識は原因系になり得るか?
今回、hakobuluさんに書いていただいた例は非常にわかりやすかったです。hakobuluさんと私の考えの違いがどこにあるのかが、非常にはっきりしました。違いは、以下の通りです。

hakobuluさんの挙げた例で、「意識」を「意識を生み出す脳細胞群」に置き換えると、私の考えと全く同じになります。すなわち、hakobuluさんは、「意識を生み出す脳細胞群の活動」=「意識」と考えておられるのではないでしょうか? 私は、「意識を生み出す脳細胞群の活動」の結果が「意識」であり、その「意識」が「意識を生み出す脳細胞群の活動」の原因になることはないと考えます。

そして、hakobuluさんへの質問は、もし、「意識」が「何とかしなければ」と考えたり、「それぞれを選んだ結果どうなるか」と「意識」が検討するとすれば、その「意識」は、脳内細胞の活動なしに、「何とかしなければ」とか「それぞれを選んだ結果どうなるか」とか考えることができるのでしょうか?要するに物質的根拠なしに考えることができるのでしょうか?「意識を生み出す脳細胞群」の活動が、先に始まらないと無理だと私は思うのですが、いかがでしょうか?

(3)意識を生み出す脳細胞群とは?
hakobuluさんが最後の方に書かれている<×に無意識以外の要素が存在すると仮定しない限り、気合を入れた(あるいは歩いた)のは「意識する私を含む全ての意識」が原因ということになるように思います。>については、私が十分理解できたという自信はないのですが、「意識」が見かけ上「無意識」に影響を与えているように見えることと関連していると思います。そこで、その点の説明を以下に書きました。

(1)脳内の細胞は、その全てが無意識状態に置かれることがあります。例えば、眠っている最中です。
(2)そして、「意識」が目覚めるのは、脳細胞群の一部に「意識活動」が生まれるためだと思います。「意識活動」が生まれるのは、「意識」が原因ではなく、身体的環境(例えば、周りが明るいとか、目覚ましが鳴ったとか)を無意識に感知している脳細胞群です。
(3)「無意識活動」も「意識活動」も共に、脳内細胞の活動です。脳内細胞は互いに複雑に連携していますから、「無意識活動」担当脳細胞群と「意識活動」担当脳細胞群が相互に影響し合っています。すなわち、「意識活動」担当脳細胞群が、「無意識活動」担当脳細胞群」に影響を与えることも当然あると思います。例えば、「何とかしなければ」と考えるのは、「意識活動」担当脳細胞群であり、その活動を受けて、「気合を入れよう」と考え出すのは、「無意識活動」担当脳細胞群になるというような場合です。
(4)ここで、「意識」は「意識活動」担当脳細胞群の活性化の結果として生じる「現象」だと考えます。
(5)その結果、見かけ上は、「意識」が「何とかしなければ」と考え、「無意識」が「気合を入れよう」と考えたかのように思えるのだと思います。

補足日時:2005/12/22 13:56
    • good
    • 0

ご返事ありがとうございます。


>(2)「会社」のこと関連細胞は存在するのか?
<「会社」の【記憶に関連する】一連の細胞>という表現から、「会社の記憶を持たない人にも存在するような印象」を受けるので少し気になるのかもしれません。
細かいようですが、<「会社に関連する記憶」を格納している一連の細胞>でもよろしければ、おっしゃるとおりと思います。
(重箱の隅をほじくる(他のQ&Aで見たのですが「つつく」ではないそうです。)ようなことを言って我ながら嫌になりますが・・・)

>(5)意識が刺激を生み出すことがあるか?
【「気合」もその原因系は「無意識」が「意識」関連細胞に「気合」を吹き込み、その結果、「自分が気合を入れた」と意識するのだと思います。】
論理的ですね。
しかし、なぜ【(4)無意識が意識的に気合を入れれば良いと気づく】のでしょうか?
『(4’)無意識がもう走るのなんか止めれば楽だと気付く』のではなく。

>(6)物質的原因が何故生じるのか?
【人間が個体生存欲求、種族存続欲求、社会的生存欲望を持った生物だからだと思います。】
これまた論理的で納得です。
『初めに光があった。』という福音書の件を連想します。
しかし、無神論者としては「なぜ光があったのか?」と考えてしまいます。
ついでに、本当に「初め」というものがあったのか?とも妄想してしまいます。

閑話休題。
とりあえず【「意識」が原因になれないのは、「意識」は物質(脳等)の活動結果としての現象であり、原因ではないと考えるからです。】という方向で進むことに同意します。
何か見えてくると良いですが。
とっかかりになるかどうかは不明ですが、質問をひとつ。

作用のある箇所を切り取ると、意識が原因系として無意識や感覚に影響を及ぼす、という原理はお認めになっていらっしゃるんですよね(最初に意識ありき、ということはありえないという仮定の上で)?

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

ひさしぶりに、室内プールで泳いできました。流石に暮れも迫り、ガラ空きで快適でした。外の寒さは、今日は一段落です。

(1)会社の記憶に関連する細胞とは?
私は脳について何か特に勉強した訳ではないので、非常に初歩的な知識しかなく、従って、想像で、以下のように考えています。

(1)人は何かについて聞いたり、経験したりすると、その記憶が脳の中に残ることが多いと思います。例えば、「会社」について聞いたり、自分が会社に勤めていたりすると、「会社」についての記憶が「脳」の中に残るのではないかと思います。その記憶と言うのは、結局、脳の細胞に記憶されるのではないかと思ったわけです。実際には、神経の先端が伸びて、他の神経と連結する形で記憶が形成されるのかも知れませんが、それも神経細胞の一部だと見なしました。これは、私が勝手に見なしたので、それは、神経細胞であって、脳細胞とは言わないということであれば、その通りだと思います。ただ、実際に記憶がどのように脳の中に構成されているのか、私は正確にはわからないので、取り合えず、「細胞」という名前で呼んだわけです。ただ、確かにそれは、間違いである可能性もあるので、正しい言い方に直すとすれば、<「会社」の記憶は脳の中のある領域>に記録されると言ったほうがよいかも知れません。しかし、これでも、「ある領域」というと、局所的部分を意味する可能性があるので、脳内に分散する様々な領域の相互作用により記憶が構成されている可能性も十分ありますから、この点を考慮すると、<「会社」の記憶は脳の中のある領域、あるいは、複数の分散された領域>に記録されるという言い方が比較的正しそうです。

(2)また、(1)に関連して、重要なことは、記憶は何か孤立した単体に関する記憶として脳内に記録されるのではなく、必ず、付随事項、関連事項と合わせて、あるいは、関連付けて記録されると思われる点です。例えば、「会社」の記憶は、「会社」のイメージだけではなく、「会社の中の人間関係」、「自分の仕事や役割」「出勤途上の乗り物の状況」「遅刻したときの上司の顔」などなど、様々な記憶と連結される形で記憶されると思います。このような、脳の連結記憶作用があるからこそ、朝目覚めたとき、このまま寝ていたらどうなるかとか、満員電車のこととかが思い出されるのだと思います。

(3)従って、「会社の記憶に関連する細胞」とは、<「会社」の記憶、および、それに関連付けられた「会社関連諸事項」が記録されている脳内のある領域、あるいは、複数の分散された領域」>ということになると思います。

(4)以上の長い説明を省略して、単に「会社の記憶に関連する細胞」と言ってしまったので、しっくり来なかったのだと思いますが、これで、どうでしょうか?

(2)無意識が意識的に気合を入れれば良いと気づくのは何故?
無意識の働きというのは、何か問題があると、その解決方法を過去の豊富な経験、学習の集積から探し出そうとします。多くの問題は、何らかの学習や過去の経験の応用で解けることが多いと思います。全く新しい事態の場合は、新しく思考活動が始まりますが、これも、答えを出すのは無意識です。従って、今回の例では、マラソンでビリになっているという問題意識(これも正確には無意識ですが)が、無意識に対して、その解決方法を催促した結果、「気合を入れればよい」という結論が出たのだと思います。逆に、物質基盤のない「意識」が、「豊富な経験や学習」という脳内データベースを使わずに何か解決方法を編み出すということは論理的に不可能なような気がします。

(3)無意識がもう走るのなんか止めてしまえば楽だと気づくことはないのか?
当然あります。無意識があるときは「気合を入れ」、あるときは、「走るのをやめる」という結論を出す理由は、個人的特性と無意識がそれまでに蓄積してきた学習や経験がそれぞれ異なるためだと思います。

(4)意識は原因系になり得るか?
hakobuluさんの「意識が原因系として無意識や感覚に影響を及ぼす、という原理はお認めになっていらっしゃるんですよね」に対しては、「えー? 今までの議論は何だったのでしょうか?」になるのですが、私は、何度も申し上げたつもりなんですが、「意識が原因系として無意識や感覚に影響を及ぼすことはあり得ない」と思っています。そして、それを、早く、hakobuluさんに論破していただきたくて、期待して来たのです。と言うのは、これを論破していただかない限り、人間には、「意識」は不要だという結論になり、その結果、「私(=意識する私=世界が見える私)」も不要だという話になるので、はなはだ困った立場になるからです。

是非よろしくお願いします。

補足日時:2005/12/21 22:16
    • good
    • 0

ご返事ありがとうございます。


>(1)「本来の私」とは?
ご質問の仕方が悪いのではなく、私の語彙不足と論理の組み立てが下手なせいです。
本当に申し訳ありません。
<「本来の私」の説明として正しいと思われるもの>
(6)です。
ただし、私の解釈ではkobareroさんおっしゃるところの【×】に「無意識の私」も含まれますから、【「意識する私を含む全ての意識」+X】というのがより適切な説明になります。

>(2)「私」という言葉の一般的意味は?
【一般社会で流通している「私」という言葉の定義】は多様である、という意味で実に難しい質問と言えるような気がします。
あえて一般的意味ということになると、「主張する主体としての私」ということになるでしょうか。
しかし、その私を客観的に捉えようとする試みが一般的になっているとは思えないので、一般流通の私を定義することにあまり意味があるとは思えませんがいかがでしょうか。
私はむしろ、お互いに【私が言うところの「私」】についての見解を模索し続けているのだとばかり思っていましたが、違いましたか。
この質問自体が、そのためのものだと思っていました。

>(3)意志の起源は?
「意識は無意識に制御される」という私見はすでに述べたつもりです。
言葉足らずだったかもしれませんが、「意志は意識するという作用の結果が無ければ発露しない」というように解釈していただければと思います。

<「会社」のことが「意識」に上った>ことが、<「行かなければ」という「意志」>を生み出す原因と考える根拠は何でしょうか?
:これは「会社」という対象が明確にならなければ、「行きたい」とか「行きたくない」という言葉すら想起し得ないだろうという単純な論理上の理屈を述べただけです。

【「意識」の発生には、必ず、物質的(細胞群の興奮)原因があると考えるからです。】ということですか。
う~む、なるほど。

ちょっと考えます。------------------------
---------------
--------------。

うーむ(と、また唸る)。
しかし・・・(と、当てにならない閃きを覚える)。
しかし、【「会社」のこと関連細胞】というものが存在しえるのでしょうか(と、やっと言葉として成立する)。【←質問】
私としては、むしろある細胞(いくつかの大まかな役割分担で分かれているにしてもー運動系とか、芸術系などと)が、状況に応じて【興奮するという化学作用(恐らく)の内容】を使い分ける(選択する)ようなイメージがあります。(これには根拠はありません。)

そして、この【状況】を判断しているのも「無意識」ではないかと。
会社のことが意識に上るのは、会社の記憶が無意識から引き上げられるということで・・・。
いや・・違うか。
会社のことが意識に上るのは、無意識にある会社の記憶が浮上するからで、なぜ無意識から浮上するかといえば、「朝日を感じる」や「時計を見る」という刺激が「無意識下の記憶」に連鎖反応的に作用し(朝→起きる時間→起きたら出勤→決められた時刻→遅刻はだめ→会社まで要する時間→間に合うように起きるための時刻)、最後には「遅れるとまずいことになる」という(学習した)記憶に達するためではないでしょうか。
つまり、無意識は「意識に上げる必要性のある無意識の記憶」と「無視してもいい無意識の記憶」を【選択する能力】を持っている、ということです。
意識や無意識が物質を母体としていることに異存はありませんが、それ自体が物質でないこともまた事実だろうと思います。
物質でないという表現は誤解を招くかもしれません。
「物質の作用とは言えても物質自体ではない」と言い換えておきます。

ここで、【物質的原因がないのに意識が生じることはない】というkobareroさんの説に反論しておいたほうがいいと思います。
このとおりだとすれば、あらゆる事象が物質的原因によって生じることになります。
確かに「痛覚」などの反射神経などでは、そう言えるでしょう。
この場合の物質的原因は「刺激」ということになります。
おっしゃっていることは非常に科学的で、その原理は納得できます。
ただ、私の言いたいことは、端的に言うと「意識が刺激を生み出すこともある」のではないか、ということです。
矛盾でしょうかね?
<ただ、物質的原因が何故生じるのか、について私はまだ納得できていません。
そういうふうにできている、というのであれば「意識」がそういうふうにできていないという根拠を教えていただきたいとも思います。>
その意識は無意識を母体としている。
そして、その無意識は「刺激」によって醸成された「記憶」によって出来上がっている。
であれば、「刺激を生み出している意識は刺激によって生み出される」ということになります。
すなわち「刺激は(他の)刺激によっても生みだされる」。
ここに【「私」と意識する私】の存在価値(価値かどうかは置いておくとして)があるのかもしれません。
つまり、どちらも正しい。
ただ「私が意識するから、世界は私が思うような見え方をする」と考えるか、「私が意識するしないに拘わらず、世界は一定の見え方よりしない」と考えるかという違いだということなのかもしれません。

真実とは、「あるもの」ではなくて「作り出すもの」なのかもしれない、という気も少ししてきました。

このあたりでご感想を伺うほうが無難なような気がします。
よろしくお願いいたします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝は、とうとう、窓からでは、月が見えなくなってしまいました。外に出ると、半分ちかくまで欠けた月が見えます。

(1)「本当の私」および「私」問題。
◆hakobuluさんのおっしゃる「本来の私」は、以下のように理解させていただきました。

 「本来の私」=「意識する私を含む全ての意識」+X

◆hakobuluさんが「私はむしろ、お互いに【私が言うところの「私」】についての見解を模索し続けているのだとばかり思っていましたが、違いましたか。」とおっしゃるのは、その通りです(違わないという意味)。私が、「私」の一般定義を問題にしたのは、ひとえにhakobuluさんの「本来の私」を理解するためでした。既に、その理解が得られましたので、もう、問う必要はなくなりました。また、私が言うところの「私」については、#35補足で書いて以来、残念ながら進歩していません。以下にコピーしておきましたが、何か新たなご意見がありましたら教えてくださ。

<#35補足からのコピー>
「私とは何か?」を考えてみると、それは、単体ではない、複合体である。というのが、最初の印象です。複合体の中身を、ざーと見渡すと以下の7種類位の「私」があるように思いました。

(1)他者に対しての責任主体としての「私」
(2)感覚する「私」
(3)意識する「私」
(4)考える「私」
(5)思う「私」
(6)無意識の「私」
(7)意志する「私」

(2)「会社」のこと関連細胞は存在するのか?
これは、「関連細胞」という言葉がおおざっぱ過ぎるため、どうとでも解釈できることが問題のように思います。そこで、少し分析的に考えて見ます。以下の(1)、(2)、(3)の三つのの思考段階を踏んだ結果として、<「会社」のこと関連細胞は存在する>と考えてよいと思いますが、いかがでしょうか?

(1)「意識」に「会社」のことが思い浮かぶ前提として、無意識の世界に「会社」のイメージが存在する。
(2)無意識の世界に「会社」のイメージが存在するためには、その物質的根拠として、脳内の一連の関連する細胞に「会社」の記憶が存在する。
(3)もし、(1)、(2)が正しいとすると、「会社」の意識の前提条件として、脳内に「会社」の記憶に関連する一連の細胞が存在する。

(3)「会社」のことが意識に上がるプロセス
hakobuluさんの「会社のことが意識に上るのは、無意識にある会社の記憶が浮上するからで、なぜ無意識から浮上するかといえば、............」は、全くおっしゃるとおりだと思います。

(4)意識は物質でなくて何か?
hakobuluさんの「意識や無意識が物質を母体としていることに異存はありませんが、それ自体が物質でないこともまた事実...........物質の作用とは言えても物質自体ではない」について、私は、以下のように考えますが、いかがでしょうか?

   意識は、物質の結果生じる「現象」である。従って、物質ではない。

(5)意識が刺激を生み出すことがあるか?
hakobuluさんの「意識が刺激を生み出すこともある」については、「実感」として「そう感じられる」ということだと思います。例えば、以下のマラソンの例では、何もしなければビリになっていたのが、意識が「気合」を入れたために、勝ったのだと「実感として」は感じると思います。

(1)気が付くとマラソンでビリを走っている。
(2)これじゃいかんと思い、意識が気合を入れた。
(3)意識が気合を入れた結果、元気が湧き出し、トップになった。

しかし、この心理プロセスを分析的にみると、以下のようなステップを踏んでいるのではないかと考えます。すなわち、「気合」もその原因系は「無意識」が「意識」関連細胞に「気合」を吹き込み、その結果、「自分が気合を入れた」と意識するのだと思います。

<1>「マラソンでビリになっている。いやだなー。」と無意識が感じる。---> そのことを意識に伝える。
<2>「何とかしなければ」と無意識が感じる。--->そのことを意識に伝える。
<3>無意識が対策を考える。
<4>無意識が意識的に気合を入れれば良いと気づく。--->気合を入れたいと意識が感じる。
<5>無意識が気合を念じるように「意識」関連細胞群を刺激する。--->自分で気合を入れたと意識が感じ取る。
<6>気合の入った意識関連細胞群が、無意識に元気を与える。--->元気が出てきたことを意識が感じ取る。
<7>無意識がトップになる意志細胞群を刺激する。--->トップになろうという意志を意識が感じ取る。

<文字数制限のため、続きは「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/21 10:39
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(6)物質的原因が何故生じるのか?
hakobuluさんの「ただ、物質的原因が何故生じるのか、について私はまだ納得できていません。そういうふうにできている、というのであれば「意識」がそういうふうにできていないという根拠を教えていただきたいとも思います。」については、以下のように考えます。

物質的原因が生じる理由ですが、基本的には、人間が個体生存欲求、種族存続欲求、社会的生存欲望を持った生物だからだと思います。逆にそのような欲求や欲望を持っていなければ、人間としての物質的構造(身体+脳)を維持できないということだと思います。また、「意識」が原因になれないのは、「意識」は物質(脳等)の活動結果としての現象であり、原因ではないと考えるからです。

お礼日時:2005/12/21 11:51

今日は晴天です。

気温もあまり下がらず一息つける雰囲気になっているようです。
(1)「選択」している「私」とは?
ここでは、【「私」ということを意識する私】=「自我意識」という意味で使っていることになると思います。

(2)「本来の私」とは?
【簡単には規定できない未知なるもの】があったとしても、「私に所属」している「無意識」の領域に納まっているものという仮定を立てておきたいということです。

(3)「私」とは?
kobareroさんのおっしゃる「私」は、「意識する私」という言葉で置き換えても良いのでしょうか。
どちらにしても、「本来の私」とは【「概念では直接的に察知、理解、制御することのできない部分」も含めた私】という意味と考えていただいていいように思います。

(4)無意識が意識を制御しているのか?
「無意識が無意識と意識の両方を制御する」と言ってもよいのですが、「無意識は意識を制御し、ある無意識と別の無意識は影響し合う。」と言うほうが個人的な考えを示すには妥当な表現かもしれません。
意志を絡めてさらに言えば、「意志は、【無意識的手法】を以って(=意図せずに)無意識に影響を及ぼすことも可能である」とも考えています。
意志とは意図することですが、その意図した内容がそのまま無意識に影響するのではなく、あくまで結果として「何らかの(予測のつかない)影響」を無意識に与えているだろう。というような意味です。

(5)「意志」は「意識」の結果か?及び(6)人に意識は必要か?
【>「意志」の起源は、脳細胞(すなわち、無意識)にある】というお考えには同意します。

【>脳細胞に「意志」が喚起された結果として、「意志」の「意識」が生まれる】という箇所の、【脳細胞に「意志」が喚起】されるということ自体が「無意識が意識として浮上したことの現われ」という考え方です。
「さあ、会社に行こう」と一歩踏み出すのは「意志」と言えるでしょう。
この場合は、安眠に浸っている現状に、無意識に沈んでいた「会社」のことが「意識」に上った結果として、「行かなければ」という「意志」が生じるように思います。
途上で「右足を出す」のは「意志」ではなく、以前出てきた「能動的無意識」ということになるように思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

(1)「本来の私」とは?
済みません、ますます、混乱してきました。私の質問の仕方が悪いのだと反省し、質問方法を変更してみます。多岐選択方式です。hakobuluさんから見て「本来の私」の説明として正しいと思われるものを番号でご回答いただけませんか? しつこくて申し訳ありません。これで、わからなければ、諦めますのでよろしくお願いします。

(1)「本来の私」=「無意識の私」
(2)「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私」
(3)「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私を含む全ての意識」
(4)「本来の私」=「無意識の私」+X
(5)「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私」+X
(6)「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私を含む全ての意識」+X
(7)上記のいづれでもない。

(2)「私」という言葉の一般的意味は?
>kobareroさんのおっしゃる「私」は、「意識する私」という言葉で置き換えても良いのでしょうか。

前回の「私」の定義は、私個人の考える「私」の定義のつもりではなく、一般に社会で流通している「私」という言葉の定義のつもりでした。というのは、hakobuluさんの「本来の私」という言葉の説明を何回か聞いているうちに、もしかすると、最も基本の「私」という言葉の解釈が異なっているのかも知れないと思ったからです。そうだとすると、私が言うところの「私」などと言い出すと、何が何だかわけがわからなくなるので、まずは、私が言う「私」ではなく、一般に社会で言う「私」はどのように定義されているかについて、共通理解を得ようかと思ったわけです。それで、ここでは、むしろ、hakobuluさんが、一般社会で流通している「私」という言葉の定義をどのようにお考えなのか教えていただければ幸いです。

(3)意志の起源は?
>【脳細胞に「意志」が喚起】されるということ自体が「無意識が意識として浮上したことの現われ」という考え方です。

その通りだと思いますが、このことが、「意志」が「意識」の結果であるという結論に結び付くのでしょうか? 上の文では、「意識」の原因は「無意識」だと言っておられるように思うのですが。

>「会社」のことが「意識」に上った結果として、「行かなければ」という「意志」が生じるように思います。

<「会社」のことが「意識」に上った>ことが、<「行かなければ」という「意志」>を生み出す原因と考える根拠は何でしょうか?

以下のプロセスで、(1)がなくて、(2)だけが存在することはあり得ないと思います。また、(3)がないのに、(4)だけ存在することもあり得ないと思います。その理由は、「意識」の発生には、必ず、物質的(細胞群の興奮)原因があると考えるからです。物質的原因がないのに意識が生じることはないと考えるからです。そして、ここでの問題は、(3)の原因が(1)なのか(2)なのかということだと思います。私は、(3)の原因は(1)だと思いますが、hakobuluさんは、(3)の原因は(2)だとお考えですか? もし、そうだとすると、何故、(1)ではなく、(2)だと考えるのでしょうか?

(1)「会社」のこと関連細胞が興奮する。
(2)「会社」のことが「意識」に上る。
(3)「行かなければという意志」関連細胞が興奮する。
(4)「行かなければという意志」を感じる。

補足日時:2005/12/20 14:17
    • good
    • 0

またも雪かき。

今日は暖かいので雪が濡れていて重いため、昨日より力を少し必要としました。
今は雪曇りですが風もなく穏やかです。

>「選択」している「私」とは?
:「本来の私」に含まれる【「私」ということを意識する私】です。
無意識を内包しているのも私、「私という意識」を持つのも私。
全てまとめて「本来の私」ということです。

>「本来の私」とは?
:【「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私」+X (ここで、X=その他の計り知れない未知の私)】とのことですが、『未知の私』という場合、現段階では「私の脳」に制御されているのかどうかは不明と判断するのがフェアと思うので、「私の脳の働き」と断定することは避けたい気がします。
今のところ、「未知の私」=「無意識の私」という解釈をしています。

>我々は無意識によって制御されているのでないのか?
:これに関する箇所を読み直してみましたが、我ながらひどい表現です。「意識」が論点をよく把握しきれていないのでしょう。ご迷惑をおかけします。
「無意識は私に所属している。その(自ら内包する)無意識によって我々(本来の私)は制御されている。意識だけで制御するには、この世界から受ける感覚は多様すぎる。あるいは、意識だけであらゆる感覚を制御できるほどの機能を人間は持つに至っていない。」という考えです。

>意識に自由意志はあるか?
:「>意識は脳細胞が自由意志で決めた結果を眺めているだけ」でしょうか。
kobareroさんが前におっしゃっていた(と思う)「意志も無意識から発生する」というお考えが前提になっているものと思われますが、私は少し違います。
「意志」こそが意識の結果であって、その意識は無意識から浮かび上がってきたものだから「意志は無意識を母体としている」と言うことはできるが、「意識する」ことがなければその無意識が浮かび上がることはなかったわけです。
なぜ意識したのかといえば、他の無意識がきっかけになったということはできるでしょうが、意識したからこそ「意志」という言葉で表現できるのだと思います。

「>人間は意識がなくても、問題を解いたり、自分で自主的に判断したりして生きて行けるのに、何故、必要もない意識というものがあるのか?」
の【自主的判断】は「本能」と同義に聞こえます。
「意識」「意志」の解釈の問題なのかもしれませんが、たしかに意識がなくても行動はできるでしょう。
ただ、【その行動を選択する】意志の発生には、無意識が一旦意識として浮上する必要がある、と思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝、月を見たら、右下が欠けてました。確か、昨日までは、円形だったと思っていたのですが、何だか急に欠けたようで不思議です。昨日は、昼間、また、一時的に強風となり、目にゴミが入って困りました。

(1)「選択」している「私」とは?
【「私」ということを意識する私】と自我意識との違いを教えてください。

(2)「本来の私」とは?
【「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私」】というお考えでしょうか、それとも、そのように簡単には規定できない未知なるものが他にあるというお考えなのでしょうか?

(3)「私」とは?
hakobuluさんの「本来の私」という概念は、私をかなり混乱させています。単純な「私」との違いが今ひとつわからないのです。そこで、まず、単純な「私」とは、何かを、私なりに以下にまとめてみました。このような「私」と「本来の私」とはどのような関係にあるのでしょうか?

「私」とは、私の心身を統括する人格のことである。ここで、「人格」とは、自分の心身を直接的に察知、理解、制御する概念的主体のことです。

(4)無意識が意識を制御しているのか?
以下のhakobuluさんのお考えで、「無意識によって我々(本来の私)は制御されている」ということは、もし、(2)のように【「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私」】だとすると、無意識が無意識と意識の両方を制御すると考えて良いですか?

【「無意識は私に所属している。その(自ら内包する)無意識によって我々(本来の私)は制御されている。意識だけで制御するには、この世界から受ける感覚は多様すぎる。あるいは、意識だけであらゆる感覚を制御できるほどの機能を人間は持つに至っていない。」という考えです。】

(5)「意志」は「意識」の結果か?
hakobuluさんは、「意志」こそが「意識」の結果であると言われますが、その根拠は何でしょうか? 私は、「意志」の起源は、脳細胞(すなわち、無意識)にあると思います。脳細胞に「意志」が喚起された結果として、「意志」の「意識」が生まれるのだと思います。以下に具体例でそのプロセスを示します。ここで、(2)、(4)、(6)、(8)は、それぞれ、(1)、(3)、(5)、(6)の脳細胞の活動結果として生じる「意識」です。そして、(3)、(5)、(7)が起動される原因は、(2)、(4)、(6)の「意識」ではなく、(1)、(3)、(5)によって生じる脳内連想であることが、この議論のポイントです。なお、私は、「細胞群の興奮」「細胞群の活動」「脳内連想」などの「働き」が、すなわち、「無意識」だと考えます。

<例> 朝、いつまでも寝ていたいという欲望に逆らって、意志を持って起きる場合を考えます。
(1)「いつまでも寝ていたい」細胞群が興奮する。
(2)「いつまでも寝ていたい」と感じる。
(3)「しかし、出勤しないわけには行かない」細胞群が興奮する。
(4)「しかし、出勤しないわけには行かない」と感じる。
(5)「しょうがないから起きるか」細胞群が興奮する。
(6)「しょうがないから起きるか」と感じる。
(7)「よし、起きるぞ」の意志細胞群が興奮する。
(8)「よし、起きるぞ」の意志を感じる。

(6)人に意識は必要か?
hakobuluさんが、【その行動を選択する】意志の発生には、無意識が一旦意識として浮上する必要があると考える根拠は何ですか? 例えば、道を歩いて、左足の次に、右足を出す場合、「右足を出すという行動を選択する意志」を発生させるために、「右足を出す意志」をその都度、「意識」に浮上させる必要はないと思いますが。

補足日時:2005/12/20 09:55
    • good
    • 0

ご返事ありがとうございます。


やっと雪は止んだようです。予報で心配したほどではありませんでした。しかし、日が落ちると同時に冷え込みが一層増してきています。
そちらはいかがですか。風邪は大丈夫ですか。
新型インフルエンザというのもありますから、無理してこじらせないようにしてください。
月を見るなどという風流には、とんと縁の無い日々です。

1、>原理的には、「意識」には、選択権はないだろうと考えています。
:意識が結果系であるとするkobareroさんのご意見としては、至極当然のご指摘と思いました。
また、【「意識」は、脳細胞群が自由意志により決定した結果をひたすら受身的に感知しているだけではないかと】
というお考えにも同意します。

ただ、「私」が「意識」を意味しているわけではありません。
「自らが内包している無意識」の中から、「意識」として浮かび上がらせるべき「ひとつの事象」を「選択」しているのは「私」という存在ではないか、ということです。
【>「私」と言う時の「私」は、「私という意識」に過ぎないだろう】と述べたのは、「私=意識」ではなく、「私」というものをひとつの存在として意識する場合の意識、または自我というものに代表される「私」、といったような意味です。

2、「本来の私」とは、【「私」が成立しているあらゆる要素を含めたもの】を仮定した言葉のつもりです。
「無意識の私」という言葉を織り交ぜるとすれば、「無意識の私」と「意識する私」を合体したものとも言えるかも知れません。

【「私でありながら私にとっては未知」の部分も含めた私】というのが一番しっくり来る表現かもしれません。
未知の部分であっても、「私」に所属しているものに違いはないだろうという不確かな仮定の上に成り立っている定義ということもできますが、例えば未知の部分のひとつである無意識は意識されることもあるのはお互い了解していると思われます。
その場合、「無意識も私に所属している」という仮定が成立すると思います。
これを否定すると、暫定的に無意識と呼ぶエネルギーが「我々の存在外の領域」に存在していて、それによって我々は制御されているということになります。
我々は意識によってのみ成立していることとも同義になりますが、これは不自然です。
感覚によって得られた情報の行き場として、意識が全てを呑み込めるほど、この世界で発生する諸々の事象・心象は少なくないことは容易に想像がつくからです。
全てを意識で処理しなければならないとしたら、我々の殆んどは恐らく発狂してしまうでしょう。
人類はまだそこまでのキャパシティを与えられてはいないように思われます。

「私」を構成している要素は「単一」ではない、と考えるのが自然なように思うので、そのよくわかっていない「私」を表現するために仮に「本来の私」という言葉を使用してみたのです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

相変わらず、朝6時頃、月を見ています。月の位置は高くなると同時に、少し南の方へ傾いて行ってます。この分で行くと、10日後くらいには、月は東南の水平線に沈むことになるのでしょうかね。でも、太陽が上るすぐ横で、月が沈む様は想像しにくいものがあります。10日後が楽しみです。

(1)「私という意識」とは?
hakobuluさんの「私という意識」は、自我意識と考えてよいですか?そうだとすると、「私にとって、この世界が見える」というときの、「私にとって」が自我意識で、「この世界が見える」は単なる「意識」だと思います。例えば、2歳未満の赤ん坊には、自我意識はないと思いますが、「この世界が見える」という意識はあるのではないかと思います。そういう意味で、私の疑問は、自我意識と限定しない、赤ん坊でもあると思われる意識についてなのですが、ややこしいことに、それが、「私にとって」という条件付きなので、結局、自我意識と意識の両方の発生条件に関する疑問ということになるかも知れません。

(2)「選択」している「私」とは?
hakobuluさんが考えておられる「選択」している「私」とは、hakobuluさんが言われる「本来の私」のことですか?

(3)「本来の私」とは?
hakobuluさんの言われる「本来の私」とは、以下のようなものと考えていいのでしょうか? もし、そうだとすると、「本来の私」とは、「私の脳の働き」と置き換えても良いように思いますが、いかがでしょうか?

「本来の私」=「無意識の私」+「意識する私」+X (ここで、X=その他の計り知れない未知の私)

(4)我々は無意識によって制御されているのでないのか?
hakobuluさんのお考えは、「無意識は私に所属している。そうでなければ、無意識によって我々が制御されていることになる。しかし、そんなことは、ありえない。」と理解しましたが、その場合の「我々」とは、誰、あるいは、何ですか? 「我々」=「私」と考えてよいと思いますが、その場合の「私」とは、hakobuluさんの「本来の私」でしょうか? もし、そうだとすると、(3)の定義から、「無意識は私に所属している」というのは、正しいと思います。

(5)意識に自由意志はあるか?
私は、今のところ、意識には自由意志はないと考えています。意識は脳細胞が自由意志で決めた結果を眺めているだけだからです。そして、そう考えた場合の私の最大の疑問は、「人間は意識がなくても、問題を解いたり、自分で自主的に判断したりして生きて行けるのに、何故、必要もない意識というものがあるのか?」ということです。

補足日時:2005/12/19 09:54
    • good
    • 0

ご返事ありがとうございます。


今日は朝食前の雪かきで一日が始まりました。

【(1)菊の三杯酢】
(1)菊花の光が目に入る。
(2)視神経が興奮する。
(3)脳の視覚野の細胞群が興奮する(菊花の映像が脳内に生成される)。
(4)菊花の映像が見える(意識として認知される)。
という一連のご説明ありがとうございます。
また、【連想は、(4)が原因で生じるのではなく、(3)が原因で生じる】もわかりました。

以上からすると次のようなことが言えるように思われます。
1、脳細胞が何らかの刺激を受けて興奮すると、その刺激は少なくとも無意識としては(脳細胞に)認識される。
2、この認識が無条件の記憶として(脳内の)無意識領域に保存される。
3、選択された記憶(即時的なものも含めて)だけが意識として、「私」に認識される。
つまり、ここでの「私」は「選択する者」である。
(「私」が選択したからこそ、記憶が意識として浮かび上がるのだから)
ここでの疑問は、「選択された記憶」と言うが(といっても今の段階では私が言っているだけですが)、どのような理由によって選択されたのか、ということです。
仮に「無意識による何らかの理由」だと判断すれば、無意識を形成しているであろう「遺伝的要素」と「後天的に獲得された記憶」によって選択されたことになります。

この場合「本来の私」とは「先天的記憶(遺伝的要素)」と「後天的記憶」が合体したものと言うことができると思います。
そして「私」と言う時の「私」は、「私という意識」に過ぎないだろう、と。

【私にとって「この世界が見える」ための条件は?】
「私」という意識が存在すること、ではおかしいでしょうか。
「私にとって」と言う時点での「私」はすでに、【「先天的記憶(遺伝的要素)」と「後天的記憶」が合体したもの】であるには違いないのでしょうから、そこに「私という意識」が介入した段階で「私にとって」の「見える」が成立する、というように感じます。

【(2)「痛い」という感覚】
なるほど、わかりました。

【(3)第五段階、第六段階】
(1)のように、「本来の私」と「私という意識」に分けて考えてみました。
「本来の私」にとっての「見える」は必然だが、「私という意識」に「見える」ものは偶然である。
しかし、この「偶然」を導き出すものは「本来の私」であることもまた事実であるから、「私という意識」に属してはいなくても「本来の私」は「私自身」に所属していることは間違いない。
「氷山の一角」に「海面下の氷山」は見えないが(そして多分こちらの方が圧倒的な比率を占めるのだろうが)、どちらも同じ「氷山」であることには変わりないのと同じように。
つまり「見えない」からといって「他の存在」であるわけではなく、実は自身を支えている根本的な要素ですらあるのではないか、という気がします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

9時頃から急に強風が吹き、砂煙が巻き上がり、目にゴミが入り大変でした。午後になってウソのように静まりました。

(1)「私」は「選択する者」なのか? 
私は、「意識」に選択権があるのか、無意識に選択権があるのか、まだ、はっきりわかりませんが、原理的には、「意識」には、選択権はないだろうと考えています。そのことが何を意味するかというと、「意識」そのものには自由意志がないことを意味します。自由意志を持っているのは、「意識」を生み出す原因形である脳細胞群ではないかと思います。「意識」は、脳細胞群が自由意志により決定した結果をひたすら受身的に感知しているだけではないかと考えるわけです。従って、hakobuluさんの言われる「私」が、もし、「意識」を意味するのであれば、その「私」は「選択する者」ではなく、「受身的に感知する者」ではないかと思うのですが、これは結論というよりは、そう考えないと、今のところ、他に合理的な説明が見つからないというだけです。

ただ、hakobuluさんも、<仮に「無意識による何らかの理由」だと判断すれば>とおっしゃているので、選択の原因は、「意識」ではなく、「無意識」だと考えておられるようにも思われます。どちらのお考えなのか、hakobuluさんの文面だけからは判断しかねました。そして、記憶の連想が「無意識」によってなされるとすれば、それは、「遺伝的要素」と「後天的に獲得された記憶」によって選択されるというhakobuluさんの考えに賛成です。

(2)「本来の私」とは?
唐突に「本来の私」という言葉が登場したように感じました。「本来の私」とは何でしょうか? 「無意識の私」と考えてよろしいでしょうか?

(3)「私」とは「私という意識」か?
確かにそう言えそうですね。そして、【私にとって「この世界が見える」ための条件は?】「私」という意識が存在することと言い換えることができるように思います。もう少し考えてみたいと思います。

(4)「本来の私」と「私という意識」の関係
「本来の私」とは何を意味するのか、(2)で書きましたが、もう少し説明していただけますか?

補足日時:2005/12/18 16:21
    • good
    • 0

>説明になっていますでしょうか?


:ありがとうございます。おっしゃったことはわかります。
そうすると、菊の三杯酢を食べたという無意識の記憶が「うまい」という意識の連想につながったということになると思いますが、この場合「(見るという)感覚」は「スイッチ」として、「最も意識の近くまで浮上してきていた無意識を意識とつなぐ」役目を果たしたと言っていいのでしょうか。

また、「痛い」という感覚にはこのように分岐する経路は無いと考えていいですよね。
つまり「見る」という感覚のように「スイッチ」として、後の連絡経路を選択するような機能は無いのではないか、ということですが。
このへんで「見える」と「痛い」の違いにフィードバックできたような気もしますが、どうでしょうか。
私の感じでは、「痛い」は「生体に対する危険信号」という「一意の意味」しか持っていないということです。

さらに遡ると#33でおっしゃっている内容につながっているように思われます。
ここでの<第5段階>と<第6段階>は、非常に興味ある内容です。
ここを別の角度から眺めてみたいと思いますがいかがでしょうか。
第5段階でkobareroさんは、【真善美の不変な部分というのは、結局、真善美に対する「感覚」ではないかと思います】とおっしゃっています。
今回の【連想経路が何故、その都度異なるかは、無意識の状態が、その都度異なるためと思います。】ということと関連付けて考えてみると面白いような気がするのですが、どうでしょうか。

最終段落の、
【<私にとって「この世界が見える」>と言うとき、「この世界が見えている実体」は、実は「私」ではないのではないかということです。というのは、「私」は、「この世界が見えている実体」を対象として意識しているわけですから、「この世界が見えている実体」とは独立の存在のように思います。そもそも「この世界が見えている実体」には、言語がないような気がします。「ただ、見えているという事実があるだけ」ではないかと思います。】
という件は特に圧巻です。
大気圏が見えているのに突入できないもどかしさを覚えるぐらいに興味ある思考惑星のひとつである、といった感触がありました。

何とか妄想の翼の端だけでも使って、圏内の空気に触れてみたい印象は持続中です。
>説明になっていますでしょうか?
:ありがとうございます。おっしゃったことはわかります。
そうすると、菊の三杯酢を食べたという無意識の記憶が「うまい」という意識の連想につながったということになると思いますが、この場合「(見るという)感覚」は「スイッチ」として、「最も意識の近くまで浮上してきていた無意識を意識とつなぐ」役目を果たしたと言っていいのでしょうか。

また、「痛い」という感覚にはこのように分岐する経路は無いと考えていいですよね。
つまり「見る」という感覚のように「スイッチ」として、後の連絡経路を選択するような機能は無いのではないか、ということですが。
このへんで「見える」と「痛い」の違いにフィードバックできたような気もしますが、どうでしょうか。
私の感じでは、「痛い」は「生体に対する危険信号」という「一意の意味」しか持っていないということです。

さあに遡ると#33でおっしゃっている内容につながっているように思われます。
ここでの<第5段階>と<第6段階>は、非常に興味ある内容です。
ここを別の角度から眺めてみたいと思いますがいかがでしょうか。
第5段階でkobareroさんは、【真善美の不変な部分というのは、結局、真善美に対する「感覚」ではないかと思います】とおっしゃっています。
今回の【連想経路が何故、その都度異なるかは、無意識の状態が、その都度異なるためと思います。】ということと関連付けて考えてみると面白いような気がするのですが、どうでしょうか。

最終段落の、
【<私にとって「この世界が見える」>と言うとき、「この世界が見えている実体」は、実は「私」ではないのではないかということです。というのは、「私」は、「この世界が見えている実体」を対象として意識しているわけですから、「この世界が見えている実体」とは独立の存在のように思います。そもそも「この世界が見えている実体」には、言語がないような気がします。「ただ、見えているという事実があるだけ」ではないかと思います。】
という件は特に圧巻です。
大気圏が見えているのに突入できないもどかしさを覚えるぐらいに興味ある思考惑星のひとつである、といった感触がありました。

何とか妄想の翼の端だけでも使って、圏内の空気に触れてみたい印象は持続中です。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

先日、すごくきれいで大きい月が沈むのを見て以来、毎朝、月をみるくせがつきました。今朝六時過ぎの月は、随分高い位置にありました。月没は、日没と違い、目に見えて遅くなっていくものですね。考えてみると、一日で、360度/約30日=12度(約48分)遅れるんですよね。また、進むのではなく、遅れるということは、月の公転は、地球の自転と逆方向なんだろうなぁなどと感慨にふけってしまいました。

(1)菊の三杯酢
>、この場合「(見るという)感覚」は「スイッチ」として、「最も意識の近くまで浮上してきていた無意識を意識とつなぐ」役目を果たしたと言っていいのでしょうか。

まず、「(見るという)感覚」は「(見えるという)感覚」とは、全く別の現象と考えています。また、今回は、「(見るという)感覚」ではなく、「(見えるという)感覚」を問題にしているのだと理解していますので、hakobuluさんの御質問への回答(以下)は、「(見えるという)感覚」として説明させていたきました。

「(見えるという)感覚」が無意識につなぐのではなく、「(見えるという)感覚」を生じさせた脳細胞(視覚野)」が無意識につなぐのだと思います。

菊花が見えるまでのプロセスは以下のようになると思います。「(見えるという)感覚」が生じるのは、(4)の段階ですが、これは、(3)が発生したことによる結果系の現象です。一方、「菊花が見える」ことが、様々な連想を発生させる原因は、(4)ではなく(3)です。何故ならば、連想というのは、あくまで、脳内の脳細胞同士の相互作用によって生成されるものと考えるからです。

(1)菊花の光が目に入る。
(2)視神経が興奮する。
(3)脳の視覚野の細胞群が興奮する(菊花の映像が脳内に生成される)。
(4)菊花の映像が見える(意識として認知される)。

ここで、<「菊花が見える」ことが様々な連想を発生させる>という表現が、「非常に紛らわしい」表現であるため、誤解を生じる可能性があるので、あらかじめ説明を付け加えておきます。それは、ここで言う「菊花が見える」というのは、(4)の意味ではなく、(3)のおいて、視覚野の脳細胞群にとって「菊花が見える」という意味です。「見える」という表現が適切でないかも知れないので、「菊花を認知する」と言った方が正確かも知れません。(4)は、強いて言えば、”意識にとって”「菊花」が見えるという意味になります。別な言い方をすると、視覚野の脳細胞は、意識が「菊花」を見ようが見まいが、「菊花」を認知しているということです。

わかりにくいと思いますので、例を挙げます。道を歩いているとき、考えに集中していると、周りの景色が意識から消えていることは、よくあることです。しかし、このときでも、周りの景色は眼球から入力され、脳に到達し、必要な処理が無意識裏に処理されていると思います。そうでなければ、道を歩けないと思います。このことは、人が物を見る場合、(1)、(2)、(3)と進行していても、(4)は必ず(3)に付随しないことがあることを意味しています。これは、意識として「見えていない」状態でも、脳は「見ている(認知している)」ことを意味しています。一方、このように無意識裏に「見えるている」、あるいは、「脳が認知している」景色の印象は、さらに、脳内での「連想」をも無意識裏に引き起こしていると考えられます。何故なら、物思いにふけって道を歩いているとき、周りの景色は、意識には見えませんが、レストランの前を通ると、急に意識が戻る場合があります。それは、お腹が空いたので、途中でどこかで食事をしようと考えていたからですが、「レストランの印象」と「食事をしたい」を結びつける連想は、無意識の脳内連想て生じたと思われます。

以上のことから、連想は、(4)が原因で生じるのではなく、(3)が原因で生じるのだと思います。

<文字数制限のため、続きは「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/18 09:38
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(2)「痛い」という感覚
>「痛い」という感覚にはこのように分岐する経路は無いと考えていいですよね。

hakobuluさんの「分岐」が具体的に何を指しているのか、あまりよくわからないので、また、頓珍漢な回答になってしまうかも知れませんが、もし、「分岐」の意味が「異なった複数の連想」を生じさせるという意味なら、「痛い」も「見える」も全く同じように複数「分岐」すると思います。以下にその例を挙げます。

(1)満員電車で足を踏まれて「痛い」を感じるが、踏んだのが美人だったので、これを機会にお茶でも誘おうことを連想する。
(2)満員電車で足を踏まれて「痛い」を感じるが、無神経そうなデブ男だったので、殴ってやることを連想する。
(3)朝起きたら、ガンガン頭が「痛かった」とき、昨夜の飲みすぎ宴会を連想する。
(4)朝起きたら、ガンガン頭が「痛かった」とき、これからでかける満員電車のさらなる苦痛を連想する。

(3)第五段階、第六段階
これに関連しては、今、疑問に思っているのは、以下のことです。

「私にとって、この世界が見える」という文の「主格」は何かということです。「私」が主格ではなく、「この世界」が主格ではないかという疑問がわきました。そうだとすると、「この世界が見える」ということは、「花が咲く」「空が青い」「雨が降る」「車が通る」などと同じ範疇の事柄、すなわち、「出来事」ではないかと思えるのです。そう考えると、「私にとって、この世界が見える」の「この世界が見える」は、直接的には、「私」とは関係のない客観的出来事なのかも知れないと思うのです。その場合は、「私」はどういう立場かというと、「この世界が見える」という出来事、あるいは、事件に、たまたま「居合わせている」というのが実体ではないかと考えました。その結果、私の疑問は、「この世界が見える」という事件に、「私」が居合わせたのは、本当に、たまたまなのか、それとも、ある一定の条件が整えば、必然的に起こりうることなのかということになりそうです。

お礼日時:2005/12/18 09:43

ご返事ありがとうございます。


明日はたっぷり積もりそうな予報です。また「良い運動」ができそうです。
風邪には「睡眠不足」が一番応えます。どうかご自愛下さい。
「補足・お礼」はいつでも可能ですから、少しゆっくりしてください。
因みに、「そば」より「うどん」が成分としては体を温めるらしいです。
私は断然「そば派」ですが、本当に「しばれる」時はうどんにします。

さて、うまく質問できるかどうか覚束ないのですが、
#54の補足における、
<a.「うまそう」という意識を生み出した原因となった脳細胞>と
<b.「美しい」という意識を生み出した原因となった脳細胞>は同一のものでしょうか。

1、違うとすれば、菊花を見た結果としてbではなくaの細胞を選択した要因は何でしょうか。
2、同一であるとすれば、なぜbではなくaの意識に分岐したのでしょうか。

という感じです。
それは「意識が原因系として作用したから」と考えれば解決しそうに思ったわけです。安易すぎますか?

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

<a.「うまそう」という意識を生み出した原因となった脳細胞>と<b.「美しい」という意識を生み出した原因となった脳細胞>は同一のものでしょうか。

違うものです。理由は、<「菊花を見た」-->「美しいと感じる」の連想経路>と<「菊花を見た」-->「うまそうと感じる」の連想経路>とは、異なった連想経路だからです。

連想経路が何故、その都度異なるかは、無意識の状態が、その都度異なるためと思います。わかりやすい例で言うと、菊祭りを見た翌日に見る菊花と、菊花の三杯酢を食べた翌日に見る菊花とでは、同じ菊花でも、菊花から連想される印象が異なることは、ありえそうなことだからです。

説明になっていますでしょうか?

補足日時:2005/12/17 18:10
    • good
    • 0
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!