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「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中21~30件)

ご返事ありがとうございます。



いや、はずみとはいえ「グニュー」とはまさにご同慶の至り。
改めて新年おめでとうございます。と申し上げるべき?でしょうか。
月にあこがれる無意識のイドに抗しきれず、超自我の制止をも振り切り、「月がならぬならば肉の月を」と自我が暴走したわけではないことをひたすら願っております(嫉妬まじりの揶揄)。

<ミクロ分析>を拝見して、kobareroさんの「無意識」を「瞬時」という言葉で置き換えると理解できるように思いましたが、どうでしょうか。
そうであるとすれば、プログラム処理が速くてその過程が目に留まらず「察知できないのだから無意識の作用」というお考えなのでしょうか。
そして結果が現われるのはプログラムが停止した後だから「察知可能」であり、とりもなおさずそれを「意識する」というのだ、ということにつながっていくのでしょうか。

確かに(1)~(6)までを胸の内でつぶやくように意識しながら仕事している人はいないでしょうね。
しかし、それが無意識であることの証明になるかといえば、すぐに納得しづらい部分があります。
なぜなら、総研の所長や木村建設の東京支店長であれば日常茶飯事のことですから、ほぼ反射神経的にこの流れは成立するでしょうが、一番最初の場合であればひとつひとつ吟味し意識しながら組み立てたプロセスではないかと思います。

私の考えでは<ミクロ分析>の最初に【金銭欲、名誉欲が目覚める。(イド)】という起源があって、それに(1)~(6)が続きます。
また「無意識」の箇所は「意識」に置き換わります。

ただ、「意識」というよりは「無意識化された意識」とでも言いたい作用です。
「意図的に学習された無意識」の方が適切かもしれない、とも思います。
そして、学習されることを目的として記憶された無意識は、もはや無意識とは呼べず「意識」の範疇に組み込むべきではないか、という気がします。

【「自我」の「コントロール機能」だけを取り上げて「意識」だと言っているようにも思えます】ともおっしゃっていますが、コントロール機能の所属をどのようにお考えなのか、もう少し詳しく述べていただくことから何か糸口が見出せそうな気もしますがいかがでしょうか。
(1)~(6)が無意識の作用ということは、主文の主語が「私」ではないということになりそうに思うのです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「グニュー」は無意識のイドが行ったわけではなく、物理的な慣性の法則の結果です。おまけに、私の場合、「意識」に選択権はないので、ただただ受身的に味わうだけです。どうでしょう、「意識」に選択権がないのもなかなか都合が良いように思いますが。

質問1:「瞬時」とはどういう意味ですか?
hakobuluさんが<「無意識」を「瞬時」という言葉で置き換えると理解できる>とおっしゃるときの「瞬時」という意味がよくわかりません。例えば、以下の例(昨日の例)で、(1)~(6)の各ステップの一つ一つが瞬時に行われるという意味でしょうか?

   <「設計事務所に低建設コストの設計を依頼」しようとする心の動き>
   (1)設計事務所の中で成果を挙げて地位や給料を上げたい。(無意識の欲望)
   (2)そのためには、業務上の成果を挙げなければならない。(無意識の判断)
   (3)業務上の成果を挙げるための何か良い方法はないか? (無意識の探索)
   (4)そうだ、設計を変えて建設コストを低くすれば良い。 (無意識の発見)
   (5)そのためには、どうすれば良いか。         (無意識の探索)
   (6)そうだ、姉歯設計事務所に頼めば良いのだ。     (無意識の発見)

そうだとした場合、hakobuluさんがおっしゃりたいことは、例えば、(2)の結論を出すプロセスは、本来は意識が認知できるはずのものだが、あまりにもスピードが速くて認知できないのだとおっしゃりたいのでしょうか? もし、そうだとした場合、私の答えは、以下の通りです。

基本的は、スピードが速かろうが遅かろうが、無意識の思考プロセスは、意識には察知できないということです。そして、もし、それが察知できた場合は、上記の例の(1)~(6)の項目数がどんどん増えるだけのことで、その一つ一つが無意識に処理されるという全体の構造に変わりはありません。

また、hakobuluさんが、<一番最初の場合であればひとつひとつ吟味し意識しながら組み立てたプロセスではないかと思います。>というのは、正に、おっしゃるとおりで、無意識がゆっくりと時間をかけて生み出してきた結果を、意識が察知していくプロセスだと思います。

質問2: 「無意識化された意識」という場合の「意識」の定義は何ですか?
#83の補足の質問2で書きましたが、私は、「意識されている」と言えるための条件として、「対象の状態が認知されている」こと、あるいは、対象が変化している場合は、その変化の各ステップの状態が認知されている」ことがあると思います。この条件を欠いてしまったら、そもそも「意識」とは言えなくなると思うのですが。例えば、夜空に花火が開いて散るとき、花火が見えなければ、花火を「意識」しているとは言えないし、花火が開いて散るプロセスが見えなければ、花火が開いて散る様を意識しているとは言えないし、花火の開いて散る時間が、0.005秒しかなく、目に見えなかったら、花火を意識しているとは言えないと思いますが、いかがでしょうか?

回答1: hakobuluさんの文末の質問に対する回答です
>【「自我」の「コントロール機能」だけを取り上げて「意識」だと言っているようにも思えます】ともおっしゃっていますが、コントロール機能の所属をどのようにお考えなのか、もう少し詳しく述べていただくことから何か糸口が見出せそうな気もしますがいかがでしょうか。

「自我」の「コントロール機能」だけを取り上げて「意識」だというのは、私の考えではなく、ウィキペディアの定義では、そうなるのかなという意味です。また、私自身は、「コントロール機能」というのは、思考パターンと考えていますので、無意識が行う活動だと思います。意識はその結果を察知するという関係です。

>(1)~(6)が無意識の作用ということは、主文の主語が「私」ではないということになりそうに思うのです。
主語は、#85補足に書きましたように、<私=自我=無意識>です(ウィキペディアの定義とは異なった考えです)。

補足日時:2006/01/05 09:16
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ご返事ありがとうございます。



今日はやや曇っていますが気温は高いようで、時折屋根を滑り落ちる雪の音が響いてきます。
自然現象には疎くて、夜9:30頃に月が沈むことがあるということは今初めて知りました。
月は、地球がまだ柔らかい頃の自転で生じた遠心力によって地球から分離したもので、いわば「親子」の関係であり、人間が地球によって生み出されたものだとすると人間と月とは「兄弟」の関係だそうです。
(ということを何かで読んだことがあるというだけですが。)
そして、これは人間の「原初の記憶」としてDNAによって引き継がれているらしいですね。

「自我」を少し調べてみました。
ウィキペディアの「精神分析学における自我」の項目内容が理解し易かったので、そのまま転記してみます。
同ページに「哲学における自我」という項目もあります。
私にはチンプンカンプンですが、kobareroさんは興味を持たれるかもしれないと思いURLコピペしておきます。
何か私にもわかりそうな箇所があれば教えてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

ーーーーーーー

【精神分析学における自我】(ウィキペディアより抜粋)
◇自我
自我は意識層の中心の機能で、イドからの要求と超自我からの自己の規制を受け取り、感情を現実に適応させる機能である。
◇イド(エス)
イドは無意識層の中心の機能で、感情、欲求、衝動をそのまま自我に伝える機能である。イドは視床下部のはたらきと関係があると思われる。
◇超自我
超自我は上の二つの層をまたいだ機能で、ルール、道徳観、倫理感、自己の規制を自我に伝える機能を持つ。この機能がイドや自我を強く押し付けているとき、自我がエスの要求を通すことができずに防衛機制を働かせることがある。超自我は前頭葉のはたらきと関係があると思われる。

ーーーーーーー

【無意識の「自我」が生み出した「納得感」なしに、「意識」が勝手に判断するということは私自身の心を観察する限り考えにくいことです。】
:「納得感」という表現はなるほどと気付かされました。確かにそうですね。最終的には理屈ではなく、諸々の条件を総合しての判断ではあるが、それ自体が「納得【感】」に基づく、というのはまさにおっしゃるとおりと思いました。
ここでkobareroさんのおっしゃる「自我」を「超自我」と呼ぶことが許されるならば、無意識の本能的な欲望(エス)と「超自我」の生み出した自己規制が、常態的に自我によって判定されその結果が「納得感」をもたらして個人の言動に現われる。
という解釈もできそうですが、どのように思われるでしょうか。

また、超自我は無意識とは対極の機能と言えるでしょうが、記憶が土台になっていることは同様だろうと思われます。
その記憶を基にして個人的な倫理観などは形成されていくのでしょう。
しかし、それとても自我(意識)の承認(選択)を得られない場合は現実化されないこともある、ということなども言えるかもしれません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「原初の記憶」としてDNAによって引き継がれているのは、「月が地球から分離した」ということがですか? もし、それが本当なら素晴らしいですね! 人間のDNAのほとんどは、使われていない意味不明の部分で占められていると聞いたことがあります。その意味不明の部分に、実は、宇宙や人類の秘密が記述されていたなんてことがあったら、おもしろいですね。今日は、本年の初泳ぎをしてきました。かなり混んでいて、女の人と正面衝突で頭のガチンコしてしまいました。おまけに、どいうはずみか、おっぱいに手がグニューと食い込んでしまいました。

「自我」についてのURL、ありがとうございました。読んでみましたが、何が何だかさっぱりわかりませんでした。ただ、hakobuluさんにコピーしていただいた「自我」、「イド」、「超自我」についての説明は、その文脈だけから判断すれば、それなりにわかるようも思いましたので、取り合えず、以下のような応用例を考えてみました。

<ある建設会社社員の意識の流れ>
(1)建設会社社員としては、建設コストを出来るだけ安くしたい。(欲望)---> イド
(2)設計事務所に低建設コストの設計を依頼。(合目的思考)---> 自我
(3)設計書を見ると、建築基準を満たしていないように思えた。(合理的推察)---> 自我
(4)でも、会社のために、その設計書通りマンション建設をしたい。(欲望)---> イド
(5)それは倫理に反するから、やはり、まともな設計事務所に再依頼しよう。(道徳観)---> 超自我

上記の例では、まず、(1)~(5)の流れの全体のプロセスをコントロールしているのが「自我」だと思います。また、個々のステップを見ると、(1)と(4)は「イド」、(2)と(3)は「自我」、(5)は「超自我」と考えると、ウィキペディアの定義に合うように思います。

これに対する私の考えは以下の通りです。

ウィキペディアによる「自我」の定義は、「自我」の働きをマクロに捕らえた定義だと思います。例えば、上述の例では、(1)~(5)の中には、無意識の働きも含まれますが、それらを統括して全体の流れをコントロールするものとして「自我」を定義付けているのだと思います。また、このようにプロセスの内部で「無意識」の働きを使っているにも関わらず、「自我=意識層の中心機能」と捕らえているということは、恐らく、「自我」の「コントロール機能」だけを取り上げて「意識」だと言っているようにも思えます。ただ、私からみると、これはかなり乱暴な定義のように思えます。前にも触れましたが、私の考えは、常識的、あるいは、学問的に正しいとされている(のかも知れない)考えとは異なった考えだと思っています。私の根拠は唯一「自分自身の心の動きを観察した結果」だけです。

その観点から、上記例(2)をミクロに分析した例を以下に示します。

<「設計事務所に低建設コストの設計を依頼」しようとする心の動き>
(1)設計事務所の中で成果を挙げて地位や給料を上げたい。(無意識の欲望)
(2)そのためには、業務上の成果を挙げなければならない。(無意識の判断)
(3)業務上の成果を挙げるための何か良い方法はないか? (無意識の探索)
(4)そうだ、設計を変えて建設コストを低くすれば良い。 (無意識の発見)
(5)そのためには、どうすれば良いか。         (無意識の探索)
(6)そうだ、姉歯設計事務所に頼めば良いのだ。     (無意識の発見)

私の考えは、上記の(1)~(6)は全て無意識の働きであり、「意識」はそれをトレースして察知しているだけということです。

反論を楽しみにしております。

補足日時:2006/01/04 20:52
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早速のご返事ありがとうございます。



雪が多いといいこともあります。
特にここ数日のような休業日だと、車などの生活騒音が最小限に抑えられるせいもあって、世界中の音を吸い込んでくれるからです。
朝早い時間帯であれば、「しーん」というのが静寂の音であったことを実感として思い出したりします。

【フラグ1】は取り消して、「原因系としての意識の存在」について証明する方向で考えたいと思います。

[~AND・・・<条件N>)] は、私もそう思います。前回書こうと思ったのですが、とりやめたぐらいです。
まず、前回の骨子を再度述べてみます。
【意識はその過程を捉え得てはいないかもしれませんが、THEN以下の判断をできるのは意識だと思います。
無意識がお膳立てしたものを意識が単に察知するのではなく、意識がENDIFとプログラムを締め切らなければ成立しない論理だろうと考えます。】
意識と無意識の関係についての私の考えを理解していただくために、うまく説明できないかもしれませんが、例の耐震強度偽装事件になぞらえてみます。
(適切とは言えないかもしれませんが、感覚的には非常に近いものです。)

総研の内河所長は、姉歯建築士とはあったこともないし、自分も強度については無知だから偽装の指示を出せるはずが無い、と得々として語っていました。
つまり、最終的に意図するところは、
仮に自分の部下がやっていたとしても、自分に責任は一切無いということの布石を打っているわけでしょう。
知らなかったから責任が無い、という論理が通用すると思っているわけです。
しかし、いわゆる管理責任というものがあります。
では、管理責任とは何かと言えば、自らが関与し責任を持つべき部下が行なった行為は自らの責任である、ということだと思います。
私にしてみれば、自らの姿勢が招いた結果が現われているわけですから、「何をやっていたか知らないから責任が無い」という論理自体が誤りではないかと考えるわけです。
自らの考えを社員に浸透させ、それを基準にして社員がそれぞれの個性を発揮していく。
結果として会社のカラーというものも築かれていくことでしょう。
良いカラーが出ればそれは社長の姿勢が良かったからであり、悪ければその逆です。
『必ず因果関係がある』
というのが真実だと私は思います。

ところで、無意識は確かにやっかいですが意識に管理責任があるのではないでしょうか。
無意識が色々な条件に従って出した結論に対して「印をつく」のは意識でしょう。
条件を認識した過程を知らないとしてもです。

手を替え品を替え、とまた揶揄されそうですが、恋愛の例も挙げておきます。
本当に愛する者に対して恐らく理屈は意識しないでしょう。
無論、無意識的には様々な条件をクリアしてきているはずですが、本人はただ「ともかく愛している」としか意識できないでしょう。
それが本当の【愛する】ということだということには恐らく異論は持たれないような気がします。
しかし、その際「愛している」のは「私」ではないのでしょうか。
そう思うようになった「プロセス」を知らないからと言って。

その「プロセス」を生み出したのが他の何者でもない【私の】無意識であるならば、そのプロセスの結果としての「愛している」という意識に対しては「プロセス」の仕組みを知らないとしても、「私という意識」があってこそ導き出された「プロセス」であることに違いはありません。
これを「私という意識」は関与していない、とするには論理的に(倫理的ではなく)無理が生じるような気がします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

そうでしたね。「しーん」というのが静寂の音でしたね。最近は、街の騒音が重なり「ジーン」になったり、空調の音が重なり「ゴォー」になったりしています。昨夜9:30頃、外を見たら、既に月が沈んで見えなくなっていました。地球の回転は速いですね。

ご回答読ませていただき、姉歯問題も含めて、論理が大変よくわかりました。同時に、hakobuluさんと私の考えの違いがどこにあるかもわかったように思います。hakobuluさんは、「私=意識」と捕らえておられますが、私は、「私=自我=無意識」と考えています。人は幼児からの成長途上おいて、対人関係、社会関係を育成するため、「自我」という新しい無意識を構成して行くのだと思います。「自我」という無意識は、生来の原始的欲望を構成する無意識と折り合いながら、統一した人格を形成する役割を担っていると考えます。従って、hakobuluさんのおっしゃる責任感は、この無意識の「自我」が担っていると私は考えています。

なぜ、そのように考えるかというと、全ての判断の基準は最終的には「納得」という「気持ち」だからです。「気持ち」というのは、「意識」によって操作できるものではなく、「向こうからやってくるもの」だからです。そのような「納得感」を生み出しているのは「自我」という無意識だと思います。逆に、「意識」が何かを判断するのだと仮定した場合、私の疑問は「意識」は”何を根拠に”判断するのかということです。私に考えられる答えは、やはり、「納得感」しかないように思います。無意識の「自我」が生み出した「納得感」なしに、「意識」が勝手に判断するということは私自身の心を観察する限り考えにくいことです。

もう少し具体例を挙げて説明した方が良いのかも知れませんが、恐らくhakobuluさんからの反論があると思いますので、それをお聞きしてから、もう少し説明させていただきたいと思いますので、今回は、これで終わりにさせていただきます。

補足日時:2006/01/04 08:49
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ご返事ありがとうございます。



昨日は通常の6倍ぐらいの量の日本酒を飲んでしまいました。
といっても普段飲む量が少ないので大した事はないのですが。

>質問1:感情は意識が選択するのか?
・(2)です。
「感情は無意識が生み出すもの」であることには同意しています。
ただし、意識に選択の余地はある、あるいは「選択すること自体が意識するということ」という考えです。

>質問2:「意識している」と言える条件は?
・「>状態の変化のプロセス」までは考えていませんでしたし、必要性を感じません。
手元の辞書どおりの意味としてより捉えていません。
「意識ー感覚があり物がはっきりわかる、心の状態(働き)。気がついていること」

>質問3:「ケーキが食べたい」と感じるのに意識の選択があるのか?
・おっしゃるように【IF[(ケーキ=おいしいものか)AND(お腹=空腹状態か)] THEN [感情=食べたい]】という図式どおりのことが脳で行なわれていると思います。
さらに正確に表現すると、
【IF[(ケーキ=おいしいものか<条件1>)AND(お腹=空腹状態か<条件2>)AND(精神状態=通常か<条件3>)] THEN [感情=食べたい]】
となるかもしれません。
全ての条件が正である場合は
【THEN [感情=食べたい]】が実行されるでしょうし、条件1と条件2が満たされていても緊急の用件が飛び込んできているなどという状況であれば条件3が満たされないために、
【ELSE[感情=無関心]】が実行されるはずです。
あたかもコンピュータプログラムであるかのように(あるいは何倍もの速度で)計算が行なわれているのでしょう。

確かに、意識はその過程を捉え得てはいないかもしれませんが、THEN以下の判断をできるのは意識だと思います。
無意識がお膳立てしたものを意識が単に察知するのではなく、意識がENDIFとプログラムを締め切らなければ成立しない論理だろうと考えます。
「食べたい」という無意識の結果を察知するのではなく、「食べたい」という意識のスィッチが入ったから「食べたいのだ」という事にでもなるでしょうか。
kobareroさんの場合は、ENDIFとプログラムを締め切るのが、そのプロセスを主導してきた無意識である、ということだと思います。
締め切った時点は無意識と意識の境界線上でしょうから、お互い科学的な根拠に基づかない限り結論は出ないように思います。

そこで、話をひとまず進展させるという意味で、ここはkobareroさんのおっしゃる「意識・無意識」の定義に基づいてしばらく話を進めたいと思いますがいかがでしょうか。
すなわち、「無意識が刺激から感情に至るプロセスを全て制御し、意識はそれをただ察知する」ということで。
<フィードバックする必要が生じた時の場合に備えて、この定義に【フラグ1】を立てておきたいと思いますのでご同意いただければと思います。
また、フラグを立てるまでもなく、この時点で解決しておく必要がどうしてもあると判断される場合は、その旨お知らせ下さい。>
以下はこの定義に基づいて述べていくことにします。

>質問4:「無意識」と、「本能」および「反射神経的反応」の関係は?
・(1)「何か食べたい」というのは「本能」と呼べそうですが、「そばかうどんか」など「選択の余地」があるものは「無意識」とわけたほうがいいような気がします。
(2)全面的に同意します。(1)の私見を絡めると、
【>「反射神経的反応」は大脳の反応、すなわち、「無意識」の反応】で、
『「反射神経反応」は「本能」の反応』ということになるでしょうか。

>質問5:「気が付いたら相手を刺してしまっていた」ということはあり得ないのか?
・【「気が付いたら相手を刺してしまっていた」という現象は、心の動きとしては有り得ることだと考えます】
同意します。
・【このような行為を処罰する法律が実際にあるということは、逆に、そのような心の動きがあることを証明しているとも考えます。】
無論そうでしょうが、前回は「明らかに意図していなければ犯意は軽微」とする現在の法律の解釈に疑義を唱えたわけです。
すなわち、「気が付いたら」ということでいかにも「私」が関与しなかったかのような解釈はおかしいのであって、無意識であったとはいえ選択したのは「意識」ではなかったか、という意味でした。

最後に質問です。
「ケーキの写真を見た後、ケーキ食べたいなあと思いながら(意識しながら)歩いていたら、いつの間にかケーキ屋さんへ通じる道を歩いていた。」という場合についてです。
【フラグ1】の定義に基づいて結果として察知された【「ケーキを食べたいという意識」が、無意識にケーキ屋さんへの道を辿らせる】(a)、ということは無いのでしょうか。
それとも【THEN [感情=食べたい] AND [進行方向の決定=ケーキ屋さんの前を通る道を選択]】(b)、という無意識のみのプロセスで完了するのでしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

普段が銚子一本なら6本、二本なら12本ですから、いずれにしても大したものですよ。hakobuluさんは相当お酒が強そうですね。こちらは、アルコール抜きで探していた月があっさり見つかりました。夕方5時前に真南よりほんの少し西よりのところに、右下だけオレンジ色の細い細い月が見えました。今まで、見えなかったのは、月がやせ細っていた上に、昼間の太陽の光に負けていたみたいです。

質問1:「意識」は何故「ケーキ問題」で選択に関与することができるのか?
今回は「ケーキ問題」に一点集中させていただきます(他の問題も結局これと絡むので)。

>【IF[(ケーキ=おいしいものか<条件1>)AND(お腹=空腹状態か<条件2>)AND(精神状態=通常か<条件3>)] THEN [感情=食べたい]】となるかもしれません。

まさに、おっしゃるとおりだと思います。一般には、条件は以下のようにもっと多くなると思います。

  IF[<条件1>AND<条件2>AND<条件3>AND・・・<条件N>)] THEN [感情=食べたい]

そして、このことが、まさに、おっしゃるとおりであるが故に、何故、その判断に「意識」が関与することが"できるのか"がとても不思議です。もし、「意識」が判断や選択に関与しているとすると、「意識」は、自分が何をしているかについて「意識」自身が知っていなければならないはずです。しかし、現実には、「ケーキ」を見た段階では、「意識」は、<条件1>、<条件2>、<条件3>、・・・、<条件N>が何であるかを知る由もありません。何故なら、それらの条件は無意識の中に眠っているからです。唯一可能な方法があるとすれば、それは、「意識」が<条件1>、<条件2>、<条件3>、・・・、<条件N>を全て自覚的に思い起こすことですが、現実の自分の心の動きを観察すればわかるように、そんなことはしていません。ということで、どうして、「意識」が<IF THEN>の判断に関与できるのか、わからないのですが、hakobuluさんは、どのようにお考えなのでしょうか?

なお、hakobuluさんからの以下のご提案についてですが、今回の議論は、もともとの出発点である#52補足の「見える関連3大問題」の一つ「感覚不要問題」に直結していますので、もし、よろしければ、継続させていただけないでしょうか?

>話をひとまず進展させるという意味で、ここはkobareroさんのおっしゃる「意識・無意識」の定義に基づいてしばらく話を進めたい>と思いますがいかがでしょうか。

最後に、hakobuluさんからのご質問に回答させていただきます。私の考えは(b)の方ですね。理由は、上述の質問に書かせていただきましたように、「意識」が全ての<条件文>を認知するということは、「私自身の心の動きを観察する限り」絶対にないからです。hakobuluさんも自分の心の動きを観察されれば、きっと同意されると思うのですが、もしかすると、hakobuluさんの場合は、私と違って全ての<条件文>を認知しているのかも知れませんね。それはそれで、大発見で、すごくおもしろいのですが。

補足日時:2006/01/03 18:28
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ご返事ありがとうございます。



今日は雨です。
穴ぽこ、傾斜にツルツルが加わり路面は悪鬼の様相を呈し始めるでしょう。

>質問1:「無意識=記憶」と考えられる根拠
:「根拠」というものは特にありません。ただ、そのように考えたい理由を述べてみます。
【無意識は、一言で言うと「生きる欲望」そのものだと考えています】というお考えには同意します。
しかし、「欲望する」とは言わないように思います。「欲望を顕在化する」のが「欲求する」という解釈です。
前にも述べましたが、あらゆる意識の母体は無意識であると私も思います。
1、ケーキを食べて「おいしい」という刺激を得ると、「ケーキ」という視覚と「ケーキはおいしい」という味覚の記憶が無意識として格納される(いつもケーキのことばかり意識しているわけにはいかないので)。
2、次にケーキの写真を見た時、その写真が刺激となって「(無意識に格納されている)ケーキの視覚の記憶」が連想される。(連想されるに足る類似性を持っているため。この意味では錯覚も連想の一部と考えることは可能なようにも思われます。)
3、この視覚の記憶は、関連を持って格納された「ケーキはおいしい」という味覚の記憶にもつながっているため、「ケーキの写真」から「ケーキはおいしい」という記憶が「連想」されることになる。
ここまでが無意識の役割です。
「ケーキはおいしい」という「記憶」に焦点が当たるわけです。
しかし、他にケーキ以上のおいしいものを食べて満腹時にこの写真を見せられても、あまり「食べたい」という「強い欲求」は湧かないはずです。
「ケーキが食べたい」と意識(欲求)するためには、意識が身体的な空腹状態と「ケーキはおいしい」という記憶を合流させる( 選択する)必要があるという構図です。

(1)朝、目が覚める。
:無意識と言うより本能という気がします。
(2)無意識に頭を掻く。
:恥ずかしい時に昔はよく流行ったような記憶があります。
嘘を言う人は相手の目を見ない、弱みのある人は手もみをするなどと同様に、自らの本音を隠すために全く関係ない仕草に相手の注意を向けようとする意識的な反応(図星を突かれたことに対する、あるいは弱点をあからさまにされた事に対する)でしょう。
これを無意識というのは、制限時速50kmの道路を60kgで走るのを無意識というのに似ています。
つまり、意識しないようでいて実は意識しているはず、ということです。
良くある話で、「気が付いたら相手を刺してしまっていた」ということを私は認めません。

(3)通い慣れた道を歩く。
:意識が、無意識の記憶にある周囲の風景を参考にして歩いているわけでしょう。
急に新しいビルが出現したり、暗い夜道に見慣れない灯りが照らされていたりすると道を1本間違えるぐらいは良くあることだと思われます。
無意識の(地図的)記憶だけに頼っているわけではない証のように思います。

(4)その他、いちいち意識していない、普段の多くの行動。
:【いちいち意識していない】行動とは、個人的には反射神経的反応と考えます。
他は多かれ少なかれ、瞬間的であれ時間を要したものであれ、意識が介在したという判断です。

>質問2:「反射神経的反応」の意味は?
:「何も食べない状態」が続けば、意識無意識関係なく死んでしまいますし、疲れが極限に達すれば同様に死に至ります。
これを避けようとするのは反射神経的反応と言っていいように思います。
「きれいな女性に声を掛けたくなる」のも「馬鹿にされて腹が立つ」のも、それが無いからといって生体に決定的なダメージをもたらすわけではありません。
「反射神経的反応」をする必要性がないわけです。

>質問3:「意識」に「そば」を選ばせた原因は何ですか?
:持論からすると、【無意識が「うどんより、そばを食べたい」と感じたということではないのでしょうか?】
ということは考えられません。
基本的にこの方はうどんもそばも両方が好きなわけです。
つまり、「うどんがおいしい」という記憶と「そばがおいしい」という記憶を無意識下に併せ持っているはずです。
その(仮に)お昼時の気温。窓外の景色にまつわる記憶。午前中の出来事から想起される様々な事ども。
例えばこれらが「要因」です。
これらを編み上げるのは意識でしょう。結果として醸し出されるのが「私としての意識」ではないかと思います。
これが意識でないとしたら、「私」という存在は生きているのではなく、「何かの現象」に他なりません。
「何か、そばでも食いたいなあ。」と思う時、結局「私がそばを食いたいと思う」ということではないのでしょうか。
「いや、実はうどんでもいいんだ。」ということを言えるのでしょうか。
「うどんより、そばを食べたい(a)」という無意識の存在を否定しているのではありません。
しかし「そばより、うどんを食べたい(b)」という無意識の存在もあるはずです。
どちらかを選択することが可能なのは意識である、と考えるのが自然なように思うわけです。
なぜなら(a)も(b)も『【無】意識』としての「記憶」です。
(b)ではなく(a)であるという能動的選択をするためには、無意識ではないという意味の『【有】意識』としての『意識』が必要でしょう(これが意識でないとするには、『無意識領域における意識』を設定する必要があるように思います。)。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

穴ぼこ問題が大変そうですね。事故等起こらないと良いのですが。こちらは、本年3日目になってやっと晴れました。そして、待望の月を探しましたが、結局、存在しないことの確実になりました。次は一体何時頃どこから現れるのか楽しみですが、多分、今度見るのは、夜なんでしょね。

質問1:感情は意識が選択するのか?
「そば」か「うどん」かの話のところで、ちょっとわからなくなったので、初めに確認させてください。感情と無意識および意識の関係について、私は以下の(1)の考え方なのですが、hakobuluさんは、(2)の考えなのでしょうか? あるいは、それ以外? 

(1)感情は無意識が生み出すものであり、意識はそれを察知するだけで、選択の余地はない。
(2)無意識は表出可能な複数の感情の候補を用意し、意識はその中から適切なものをひとつ選択する。
(3)それ以外。

質問2:「意識している」と言える条件は?
hakobuluさんが意識の働きとして考えておられることの中には、私にとっては、それは無意識の働きではないかと思われるものが含まれているように思います。そこで、「意識している」といえるための条件を考えてみました。私は以下のように考えますが、hakobuluさんのお考えをお聞かせください。

  ある現象について「意識している」ということは、その現象の「状態」や「状態の変化のプロセス」が明確に認知されているということです。
  従って、もし、明確に認知されていないのであれば、その現象について「意識」しているとは言えないと考えます。

質問3:「ケーキが食べたい」と感じるのに意識の選択があるのか?
>「ケーキが食べたい」と意識(欲求)するためには、意識が身体的な空腹状態と「ケーキはおいしい」という記憶を合流させる( 選択する)必要があるという構図です。

上述のhakobuluさんの説明をみると、以下のようなコンピュータのプログラを思い出します。

IF[(ケーキ=おいしいものか)AND(お腹=空腹状態か)] THEN [感情=食べたい]

ここで、私の疑問は、以下の通りです。

もし、上記のようなロジックが「意識」によって遂行されているとすると、ケーキを見た瞬間には、まだ、感情的にはニュートラル(無感情)で、「意識」がお腹が空いているかどうかを「確認」した後に初めて、「食べたい」という感情がわいてくることになります。しかし、そのような「意識的」プロセスが実際に行われいるとお考えでしょうか? 少なくとも私の心に関するかぎり、そのような理性的な反応はあり得ないことなのですが。全ては、無意識が判断していると思うのですが。

質問4:「無意識」と、「本能」および「反射神経的反応」の関係は?
hakobuluさんは、「無意識」と、「本能」および「反射神経的反応」は別のものとお考えですが、私は以下のように考えています。hakobuluさんのお考えをお知らせください。

(1)「本能」は、人間の心身に常時働きかけをしている存在だと思いますが、その働きかけは、直接的には「脳」を通して行われていると思います。そして、その「脳」を通しての「本能」の働きは、「無意識」という形で実現されていると考えます。従って、「本能」は「無意識」と同義だと思います。

(2)「反射神経的反応」という言葉は、「反射神経反応」と分けて考えた方が良いと思います。「反射神経反応」であれば、脳を経由せず(正確には、大脳を経由せずかも知れません)、神経系統だけで反応する身体的現象のように思います。例えば、急に目に光を当てると瞳孔が小さくなるとか、膝下を叩くと足が上がるなどです。それに対して、「反射神経的反応」というと、「反射神経反応」に似ているが、「反射神経反応」ではない現象を暗示させます。すなわち、何らかの大脳の働きを通して行われる現象を暗示させます。従って、私は、「反射神経的反応」は大脳の反応、すなわち、「無意識」の反応ではないかと思います。

質問5:「気が付いたら相手を刺してしまっていた」ということはあり得ないのか?
hakobuluさんが、<「気が付いたら相手を刺してしまっていた」ということを私は認めません。>とおっしゃるのは、倫理的意見を述べられているのだと思います。ただ、私は、「気が付いたら相手を刺してしまっていた」という現象は、心の動きとしては有り得ることだと考えます。もちろん、それは、倫理的には認められないし、また、法律的にも処罰されるべきであると考えますが、一方で、このような行為を処罰する法律が実際にあるということは、逆に、そのような心の動きがあることを証明しているとも考えますが、いかがでしょうか?

補足日時:2006/01/03 10:42
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ご返事ありがとうございます。



>質問1:『欲望を格納してはいるが、自ら欲求することは無い』とは
:欲望の記憶は持っているが、何かの刺激を受けてその記憶の形態を提供することはできても、記憶自体が現実的な欲求として機能することはない。
という意味です。
(1)と(3)は生体の反射神経的反応と理解します。

(2)食欲は本能的な欲求でしょうから、本当にお腹が空いていればメニューを見る以前に空腹を感じるでしょう。
また、メニューを見てから食欲が湧いたとすれば、メニューを見るという刺激が無意識内の「メニューという記憶」にアクセスし、「お腹が空いた時にメニューを見たこと」を連想させた結果、「お腹が空いた(から食べたい)」という意識につながるのだと思います。

(4)一番を取った場合の快感が記憶(あるいは学習としての記憶)として無意識に格納されているのは確かだと思います。
ただ、実際的に「一番を取りたい」と認識するためには「私」がそれを選択する必要があると思います。
この場での【「私」がそれを選択する】という言い回しが不適当だとすれば「自我が主張する」といってもいいし、前回おっしゃっていた「自己実現欲求」が顕在化すると言ってもいいかもしれません。

>質問2:「田園風景を見る」ことによって行われる様々な『連想』
:田園風景を見て、たまたま何かを思い出すという選択をせずに、一気に「心が休まる」という記憶の方を優先したということです。

>質問3:『意識は.....、(連想結果の)選択を行なう』の具体例
(1)「温泉は気持ちの良い所だ」という情報(記憶)が無意識。
「山も気持ちがいいし、釣りも気持ちがいい。しかし、温泉にしよう。」と(瞬間的に)選択するのが意識。
というように考えています。
(2)全く解答欄に留意せず選んだのであれば選択したとは言えないでしょうし、どんな理由にせよ「B」という認識があった以上「意識による選択」ではないかと思います。
(3)無意識が「そば」を選んだとは到底思えません。
「そば」にした何らかの要因があるはずと思います。
無論、その要因(記憶)は無意識に格納されているため気付かなかったのでしょうが、例えば「あ、そういうわけで、あの時そばにしたのか。」と気付く場合もあるでしょう。
通常はこれを無意識が「そば」を選ばせた、と言うのでしょうが、実際には意識が「無意識の要因」に基づいて、そばを選択したのだと思います。
「無意識」はあくまで「記憶」にすぎない、と考えています。
刺激によって波立つことはあっても、意識として言動を決定する機能までは備えていないように思うのです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝は5時前に目覚め、5時丁度に外を見ましたが、またもや曇りで月を確認できませんでした。ほとんどむきになってます。2日も続けて曇りというのは、この時期には珍しいことです。早く、晴天の2006年を見たいです。今年は、どういう年になるんでしょうね? 少なくとも小泉首相の引退は、かなり大きなインパクトを与えそうですが、イラク、パレスチナ、中国に何か新しい事態が起こるのかどうか、なかなか予測が難しいです。

さて、hakobuluさんの「無意識=記憶=無意図/無選択」理論は、私にとっては、かなり理解困難な世界です。というのは、私は、「無意識=欲望=意図/選択」と考えているからです。もしかすると、「無意識」という言葉の解釈が、hakobuluさんと私でかなり違っているのではないかとも思えてきました。その確認も含めて、また、いくつか質問をさせてください。

質問1:「無意識=記憶」と考えられる根拠は何ですか?
私は、無意識は、一言で言うと「生きる欲望」そのものだと考えています。従って、我々の普段の生活のほとんどは、無意識が支えていて、無意識が活動していなければ、一切の活動は不可能だと思います。無意識は、確かに「記憶」の内容を利用するでしょうが、「無意識=記憶」と捕らえてしまうと、無意識が人間の活動を積極的に動かしているという事実を説明できないように思います。hakobuluさんが、「無意識=記憶」と考える根拠は何でしょうか? また、無意識が人間の活動を引き起こしている以下のような例をどのように説明しますか?

(1)朝、目が覚める。
(2)無意識に頭を掻く。
(3)通い慣れた道を歩く。
(4)その他、いちいち意識していない、普段の多くの行動。

質問2:「反射神経的反応」の意味は?
hakobuluさんは、以下の(1)、(3)は、生体の「反射神経的反応」と考えておられますが、「反射神経的反応」とはどういう意味でしょうか? 「あたかも反射神経のように、自動的に反応する」という意味でしょうか? もし、そうだとすると、きれいな女性を見て声をかけたくなるのも、馬鹿にされて殴りたくなるのも、失業して困ったと感じるのも、親しい人が死んで悲しいと感じるのも、全て「反射神経的反応」ということになりますか?

(1)一日何も食べなかったら、お腹がすいてどうしようもなくなった。(何か食べたいと無意識が欲求しているのではないか)
(2)レストランのメニューを見たら、俄然、食欲がわいてきた。(食欲は、無意識の欲求ではないか)
(3)疲れたので横になりたかった。(横になりたいのは、無意識の欲求ではないか)
(4)試験で一番を取りたかった。(一番を取りたいのは、無意識の欲求ではないか)

質問3:「意識」に「そば」を選ばせた原因は何ですか?
「そば」にしようか「うどん」にしようか迷ったが、結局、「そば」にしたという場合、<実際には意識が「無意識の要因」に基づいて、そばを選択した>とお考えですが、その場合、「意識」に「そば」を選ばせた理由は何ですか? 「無意識の要因」という言葉が抽象的でちょっとわかりにくいのですが、具体的には、無意識が「うどんより、そばを食べたい」と感じたということではないのでしょうか?

補足日時:2006/01/02 09:00
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新年おめでとうございます。



もう1ヶ月以上経ったんですね。
いつも本質に迫ろうとするkobareroさんの果敢な挑戦に便乗しながら、無責任な感想を述べているだけですが、楽しい脳内散歩を楽しませていただいており感謝いたしております。
糸くずの先ほどのヒントにでも至る事ができれば、得がたいものであろうとも感じています。
本年も引き続きよろしくお願い申し上げます。

ところで、kobareroさんは地球船に乗って月を追っているわけですが、昔の人は地球が動くはずもなく月だけが動くと考えていたのでしたよね。
今でもふとそうではないかと感じてしまうほど自然な意識ではないかと思うのですが、この意識の動きに疑念を抱くようになるためには、「今の私にとっての真実」を否定する勇気が科学性に裏付けられた結果なのかもしれません。

(1)「意識を集中する」の主語
:「全ての起源は無意識である」と私も思っています。
(「宇宙の起源が何か」はこの際、別として)
【意識を集中する」という心の働きは、無意識である「自己実現欲望」がその原因系である】
というのは適切な表現かもしれません。
「無意識」は『あるがままを受け止め、吸収し、ただそこにあるだけ』ですし、『欲望を格納してはいるが、自ら欲求することは無い』ということが前提になっているのであれば。
また、『意識を集中した結果として、他の「自己実現欲望(無意識の)」が触発される』ということもあり得るということであれば。

ただ、「欲望」は(火種としての)原因であり、「欲求」は(引き金としての)きっかけでしょう。
「意識」は(弾丸としての)実体であると考えれば、「集中する」ことの(撃つという行為の)主語としては、『自己愛』を推薦したいと思います。

(2)「見たり聞いたりする」の主語は?
:「田園風景を見る」のが「生物的生存欲望に基づく周囲監視欲求」という点は大変興味深く拝見しました。
言われてみれば確かにそのような気もしてきます。
ただ、「田園風景を見る」ことによって様々な『連想』も行なわれると思われます。
この点に留意して、【意識は、そのことに気付いているという関係】というよりも、『意識はそのことに気付いて自己愛に基づき、(連想結果の)選択を行なう』と表現したいように思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

元旦と言えば晴れというのが子供の頃からの印象でしたが、今日は一日中完全に曇っていました。最近は元旦と言っても、門松を立てる家も少ないし、コンビニ、スーパー、ファミレス、ファーストフード、コーヒーショップ、パチンコ屋もほとんど営業しているので、あまり普段と変わらない気分です。それにしても、それらを抱え込んだ地球が、多分すごく重いと思うのですが、空間にポッカリ浮いているというのは、正気の沙汰ではないように思います。

新年早々ですが、早速質問させてください。

質問1:『欲望を格納してはいるが、自ら欲求することは無い』とはどういう意味ですか?
無意識は『欲望を格納してはいるが、自ら欲求することは無い』ということですが、単純に考えると「無意識」は欲求の塊のように思うので、hakobuluさんが、どいういう意味で「自ら欲求することは無い」とおっしゃっているのかがわかりません。例えば、以下のような例は、どのようにお考えですか?

(1)一日何も食べなかったら、お腹がすいてどうしようもなくなった。(何か食べたいと無意識が欲求しているのではないか)
(2)レストランのメニューを見たら、俄然、食欲がわいてきた。(食欲は、無意識の欲求ではないか)
(3)疲れたので横になりたかった。(横になりたいのは、無意識の欲求ではないか)
(4)試験で一番を取りたかった。(一番を取りたいのは、無意識の欲求ではないか)

質問2:「田園風景を見る」ことによって行われる様々な『連想』とは例えばどのようなものですか?
「田園風景を見ると心が休まる」という現象では、私の場合、特に連想というプロセスがあるようには思えないのですが、hakobuluさんは、例えば、どのような連想があるとお考えですか(もちろん、田園風景を見て、たまたま、何かを思い出すということはあるかも知れませんが、それは、心が休まるということと関係ないように思います)?

質問3:『意識は.....、(連想結果の)選択を行なう』の具体例は?
『意識はそのことに気付いて自己愛に基づき、(連想結果の)選択を行なう』についてですが、「意識」が「選択を行う」具体的な例を教えていただけますか? 私が考えると、以下のように、いずれも選択は無意識によって行われていて、意識によって行われる例を思いつきません。

(1)どこかへ行きたいなと思っていたら、温泉を思いついた。(温泉を選択したのは、無意識ではないか)
(2)試験の多岐選択で、A,B,Cから、Bを選んだ。(Bを選んだのは、無意識ではないか)
(3)「そば」にしようか「うどん」にしようか迷ったが、結局、「そば」にした。(「そば」を選んだのは無意識ではないか)

補足日時:2006/01/01 17:30
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ご返事ありがとうございます。



>質問1 無意識の意識に対する反応タイプ
:全くそのとおりです。
>質問2 原因系の「意識」の例
:「汗よ止まれと念ずると【必ず】汗が出なくなる」わけではありません。
そういう場合もある。すんわち、意識が原因系になることが絶対に無いということは無い、という意味です。
(1)から(4)は、ほぼ当てはまるという事になるのではないでしょうか。

>質問3 意識を集中すると、無意識が課題を解決してくれるのか?
:無意識が何らかの反応をするという意味では「遠からず」です。
必ずしも最善の選択をして解決するわけではないという意味で「当たらず」です。

>質問4:特に意識を集中しない場合は、無意識に影響を与えないのか?
:(1)~(4)とも、因果関係を認識していれば、意識が無意識に作用したと言っていいのではないかと考えます。

この回答への補足

明けましておめでとうございます。

とうとう年を越してしまいましたね。長い間、いつも丁寧なご回答をいただき、本当にありがとうございます。お陰さまで、一人では、決して考え至らなかったであろう様々な問題を掘り起こすことができ、また、色々な見方を学ぶこともでき、非常によい勉強になりました。今年も、よろしくお願い申し上げます。

さて、今朝は、5時過ぎにパッと目が覚め、目覚めると同時に「月を見なくちゃ」の思いが沸きあがり、早速、外を見たのですが、こういうときに限り天気予報が当たって曇り空。結局、何も見えませんでした。昨日より一時間以上早いので、何か発見があるかと期待したのですが、ダメでした。

ところで、本論ですが、「意識」についてのhakobuluさんのお考えは、かなり理解できてきたと思いますので、この辺で、「意識」そのものの背景について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。以下のような問題提起をさせていただきましたので、よろしくお願いいたします。

(1)「意識を集中する」の主語は誰か?
「意識を集中する」のは、誰でしょうか、あるいは、何でしょうか? 私は自分の心の中にある「欲望」あるいは「欲求」だと思います。心の中には様々な欲望や欲求が渦巻いているように思いますが、その中で特に「意識を集中する」のは、「自己実現欲望」だと考えます。また、この「自己実現欲望」は、必要に応じて「自己実現欲求」として「意識」に上りますが、通常は無意識の中にあると思います。従って、「意識を集中する」という心の働きは、無意識である「自己実現欲望」がその原因系であると考えます。この点について、hakobuluさんはどのようにお考えでしょうか?

(2)「見たり聞いたりする」の主語は誰か?
「田園風景を見たり」、「彼の冗談を聞いたりする」の主語は誰、あるいは、何でしょうか? 私は、これも自分の中の「欲望」あるいは「欲求」だと思います。この場合の欲望は、それぞれ、生物的生存欲望に基づく周囲監視欲求、および、自己実現欲求が関連しているように思います。いずれにしても、基本的には無意識である欲望が原因系として、「田園風景を見たり」「彼の冗談を聞いたりする」働きを引き起こしているのだと思います。従って、以下の例では、「田園風景を見たり」「写真を見たり」「冗談を聞いたり」「頭痛を感じたり」しているのは無意識であり、意識は、そのことに気付いているという関係だと思います。もし、別のお考えがあれば、お知らせください。

(1)田園風景を見ると心が休まる。
(2)子供の頃の写真を見ていたら、小学校の友達を思い出した。
(3)彼の冗談を聞いたら、思わず噴出した。
(4)頭痛がするので、憂鬱になった。

補足日時:2006/01/01 11:11
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ご返事ありがとうございます。



>「早起きしよう」と強く意識すれば、早起きできるんですよね。
:なかなか茶目っ気のある方ですね。
ただし、保障は致しかねます。

>質問1:意図したり選択したりするのは、全て「意識」の働き?
:基本的にはkobareroさんのなさっている解釈のとおりと判断していただいてよろしいと思います。
ただ、「無意識が反射的に反応する」ことを「意図・選択」という言葉で表現すると、私の意図とは少し違ってきます。
とげが刺さってそれを痛覚神経が認識するような、あくまで反射神経として機能する無意識です。
次項でもう少し詳しく説明させていただきます。

>質問2:腕を組むとき、思い出したくない過去の体験とは?
誠に申し訳ありません。
>Bの「意識から抑圧された記憶」という部分は~で、「B」ではなく「B'」です。
「’」が見づらいのでB1,B2と変更して整理してみます。
【無意識】
A.「反射神経」として作用するために学習された記憶
例)集中しようとする意識することによって、指が顎を触る。
B1.意識されない記憶
例)新幹線の窓から視野に入った橋。
「見た」という意識は持たないが、無意識下に記憶される。
B2.意識から抑圧された記憶
例1)幼時に虐待を受けたことを受け容れられなくて、意識がその記憶を抑圧し無意識として格納することによって、意識の目に触れないようにする。
例2)嫌いな人の名前は【比較的】忘れ易い。

「B1」→あの時窓から見たはずの橋が何色だったか是非思い出してくれ、と言われた場合、『必死に意識的に思い出そうとすると思い出す(ことがある)』
「B2」
例1)→幼時に虐待を受けたという事実を『意識的に明白にする』ことによって、いわゆるトラウマを解消し、無意識的に現われていた心身の症状が解消することがある。
例2)→「嫌いだ」と意識すると、その名前が「無意識の記憶」として格納される確率は高い。

質問3:原因系としての「意識」
「分類1~分類3」まで私の言いたいことと違いはないように思います。
しかし、質問2でも述べさせていただいたように他の要素も含まれてきます。
「分類1~分類3」だけではなく、あくまで「意識することによって無意識が影響を受ける場合【も】ある」というふうに考えていただくと有り難いと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝は、しっかり早起きして6時過ぎに月を見ようとしたのですが、何と月がない! これは一体どうしたことでしょう? 3日前の朝には、しっかり見えていたので、新月には早すぎるし、地平線に隠れる高さでもないと思うのですが。やっぱり、誰かに盗まれたのでは。気象庁に連絡しようかな。

hakobuluさんのお考えが少しずつ見えてきたように思うのですが、しつこく、再度、確認をさせてください。

質問1:A、B1、B2は、無意識の意識に対する反応タイプと考えて良いか?
hakobuluさんのおっしゃるA、B1、B2の違いは、結局、意識からの刺激により、無意識がどのように反応するか、その反応の仕方の違いと理解しましたが、それでOKですか? すなわち、Aは機械的に反応し、B1は探索的に反応し、B2は抵抗しつつ反応するというようなイメージです。

質問2:原因系の「意識」の例として、以下のものもOKですか?
原因系の「意識」として、hakobuluさんが挙げた例は、「汗よ止まれと念ずると汗が出なくなる」を初め、私にはとても体験できないようなものがほとんどです。それで、私でも体験可能な平凡な例を考えてみました(以下)。このような例も、hakobuluさんの考える原因系の「意識」の例と考えて良いですか?

(1)彼の名前を思い出そうと意識を集中したら思い出した。
(2)三角形の内角の和が180度であることを証明しようと意識を集中したらヒントがひらめいた。
(3)言い訳の言葉を探して意識を集中したら、うまい口実が見つかった。
(4)将棋に負けそうだったが意識を集中したら、良い手が見つかった。

質問3:意識を集中すると、無意識が課題を解決してくれるのか?
もし、質問2の答えがOKだとすると、hakobuluさんの挙げた例は、おおまかに括ると、「課題や問題に意識を集中させると、その結果として、無意識が何らかの解決案(または、ヒント)を出してくれる、あるいは、直接解決してくれる」ような例と言えそうですが、当たらずと言えども遠からずですか?

質問4:特に意識を集中しない場合は、無意識に影響を与えないのか?
hakobuluさんがこれまで挙げられた例や質問1の例を考えると、いずれも、「意識を集中させる」ことがキーワードのように思うのですが、逆に「意識はしているが、特に意識を集中させていない」以下のような例は、どのようにお考えですか? これらも、やはり、意識が原因として無意識に影響を与える例と考えますか?

(1)田園風景を見ると心が休まる。
(2)子供の頃の写真を見ていたら、小学校の友達を思い出した。
(3)彼の冗談を聞いたら、思わず噴出した。
(4)頭痛がするので、憂鬱になった。

補足日時:2005/12/31 17:53
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ご返事ありがとうございました。


月は盗まれたのではなくて、恐らくkobareroさんの大きな目で(よくゴミが入るようなので、そう思うのですが)毎日のように見られて恥ずかしくなって隠れたのでしょう。

>(1)意識は何をしているか?
「腹を立てることは悲しいことです」とは思いません。「腹を立てることは往々にして無駄なことが多い」とは思いますが。
書き方が悪くて誤解を生じたようです。申し訳ありません。
嫉妬や悪意で人を馬鹿にするような人間の心情を悲しいと思うことはありませんかという意味で、それゆえに相手のことを憐れむことはないですか、ということを聞きたかったのです。

>「無意識には自浄作用がある」ということでしょうか?
:それもありますが、ポイントということになると、無意識はただ無意識として清濁合わせ呑んだ状態で浮遊しているだけで、刺激に対して反射的な反応をすることはあるが、何かを意図したり選択したりすることはないだろうという考えです。

>(2)意識が原因系となる例
またしても言葉足らずであったようです。
<例1>について
「集中する時は腕を組むといい」という事柄は、一度明確に意識された記憶として無意識領域に格納されているわけではない、ということです。
【B.意識されない記憶】の方です。
【A.「反射神経」として作用するために学習された記憶】というほど定型的な反応ではありません。
かといって、【B'辛く思い出したくないものとして抑圧的に格納している過去の記憶、あるいは意識することが社会的な不都合をもたらす記憶】ということでもありません。
BとB'をあえて一緒にしたのは、意識を原因系として浮かび上がる性質のものかどうか、が論点になっているからです。

Bの「意識から抑圧された記憶」という部分は、おっしゃるような欲望も含まれますが、主に過去に体験した思い出したくない意図的に封印したいと判断された記憶群です。
「判断する」のは意識で、積極的に封印するというよりは無意識から意識に立ち上る回路を遮断しようとするのではないかと個人的には思っています。

<例2>について
その原理には一応同意します。ただし、逆にいつもはすぐ眠ってしまう人が今日は起きていてあの深夜テレビを是非見たい、と思えば起きていれる確率は高まるでしょうが、特に意識しなければいつもの時間に眠ってしまうでしょう。

<例3>について
【「感情の生起」自体は、無意識が引き起こしたもので、意識自身は、感情を引き起こすことはできない】
:ここも食い違いの顕著な点かもしれませんね。
私は【「かわいい」という「感情の記憶」】を無意識だと考えます。
視覚刺激を受けた無意識が女性に対する様々な記憶をピックアップし、意識はその中から「かわいい」を選択し「私」に認識させたわけです。
そして、「私」が認識したことによって痛覚神経を麻痺させる(あるいは和らげる)物質が放出されるのではないかという考えですが、とんでもない思い違いでしょうか。
どうも「感覚の生起」とは一線を画したい気がします。

>(3)意識が原因系となる典型例は、意志ではないでしょうか?
前述の内容で、前回挙げた例が典型例とまではいかなくとも意識の原因系だと私が考えていることは変わらないことをご承知いただいた上でお答えしたいと思います。

意識が原因系とは、意識が原因となって無意識に影響を与える場合を想定していたのですが、少し違っていたのかもしれませんね。
ご提示の例は、
前半の「~が」で無意識を示し、「~ので」「~して」で最初に反射神経的に現われた無意識に替わって他の無意識が意識によって選択され、「~した」で意志が結果となって現われているように思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝は、朝だけ曇って月が見えませんでした。月が東に出て、太陽と並ぶ瞬間を楽しみにしていたのに、肝心のときに月が見えなくなってしまい、くやしいです。元旦は曇りだというから、勝負は明日一日。明日は早起きしないと。「早起きしよう」と強く意識すれば、早起きできるんですよね。

質問1:意図したり選択したりするのは、全て「意識」の働きとお考えですか?
>無意識はただ無意識として清濁合わせ呑んだ状態で浮遊しているだけで、刺激に対して反射的な反応をすることはあるが、何かを意図したり選択したりすることはない。

上述のhakobuluさんの説明では、無意識が何かを意図したり選択したりすることはないということですが、それでは、何かを意図したり選択したりするのは、全て意識の働きとお考えでしょうか? あるいは、無意識が反射的に反応する場合は、「例外的に」、無意識が何かを意図したり選択したりするとおっしゃっているのでしょうか? 

質問2:腕を組むとき、思い出したくない過去の体験とは、例えば、どのような体験ですか?
>Bの「意識から抑圧された記憶」という部分は、おっしゃるような欲望も含まれますが、主に過去に体験した思い出したくない意図的に封印したいと判断された記憶群です。

上述のhakobuluさんの【B】の説明で、「思い出したくない過去の体験」というのは、「集中する時は腕を組む」の例では、具体的にどのようなことを言っておられるのでしょうか? 前回も書きましたように【B】の説明が、難しくて付いて行けないので、よろしくお願いします。

質問3:原因系としての「意識」は、以下のように分類してよろしいですか?
hakobuluさんが、これまで挙げて来られた原因系としての「意識」の例を分類すると、以下のようにまとめることができるのではないかと思いました。このような理解でよろしいでしょうか?

分類1:「願いを強く意識すれば、その願いが体現される」
(1)「早く寝よう」と意識すると眠くなる。
(2)「あの深夜テレビを是非見たいと思えば、起きていられる。
(3)「聞こえない」と集中すると聞こえなくなる。
(4)「汗よ止まってくれ」と念ずると汗が出なくなる。
(5)「部長の顔を見たくない」と思えば、腹痛が起こる。
(6)「若く見られたい」と思えば、顔がつやつやする。

分類2:「希望を意識すれば、体感苦痛が減る」
(1)かわいい女子高校生であることを意識すれば、踏まれても痛みが軽減する。
(2)宴会が控えていることを意識すれば、仕事の疲れが軽減する。

分類3:「願いを意識すれば、無意識の支援策が体現される」
(1)「じっくり考えたい」と意識すると、無意識に腕が組まれる。

補足日時:2005/12/30 19:04
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