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「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中11~20件)

ご返事ありがとうございます。



「磁石」もいい言葉です。イメージとして「砂」とか「石英」などを連想します。
「鉱物」の無機的でありながら、抑圧された意志を内面に隠し持っているかのような佇まいに妙に惹かれます。

>質問1:無意識が注目した事柄を意識はどうやって意識化したり、あるいは、意識化を拒否したりできるのでしょうか?
【無意識が注目した内容が何であるかによらずに、全く気まぐれに、あるときは意識化し、あるときは意識化を拒否するというようなことしかできないのではないでしょうか?】
そのとおりと思います。
なぜなら、その気まぐれこそが「私である証」だからです。
「私」は意志しないまでも意識することがあるということです。
>質問2: 無意識に能動性がないと考える根拠は?
【無意識の中に欲望はないと?】
・欲望としてあるのは本能だと思います。厳密に言うとこれは能動性ではなく、惰性にすぎません。
能動性とはあくまでも「私の選択」によるものである必要があると考えます。
本能以外の欲望と見えるものは、欲望を満たした記憶として無意識に格納されているだけで、必ずしも欲望として意識されると定められているわけではありません。
「タバコを吸いたい」というのは意識化されて初めて欲望と言えますが、「タバコはおいしい」という無意識での記憶は、「タバコを見るのも嫌だ」という意識に変質する場合もあるわけで、それ自体が「吸いたいという欲望」として格納されているわけではないと考えます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>「鉱物」の無機的でありながら、抑圧された意志を内面に隠し持っているかのような佇まいに妙に惹かれます。
すごい詩的な感性ですね。私は、子供の頃、河原で磁石を使って砂鉄を引き寄せ、ごそっと大量に収穫があったときの手の感覚が忘れられません。

hakobuluさんの無意識に対する考え方は、私とかなり異なっているようであることはわかりましたが、まだ、どのように異なっているのか把握できる段階ではないので、少し質問させてください。あー、それと、hakobuluさんの考える「私」の意味も私とだいぶ違うみたいです。

質問1:意識が「気まぐれに」意識化を拒否することができると考える理由は ?
例えば、以下のようなことは通常考えれないと思いますが、意識が「気まぐれに」意識化を拒否することができると考える根拠は何ですか?

(1)朝起きて「出勤しなければ」と無意識が思っても、意識が拒否して涼しい顔で欠勤する。
(2)殺人を犯して「自首しよう」と無意識が思っても、意識が拒否して、何の罪の意識も持たず平気で暮らす。
(3)駅のホームから落ちそうなので「危ない」と無意識が思っても、意識が拒否して、平気で落ちて轢死する。

質問2:「私である証」の「私」とは何んですか?
私にとって、「私」とは、無意識としての私、意識する私、考える私、社会との接点となる私などなど、様々な側面を持った複合体ですが、hakobuluさんが「私」と考えておられるのはどのようなものでしょうか? 意識する私だけが、「私」とお考えですか?

質問3: 本能、無意識、反射神経的反応の存在はどのようにして知ることができますか?
意識に働きかけて来ることで、その存在を知るのではないのでしょうか? それ以外の方法があったら教えてください。

質問4: 本能、無意識、反射神経的反応を区別する基準は何ですか?
hakobuluさんは、本能、無意識、反射神経的反応を区別して考えておられますが、これらを区別する基準は何でしょうか? 私の場合は、これらの存在は、全て意識を通して知る以外の方法がないように思うので、どれが本能で、どれが無意識で、どれが反射神経的反応かを区別する方法がわかりません。

補足日時:2006/01/09 21:44
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ご返事ありがとうございます。



確かにまぎらわしい回答でした。
表現したい言葉は色々含まれていますが、正確に言うと#94の(1)でも(2)でもありません。
自分の中で「選択」の定義が曖昧であったことを認めます。
また、そのために矛盾した表現になっている箇所もあると思います。
改めて言い直してみます。

1、無意識が最も気にしている事柄が意識として認識される。
2、ただし、無意識が最も気にする事柄が常に意識として認識されるわけではない。
つまり、意識は意識するかどうかという選択を常に行なっている。
3、また、無意識が気にするというのは能動的な作用としては捉えない。
あくまで「無意識」である。
4、なぜ、無意識が注目するのか(以後、「気にする」の替わりにこちらを使います。)という理由が、そのまま個の特性であり、同様になぜそれを意識するのかを個性と呼んでもいいかもしれません。
5、まとめると、「無意識が無意識的に注目した事柄を、意識が意識的に意識化する」といった感じになると思います。


kobareroさんにおっしゃっていただいたところの
「無意識が選択し、意識が承認(または採用)する」という表現でもいいのですが、「官僚が決定し、何も知らない政治家は言いなりにそれを発表するだけ」というニュアンスに似て、能動性の在り処が異なる印象も受けるのです。(また、それを意図されているのだと思いますが)


「ふと、旅行へ行きたいと思った」という場合、『なぜその時、無意識がそこに注目したのか】ということを考えると、何かの刺激(視覚・聴覚を初め、思惟も含めます)による連想が無意識で行なわれたからでしょう。
地中に生まれ育ち「此処ではない風景」を知らない人間にとって「風景に対する記憶」は無いでしょうし、「旅行」という連想結果を得ることもないでしょう。
仮に連想の刺激が「昼下がりの空に見る月」だったとします。
その刺激によって「a.ラーメンを食べた時のおいしい記憶」や「b.プールに行った時の爽快な記憶」や「c.旅行に行った時のしみじみとした解放感」などが、無意識の表面に浮び上ってくるはずだと想像します。
この場合、「d.彼女とデートした時の楽しさ」が浮び上ってこなかった要因は何か、というのが第1の疑問。
つまり、同じ月を見てd,が浮かび上がる人もいるだろう、という意味です。
であれば、それが「私」への鍵のひとつになり得ないだろうか、という推測もあります。
また、なぜcが意識化されたのか、が第2の疑問。
「ある刺激に対するある選択」がされる場合、そこには往々にして「私の意識」が介在しており、「無意識」という【全自動作用】の結果としてしまうと「私」への手がかりを失うような気がします。

また仮に、「ある刺激に対するある選択」が無意識にされる場合であっても、そのような無意識を育てあげたのは意識ではないかという思いもあるわけです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

今日は、午後から雲が減り、13:30に月を見ました。昨日家から見えなかったのは、どうやら、私が東の方向を勘違いしていたせいだったようです。今日は、磁石で方向を確かめたら、月は真東よりほんのわずか北に見えました。昨日より低い位置でした。もし、数日前に発見できていれば、午前中に月を見るのも夢ではなかったはずと思うとちょっと残念です。

説明していただいた内容は、ほぼ理解できたつもりです。その結果、以下のような疑問が出てきました。

質問1: 無意識が注目した事柄を意識はどうやって意識化したり、あるいは、意識化を拒否したりできるのでしょうか?
hakobuluさんのお考えによると、無意識が「ふと、旅行へ行きたい」という思いに注目した場合、意識は、その事を「意識化する自由」があると同時に、「意識化しない自由」もあるということになります。しかし、そのようなことが現実的に可能だとお考えでしょうか? 現実的に可能だということは、意識が「ふと、旅行へ行きたい」ということを「意識化する前(内容を知る前)」に、それを意識化しない自由もあるということになりますが、無意識が注目した内容が何であるかを知ることなく、意識化を拒否するとしたら、その拒否する根拠を意識自身は持ち得ないと思います。すなわち、無意識が注目した内容が何であるかによらずに、全く気まぐれに、あるときは意識化し、あるときは意識化を拒否するというようなことしかできないのではないでしょうか? それでは、意味がないと思うのですが。

質問2: 無意識に能動性がないと考える根拠は何んですか?
hakobuluさんは、無意識は記憶機能だけで、能動性はないとお考えのようですが、そのような考えに至った背景は何でしょうか? 私は、無意識には、様々な欲望が渦巻いていると思いますし、欲望とは能動性以外の何者でもないと思うのですが、hakobuluさんは、無意識の中に欲望はないとお考えなのでしょうか?

補足日時:2006/01/09 15:51
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ご返事ありがとうございます。



非常に慎重で面倒くさがりでない方はチェーンを使用するようですが、実際に見た(気がついた)ことはありません。
以前のスパイクタイヤであれば凍結路面の恐怖感は今の半分以下で済んだと思うのですが・・・。

>質問1:「選択する」の意味
(2)ではありませんね。(1)にやや近いとも言えます。
しかし、「意識が採用・承認」と言う場合、無意識が選択しているわけですよね。
この場合の選択の定義が(2)だとすると、私の意図していることとは多少違ってくるようです。
無意識には、選択するという【能動性】は無いと思うのです。
ここが恐らく最大の食い違い点かもしれませんね。
うまく絞りきれません。要点が見えそうでいて、すぐ逃げていく感じがします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

そう言えば、スパイクタイヤは法律で禁止されたんでしたっけ? 今日は雲の多い日です。時々、太陽が顔を出しますが、月の出を見るのは難しいかもしれません。

hakobuluさんの回答を何度も読ませていただいたのですが、どうしても結論がわかりませんでした。私が読んだ限りでは、以下の(1)でもないし、(2)でもないとおっしゃっているように思えるのですが、どちらなのでしょうか? あるいは、どちらでもない第3の道があり得るのでしょうか?

(1)選択するのは、無意識である。
(2)選択するのは、意識である。

補足日時:2006/01/09 09:19
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ご返事ありがとうございます。



例年であれば雪の季節の終わりぐらいに行なう、道路にはりついた「氷割り」作業に追われました。
道路が波打ち状態になっており、これをやらないと車が(特に大型トラックなど)ローリングしながら狭い道を通り抜けることになり、車も歩行者も戦々恐々としながらの通行を強いられます。
その雪を見たさにアジア方面から冬場ツアーが盛況というニュースをやっていました。
やんぬるかな。

【「○○」についての意識があるということは、「○○」について具体的に口頭で説明できるということである。】を認めているにも拘わらず、
【意識が無意識の表面に浮んでいる(気にしつつ記憶されているため)記憶を選択した。】という考え方をするのはおかしいということだと思いますが、そうなってしまうのでしょうか。

「○○」という「(気にしつつ記憶されている)記憶を選択した」のですから、「○○」に対する意識がある、と言っても論理的不整合は生じないように思うのですが。

>質問1:無意識の表面に浮かんでいるのは?
・(1)~(3)を含め無数ではなく、()内で補足しているように、その時点で「【最も】気にしつつ記憶されているもの」という条件がつきます。
【最も】という言葉を使用しなかったのは、意識が同時に複数の選択が可能かどうかまではまだ考えていないからです。
>質問2: 無意識の表面に浮かんだ無数の事柄は、意識が一つ一つ具体的に察知できる?
・質問1でお答えしたように、無意識が最も気にしている事柄が表面に浮んできて、それを意識が察知するのではなく選択する、ということです。
>質問3: 及び 質問4:
意識は察知するというより、選択するなど能動的作用と考えています。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「道路が波打ち状態」というのは怖いですね。タイヤ・チェーンを付けてもだめですか? それにしても、アジア方面から冬場ツアーっていうのは、物好きですね。スキーしにくるならわかりますが。今日は、どじって、月の出を見逃しました。それが、どうも腑に落ちないのですが、13:30に家の中から見たときは、絶対見えなかったのに、13:40頃、外に出たら、既に1時間分以上、上空に見えました。だんだん、月の出が早くなるのであせって来ました。

ご回答読ませていただきましたが、質問と回答の関係がどこかですれちがっているような感じがしました。その原因を考えていて、気付いたのですが、「選択する」という言葉の意味が、hakobuluさんと私では違った解釈をしているのではないでしょうか? 今回は、その点を確認させていただきたいと思います。

質問1:「選択する」の意味
hakobuluさんが、「それを意識が察知するのではなく選択する、ということです。」というとき、「選択する」の意味は、以下の(1)と(2)のいずれですか? もし、(1)であるのなら、「選択」と言うより、「採用」あるいは「承認」という言葉の方が誤解が起きないと思いますが。また、もし、(2)であるなら、「タバコを吸っていたら、ふと、子供時代のことを思い出した」という場合は、a、b、c、・・・・の選択肢を意識が一個一個吟味したわけではないので、意識が「選択」したことにはならないと思いますが、OKですか?

(1)無意識が選択した結果を意識が「採用」する、あるいは、「承認」する。この場合、意識は、無意識が検討したであろう他の選択肢a、b、c、・・・については、察知していない。結果だけを意識が「採用」する、あるいは、「承認」するという意味です。

(2)無意識が用意した選択肢、a、b、c、・・・・を意識が一個、一個吟味し、その中の一つを意識が選ぶ。

補足日時:2006/01/08 20:07
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ご返事ありがとうございます。



月というのは変幻自在・神出鬼没な球体だったんですね。
ところで「うさぎが餅をついているように」見えたことはありますか。
私は、そう見えるように「意識して見た結果」そのように見えた(と思った)ことがあります。
「そう見えた」というのは事実ですが、「こじつけだ」というのも事実かもしれません。

◇【意識しているとはどういうことか】
(1)(2)ともに(というか同じ意味だと思いますが)同意します。

<例についての考え>
(1)目の前のリンゴについて意識があるとは、そのリンゴが「あるということを知っている」ことである。
(2)【「何か果物のようなものがある」としか言えない場合は、「リンゴがある」と意識しているとは言えない。】
・しかし、「~がある」というのが「意識している状態」であることに変わりはないので、既に意識領域での作用に関する表現になる。
「りんごがある」と意識する前段階として、このようなプロセスを踏むことは考えられる。
(3)【「痛い」と意識しているということは、その痛みが体のどこにあるかを言えるということである。】
・同意します。
(4)【「痛いか痛くないかわからない」としか言えない場合は、意識が痛みを感じているとは言えない。
・ただし、痛みを感じていないとも言えない。
(1)と同様に、痛みを意識する前段階の状態の表現として成立する。
(5)【「何か食べ物を選択している」としか言えない場合は、意識が「リンゴとミカンとブドウのどれかから食べるものを選択している」とは言えない。】
・同意はしますが(2)と同様の感想です。
(6)【「何個かわからない」としか言えない場合、意識が「5個」を意識しているとは言えない。】
・ただし、「何個か」ということに意識が行っている以上、すでに意識領域の作用である。

質問のご主旨を理解した上での内容になっているかどうか自信はありませんが、こういう感じです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

午後12:30現在、まだ、月は東の空に出現していません。今日は何とか月が出るところをしかと観察してやろうと思っています。

hakobuluさんのご回答を読ませていただき、びっくりです。「意識しているとはどういうことか」の認識は、hakobuluさんとは異なっているとばかり思っていました。それが、同じだとなると、何故「意識が選択する」という発想が出てくるのかが、さっぱりわからなくなってしまいました。それで、この点の確認として、以下のように質問させていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

hakobuluさんは、#92で、以下のように述べられています。

====================================================================================================
(7)と(8)は、意識が無意識の表面に浮んでいる(気にしつつ記憶されているため)記憶を選択した。
という解釈です。この場合、【読書中に】無意識の表面に浮んでいるのは恐らく「レポートの締め切り」だけ
ではないはずです。
「2分30秒ぐらい前にカップラーメンに湯を注いだこと」
「今日の金曜ロードショウは面白そうなので見ようと考えたこと」
「後で競馬新聞を買いに行こうと思ったこと」
などなど無数にあるでしょう。
この中から「レポートの締め切り」が選択されたわけです。
====================================================================================================
(7)ふと、旅行へ行きたいと感じる場合。(無意識の欲望が意識外事象)
(8)読書中に、レポートの締め切りが明日だと思い出す場合。(無意識の危機感が意識外事象)
====================================================================================================

質問1: 「ここで、無意識の表面に浮んでいる」と書かれていますが、無意識の表面に浮かんでいるのは、以下の(1)、(2)、(3)など無数のものと考えていいですか?

(1)「2分30秒ぐらい前にカップラーメンに湯を注いだこと」
(2)「今日の金曜ロードショウは面白そうなので見ようと考えたこと」
(3)「後で競馬新聞を買いに行こうと思ったこと」

質問2: 無意識の表面に浮かんだ上述の(1)、(2)、(3)など無数の事柄は、意識が一つ一つ具体的に察知できるとお考えですか?

質問3: 質問2で、もし、意識が察知できるとお考えでしたら、無数にある選択肢を意識が全て察知することは可能と考えますか?

質問4: 質問2で、もし、意識が察知できないとお考えでしたら、上述の(1)、(2)、(3)など無数の選択肢から意識が一つを選択することは不可能と思いますが、この点は、どのようにお考えですか?

補足日時:2006/01/08 12:43
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ご返事ありがとうございます。



2に注目したわけではなく、最初の素数をnに代入してみたら解が分からなかっただけです。
素数セミというのも大変ですね。やはり地上で日の目を見るのは1週間ほどなのでしょうか。
セミの鳴き声は大好きですが(そういえば近年は耳にする機会が極端に少なくなってきたようです)、素数セミさんの場合は13年(17年)という圧倒的な地中での抑圧の発散なのでしょうね。
しかし、これは地上を主な生息地とする人間の単なる感傷にすぎないのでしょうか。

>質問1:「>意識が何に向けられるかは、常に、意識外の事象によって決まる」
・いや、ここまでは全く同意できるのですが、どこで食い違うのでしょうね。
(1)~(6)の「意識外事象」は「刺激」ということだろうと思います。
(7)の「意識外事象」は「無意識の旅行というものに対する記憶」。
(8)の「意識外事象」は「無意識の[レポートの締め切り]に対する記憶」。
だと思います。

(1)~(6)に関しては、意識が刺激に対して反応している。
(7)と(8)は、意識が無意識の表面に浮んでいる(気にしつつ記憶されているため)記憶を選択した。
という解釈です。
この場合、【読書中に】無意識の表面に浮んでいるのは恐らく「レポートの締め切り」だけではないはずです。
「2分30秒ぐらい前にカップラーメンに湯を注いだこと」
「今日の金曜ロードショウは面白そうなので見ようと考えたこと」
「後で競馬新聞を買いに行こうと思ったこと」
などなど無数にあるでしょう。
この中から「レポートの締め切り」が選択されたわけです。

「レポートの締め切りは3日後である」というのが最初に記憶した状態だとします。
「レポートの締め切りは2日後である」
「レポートの締め切りは明日である」
という意識的記憶作業を繰返さないと、「忘れていた」という状況が発生するように思うのです。
無意識が全てコントロールしているのであれば、忘れていたという状況は発生しないように感じます。
また、無意識にとって「忘れたい」という欲望も存在するでしょうから、「忘れないで覚えていた記憶」が選択されたのは無意識自身の選択というのは考えにくいようにも思うのです。

>質問2:意識が欲望を兼ね備えるとは?
・「意識が欲望を生み出す」という意味ではなく、「意識自体が欲望の要素を兼ね備えている」という意味で、「選択する」ということ自体、すでに「欲望」と呼んでいいのではないかということです。
(1)~(5)の例では、このような欲望が生じることを意識するというのではないか、という意味です。

◇「想像力」
相違点は、【「意識」が振り向けられる対象の遷移が、何によって決められるか、すなわち「意識自身」か「意識外事象」かということ】
:「意識外事象」=「無意識」ということであれば、おっしゃるとおりと思います。
痛覚に反応した結果の「痛い」という感覚などが、意識によってもたらされていると考えているわけではないので。

「想像力」という言葉を新たに持ち出したのは、「無意識」とはやはり記憶ではないかと思ったからですが、読み返してみると適切な用い方ではないように思えます。
違う視点からアプローチしてみますので、お願いします。

まず、「ある事実」が「記憶」として格納されるわけです。
これは同意していただけるでしょう。

例えば「髪の長い目の大きな美人の女性」「髪の長い親切で優しい女性」の記憶。
これらは無意識として記憶されると思います。
そして、次に髪の長い女性の後姿が視覚神経を刺激した時、両方の記憶が無意識の表面に浮上します。
そして「何となく好感を持つ」ことを意識するのではないでしょうか。
無意識の表面に浮上した段階で、もはや単なる「髪の長い女性」ではなく、優しいかどうか不明なのに「優しい女性」の要素も連動して浮んできます。
さらに顔を見ていないのに「目の大きな美人」という要素も浮かんでくるかもしれません。

この、無意識の反応が「連想」でしょうし、ここまでは無意識の領域だと私も思います。
しかし、ここまではあくまで「記憶の羅列」であって、「好感を持つ」という認識を得るためには「私という意識」のスイッチが必要だと考えるわけです。
仮に「好感を持つ」という仕組みが完了していたとしても、認識されない内は感知できないはずです。

kobareroさんのお考えでは、無意識が「好感を持つ」という気持ちまでも引き出し、意識はそれを察知するのだ、ということになるのでしょう。
しかし、「好感を持つ」ことによって「顔を見てみたい」などという次の意識が芽生えるためには、「好感を持つ」という感情は、無意識が完了させた作用である必要があると思います(単に”引き出した”だけではなくという意味ですが)。
また、もし認識することに対する決定権を無意識が持っているのであれば、なぜ意識に察知させる必要があるのかという疑問が生じます。

やや強引かもしれませんが、kobareroさんのおっしゃる「無意識が引き出した結果を意識が察知する」ことを「意識が選択する」と言うのではないでしょうか。
この場合、主導権はどちらにあるのかということになるのかもしれませんが、意味が同じであるとすれば、「卵が体外に出てくるのを鶏が察知する」のと「鶏が卵を産む」の違いを論じていることになるような気もします。
へたな比喩ばかりですみません。

【私にとって「この世界が見える」ための条件】と連動して、当初のご質問文第二段落の【「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」の条件】について視点を巡らせてみることで打開策が見えてこないかなあ、などとも思いますが、どのように思われますか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

昨日は一日曇っていたので、今日は、是非、月の出を見たいと思い、少し早めのつもりで、午後2時過ぎに東の空を見たら、もう、かなり天空の高い位置に白い半月が昇っていました。こんなに早い時間にも月は見えるものなのだなーと今更ながら関心しました。明日は、もっと早く見ないと。

hakobuluさんの回答を読ませていただきましたが、具体例がたくさんあって、大変わかりやすかったです。私の場合は、概念思考が全く不得意で、常に形而下の具体的な話とセットになっていないと、すぐ道に迷ってしまいます。今回、具体例を挙げていただいて、本当に助かりました。ありがとうございました。お陰で(?)、hakobuluさんと私の考えの違いが明確になりました。

それは、非常に基本的なことのように思います。すなわち、「意識しているとはどういうことか」について、hakobuluさんの認識と私の認識にかなり大きな違いがあると思われます。実は、この点については、私は以前から気になっていたので、#83補足の質問2でも質問させていただいております。そして、それに対するhakobuluさんの回答(#84)を改めて読ませていただきました。hakobuluさんの回答は、辞書の引用で答えておられます。以前に読んだときは、私の考えと大きく異ならないようにも思えたので、そのままになっていましたが、今回あらためて読むと、かなり多義的な表現であることに気付きました。それで、ここで、再度、質問させていただきたいと思います。

以下の(1)、(2)は、私の考え方ですが、hakobuluさんの考えとは異なると思うのですが、どのように異なるかを教えてください。

(1)「○○」についての意識があるということは、「○○」について具体的に口頭で説明できるということである。
(2)「○○」について口頭で具体的に説明できなければ、「○○」についての意識があるとは言えない。

(注)”口頭で説明できる”という表現を入れた意図は、間違いなく、対象が具体的に「意識」に上っていることを念押しするためです。

また、以下の例は、上記(1)、(2)の具体例です。これについても、hakobuluさんのお考えをお知らせください。

<例>
(1)目の前のリンゴについて意識があるとは、そのリンゴが具体的にどのように見えているのか説明できるということである。
(2)「何か果物のようなものがある」としか言えない場合は、「リンゴがある」と意識しているとは言えない。
(3)「痛い」と意識しているということは、その痛みが体のどこにあるかを言えるということである。
(3)「痛いか痛くないかわからない」としか言えない場合は、意識が痛みを感じているとは言えない。
(4)「何か食べ物を選択している」としか言えない場合は、意識が「リンゴとミカンとブドウのどれかから食べるものを選択している」とは言えない。
(6)「何個かわからない」としか言えない場合、意識が「5個」を意識しているとは言えない。

今回のhakobuluさんの回答について、私のコメントは他にもあるのですが、上述の点がはっきりしていないと、却って混乱すると思いますので、今回はここまでにして、次回以降で、再度議論させていただきたいと思います。

補足日時:2006/01/07 21:13
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ご返事ありがとうございます。



『>全ての素数は、4n+1 か 4n-1 のどちらかで必ず表せる』
:面白そうですね。
数学の完全門外漢としては、もう少しだけ詳しい説明が聞きたいところです。
たとえば解が「2」の場合のnは?恐らく誠に初歩的な質問だと思われますが、どうぞよろしく。
また、できれば「4」でなければならない理由も。


【意識」に判断や選択の能力がないとすると、人は主体的に「責任を取る能力」がなくなってしまう】という帰納的推論を立てたわけではありません。

【「意識」は、常に「何か(対象)に対する意識」であり、その対象は常に意識の外からやって来ることが観察されるからです。】
:これには異論があります。「意識」とは「対象」を捉え判断するものだと考えるからです。
とはいっても、意識と無意識は相互関係にあるというのが私の基本的な考えです。主従の関係ではなく。
比喩を多用すると表現能力の無さを露呈しているようで躊躇する気持ちもあるのですが、ここは意識と無意識を海に流れ込む川に譬えてみたいと思います。
海は川が流れ込んでできたものだと思いますが、川そのものではありません。
しかし川の影響は受けるでしょう。
川は海の母体であり、海に影響を与えます。
しかし海そのものにはなり得ません。
なぜなら、それを川と呼ぶために「川」という字が生み出され、海を現わすために「海」という字が生み出されたのでしょうから。
kobareroさんのお考えは、川が流れ込んだことによって海が形成されているのだから、「海とは川のことだ」とおっしゃっているのに似ているような気がします。

先ほど相互関係にあると述べたのは、川もまた海のありようによって影響を受けるでしょうから(生物の移動や、逆流などで)、川は海の母体であると同時に海無しには存在しえないと言えると思います(流れ行く先を受け止めてくれるものがなければ、それはもはや川とは呼べないでしょうから)。

◇回答1:
意識にせよ無意識にせよ作用するには必ず要因があるのでしょう。
また、意識が欲望を兼ね備えていても不都合が生じるとは思えません。
試験という刺激を受けて、意識が無意識下にある鎌倉幕府の記憶を思い出そうと欲したのだと思います。
思い出そうとする欲求自体を無意識が抱えているとは思えません。

◇回答2:
【「意識」が、未だ答えを知らないからではないでしょうか?】
:おっしゃるとおりと思います。
そして、それを知ろうとする心の動きを意識というのではないか、というのが私の解釈です。

◇姉歯氏に関する分析
:緻密な前提を立てられた上の、まさに無意識の持つ個人への影響力を正当に評価した、確信を突くご意見と思います。
これ以上の意見は日本中どこを探しても見つからないでしょう。
ありがとうございました。


さて、質疑は意見の相違があってこそ面白いには違いないのですが、このへんで少し共通点を整理する事によって焦点を絞ってみるのも一興かと考え試みますので、ご感想をお願いします。

<共通点をランダムにピックアップしてみると>
1、個人の起源は無意識である。
2、無意識は個人におけるあらゆる環境を一旦記憶する。
3、意識するのは「現在」の作用である。「意識した」というのは無意識の範疇に格納される記憶にすぎない。
4、個人が刺激を受けた場合、無意識は記憶に基づいて連想する。

<相違点は>
1、無意識は連想結果を選択する能力を持つ。
2、意識はその選択結果を認識のみすることができる。
3、すなわち意識の認識が無くても、あらゆる刺激に対して個人は適切な反応が可能である。

(1)、無意識は連想結果を選択することはできない。
(2)意識が連想結果を選択することによって認識が得られる。
(3)選択と認識は同義であり、刺激に対して意識の選択が行なわれなければ個人は適切な反応が不可能な場合もある。


上の仮定を踏まえて考えてみたのですが、結局お互いの相違点は「想像力は意識の作用か、無意識の作用か」ということになるような【気も】しますが、いかがでしょうか。

付け焼き刃で「想像」を辞書で引いてみると、「実際に経験していないことを頭の中で思い描いて推し量ること」だそうです。
「連想」は記憶自体とは異なりますし、そういう意味では「想像」というのもあながち的外れではないようにも思います。
また、「思い描く」という語をそのまま信じれば能動的であり、意識の作用のようにも思うのですが、kobareroさんはどう思われるでしょうか。
つまり「実際に経験していないこと=無意識の連想」「頭の中で思い描いて推し量ること=意識の選択」という考えについてですが、このような作用が起きている場合もあるのではないかと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

さすがhakobuluさん、鋭いところを突きますね。素数で偶数なのは2だけですが、これだけは例外です。それ以外の素数は、全て、4n+1 か 4n-1 のどちらかで表せます。例えば、17=4x4+1、43=4X11-1、59=4x15-1、89=4x22+1などです。何故4かは、神のみぞ知るです。また、最近知ったのですが、アメリカには「素数セミ」というのがいて、13年周期と17周期で特定地域にセミが大量発生するそうです。幼虫は、それぞれ、13年間、17年間も、飽きもせず地中にいます。すごい辛抱強さで驚きです。


質問1:海と川のたとえについて
済みません。基本的なことをお聞きします。海と川の関係は、海が意識で、川が無意識と考えていいですか? 私は、全てが海という「心」で、海の中で無意識が蠢いていて、そのうち、今、関心が振り向けられている領域があり、そこから「意識」に向かって光が漏れているといった感じです。私の譬えは、あまり理解の役に立たないと思いますので無視してください。譬えでなく、もう少し説明すると以下の通りです。

意識は、刻々、その関心の振り向け先が変化していると思います。その意識の振り向けられた先が、意識の対象となります。その対象を、a、b、c、d・・・・とすると、意識の対象は、刻々、a-->b-->c-->d-->・・・・と変化して行きます。ここで、問題は、意識の対象が、a-->b、b-->c、c-->d-->と遷移する原因は何かということですが、私は、その原因が意識ではなく、「意識外」にあると考えるわけです。

すなわち、「意識が何に向けられるかは、常に、意識外の事象によって決まる」ということです。

以下は、その具体例ですが、いずれも、意識自体が、意識の振り向け先を決めたのではなく、意識外の事象が、意識の振り向け先を決めたものと思います。そして、朝の目覚めから、夜眠るまでの一連の意識の流れは、いずれもこのような意識外事象によって、その振り向け先が決められるものと考えます(自分の心の動きを観察した結果です)。ということですが、これに対する、hakobluさんのお考えをお聞かせください。

(1)電話が鳴って、その音に気付く場合。(電話の音が意識外事象)
(2)足を踏まれて、痛いと感じる場合。(足を踏まれたことが意識外事象)
(3)風邪を引いて、頭が痛いと感じる場合。(風邪を引いたことが意識外事象)
(4)テストの問題を見て、早く解かねばと感じる場合。(テストの問題が意識事象)
(5)腹が減ったと感じる場合。(空腹が意識外事象)
(6)読書をしていて、そろそろ飽きてきたと感じる場合。(長時間読書が意識外事象)
(7)ふと、旅行へ行きたいと感じる場合。(無意識の欲望が意識外事象)
(8)読書中に、レポートの締め切りが明日だと思い出す場合。(無意識の危機感が意識外事象)

質問2:意識が欲望を兼ね備えるとは、どういう意味ですか?

意識が欲望を兼ね備えるとは、意識が欲望を生み出すという意味でしょうか? もし、そうなら、以下の(1)~(5)は、いずれも意識が欲望を生み出したのでしょうか?

(1)鎌倉幕府の設立年号を思い出したい。
(2)彼女に会いたい。
(3)早く寝たい。
(4)トイレに行きたい。
(5)試験に合格したい。

回答1:
>上の仮定を踏まえて考えてみたのですが、結局お互いの相違点は「想像力は意識の作用か、無意識の作用か」ということになるような【気も】しますが、いかがでしょうか。

「想像力」という言葉が、これまでの議論では、出て来なかったと思ってますが、出て来ましたっけ?「想像力」と言う言葉を、「思い出す」というような意味で使っておられますか? hakobuluさんと私の考えの違う点は、現時点では、「意識」が振り向けられる対象の遷移が、何によって決められるか、すなわち、「意識自身」か「意識外事象」かということだと思っています。hakobuluさんのおっしゃる「想像力」については、何か具体例を挙げていただければありがたいです。

補足日時:2006/01/06 20:20
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迅速なるご返事ありがとうございます。



午後4時ぐらいにもう月が出ているんですね。
早起きな月ですね。
我々にとっては夜に向かう時間帯ですが彼?にとっては活動時間ですから、早起きという表現はおかしくないですよね。
ちょっと回顧してみれば、私の中の月は萩原朔太郎の「月に吠える」にある「白い月」がメインのイメージかもしれません。
白いというより青白いというイメージですが。
「冷めた」とも「醒めた」とも表現できそうな微妙なニュアンスを持った天体です。

>質問1:思い出す内容は、どこから?
:「思い出す」という時点で当然(と威張る必要もありませんが)、その内容は無意識です。
しかし「思い出す」という行為自体は意識だという考えです。
津波(思い出す)の本体は海水(無意識)であることに違いはありませんが、津波を引き起こすのは地殻変動(意識)です。
海水が津波を起こすわけではありません。
という理屈に似ているといえば似ているかもしれません。

>質問2:「意識の遷移先」はどうやって決めるのでしょうか?
:これは非常に難しい質問です。
というより、それをするのが意識の役目だというのが私の推論なので。
痛覚神経はなぜ痛みを感知するのかと問われた気分です。
痛みを感知するから痛覚神経という名称が付けられているわけで、同様に遷移先を決める役目を与えられているのが意識ではないかということになると思います。
(この論理にはちょっと自信がないので(有り度72%)、齟齬があるようでしたらご指摘お願いします。)


【私の言動は私の無意識が原因ではなく、私の意識が原因だと考えていると思うからです】
非常に良くわかります。
重要な鍵穴のひとつにならないでしょうか。


【<意識が「意識的に自らの心を制御している」と感じる>ように「無意識」が働きかけている】
:う~む。思わず「そうですね」と言ってしまいそうな推論ですね。
いや、私とて半分ぐらいはkobareroさんのおっしゃっていることは共感できるのです。


ところで、姉歯建築士の行為は無意識の作用の結果であって、彼個人に人間としての責任は無い、とお考えでしょうか。
今回の質問は次のひとつだけです。
法律的な解釈は無視してください。
「姉歯建築士がkobareroさんの友人であったとして、現在の我々の質疑に絡めて彼に何か言うとすればどのような話をされるとご自身では思われますか。」

参考URL:http://www.bekkoame.ne.jp/~poetlabo/AOSORA/tsuki …

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

昨夜10時に月を見たときは、南西の水平線上空30度くらいにあったので、まだ、月没には時間があると安心していたのですが、10時半に見たときには、もう月没後でした。目測を誤ったみたいです。昨日は、「博士の愛した数式」という本を読みました。久しぶりに「世俗離れした愛すべき人柄」に触れた感じがしました。小説であるにもかかわらず、数学に興味をわかせるもので、自分にとっての大発見は、全ての素数は、4n+1 か 4n-1 のどちらかで必ず表せるという単純な事実です。こんな単純な事実を学校時代に一度も聞かなかったのは不思議です。

さて、「意識」の件ですが、hakobuluさんからのご回答を読ませていただいて、一つ気付いたことがあります。それは、hakobuluさんは、もし、「意識」に判断や選択の能力がないとすると、人は主体的に「責任を取る能力」がなくなってしまうと考えておられるのではないかということです。これに対する私の考えは以下の通りです。

私は、人はそれぞれ主体的に物事の判断をし、自分自身の価値観に基づいて言動の選択していると考えます。従って、その選択結果である自分の言動には当然、責任が伴うと考えます。では、何故このことが、「意識に判断や選択能力がない」ことと矛盾しないのかというと、「意識」だけが「私」なのではなく、「意識以外の私を構成する全て」も含めた全体が「私」だからです。特に「意識以外の私を構成する全て」の中で、主要な役割をするのが、<自我=無意識>だと考えています。また、「意識」には判断や選択の能力がないという表現については、この表現が、私の問題意識を必ずしも的確に表現していないかも知れないことに気付きましたので、以下のように言い換えさせていただきたいと思います。

私も、「意識」が主体的に状況を判断し、意思決定していると「主観的には」感じています。しかし、実際の自分の心の中の動きを観察すると、それは、「錯覚」であると考えざるを得ないということです。何故、「錯覚」と考えざるを得ないかというと、「意識」は、常に「何か(対象)に対する意識」であり、その対象は常に意識の外からやって来ることが観察されるからです。

以下は、今回のhakobuluさんからの回答への質問や、hakobuluさんからの質問への回答です。

質問1:「思い出す」という行為自体は意識(が原因)だと考える理由は?
>:「思い出す」という時点で当然(と威張る必要もありませんが)、その内容は無意識です。しかし「思い出す」という行為自体は意識だという考えです。

何故、「意識」が「鎌倉幕府の設立年号」を思い出そうとしたのでしょうか? 試験に出たからというような何らかの外部要因が必ずあると思います。何の理由もなしに「鎌倉幕府の設立年号」を思い出そうとはしないと思います。また、「思い出そう」とするのは「欲望」だと思います。「思い出そう」という無意識の欲望が働くからこそ、試験の問題を見たときに「鎌倉幕府の設立年号」を思い出そうという内的衝動が出てきて、その衝動を意識は自分が発したと錯覚するのではないでしょうか? 

質問2:
>:これは非常に難しい質問です。というより、それをするのが意識の役目だというのが私の推論なので。

「意識の遷移先」についても、”実際に自分の心の動きを観察”しさえすれば答えは自ずとわかると私は思うのですが。「うまく取り入る方法はないか?」と考えている自分を想像してみてください。「うまく取り入る方法はないか?」と考えるのは何故でしょう?「意識」が、未だ答えを知らないからではないでしょうか? そして、しばらく、「うまく取り入る方法はないか?」と考えていると、自分の心の中に何が起こりますか? 突然、「そうだ、娘と結婚すれば良い。」と思い付くのではないでしょうか? もちろん、他の答えを思い付くこともあると思いますが、いずれにしても、それまでは思い付かなかったのに、ある時点で、ぱっと答えが湧き出てくるのではないでしょうか? その答えは、どこから来たのでしょうか? 「意識外」から来たのではないですか? また、「うまく取り入る方法はないか?」から「そうだ、娘と結婚すれば良い。」への遷移は、「意識」が行ったのでしょうか? 無意識が「そうだ、娘と結婚すれば良い。」という答えをぱっと生み出すことによって遷移したのではないでしょうか?

回答1:
>「姉歯建築士がkobareroさんの友人であったとして、現在の我々の質疑に絡めて彼に何か言うとすればどのような話をされるとご自身では思われますか。」

<文字数制限のため続きは「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2006/01/06 12:46
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この回答へのお礼

回答するために最も大切な条件は、「事実関係」について正確な知識があることだと思います。残念ながら、私は勉強不足で、正確な知識を持ち合わせていません。そこで、勝手に架空のケースを以下のように想定し、その想定の下で回答させていただきます。

<想定>
(1)建築会社に鉄筋を建築基準法に違反してでも減らす設計を要求された。
(2)それを断ると、以後、仕事がもらえなくなる可能性が非常に高い。
(3)仕事を失うと入院中の妻の治療費が出せなくなる。
(4)その結果、妻の寿命を縮める可能性が非常に高くなる。
(5)一方、違反設計をすると、それに基づいて建設されたマンションは地震時に崩壊の危険性がある。
(6)マンションが崩壊すれば、多くの人命を失う可能性がある。
(7)仕事を失うと、2年間くらいは次の仕事が見つからない可能性があり、この間に妻が死ぬ可能性が高い。
(8)不正を強要する建設会社を法的訴える手段もあるが、これも結論が出るのに2年くらいかかる可能性が高く、その間に妻が死ぬ可能性が高い。

以上の想定で考えると、違反設計をしなければ、妻の寿命を縮めることになり、違反設計をすると、マンション住民に人命の危機を与えることになるという究極の選択に立たされることになります。そこで、両案をもう少し考えてます。まず、違反設計をするとすれば、当面は見つからなくても、10年後、20年後に地震があれば、被害が出ますし、すぐ地震が起きれば、すぐにも大問題になります。あるいは、地震が起こる前に、今回の姉歯事件のように、違法設計が見つかるかも知れません。そう考えると、違反設計をして妻の命を延ばしても、結局、家族崩壊に至る可能性はかなり高いことが予想されます。たとえ、運よく発見されなくても、一生、常に不安を抱え、また、自分の仕事に誇りが持てなくなります。その結果、家族崩壊の一因にもなりかねません。一方、違反設計を拒否して、妻の寿命を縮める場合は、妻に事情を話して理解してもらうことと、同時に、自分も必死で次の仕事を探して入院費を稼ぐ努力をすれば、普通の妻であれば、譬え寿命が縮まっても怒ることなく、むしろ感謝するのではないかと思います。そうすれば、最愛の妻を自分の無力さ故に失うことになったとしても、一生不安と自己卑下をかかえつつマンション住民に恨まれて死ぬよりは、はるかに、ましな選択ということになると思います。

お礼日時:2006/01/06 12:48

ご返事ありがとうございます。



物理とか数学は最も苦手な分野にも拘わらず、根源的にはその理が一貫して支配していると考えるのが合理的なような気だけはしています。
気温が極端に下がらないので、つい油断していると風邪気味になってしまいがちです。
kobareroさんもご自愛下さい。


回答1:鎌倉幕府設立年号を思い出すのは意識ではないかという解釈をしています。


意識はトレースはできるが、コントロールはできないという根拠がよく理解できないのですが、その差はどういうところからきているのでしょうか。

回答2:「(3)うまく取り入る方法はないか?」から「(4)そうだ、娘と結婚すれば良い。」への「意識の遷移」は、「意識」によってなされたと考えます。


kobareroさんとしては、「意識は傍観者である」と認識されているということだと思います。


「無我の境地」などと良く言われていることを思い出した質問だったのです。
kobareroさんのお考えを敷衍していくと、「自我の境地」と表現しても差は無いように思ったわけです。
ちょっと私の理解が追いついていないのでしょうね。


「我」の定義として、
「私という人間を統合しリードする原動力であり、人格を構成する元」を挙げていただきました。
私もそのお考えには便乗させていただきます。
kobareroさんのお考えでいくと、「統合しリードする」主体は「無意識」ということになると思うのですが(もし違っていたらご指摘お願いします)、「人格を構成する」のも無意識という事になるのでしょうか。(質問1)

質問1の答えがイエスの場合、人格を構成する過程においては必ず意識的に自らの心を制御したり操作したりする場合があると思われますが、そういった意識の作用も飲み込んだ無意識の作用が存在するという事になるでしょうか。あるいはこの質問自体の前提条件に不備があるのでしょうか。(質問2)

この回答への補足

早速のご回答ありがとうございました。

午後4時少し前に東の空を見ると、白い月が見えました。随分早いうちから月が見えることがわかり、今後は、どのくらい早い時間に月が見え始めるものなのか調べる楽しみができました。

質問1:思い出す内容は、どこから出てきますか?

「鎌倉幕府設立年号を思い出すのは意識ではないかという解釈をしています。」ということですが、1192年という答えはどこから出てきたとお考えでしょうか? もし、意識から出てきたのなら、初めからわかっているわけですから、思い出そうとする努力は不要だと思うのですが。

質問2:「意識」が「意識の遷移」を行うとした場合、遷移先きはどうやって決めるのでしょうか?

>「(3)うまく取り入る方法はないか?」から「(4)そうだ、娘と結婚すれば良い。」への「意識の遷移」は、「意識」によってなされたと考えます。

「うまく取り入る方法はないか?」に対する答えは、「そうだ、娘と結婚すれば良い」以外の可能性もあったと思いますが、「意識」はどのような方法で他の可能性を抑えて、「そうだ、娘と結婚すれば良い」を選んだのでしょうか? 無意識以外に選ぶことはできないと思うのですが。#84、#85のケーキの議論([~AND・・・<条件N>)]の議論)の続きです。

回答1:「人格を構成する」のも無意識という事になるのでしょうか。(質問1)

少なくとも私自身から見れば「無意識」です。でも、他人から見れば、何とも言えません。何故かというと、一般の人は「意識」に決定権がないとは思っていないから、私の言動は私の無意識が原因ではなく、私の意識が原因だと考えるていると思うからです。ややこしい話になりましたね。

回答2:質問1の答えがイエスの場合、人格を構成する過程においては必ず意識的に自らの心を制御したり操作したりする場合があると思われますが、そういった意識の作用も飲み込んだ無意識の作用が存在するという事になるでしょうか。あるいはこの質問自体の前提条件に不備があるのでしょうか。(質問2)

「意識的に自らの心を制御したり操作したりする場合がある」という表現は常識的には正しいと思います。ただ、私の考えは、「意識的に自らの心を制御している」のは、見かけ上の現象で、実際は、<意識が「意識的に自らの心を制御している」と感じる>ように「無意識」が働きかけているのだと考えています。これも、ややこしくなってしまいました。もう少し、まともな説明ができないか考えてみますが、取り合えず、ご回答いたします。

補足日時:2006/01/05 18:16
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ご返事ありがとうございます。



【物理的な慣性の法則】ですか。
その法則である慣性も、ある個体の選択(意識・無意識を問わず)によって引き起こされざるを得ないという事実を考えると興味深い現象ではありますね。
物理には完璧に疎いに拘わらず、私は以前から思っているのですが、物理の原理というのはあらゆることに応用可能ではないでしょうか(通常思われている以上にという意味ですが)。
「物」の理、ということは「心」の理と同義なようにも感じます。
しかし、その「理」を覆すもの。
それが「我」という意識ではないかとも思うのです。
いや、思いつきはまずいですかね。


(1)→(6)の全過程が「瞬時」に行なわれるという意味でしたが、速度に関係なく無意識の作用として生じるというお考えであることはわかりました。

しかし、姉歯氏にしても設計依頼を断ろうとしたことはあったと思いますが、家族のことを意識的に考慮した結果引き受けた。
というような意識の動きはあったように思います。
この場合も、kobareroさんの論理でいくと「無意識に家族のことを思い出したから」ということになるのでしょうか。(質問1)


<ミクロ分析>における各代替案を考えてみたいと思います。
(1)仕事上で苦労せずに地位や給料を上げたい。
(2)そのためには、社長にうまく取り入らなければならない。
(3)うまく取り入る方法はないか?
(4)そうだ、娘と結婚すれば良い。
(5)そのためには、どうすれば良いか。
(6)そうだ、まずデートに誘ってみよう。
などという他の選択肢が各段階であることはお認めになるでしょう。

この場合、試行錯誤がなされることもあると思いますが、それも無意識で行なわれるとお考えでしょうか。(質問2)
また、質問2の答え如何に拘わらず、意識的にこのような試行錯誤が行なわれることは全く無い、とお考えでしょうか。(質問3)


【夜空に花火が開いて散るとき、花火が見えなければ、~~~花火を意識しているとは言えないと思います】
:「意識の定義」としては全くおっしゃるとおりです。非常にわかりやすいケースを挙げていただきました。
このケースをなぞりながら「無意識化された意識」を説明してみたいと思います。
「無意識」とは、花火が上るということを全く認識していない場合です。
そのような「花火に関する無意識状態」の時に花火が上った場合は「いきなり花火が上ってびっくりした。」という表現が可能でしょう。
無意識からいきなり意識させられた、ということです。

しかし、花火大会の会場で後10秒後に花火が既定の空に上るとわかっている場合もあるでしょう。
実際にはまだ上っていないわけですから、「花火を意識している」とは言えないかもしれません。
しかし、その花火が上るべき空をじっと見つめている状況を上のケースと全く同じ脳の働きとして「花火に対して無意識である」と表現することは、その前提に基づいて論を進めていく場合に何かを見落としてしまうのではないか、という予感がするということです。

無責任なようですが、実際にそういうことがあるのかどうか、とりあえず前に進んでみたいと思うのはそういう意味も含んでいるわけです。


<私=自我=無意識>とのことですね。
自我の定義に固執するつもりはありません。
ただ、kobareroさんの感覚としては<自我=無我>ということになるでしょうか。(質問4)
質問4の答えに拘わらず、「自我・無我」の「我」の定義はどのようなものを想定されているでしょうか。(質問5)

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

そういう意味では、私は、物質とは、本当は「物の理」でしかないのではないかと最近思い始めています。要するには、この世界は、実は、数学的空間で
はないかと。

回答1:
>この場合も、kobareroさんの論理でいくと「無意識に家族のことを思い出したから」ということになるのでしょうか。(質問1)

答えは、おしゃるっとおり無意識です。ところで、私としては、何故このような質問が出るのかが逆にすごく不思議なので考えてみました。その結果、hakobuluさんは、無意識が生み出したものを意識が認知した段階で、それは、意識が生み出したものと考えているのではないかと思いました。例えば、「鎌倉幕府が設立されたのは何年か?」と考えたとします。しばらく考えていて、「1192年」と思い出したとします。このとき、私は、「1192年」は無意識が生み出した(思い出した)と考えるのに対し、hakobuluさんは、最終的に「1192年」と認知したのは意識なのだから、「1192年」は意識が認知した(思い出した)と考えているのではないでしょうか? そこで、以下の質問です。

質問1: 鎌倉幕府設立の年号を思い出すのは、意識ですか、それとも、無意識ですか?

回答2:
>この場合、試行錯誤がなされることもあると思いますが、それも無意識で行なわれるとお考えでしょうか。(質問2)

試行錯誤は、無意識が行っていると思います。そして、そのプロセスを意識がトレースしていると考えます。ただし、意識がトレースできるものと、できないものがあると思います。例えば、hakobuluさんの挙げられえた例は、いずれも具体的な描写ですから、当然、意識がトレースしたものだと言えます。トレースという意味は、過程を察知するという意味で、過程をコントロールするという意味ではありません。また、意識がトレースできない例は、hakobuluさんの例を用いれば、(1)-->(2)、(2)-->(3)、(3)-->(4)、(4)-->(5)、(5)-->(6)などのようなあるステップから、次のステップへの遷移過程です。これらの遷移過程が具体的にどうなっているかは、無意識の闇の中にあり、意識によるトレースは不可能です。これについても、逆に以下の質問をさせていただきます。

質問2:「(3)うまく取り入る方法はないか?」から「(4)そうだ、娘と結婚すれば良い。」への「意識の遷移」は、「意識」によってなされたと考えますか?

回答3:
>また、質問2の答え如何に拘わらず、意識的にこのような試行錯誤が行なわれることは全く無い、とお考えでしょうか。(質問3)

意識が試行錯誤のプロセスをリードしたかという意味であれば、それは、「全く無い」と思います。また、意識が試行錯誤のプロセスをトレースしたかと言う意味なら、トレースしたと考えます。

回答4:
>kobareroさんの感覚としては<自我=無我>ということになるでしょうか。(質問4)

自我と無我は常識的には二律背反の関係のように思います。従って、<自我=無我>ではありません。済みません、質問の意図がわかりません。

回答5:
>「自我・無我」の「我」の定義はどのようなものを想定されているでしょうか。(質問5)

私という人間を統合しリードする原動力であり、人格を構成する元といった感じです。

補足日時:2006/01/05 14:40
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