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「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中31~40件)

ご返事ありがとうございます。


「泳ぎ納め」というのもなかなかオツな響きを持った言葉ですね。
蹴飛ばした女性がkobareroさん好みであったことを祈るばかりです。
こちらの道路は穴ぼこに負けじと、傾斜角度の形成にも熱を入れだしました。
余所見をしながら歩く人を待っているかのようです。

>(1)意識は何をしているか?
【ムラムラと腹が立ってしまった後で、「意識」がそのことに気づくという順番です。】
正常な感覚でしょうね。私も殆んどはそうですが、悲しくなることはないですか。
人間性を貶める最大のものは「嫉妬と悪意」だと私は確信していますが、それがベースになって人を馬鹿にする人を見ると悲しくなります。
なぜわざわざ自らを貶めるような事を平気で口にするのか、と。
腹は殆んど立たない場合もあります。
腹が立つというのは怒ることですから、相手に対してそれなりの存在価値を見出していなければできないことです。
しかし、先に述べたような「嫉妬と悪意」をベースにした言動を何の抵抗もなくする人には憐れみを催しこそすれ、あまり腹は立ちません。
可能性を貶めつつ精神の下降線を辿るその人の心中を慮るばかりで、悲しくなるだけです。
(尤も、これは如実にその傾向が現われている場合であって乱打戦に発展する場合が殆んどではあります。)

同様に老人に席を譲る場合、「席を譲らなければ」と「まあいいか」の選択はどこで行なわれているのか、ということになるのでしょう。
そもそも選択という作業自体があるのかという疑念もおありのようですが、『躊躇する』という場面を想像してみればありそうなことで、意識にせよ無意識にせよ、また”瞬間的”であるか”徐々に”であるかは別として、「選択する」という作業が行なわれると考えたほうが自然なように思われます。

前回も述べましたが、私にとっての無意識のイメージは、自然環境も人間環境も全て含め清濁併せ呑む「海」のようなものです。
地球の経験した結果を全て受け止めているのではないでしょうか。
越前くらげ(無意識が生み出したように見えた、意識の結果)なども海(無意識)が突然生み出したわけではなく、海の生態系(記憶)を狂わせるほどの乱獲(意識)が原因であるとされているようなものかもしれません。
乱獲することによって越前くらげの天敵が減るということらしいのですが、その他にも海流がどうとか、プランクトンがどうとか「乱獲→くらげの異常発生」がストレートにつながるわけではないので気付きにくいのは確かなようです。
つまり意識が原因になっていることに気付かないために、無意識が自主的に為した業のように見える場合もあるのではないか、ということです。

以上を踏まえて論点を整理すると(却って散乱することにならないよう祈りますが)、
『【私】はその選択を認識しているのかどうか』ということになるように思いますが、どう思われますか。

今画面を確認しながら、ふと気が付くと顎を触っていました。
集中する時の癖のひとつで、私に限らず体の一部を刺激したり触ったりするのはよくあることだと思います。
私は自分の指が顎を触っていることは全く意識していなかったわけですから、「顎を触ったのは無意識が原因」ということは言えるでしょう。
その直前にはひょっとしたら、鼻をこすっていたかもしれないし、手を回して首を揉んでいたかもしれません。
明らかに「無意識による選択」だったと思いました。

ところで、「無意識の選択」とは、「私」の認識外で行なわれる決定でしょう。
「感覚」に似ているような気もします。
尖ったものに触れると痛い、熱いものに触ると熱い、と感じるように。
この場合の「尖ったものに触れる」「熱いものに触る」に当たる刺激は何かと考えてみると、「意識的に集中した」ということでしょう。
無意識領域に格納されていた「集中する時に適した身体反応の記憶」が刺激に反応した、という解釈は強引過ぎますか。
つまり『感覚的に反応する無意識』という区分を作っては問題があるでしょうか、ということですが。

その意図するところは、言ってみれば
【A.「反射神経」として作用するために学習された記憶】と
【B.意識されない、あるいは意識から抑圧された記憶】を区別したいと思うからです。
Aは人間の初歩的な欲求に関与する無意識です。
熱い鍋でやけどした記憶のある人は、調理中でも熱くならない鍋の蓋があったとしても、その性能を知らなければ「実際には熱くなくても」反射的に手を引っ込めるでしょう。

この無意識の海に漂っているB群も同様に刺激に対して反応するでしょう。
ただ、過去に意識から無視された、あるいは拒絶された記憶群と言えますから、再登場するには意識の検閲を通過しなければならないような気がするのです。
このような検閲を逃れるために反射神経としての記憶を醸成するのが、「洗脳」という手段ではないのかとも思います。

では、どのように意識の検閲がかかるのか身近な例で考えてみたいと思います。
その前に、「聞こえない」はぎりぎりセーフで良かったと思いました。
「汗よ止まってくれ」は少し強引でしたかね。ただ、意識的に発汗状況を制御することはできそうに思うのですが、実際的にはどうなんでしょうか。少なくとも「汗よ止まってくれ」と汗を意識するようなことを念じては余計に汗が噴き出そうですよね。
【>意識で腹痛を起こせる人がいたら、それは、超人です。】
ここは記述の方法が悪かったかもしれません。
最初に「行きたくない」と意識したことが原因で、(恐らく何らかの化学作用を体内で引き起こすと思うのですが)腹痛という結果をもたらすことになる場合も多い、という意味です。

【A.「反射神経」として作用するために学習された記憶】については顎を触る例を挙げました。
【B.意識されない、あるいは意識から抑圧された記憶】については、たとえば次のようなことが該当すると思われます。

<例1>kobareroさんのご返事を見ながら、じっくり考えようと意識した時、腕を組みました。
「腕を組もう」と思ったわけではありません。
「じっくり考えよう」と意識した時、無意識に腕が組み合わさったのです。
意識が原因系として、無意識の(経験したあるいは学習した)記憶を引き上げた例になるように思います。
ただ、ここで強調しておきたいのですが、あくまで「私が意識した」結果として無意識が顕在化したわけですから、対外的には「腕を組んだのは私が意識したからだ」と表現したいと思います。
怪我をした時、血が流れるのは私の責任ではありませんが、怪我をしたことは私の責任だということと似ているかもしれません。
(いや、似てないかな?・・・、どう思います?)
あるいは腕に挟まれて息絶えた虫がいれば、それは「腕に挟まって死んだ」のではなく、「腕に挟んで私が殺した」という認識です。
<例2>ベッドに入ってもいつも眠れず遅くまで起きているが、明日は早い時間から大事な用があるので、「早く寝よう」と意識すると眠くなる。
催眠術などは、この原理の応用であって、いわゆる”やらせ”ではないと私は思っています。
<例3>電車で足を踏まれて非常に痛かった。文句を言おうとおもったら若くてかわいい女子高生だった。足を踏んだことには気付いていないようで、ニコニコしながら友達と話をしている。
痛くないことはないが、明らかに”痛みの引いていく速度”は速い。
<例4>とても疲れていてもう仕事をやめようと思っていた。後1時間?とんでもない!
良く聞いてみると、これが終われば温泉旅館で貸切の宴会が準備されている。
そのことがわかった途端、疲れは嘘のように引いていった。

良い例かどうか自信はありませんが、とりあえず4点そろえてみました。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

昨日の朝は、5時に目を覚ましてしまい、月を見たら、すっかり細くなって、しかも、かなり東に寄ってました。ところが、今日は反動で寝坊して7時過ぎに月を見たら、なんと、月がないのです。全天見回しましたが見つかりませんでした。誰か月を盗んで行ったのでしょうかね。

(1)意識は何をしているか?
「腹を立てることは悲しいことです」という見方もできますが、『この世に不必要なものが存在するわけがない』とおっしゃってたのは、もしかして、hakobuluさんではなかったでしょうか? 私は、hakobuluさんの後者の考えに賛成です。「腹が立つ」という現象は、足を踏まれて「痛いと感じる」現象と同様、必要なものだと思います。馬鹿にされて腹が立つからこそ、よし2度と馬鹿にされないように努力して見返してやるぞというエネルギーが生まれ、向上心が鼓舞されるのだと思います。そいう言う意味で、決して不必要な現象ではないと思います。嫉妬や悪意も同様だと思います。

無意識の選択や越前くらげの話は、話としてはわかりますが、ポイントは「無意識には自浄作用がある」ということでしょうか?

(2)意識が原因系となる例
<例1>に関連して、hakobuluさんの以下の分類が何を意味するのか、頭が混乱してよくわからなくなってしまいました。【A】の方は何とかわかるような気がしますが、【B】は、正直言って、お手上げ状態です。

【A.「反射神経」として作用するために学習された記憶】
【B.意識されない、あるいは意識から抑圧された記憶】

でも、取り合えず、私なりに理解しようと努力した結果を以下に述べますので、間違いを訂正してください。

【A】は、癖みたいなものかなと理解しました。ある状況になると、無意識のうちにある行動が引き起こされるような現象です。例えば、照れると頭を掻くとか、イライラすると貧乏ゆすりをするなど。当然、意識が関与しないということになるのだと思います。こういう理解で良いでしょうか?

【B】は、「洗脳」の例を挙げておられるので、本来の自分の考えや欲望を押さえ込んで、それとは異なった考えや欲望を自分のものだと信じ込む状態の事でしょうか? しかし、そうだとしても、そのことが、意識によって腹痛を起こさせたり、汗を止めたり、腕を組むこととどう関係するのかが、よくわからないので、教えていただけませんか?

<例2>についてですが、「早く寝よう」と意識すると眠くなるというのは、一般的には、あり得ないことだと思います。眠れないときの教訓は、「眠ろう、眠ろうとするから、ますます意識が喚起されて眠れなくなるのだから、眠れなくてもいい、今日は徹夜だと居直れば、却って眠れるものだ」というところではないでしょうか?

<例3>は、”痛みの引いていく速度”は速いということはあり得ることですが、それが、どのような「意識」が原因で生じたのでしょうか? 「かわいい女子高生だ」と「意識」したからでしょうか? それとも、「痛みよ! 引け引け!」と意識した結果でしょうか? もし、前者だとすると、直接的原因は、「かわいい」という「感情の生起」ではないでしょうか? 「感情の生起」自体は、無意識が引き起こしたもので、意識自身は、感情を引き起こすことはできないと思うのですが。

<例4>も、<例3>と同じような感想を持つのですが、やはり、「貸切の宴会が準備されていることに対する期待感」という感情の生起こそが、疲れを嘘のように引かせる直接的原因のように思うのですが。

(3)意識が原因系となる典型例は、意志ではないでしょうか?
意識が原因系になる具体例をあれこれ考えてみたのですが、結局、一言で言うと「意志が発露」する場合が、その最も典型的な例ではないかと思えて来ましたが、どうでしょうか? 例えば、以下のような例です。いずれも、通常の心の流れに反して行為するキッカケを「意識」が与えている例です。うーん、と書いてはみたのですが、結局、その裏には、どうしても無意識が垣間見えてしまう.....。でも、先ずは、hakobuluさんのご意見を伺いたいと思います。

(1)タバコを吸いたかったが、禁煙中だったので我慢した。
(2)馬鹿にされて腹が立ったが、ぐっと抑えてニコニコしていた。
(3)恥ずかしかったが、勇気を出して、愛の告白をした。
(4)疲れていたが、お年寄りが来たので、席を譲った。

補足日時:2005/12/29 18:54
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ご返事ありがとうございます。


また雪が降っています。しかし子供の頃に比べると明らかに量は少ないようです。昔は雪だるまが作れると喜んだものでした。子供が5,6人入れるような「城」(東北地方で言う「カマクラ」)も道端に沢山作りました。
今ならダンプで潰されるか、交番にチクラレルでしょうね。

>(2)意識は何をしているか?
>◆意識が結果系であると思われる例
「1感覚(知覚)→2無意識細胞が認識(無意識)→3意識細胞へ伝達→4意識する」という構図に当てはめるとすれば、
3で馬鹿にされたという無意識の認識が意識細胞へ伝達されたとして、4では「腹が立つ」という意識と「憐れむ」という意識が生じるのではないかというつもりでした。
つまり、「選択」が行なわれたのだから次のステップへ影響を与える原因系として作用すると仮定するのが自然なように思うわけです。
「腹が立った」事実が無意識の結果であることを否定しているわけではありません。

その後の流れとしては「相手を殴る」「なぜそんな事を言うのか理解しようとする」などが考えられますが、この行為の原因として「腹が立つ」「憐れむ」と意識することが必要ではないか、ということです。
kobareroさんは、無意識細胞領域内における関連化学作用だけでこの原因・結果作業が進行し、「私」が「意識するという現象」は【おまけ】ではないかという仮説を立ててみた、ということだと思います。
私としては感覚的に「盲腸は不要だ」と言われたような気がするのです。
確かに何の栄養を吸収するわけでもなく、単なる何かの名残?ではないのか、現在の生体には不必要なはずだ、と。
(現在の医学ではどうなのか知りませんが、昔は確かこう言われていたように思います。)
しかし、盲腸は必ず役目を持っていると思います。無くなってみないと、あるいは何十年も経たないとわからない役目かもしれません。
ともかく『この世に不必要なものが存在するわけがない』というのが私の考え方です。
無論、その必要性が万人共通のものとまでは言いません。いや、しかし実は共通の必要性があるのかも・・・。
また、本当に不必要なものは退化し、あるいは消滅していくでしょう。しかし、それはそのものが必要とされていた理由が解消されてからでなければならないと思います。

閑話休題。
このような気も少しして「意識」の応援をしているようなわけです。(ちょっと例えが不適当だったような気もしますが・・)

>◆意識が原因系であると思われる例
☆アイデア☆
>「アイデアを出せ」と念じたのが「意識」で、その結果、具体的なアイデアを出したのが「無意識」で、さらに、「無意識」の出したアイデアを承認・非承認するのが「意識」ということで良いですか?
:全くそのとおりなように思います。

☆老人と席☆
>そのような作業を、席を譲る時に、「意識」が意識してやっていると思いますか?
:そのような作業をすることが「意識する」ということだと解釈しています。
無論、瞬間的にです。
>勝手に「席を譲らなければ」という内容を「意識」に送り込んでくると思います。すなわち、行動の「選択」は、「無意識」が既に行った結果を「意識」に送ってくるのだと思います
:無意識領域の中には「俺も疲れているからまあいいだろう」「若い女の子だったら譲ってやるんだが」など様々な無意識があるでしょう。
その中から「席を譲らなければ」は「意識」によって選ばれたと考えます。
では、なぜそれを選んだのかということになると、感覚神経が刺激を感知するのと同様に、あるいは無意識が一旦それを格納するのと同様に、それが意識の役目だからということになるように思います。

ただ、無意識は単なる記憶の蓄積場と思っているわけではありません。
清濁併せ呑む海のイメージです。
それ自体は意図しなくとも、その態様は結果として地球に多大な影響を及ぼします。
全く漠然としたものですが、このあたりの作用が「意識する」こととどのように関わっているのかも興味あるところです。

☆冬の温泉☆
【どこかへ行きたくて、行き先を考えた結果、温泉に行きたいと思った」という場合】にも適用できると思いますが、今回は「温泉に行きたくて、温泉に行った」場合を想定していました。
普段から「山はいい」「釣りはいい」「パチンコはいい」「温泉はいい」という無意識は存在しているということです。
「温泉に行きたい」と意識したということは、その中から「温泉はいい」を(瞬間的に)選択したことになるのではないかという考え方です。
「選択した」という以上「目的」があるはずだから、原因系として作用するはずではないだろうか、というふうに思うわけです。
尤も、上の【瞬間的に選択した】のがkobareroさんのお考えでは「無意識」ということになるのでしょうが。

>「意識」が原因系となる典型的な例
a.ゴルフの藍ちゃんの場合
最終日の最終ホール。バーディパット。沈めると優勝だが近くの木の上で多数のカラスが異常にうるさい。
「聞こえない」と集中すると聞こえなくなる。
b.卓球の愛ちゃんの場合
フルセットでのサーブ。これが決まれば準決勝突破。緊張のあまり拭いても拭いても掌の汗が止まらない。グリップがすべる。苦しかった練習を思い返し「汗よ止まってくれ」と念ずると汗が出なくなる。
c.サラリーマンAの場合
どうしても会社に行きたくない。またあの部長を見るのが今日はどうしても嫌だ。嫌だ嫌だと意識し続けていたら本当に腹が痛くなって、会社を休まざるを得なくなった。
d.主婦Dの場合
今日はスタジオ見学の日で憧れの俳優に会える。化粧は嫌いだが、少しでも若く見られたい見られたいと朝からずっと意識している。出掛けに子供から「お母さん今日の顔つやつやしていてすごくきれいだね。」と言われる。

お粗末の4席でしたが、戦々恐々としてご感想をお待ちします。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

カマクラを作って、交番にチクラレルようだと、そのうち、くしゃみをしてもチクラレる世の中になるかも知れませんね。今日は、プールで本年最後の泳ぎ納めをしてきました。同じことを考える人が多いようで、かなり混んでいて、女の人に蹴飛ばされました。おまけに、身をかわしたついでに足が吊ってさんざんでした。

(1)意識は何をしているか?
「馬鹿にされて腹が立つ」の例では、まずは、自分自身が実際に「馬鹿にされて腹が立った」経験がないと、そのときの「心の動き」を正確に把握することは難しいのではないか思います。hakobuluさんの場合は、馬鹿にされたときに、「腹をたてるべき」か「あわれむべき」か迷った後に、ここは腹を立てずに、あわれもうと考えられるのだと思います。そのような「心の動き」があり得ることは理解できます。ただ、私の場合、馬鹿にされると、即座にムラムラと腹が立ってきます。ムラムラと腹が立ってしまった後で、「意識」がそのことに気づくという順番です。従って、「馬鹿にされて腹が立つ」については、意識が関与する余地はないというのが、私の結論です。

また、『この世に不必要なものが存在するわけがない』については、ひとつの有益な見方だと思います。その視点から、「意識」には、どのような必要性があるのかを考えればよいのだと思います。そのために、#74補足以降、「意識」が原因系である例を具体的に挙げて検討しているわけです。

(2)意識が原因系である例
「年寄りに席を譲った」の例も、あらためて考えてみると、かなり漠然としてましたね。実際の状況や、そのときの自分の「心の動き」がどうだったかをはっきりさせないと、色々な見方ができてしまいますね。例としては、やはり、不適切でしたね。済みません。hakobuluさんが言われるように、「俺も疲れているからまあいいだろう」「若い女の子だったら譲ってやるんだが」などの中から「席を譲らなければ」が選ばれるという道筋もあり得ますね。そして、hakobuluさんは、その選んだのが「意識」だと考えましたが、確かにそういう場合もあるでしょうね。ただ、そのときには、「俺も疲れているからまあいいだろう」や「若い女の子だったら譲ってやるんだが」などを頭に浮かべた上で選ぶというのが条件になると思いますね。それらを心に浮かべることなく、即座に「席を譲らなければ」という思いが沸いたのであれば、その選択は、「無意識」が行ったと考えるのが妥当だと思います。実際は、そもそもそのような選択がなされたかどうかは知りようもないのですが。

「温泉に行く」場合も、hakobuluさんがおっしゃるとおり、複数の選択肢の中から選んだ結果である可能性はありますね。ただ、この場合も、その選択肢の一つ一つを心に思い浮かべた上で、最後に「温泉に行く」を選んだのなら、「意識」が原因でしょうが、他の選択肢を思い浮かべることなく「温泉に行きたい」と思ったのなら、「意識」は結果だと思います。

次に、hakobuluさんに考えていただいた「意識」が原因系になる典型的な例の件ですが、うーむ、これは、ちょっと無理に作り出した感を否めませんが......どうなんでしょう? 「聞こえない」と集中すると聞こえなくなる....これは、ぎりぎり何とか、そういうこともありかなぁと思えるのですが、「汗よ止まってくれ」と念じると汗が出なくなるに至っては、もうお手上げです。もう少し、hakobuluさんの日常体験の中から例を挙げることはできないでしょうか? また、いやな部長の顔を見たくなくて腹痛を起こすのは、まさに、無意識の働きでしょう。意識で腹痛を起こせる人がいたら、それは、超人です。また、若く見られたいと願って顔がつやつやする例は、若く見られたいという気持ちが非常に強くて、自然と(無意識の働きで)顔がつやつやする場合もあるでしょうし、意識的に一心に念じた結果、つやつやする場合もあるかも知れません。ただ、いずれにせよ、あまり一般的な現象ではないように思います。やはり、hakobuluさん御自身が日常的に体験される例の方が説得力があると思うのですが。

補足日時:2005/12/28 19:40
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ご返事ありがとうございます。


道路が次第に厚くなっていきます。子供の頃は雪を待ち望んだものですが・・・。
雪自身は何も心変わりしていないのに、不当な扱いだと抗議しているでしょうか。

>(1)悲惨な事件は、無意識に影響を与えるか?
【いくら情報だとは言え、電波に乗り、視覚や聴覚を刺激し、神経や脳細胞を刺激しない限り、無意識に影響を与えることは出来ません。】とのことですが、そうかもしれません。
ただ、【「物質」の助けなしには何事も動かない】のでしょうか。
例えば強く念じ続けることによって、体内である化学作用が引き起こされ麻痺していた指が動くようになる、といったような可能性は全く無いのでしょうか。
明らかに意識(意志)が完全な原因系となる可能性、という意味ですが。

>(3)意識は何をしているか?
【意識」は、原因系になる場合と、結果系になる場合の2つの場合があるのか】
そう思います。これは無意識についても同じことが言えると思います。
すなわち記憶の格納作業中は結果系であり、意識される場合は原因系の母体となりうるので。

例文についてははっきりしたことを言う自信がありません。
可能な範囲で述べてみますので、感想という程度に捉えていただき、さらにフィードバックしていただけると有り難いです。
>◆意識が結果系であると思われる例
(1)~(5)は同意します。感覚が作用する無意識の内容は一定であって、意識が関与する余地は無いように思います。
しかし、(6)馬鹿にされたから必ず腹が立つとは限りません(相手を憐れむという選択も良くあるでしょう)。
(7)いじめられて可哀想と思うどころか、一緒になっていじめようと思う人もいるでしょう。
(8)はちょっと考えています。

>◆意識が原因系であると思われる例
(3)は「アイデアが浮ぶように意識した」とは言えるでしょうが、浮んだアイデア自体は無意識の産物という解釈をします。
他のアイデアではなく「そのアイデア」だったということに、意識した意義を見出すという構図を考えます。

(5)「年寄りに席を譲る価値を学習した記憶」を無意識領域から意識が選択したという意味で原因系です。しかし、その記憶(無意識)が無ければ選択することも不可能(そういう人は多い)なので、この観点からは意識は結果系とも言えます。
(6)上と同じく「温泉はいい」という無意識の記憶があってこそですから、その意味で結果系。
しかし、山もいい。釣りもいい。パチンコもいい。などの中から「温泉」を選んだという能動性ゆえに意識は原因系になり得ています。
また、それが重要だと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

子供の頃は、雪の降る夜空には、サンタクロースや神様が住んでいましたし、雪の降る山には、雪女や雪男もいたのですが、今は、H2Oの結晶が落下するだけの物質現象になってしまったのではないかなぁ。

(1)悲惨な事件は、無意識に影響を与えるか?
「強く念じ続けることによって、体内である化学作用が引き起こされ麻痺していた指が動くようになる」は、「意識」が原因となる例として登録しておきます。(2)でまとめて考えたいと思います。

(2)意識は何をしているか?
◆意識が結果系であると思われる例
>(6)馬鹿にされたから必ず腹が立つとは限りません(相手を憐れむという選択も良くあるでしょう)。

私の例は「馬鹿にされて腹が立った」でしたが、「馬鹿にされて腹が立った」という事実そのものを認めないという意味でしょうか? 確かに、人によっては、腹を立てずに相手を哀れむという人もいると思いますが、「馬鹿にされて腹が立った」人も、事実としては、いくらでもいると思うのですが。そういう人の場合を考えても「意識」は結果ではないと考えますか?

>(7)いじめられて可哀想と思うどころか、一緒になっていじめようと思う人もいるでしょう。

私の例は「子供がいじめられていたので、かわいそうに思った」だったのですが、「かわいそうに思う」人もいるという事実を否定されますか? もし、否定されないのなら、その場合でも、「意識」は結果ではないと考えますか((6)と同じ疑問です)?

◆意識が原因系であると思われる例
>(3)は「アイデアが浮ぶように意識した」とは言えるでしょうが、浮んだアイデア自体は無意識の産物という解釈をします。

「アイデアを出せ」と念じたのが「意識」で、その結果、具体的なアイデアを出したのが「無意識」で、さらに、「無意識」の出したアイデアを承認・非承認するのが「意識」ということで良いですか?

>(5)「年寄りに席を譲る価値を学習した記憶」を無意識領域から意識が選択したという意味で原因系です。しかし、その記憶(無意識)が無ければ選択することも不可能(そういう人は多い)なので、この観点からは意識は結果系とも言えます。

「意識」が選択と書かれていますが、どうやって選択するのでしょうか? 選択するには、あらかじめ、A、B、Cなどが見えていて、それを見比べて、その中の一つを選ぶ必要があると思いますが、そのような作業を、席を譲る時に、「意識」が意識してやっていると思いますか? この点についての私の考えは、「意識」は「あ、お年寄りがいる」と感じるところまでで、その後は「無意識」の中から、勝手に「席を譲らなければ」という内容を「意識」に送り込んでくると思います。すなわち、行動の「選択」は、「無意識」が既に行った結果を「意識」に送ってくるのだと思いますが、いかがでしょうか?

>(6)上と同じく「温泉はいい」という無意識の記憶があってこそですから、その意味で結果系。しかし、山もいい。釣りもいい。パチンコもいい。などの中から「温泉」を選んだという能動性ゆえに意識は原因系になり得ています。

私の例は「温泉に行きたくて、温泉に行った」でしたが、hakobuluさんの考えたのは、「どこかへ行きたくて、行き先を考えた結果、温泉に行きたいと思った」という場合ですよね。「温泉に行きたくて、温泉に行った」は、例としては、漠然としすぎていて、あまり良い例ではなかったですね。私は、「意識」が結果系になる例なら、いくつでも思い浮かぶのですが、原因系の例を考えようとすると、どうしても「無意識」との協力作業になってしまい、わかりにくくなってしまいます。hakobuluさん、「意識」が原因系となる典型的な例をいくつか考えていただけないでしょうか?

>(9)「強く念じ続けることによって、体内である化学作用が引き起こされ麻痺していた指が動くようになる」

(1)から引っ越してきた例です。これは、「指を動かせ」と「意識」が念じた結果、指が動いたので、「意識」が原因系だという例ですね。

補足日時:2005/12/27 22:33
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ご返事ありがとうございます。



豚シャブですか。暖まりそうですね。
私が肉(豚か鶏)を食べるのは週1回ぐらいで、殆んど魚派です。

>(1)現象とは何か?及び(2)物質とは何か? 
「闇に含まれる犬や豚」となると栄養豊富な闇鍋といった趣ですが、「光が無い(あるいは希少である)」という意味での暗闇であればどうでしょうか。(←手を変えた質問1)
物質でないと仮定した場合、暗闇が無意識細胞に影響を与えることはありそうですがどう思われますか。

また【エネルギーも物質の一部】ということですが、私の認識としては「自分以外の存在に何らかの影響を与え得るもの」は全て「エネルギー」と呼べるのではないかと考えるので、物質でなくてもエネルギーと呼べるものはあると考えています。
遠回しな言い方はやめてひとつ例を挙げると、悲惨な事件のニュースを聞いたことによって、無意識細胞が何らかの活動を始めることは大いにありそうに思われるということです。
このようにエネルギーの定義幅を広げることは非科学的なのでしょうか。

>(3)無意識とは過去の記憶か?
【>「無意識」とは、意識に登らない脳内活動の全て。】
ほぼ私も同じ感覚で使っていましたが、この「感覚で使う」ことで色々ご迷惑をおかけしたような気もします。
また【>無意識=記憶という辺りが、私にはかなり違和感】がある、とおっしゃっていることも全く同じ「印象」であったと言ってまちがいありません。

kobareroさんの【細胞群の状態として、「意識」「無意識」の2つの状態があると考えた方が実態に近いのかも知れません。】という件がヒントになっているのですが、環境からの影響は「感覚」という機能を通じて一旦生体に全て受け入れざるを得ないのだと思います。
それを格納する脳細胞の領域があり、そこに格納されるものを「無意識」とすると解り易くなるような気がしたわけです。
(先天的無意識領域はまた別になっているのではないかとも思います。)

一旦「感覚したもの」を無意識として格納するわけですから、「記憶」といっても「様々な感覚の集積」ということも言えるのかもしれません。
【>連想、思考、想像、感情、気分、価値観、真善美】なども「感覚の記憶」というわけです。
こう考えると「無意識=記憶」という定義も案外腑に落ちるような気もします。
骨子は『「無意識」とは、意識に登らない【脳内活動】の全て。】ではなく、『「無意識」とは、意識に登らない【脳内記憶格納状況】の全て。』ということになるでしょうか。
また、このように規定したいと思うのは、「無意識」とは言動の「原因の種火」ではあるが、「意識」の介在無しに独自で何らかの結果をもたらす原因とはなりえない、ということを確認したいためでもあります。
さらに言うと「意識する」ことこそが原因であって、結果として「意志する」ことになるようにも思います。
このあたりは、そのような場面になった段階でまたゆっくりお考えをお聞かせください。

>(4)「意識」は何をしているのか?
おっしゃるとおり意識に重きはおいてますが、【>「私」の行動をコントロールして間違った方向に行かないようにしている】
とは全く思いません。(それが意識の働きの一部であることは認めますが)
あくまで「無意識の表出」でしかないことはわかっているつもりです。
無意識という格納庫に収められているものより意識としては現われないでしょう。
ただ、意識は「選択することができる」というイメージです。
それが「良いか悪いか」の判断もまた意識によってなされるわけですが、悪いからといって意識が選択しないとは限りません。
人間は常に善を為す生き物であるという根拠はどこにも無いと思うからです。
(完全なる善が存在するのか、といったことはひとまず置いておきます。)

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝は、西の空がとてもきれいでした。遠い山脈の青黒い影の上に、澄んだ青い帯、赤紫色の帯、ピンクの帯、白い帯が、太い虹のように順番に伸びていました。月は、さらに細くなって東の太陽に近づきつつあります。

(1)悲惨な事件は、無意識に影響を与えるか?
もちろん、影響を与えると思います。ただ、「悲惨な事件」は、いくら情報だとは言え、電波に乗り、視覚や聴覚を刺激し、神経や脳細胞を刺激しない限り、無意識に影響を与えることは出来ません。この世は何事も「金」、じゃなかった、「物質」です。「物質」の助けなしには何事も動かないのです。「悲惨な事件」が物質の助けを借りずに、無意識に影響を与える現象は「テレパシー」です。「テレパシー」は、やはり非物質ですね。

(2)無意識とは過去の記憶か?
私は、前回、「無意識」の活動の例として、記憶の他に、連想、思考、想像、感情、気分、価値観、真善美などを挙げましたが、最も肝心なものを忘れていました。それは、「欲望」です。あまりにも基本的過ぎて、すっかり忘れてましたが、私にとっては、ほとんど「無意識=欲望」です。その他の働きは全て、「欲望」の子分のようなものです。従って、hakobuluさんの言われる「無意識=記憶」説は、やはり私にとっては、しっくり来ないです。

ただ、hakobuluさんの以下の説明は、hakobuluさんのお考えを明解に示しておれるという意味で、すっきりと理解できました。この件については、(3)で、少し別な角度から考えてみたいと思います。

>また、このように規定したいと思うのは、「無意識」とは言動の「原因の種火」ではあるが、「意識」の介在無しに独自で何らかの結果をもたらす原因とはなりえない、ということを確認したいためでもあります。

(3)意識は何をしているか?
前回の最後で、ちょっと書きましたが、意識が何をしているかについて、少し異なった角度からアプローチしてみたいと思います。それは、脳細胞の話は、一旦、横に置いておいて、意識がどのように働いているのかを、「自分の心の動きを実際に観察する」ことを通して理解する方法です。また、私は、「意識」は結果であり、原因にはなり得ないと考えているのですが、それは、常識的な感覚では非常識ですから、ここでは、hakobuluさんのおしゃるように、「意識」は「心の動き」に対して、何らかの原因になり得るという立場で考えてみたいと思います。そうすると、一つの疑問が出てきます。それは、「意識」は、原因系になる場合と、結果系になる場合の2つの場合があるのかという疑問です。この疑問を解くために、「自分の心の動きを実際に観察する」方法を取ってみました。

以下は、私自身の心の動きを観察した結果、「意識」が結果である思われるものと、原因であると思われるものとを具体的にリストアップしたものです。

ここで、お願いですが、hakobuluさんから見て、以下の判断は妥当だと思いますか? もし、異なった考えがあれば、教えてください。また、原因系については、あまり自信がありませんので、もし、hakobuluさんが、「これこそが原因系としての典型的な例だ」というものがあれば、お知らせください。

◆意識が結果系であると思われる例
(1)朝、目が覚めた。「目覚めろ」と「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(2)消防自動車のサイレンが聞こえてきた。サイレンの音が聞こえるよう「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(3)カレーライスを食べたら、すごく辛かった。辛く感じるように「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(4)足を踏まれて、痛かった。足が痛むように「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(5)風呂に入ったらリラクスした気分になった。リラックスした気分になるように「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(6)馬鹿にされて腹が立った。腹が立つように「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(7)子供がいじめられていたので、かわいそうに思った。かわいそうに思うように「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。
(8)昔の写真を見ていたら、子供の頃のことを思い出した。思い出すように「意識」が命令したわけではないので、「意識」は結果だと思います。

<文字数制限のため、続きは、「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/27 18:48
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この回答へのお礼

◆意識が原因系であると思われる例
(1)いつまでも寝ていたかったが、会社があるので起きた。起きることを「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(2)「そば」にするか「うどん」にするか迷ったが、「そば」にした。「そば」にすることを「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(3)問題を解決するアイデアが浮かんだ。アイデアが浮かぶように「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(4)一番になろうと思って、一番になった。一番になるように「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(5)年寄りに席を譲った。席を譲るように「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(6)温泉に行きたくて、温泉に行った。温泉に行くことを「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(7)数学の問題を解いた。解くことを「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。
(8)法律違反だが、妻子を思って偽証した。偽証することを「意識」が命令したので、「意識」は原因だと思います。

お礼日時:2005/12/27 18:50

>ご返事ありがとうございます。


また、プレゼントを快く御裾分けくださいましてありがとうございます。
何か得した気分です。

月着陸から35年になりますか。
その前後だったでしょうが、無意識下に眠っていた?「地球は青かった」「私はカモメ」などの飛行士語録?を思い出しました。
しかし、この記憶を司る細胞群はやはりそれ専属で存在しているのでしょうか。
よく考えてみれば我々が感覚で得たもの、すなわち過去と呼ぶ時の中で起こった事柄は全て無意識に格納されると考えていいのかもしれません。
そうすると、無意識は過去の記憶であり、意識は今と言う瞬間が存在することの証、と言うこともできそうです。
ややこしくなるので、当面の問題点に立ち返ります。

>(1)意識活動の内容は?及び(2)意識が「どうしようか?」と思うときの意識内容は?
【(1)「意識」自体が、原因系として、無意識細胞群に影響を与えることができる。】と思います。
【(2)「意識」自体は、意識細胞群の働きの結果、生じた現象に過ぎないので、それ自体は、無意識細胞群に影響を与えることはできない。】は、「私が意識する」ことは不要であることを証明するための前提となる仮説だと思いますが、「現象」が物質に影響を与えることは絶対に無いものなのでしょうか。
科学の門外漢にそのあたりのことを少し説いていただけませんか。
例えば、「音波」や「声」、「空気の波動」あるいは「光」や「闇」は物質でしょうか現象でしょうか。

>(3)質問に対する回答
>【質問1】
【>意識細胞群が「どうしようか」という状態になった原因は何かというと、それは、無意識が「ビリになった」という状況認識をしたことが引き金になったと考えられます。】
う~む・・・。
ちょっと提案があるのですが、冒頭でも少し述べましたが「無意識とは、今この瞬間認識していない過去の記憶である」と定義してはまずいでしょうか。
それを「私」が認識することによって無意識が意識と呼ばれ、「私」が無意識を認識することを「意識する」と呼ぶ。

以前も挙げたことがあったかもしれませんが、通りすがりに覗いてわかりやすかったサイトの内容は以下の通りです。

http://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/collective.htm
・個人的無意識---- 個人の中で忘れてしまった記憶の内容、意識によって抑圧された内容(性欲・殺人願望他)など。
・普遍的無意識----人類に共通している心の層。全世界に共通している神話的なイメージ(どの国にも神話や伝説が存在している)。われわれの祖先の経験が遺伝したものと考えられている。
S.フロイトの無意識概念がもっぱら個人的無意識を強調するものであったので,ユングの考えは受けいれられず、両者が決別する一因ともなった。


この場に合わせて具体的に述べると「認識するとは意識することの一種」、というふうに定義したほうが論点の食い違いが生じにくいのではないでしょうか、ということですが。
kobareroさんの【細胞群の状態として、「意識」「無意識」の2つの状態があると考えた方が実態に近いのかも知れません。】というご意見と総合して以下のように仮定してみましたが、ご感想はいかに。

【無意識が「ビリになった」という状況認識をした】という箇所は、
『視覚刺激によって、無意識がこの視覚から連想される記憶にアクセスを始める。その結果意識が無意識内の「ビリになった」という記憶を認識する』とする。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今日は、久しぶりに、豚肉と白菜を買ってきて、夕飯に、しゃぶしゃぶを食べました。結構、おいしかったです。

(1)現象とは何か?
「現象」の定義というのは、よくわかりませんが、私は、「現象とは、物質の働きの結果が心に映った姿」と考えています。例えば、光が当たったときにできる影のようなものです。影は、光が当たるという物質の働きの結果として生じますが、その影が、逆に物質に影響を与えることはできないのと同様に、現象が物質に影響を与えることはできないと思います。物質に影響を与えることができるのは物質だけというのが、取り合えず、現代科学の認識だと思っています。

(2)物質とは何か? 
難しい問題ですね。難しいので、専門的に、あるいは、世間一般でどう定義されているかわかりませんが、私としては、以下のように考えています。

「物質とは、質量を持つか、あるいは、エネルギーを持っているものである。」何故、そう考えるかというと、物質は、第一義的には、体積があり重さ(質量)が有るものだと思います。しかし、質量とエネルギーは、「E=mC2」という式で、相互に変換可能な性質を持っています。このため、エネルギーも物質の一部と考えました。従って、光や電磁波は物質だと思います。「音波」や「声」は、聞こえる「音色」は現象ですが、「空気の振動」は、物質と考えてもいいと思います。また、「闇」は、詩的な言葉なので、本来、答えようがないのですが、無理やり答えれば、完全な暗黒であっても、空気や花の香りや、場合によっては、犬やブタまで含まれている可能性が否定できませんから、やはり物質でしょう。

(3)無意識とは過去の記憶か?
「無意識」とは何か? 私の考えていた「無意識」の意味と、ユングによる無意識とは、全く違っていたことがわかりました。さて、どうしましょうか? 取り合えず、私の定義は、以下の通りです。

 「無意識」とは、意識に登らない脳内活動の全て。

従って、過去の記憶も当然その一部ですが、その他、連想、思考、想像、感情、気分、価値観、真善美などの意識に上る前の全ての活動や状態が含まれます。いかがですか、hakobuluさんは、全く違ったイメージを持っていましたか? hakobuluさんが、最後に書かれた、<その結果意識が無意識内の「ビリになった」という記憶を認識する』とする。>については、無意識=記憶という辺りが、私にはかなり違和感がありますので、上述の話に対するhakobuluさんのご意見を伺った後に、あらためて考えてみたいと思います。

(4)「意識」は何をしているのか?
私は、「意識」は一体、何をしているのかということが、本質的な問題のように思います。私の感じでは、hakobuluさんは、「意識」の働きを非常に高く評価しておられ、「意識」が「私」の責任者として、「私」が正しい行動を選択するよう常に注意を払い、必要に応じて「私」の行動をコントロールして間違った方向に行かないようにしていると考えておられるのではないかと思います。そのため、私が「意識は結果であり、行動に影響を与えることができない」と言うと、そんなはずはないと思われるのではないでしょうか? hakobuluさんの考えは、非常に正論だと思います。例えば、1000人の人がいるとすると、999人はhakobuluさんの考えに賛成すると思います。ちょっと、頭のおかしい一人が、もしかすると、私の考えに賛成してくれるかもしれない、そのくらい、非常識な話を、私は今しているのだと思います。で、その非常識な話をどう説明するか、今までの議論では、行き詰る可能性があるので、もう一つ別な角度から考えてみたいと思います。ただ、今は、まだ、考えがまとまらないので、この話の続きは、次回にさせていただきたいと思います。

補足日時:2005/12/26 22:46
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>ご返事ありがとうございます。


昨夜から強風が吹いています。雪も割合積もりました。雪かきはいい運動になります。
グースカ眠っていた方がお目覚めのようですね。(いやガクッと死んだ方でしたか)
クリスマスプレゼント2つあるようなので、ひとつ私が貰ってもいいのでしょうか・・・。
しかし、どちらを貰うべきか・・・(と、勝手にもらうことに決めている)。
とりあえず返礼をば。

1、「塞翁が馬」の馬自身は幸福であったか?
2、鯖が成長して河馬2匹(2頭?)

>(1)意識の活動内容は?
質問1:
(2)と考えていいように思います。
質問2:
「意識細胞群」の中の「意識細胞」の組み合わせ、あるいは【細胞地図】といったようなものによって決定されるように感じます。
前回、これが「私が私である」根拠と述べましたが、状況に応じた様々の細胞地図が作成されると考えた場合、その組み合わせを決定する因子は何かということが問題になってきます。
質問3:
>「この選択は間違っているから、別のやり方にした方が良い」となると意志の領域に入ってしまうように思われます。
「無意識細胞群から送られてきた信号内容を受けているこの意識細胞Aの内容は削除しよう。」
などという具合でしょうか。
質問4:
矛盾をご指摘いただきありがとうございます。両者の区別をよく理解していないので混同してしまうのでしょう。
今の段階では、とりあえず「意識」ということにしておきたいと思います。

>(2)意識が「どうしようか」と思うときの意識内容は?
【>脳細胞にその感じの根拠となる何らかの化学反応がある】とは思います。
#69の(5)を読み返してみました。
何度か読むうちに理解できたように思います。
一度、「私」が【「意識する私を含む全ての意識」+(無意識を含む)X】ということで合意したことがあったように思うのですが、ここに照らし合わせてみると、結局”この点については”我々は同じ事を言っているのではないでしょうか。

「どうしようか」と考えたり、「?・・・!?・・」と感じるためには、『無意識の何らかの動き』が必要なことは理解しているつもりです。
ただ、「どうしようか」と考えることによって無意識細胞群に何らかの影響を与えうるのもまた確かではないか、というのが私の考え方です。

ここでちょっと自分の考えを整理したいので、2点質問させてください。
このご回答を詰めていくことによって視野が開けてきそうな予感もしているので、よろしくお願いいたします。
【質問1】
上の『無意識の何らかの動き』はどのような根拠で発生したと思われるでしょうか。
【質問2】
意識に対して【質問1】でお答えの根拠が適用できないという根拠は何でしょうか?
質問1のご回答内容によってはこの質問2は意味のないものになる可能性もあるかもしれませんが、その際は無視してください。
違う角度から再質問させていただきますので。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

昨日の朝は、曇っていて月が見えず、今朝2日分の変化をまとめて見ました。月の位置は、既に真南より東に移り、形も半部以上しっかり欠けていました。ふと思ったのですが、あの月に35年前に人類が降り立ったなんてとても信じられない気がします。コトバのプレゼントは、勝手に独り占めしてたのですが、あらためて山分けしましょう。失礼しました。

(1)意識活動の内容は?
前回の私の質問がピンボケだったみたいです。済みません。そのため、hakobuluさんの回答が、私のお聞きしたかったこととは別な方向に向かってしまったようです。申し訳ないですが、もう一度質問させてください。

質問1: 意識活動に関して、hakobuluさんと私の考え方の一番大きな違いは、以下の点だと思います。すなわち、haokobuluさんは、(1)のように考え、私は、(2)のように考えているということです。この点は、間違いないでしょうか?

 (1)「意識」自体が、原因系として、無意識細胞群に影響を与えることができる。
 (2)「意識」自体は、意識細胞群の働きの結果、生じた現象に過ぎないので、それ自体は、無意識細胞群に影響を与えることはできない。

質問2: 質問1で、(1)の考えを採用した場合、「意識」が何らかの影響を無意識細胞群に与える具体的な手段は、以下のどれですか? もし、(3)の場合は、それがどういうものかを教えていただけますか?

 (1)非物質的な力
 (2)未発見の物質の力
 (3)それ以外

(2)意識が「どうしようか?」と思うときの意識内容は?
>ただ、「どうしようか」と考えることによって無意識細胞群に何らかの影響を与えうるのもまた確かではないか、というのが私の考え方です。

これは、(1)の質問1の(1)の考えと同じことを言っておられるように思います。すなわち、「どうしようか」と考える「意識」が、無意識細胞群に影響を与えるということですね。従って、私がお聞きしたいのは、ここでも、やはり、(1)の質問です。

(3)hakobuluさんの質問に対する回答
>【質問1】上の『無意識の何らかの動き』はどのような根拠で発生したと思われるでしょうか。

まず、『無意識の何らかの動き』は、私が言った言葉ではなく、hakobuluさんが、以下の文で述べられた言葉だと思います。

>「どうしようか」と考えたり、「?・・・!?・・」と感じるためには、『無意識の何らかの動き』が必要なことは理解しているつもりです。

従って、hakobuluさんが述べられた文の中の『無意識の何らかの動き』について、お答えします。まず、「どうしようか」と意識が感じるということは、意識細胞群が「どうしようか」という状態になっているということです。そして、意識細胞群が「どうしようか」という状態になった原因は何かというと、それは、無意識が「ビリになった」という状況認識をしたことが引き金になったと考えられます。ただ、#68補足(5)に書きましたように、意識細胞群と無意識細胞群を峻別するより、細胞群の状態として、「意識」「無意識」の2つの状態があると考えた方が実態に近いのかも知れません。

>【質問2】意識に対して【質問1】でお答えの根拠が適用できないという根拠は何でしょうか?

『無意識の何らかの動き』は、hakobuluさんの言葉だと思うので、質問の主旨を測りかねているのですが、私が「根拠」という言葉を使うとすれば、「意識」が無意識に影響を与える「根拠」という意味で使うことが多いので、その意味で、回答させていただきます。単純に言うと以下の通りです。

「意識」は「意識細胞群の活動」の結果生まれた現象であると、私は、考えています。従って、「意識」自体は、物質ではありません。物質でない「意識」が、物資である「無意識細胞群」あるいは「意識細胞群」に影響を与えることはできないと考えています。

以上ですが、御質問と回答が、何となくすれ違っているような感じもしますので、その際は、手を変え品を変え、再度質問してみてください。

補足日時:2005/12/26 17:24
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お久しぶりです!


お二方、頑張ってますねえ。感心してます。

「無意識」の形成段階自体を、もう少しお調べになるか考慮されたほうがよいような気もします。すでに哲学以外の範疇で考察しようとしておられるようですから。

ところでクリスマス・プレゼントです。

「苦労は買ってでもせよ」
「かわいい子には旅をさせよ」

このコトバをお贈りします。
ナニいらないってか?
失礼しました。
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この回答へのお礼

お元気でしたか?

クリスマスも終わり、後は、お雑煮を待つばかりですが、最近は、「無意識」って何だかだんだんわからなくなってきました。ひょっとすると、私の人生ほとんど無意識って気がしてきました。

おコトバのご返礼です。

「不思善悪」
「非風非幡」

さっき、覚えたばかりです。意味はよくわかりません。あしからず。

お礼日時:2005/12/25 22:47

ご返事ありがとうございます。


今年は年末という雰囲気に乗り切れないでいます。
漠然としたイメージなのですが、この日本(だけではないのかもしれませんが)という社会は、年々荒んでいくようです。
しかも荒んでいること自体に気付いていないような気がします。
あまりにも、「他者の存在」を気にしなければ生きていけない(と錯覚する)時代になってきたということなのかもしれません。

>(1)意識は化学作用の原因になれるか?
【条件1: 意識を生み出す原因となる細胞群が存在し、その細胞群が化学作用を引き起こす。】
ここまでは同じです。
この後ですが、kobareroさんは【「意識細胞群」の化学作用】は次のように分岐するとお考えのようです。
a.「意識」が現出する。
b.「無意識細胞群」の活動を促す。

私はa.bのように「作用は分岐しない」と考えます。
つまりaの結果としてbが起こる、という考えです。
「化学作用」は必然的に「意識」を現出し、「私」がそれを意識したことで「無意識細胞群」の活動を促す、ということです。
さらに言うと、私が意識しないまま「化学作用」が無意識細胞群の活動を促すことは無いだろう、ということになります。
ある化学作用の結果は、常に一定ではないだろうと思うわけです。
そこに「意識」が介在するからです。

恐らくkobareroさんには、「物質でない意識が、どのようにして無意識細胞群に働きかけることが可能なのか」と反論されそうなので、先に考えを述べておきます。
「意識」はある意味での制御装置という考えです。
【意識細胞群が化学作用を引き起こす。】と【その結果として無意識細胞群の活動を促す。】の間に位置しているという想定です。
制御しているのは、「>未発見物質」というよりは「化学作用そのものの規模」という感じです。
意識細胞群は、無意識細胞群からの伝達事項を(一箇所または数箇所で)受け取ると思いますが、その規模を制御するのが「意識」です。
そして、その意識の判定を受けて無意識細胞群にフィードバックするという構図。
あるひとつの無意識細胞群からの伝達事項に対して意識細胞群は一旦全てを受け入れるが、意識として形成された時点ではある取捨選択がなされている、というふうに言ってもいいかもしれません。

なぜ「化学作用そのものの規模」を制御するのか?と言われれば、それが「意識の役目だから」としか今のところは言いようがないのですが。
これを別の観点から考えてみました。
意識が制御するのではなく、意識細胞群が自主的に自らの規模を増減させているのではないか、と。
ただ、何を以って増減の判断にしているのか、ということは難しい問題です。
それこそが「私が私である」根拠と言っていいようなものかもしれません。
ともかく意識、あるいは意識細胞群が「それを選択したから」としか言えないでしょう。

ただ重要なのは、この選択は「させられた」のではなく明らかに「した」ものだということです。
誰が?と言われれば、起源こそ明らかではないが、少なくとも他に【同一のものは決してありえない「私」】という存在であるということだけは間違いないような気がします。

>(2)「脳細胞」は「意識」の原因ではないのか?
(2)です。
どんなものでも因果関係にないものはないと言っていいでしょう。
ただ一方的な因果関係は存在しないのではないかと思います。
その連鎖の輪の、どの時点に注目するかの違いでしょう。
意識自体が無用かどうかは(1)で述べました。

>(3)「意識を生み出す脳細胞群」という表現には、どのような問題があるか?
>(6)「前頭葉の脳細胞群の活動が、意識を生み出す」
というのはわかります。
論点は「生み出された意識」は、そこに収束され次のステップへの原因系としてすらの効果も無い、という点に関してでしょうね。

>(4)赤木健太郎の意識は監督になれないのか?
このへんは堂々巡りになりそうです。
(1)の内容に対するご感想を待つことにします。

>(5)意識自体が何かを生み出す力を持っているか?
【>「ど」「う」「し」「よ」「う」「か」という6文字の日本語を生成する必要があります。】
興味深く拝見しましたが、この6文字は私としては単に「意識内容の説明」にすぎないように思います。
すわなち、この6文字がある前に意識は作用しており、その内容を表現すると「ど」「う」「し」「よ」「う」「か」という6文字になるというだけの話ではないかということです。
蛇足ですが「?・・・!?・・」でもよかったはずです。

>(6)後天的無意識の獲得への意識の貢献
【>「意識」の貢献は、厳密には「意識を生み出す細胞群」の貢献と考えます。】
わかりました。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「他者の存在」を気にするのは、「自分の物差し」が持てなくなったせいかなぁー。それとも、国全体としての方向感覚を持つことに価値を見出せなくなった時代のせいでしょうか? なんだか良くわかりませんが、それはそれとして、卓球の愛ちゃん、ゴルフの藍ちゃん、歌手の愛ちゃんは明るく元気でなかなかいいです。

(1)意識の活動内容は?
以下の<モデルA>は、hakobuluさんの考えを図式化したものですが、これでOKでしょうか? ちなみに、<モデルB>は私の考えです。

<モデルA>
無意識細胞群-->意識細胞群-->意識-->無意識細胞群-->I
    I                                         I
     I<---------------------------I

<モデルB>
無意識細胞群-->意識細胞群-->意識
   I             I
   I<--------I

もし、<モデルA>で、OKだとすると、質問が4つあります。

質問1:<モデルA>において、「意識」の内容は、具体的にはどのようなものを想定していますか? 例えば、以下の(2)のような内容ですか? それとも、もっと短い内容ですか? 何か具定例で教えていただけますか?

(1)「意識細胞群」が「マラソンでビリである」という情報を「意識」の送る。
(2)「意識」は、「マラソンでビリだ」と感じると同時に、「これでは、いかん」と思い、「何とかしなければ」と思う。
(3)「無意識細胞群」が、ビリから脱出する方法を考える。

質問2:上の「意識」の内容は何らかの物質的根拠があって生み出されると考えますか、それとも、非物質や未発見物質によって生み出されると考えますか? 

質問3:「意識」の働きとして、「判定」や制御装置という考え方をされていますが、これは、主観的には、どのように感じるのでしょうか? 例えば、「この選択は間違っているから、別のやり方にした方が良い」などと感じられるのでしょうか?

質問4:以下(1)、(2)、(3)のhakobuluさんのお考えは、「無意識」を制御するのは、結局、「意識」と「意識細胞群」のどちらだと言っておられるのでしょうか?
(1)「意識」はある意味での制御装置という考えです。
(2)意識が制御するのではなく、意識細胞群が自主的に自らの規模を増減させているのではないか。
(3)ともかく意識、あるいは意識細胞群が「それを選択したから」としか言えないでしょう。

(2)意識が「どうしようか」と思うときの意識内容は?
hakobuluさんが、<この6文字は私としては単に「意識内容の説明」にすぎないように思います。>と言われるとき、その「意識内容」は、「ど」「う」「し」「よ」「う」「か」という言葉では考えないけど、「どうしようか」と非言語レベルで、すなわち、「?・・・!?・・」と、感じていたと考えていいですか? もし、そうだとすると、そう感じるためには、脳細胞にその感じの根拠となる何らかの化学反応があると思いますが、どうでしょうか? それとも、物質的根拠はなくても、「?・・・!?・・」と感じられると考えますか?

補足日時:2005/12/25 22:20
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>(1)無意識が「意識を生み出す脳細胞群」に伝えるのはあくまで「サービス」か?


:「>問題の解決に役立つから伝えているのだと思います。」とのことですね。
では、なぜ無意識が【「意識を生み出す脳細胞群」を興奮させるだけで、【「意識」にそれが「感じられるという現象」】は必要ない、とお考えになるのでしょうか。

具体的には、#67の例であればまず修正すると次のようになります。
<1>「マラソンでビリになっている。いやだなー。」と無意識が感じる。--->【 そのことを意識を生み出す脳細胞群に伝える。】(←a)
<2>「何とかしなければ」と無意識が感じる。--->そのことを意識を生み出す脳細胞群に伝える。

この場合、次のような説明は不合理でしょうか。
<1’>「マラソンでビリになっている。いやだなー。」と無意識が感じる。--->【 そのことを意識を生み出す脳細胞群に伝える。】--->「意識という現象が生まれる」
<2’>意識という現象が【何らかの化学作用】を引き起こし「無意識を生み出す脳細胞群」の活動を促す--->「何とかしなければ」という無意識の現象が生じる。--->そのことを意識を生み出す脳細胞群に伝える。

【何らかの化学作用】に関しては、<「無意識を生み出す脳細胞群」が「意識を生み出す脳細胞群」に伝える>方法とほぼ同じと推測しているわけですが。

>(2)「無意識」という言葉は誤解の元ではないか?
:おっしゃるとおりと思います。

>(3)我々に個性はないのか?
:ここは重要な点と感じるので後で述べます。

>(4)「意識」は「意識を生み出す脳細胞群」の活動の結果であるという表現は、因果関係ではなく、言葉の説明か?
:「映像」と「映写機」の因果関係ではなく、「テレビが映る」と「テレビをつける」の関係のように感じます。
「なぜテレビが映るのか?」という問いに対する「テレビをつけたから」という答えと同じでしょう。
確かに事実でしょうが、ここに「因果を求める意味」がよくわからない、ということです。
「なぜ山は高いのか」「地面より上にできたから」も因果関係と言えますが、それを問題にする意味があるのでしょうか。
もし意味があるとすれば、「地面より上にできているもので山ではないもの」を想定している場合ですが、そのような想定があるようであれば教えていただきたいと思います。
「意識を生み出す脳細胞群」の活動の結果「意識」が生じない場合があるのだろうか、ということです。
ただし、論理の間違いと言っているわけではありません。理屈はわかりますから、先に進んでいただいた方がいいかもしれません。

>(5)「無意識」と「意識」の発動関係はどなっているのか?
:非常に理解し易いご説明です。並びに同意できる内容です。

---------------

さて、>(3)我々に個性はないのか?についてです。
本当に【赤城健太郎の「意識」は、そのことに「原因として関わっている」のではなく、ただ、そのことを「結果として見守っている」】のでしょうか。
健太郎さんは原因として関わっている、と私は思います。
「結果として見守っている」という事実があれば、それは単なる現象にすぎないでしょう。
【】内の仮定は、「役者は監督の言うとおりに演技しているだけだから存在価値は無い」と言うのに似ています。
監督の意図に基づいて演技するのは確かでしょうが、監督は役者がいなければ何も意図することはできません。
第一、役者は監督を兼任することもできます。監督=役者ではないという根拠もありません。
まず最初の絶対条件として役者がいて、その後監督が出てくるのでしょう。

ここまで書いてきて思ったのですが、無意識に先天的・後天的があるとして、先天的無意識は確かに意識の原因系と言えるかもしれませんね。
しかし、後天的に格納されていく無意識の占める比率も捨てたものではないように思います。

そして先天的無意識とは「その人そのもの(肉体以外は、胎内記憶と産道通過時の苦難体験、及び遺伝子の記憶のみより持たない赤子をイメージしてください)」ですから、「無意識」という修飾語を外したほうがいいかもしれません。
そうすると、後天的無意識を獲得するためにはまず先に「意識する」必要がありますから、意識は原因系になりうるのではないでしょうか。
やや強引でしょうか。必ずしもそうとは思えないのですが。
ご感想を楽しみにしております。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

昨日は、不思議な発見がありました。朝6:15頃は、月の欠ける向きがほんのわずか右上になってました。ところが、8:15頃には、ほんのわずか右下になってました。2時間くらいの間に、上弦の月から下弦の月に変わったようです。

(1)意識は化学作用の原因になれるか?
><2’>意識という現象が【何らかの化学作用】を引き起こし「無意識を生み出す脳細胞群」の活動を促す--->「何とかしなければ」という無意識の現象が生じる。--->そのことを意識を生み出す脳細胞群に伝える。

hakobuluさんの上述の疑問に関しては、以下のように考えます。

意識という現象が【何らかの化学作用】を引き起こすためには、以下のいずれかの条件が必要だと思います。

  条件1: 意識を生み出す原因となる細胞群が存在し、その細胞群が化学作用を引き起こす。
  条件2: 意識が細胞群などの物質的根拠なしに、化学作用を引き起こす。

もし、条件1が成り立つと考えると、私の考えと同じになります。もし、条件2が成り立つと考えると、意識の働きとして、魂のような非物質の存在を仮定するか、あるいは、未発見の物質現象を仮定する必要があると思います。hakobuluさんは、条件2が成り立つと考えますか?

(2)「脳細胞」は「意識」の原因ではないのか?
hakobuluさんの「なぜ山は高いのか」の議論は、私には、言葉の表現上の問題のように思えるのですが、結果的に、因果関係の存在を否定されているようにも受け止められるので、結局、あまり良く理解できませんでした。そこで、ここでは、まず、因果関係の問題を先に確認させていただき、(3)で、言葉の表現の問題について、私の考えを述べさせていただきたいと思います。まず、因果関係についてですが、hakobuluさんは、以下のどの考えをお持ちでしょうか?

(1)「意識」は、因果関係の結果ではなく、自立的に現れる現象である。
(2)「意識」の発生の原因は、「脳細胞」にある。
(3)「意識」の発生の原因は、「脳細胞」にはなく、何か異なった非物質、または、未発見物質にある。
(4)「意識」の発生の原因は、「脳細胞」によって生み出された非物質、または、未発見物質にある。
(5)上記のいづれでもない。

(3)「意識を生み出す脳細胞群」という表現には、どのような問題があるか?
hakobuluさんの「テレビをつける」と「なぜ山が高いか」の例で表現しようとされている疑問は、もし、私の理解が間違っていなければ、以下のような疑問ではないでしょうか?

疑問:「甘いものを食べれば、甘いと感じる」という表現は、正しいけれども、何も新しい事実を述べていないのではないか? 何故かと言うと、「甘いもの」と言っている以上、甘いに決まっているのだから。

もし、hakobuluさんの疑問が、このような疑問であると仮定すると、私の答えは、以下の通りです。

以下の例文で、(1)は、確かに何も、新しい事実関係を述べていないと思います。しかし、(2)は、新しい事実関係(因果関係)を述べていると思います。(1)と(2)の違いが生じる理由は、(1)では、原因が具体的でないのに対し、(2)では原因が具体的(砂糖)であるためと考えます。また、(3)は、(1)と同様の理由で、何も新しい事実関係を述べていないですが、(4)は、(2)と同様、原因が具体的(脳細胞群)であるため、新しい事実関係(因果関係)を述べていると思います。では、(5)はどうでしょうか? (5)は、(4)の原因(脳細胞群の活動)の説明をさらに具体化(限定化)したものですから、これも、(4)と同様に新しい事実関係(因果関係)を述べていると思います。しかし、原因である「脳細胞群の活動」に対し、「意識を生み出す」という修飾語が付いているのは、「意識を生み出す」という結果と同語反復的で納得ができないということであれば、(5)の表現に変更すれば、問題がなくなるのではないでしょうか。

(1)「甘いものを食べれば、甘いと感じる」
(2)「砂糖を食べれば、甘いと感じる」
(3)「意識を生み出すものが、意識を生み出す」
(4)「脳細胞群の活動が、意識を生み出す」
(5)「意識を生み出す脳細胞群の活動が、意識を生み出す」
(6)「前頭葉の脳細胞群の活動が、意識を生み出す」

<文字数制限のため、続きは「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/25 09:50
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この回答へのお礼

(4)赤木健太郎の意識は監督になれないのか?
これは、「意識」という言葉を厳密に考えるか考えないかと違いだと思います。「常識的」な意味では、赤木健太郎の意識は監督になれると思います。我々が普段、「よし、今度の試合には絶対勝つぞ」と誓って猛烈練習するとき、それは、「意識」がそうしているように感じるからです。しかし、「意識」がそうしているという現象を厳密にみると、必ず、その意識を生み出す「脳細胞群」の活動が前提としてあるはずだと思うわけです。従って、厳密に言うと、「赤木健太郎の意識が監督になる」のではなく、「赤木健太郎の意識を生み出す脳細胞群が監督になる」のだと思います。

(5)意識自体が何かを生み出す力を持っているか?
上の問題と密接に関連するので、この問題を取り上げました。意識自体が何かを生み出す力を持っているのでしょうか? 例えば、自分が何か困った問題を抱えて、その解決を迫られているときのことを考えてみます。「どうしようか」と考えます。「あーでもないこーでもない」と考えます。「あーでもないこーでもない」というものの内容は、例えば、様々なアイデアとか、関連した情報や思いです。では、そのアイデアとか、情報とか、思いは、どこから出てきたのでしょうか? 意識が生み出したのでしょうか? そうではないと思います。それは、無意識の中から、どういうメカニズムなのか意識できない形で、ポカっと湧き出してくると思います。では、「あーでもないこーでもない」の内容を無意識から引き出すキッカケとなった「どうしようか」とか、「あーでもないこーでもない」とかを考え始めたのは、「意識」なのでしょうか? 主観的にはそう感じると思います。しかし、「どうしようか」と考えるためには、「ど」「う」「し」「よ」「う」「か」という6文字の日本語を生成する必要があります。この6文字は、どこから出てきたのでしょうか? 意識が生み出したのでしょうか? やはり、無意識から飛び出して来たのではないでしょうか?

(6)後天的無意識の獲得への意識の貢献
「意識」の重要な役割を指摘されていると感じました。ただ、繰り返しになって申しわけないのですが、私は、「意識」の貢献は、厳密には「意識を生み出す細胞群」の貢献と考えます。

お礼日時:2005/12/25 09:59

ご返事ありがとうございます。


消火栓用のマンホールは雪かきしているようですが、下水道用はしていないはずです。
ともかく危ないです。例によって、大きな事故につながらないうちは見て見ぬ振りが続くのでしょう。
ここ数日は雪も少なく気が楽です。

>(1)【作用のある箇所を切り取る】とは?
>やはり、「意識」は、【「何とかしなければ」と無意識が感じること】の原因にはならないというのが結論です。
:ということですか。うーむ(確実だと思っていた予想が外れた、というニュアンス)。
つまり、無意識が「意識を生み出す脳細胞群」に伝えるのはあくまで「サービス」であって、生体活動には全く影響を及ぼすものではない、ということですね。
うーむ(良くわからんがともかく次行ってみるか、のニュアンス)。
「個性だの自我だの言っているが、実は君達は誰かに操られているだけなんだよ。主体性?そんなものは単なる幻想に過ぎないのだ。わははは。」という声が今聞こえたような気がしましたが、気のせいでしょうか。
尤も、この声無き声を否定するわけではありません。
しかし、声の主が現われたら、何か勘違いしているのはあなたの方かもしれませんよ、と言ってあげたい気もします。
これこそ本当の妄想?

>(2)「気合を入れよう」と考えるのは意識か?
【「意識」は常に「意識を生み出す脳細胞群の活動」の結果だと思うのですが、いかがでしょうか?】
それは否定しません。
しかし、それが「意識は常に結果系」と結論することによって生じる認識論にどのように拘わってくるのか、よくわかりません。
おっしゃっていることは、{【「意識を生み出す脳細胞群の活動」の結果】を「意識」と呼ぶ}と言っているのと同じことで、因果関係というよりは単なる「意識というもの」の説明ではないでしょうか。
ここで使う「結果」という言葉と、意識は常に無意識の結果であるという論理の場合の言葉は似ているようで全く違うもののように思われます。

また、【(1)無意識がビリであることに気づく。】のでしょうか。
気付くのは「意識」のように思うのですが・・・。
これも、言葉の定義が不明確なことによる食い違いの一端かもしれませんね。
私の理解不足かもしれないので、どのような経緯で【(1)無意識がビリであることに気づく。】のか?を教えていただけるとありがたいです(過去にすでに述べておられたような気もするのですが、お手数おかけします。)。
私としては、無意識が「ビリは嫌だ」という認識を格納していることは認めますが、現在がそういう事態であることを悟るのは「意識」と言えるような気がしています。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

今朝は、月が右半分欠けてました。2-3日前は、確か右下が欠けていたはずなのに、微妙に欠ける方向が違って来ています。右半分が欠けていると下弦の月か上弦の月かわからなくなるので困ります。

(1)無意識が「意識を生み出す脳細胞群」に伝えるのはあくまで「サービス」か?
「サービス」という意味が「本来必要ないのに、おまけで付いている」という意味で使われているのなら、それは違うと思います。問題の解決に役立つから伝えているのだと思います。私が「サービス(すなわち、本来必要ない)」と考えているのは、「意識を生み出す脳細胞群」が興奮したときに、「意識」にそれが「感じられるという現象」の部分です。この「感じられる現象」は本来必要ないのに、何故か付いていると考えています。

(2)「無意識」という言葉は誤解の元ではないか?
これまでの説明で、一つ気になることがあります。それは、「意識」には「意識を生み出す脳細胞群」が対応しているのに、「無意識」については、これまで、「無意識を生み出す脳細胞群」という言葉を使って来ませんでした。これは、「無意識を生み出す脳細胞群」が存在しないから使わなかったのではなく、話を簡単にするために省略して来ただけです。ところが、そのことが却って混乱の原因になっているのではないかと思い始めました。そこで、以下のようにまとめました。要するに、「意識」も「無意識」も共に脳細胞の働きの結果の現象であり、原因ではないということです。

(1)「意識を生み出す脳細胞群」の活動により、「意識」という現象が生まれる。
(2)「無意識を生み出す脳細胞群」の活動により、「無意識」という現象が生まれる。

これまでの説明では、本来「無意識を生み出す脳細胞群」と言うべきところを、省略して「無意識」と言っていた場合がほとんどだと思います。従って、<無意識が「意識を生み出す脳細胞群」に伝える>は、正確には<「無意識を生み出す脳細胞群」が「意識を生み出す脳細胞群」に伝える>という意味です。要するに、脳内細胞同士が密接に関連して相互に影響を与え合っているというだけのことです。

(3)我々に個性はないのか?
>「個性だの自我だの言っているが、実は君達は誰かに操られているだけなんだよ。主体性?そんなものは単なる幻想に過ぎないのだ。わははは。」という声が今聞こえたような気がしましたが、気のせいでしょうか。

これは、誰の個性と自我であり、誰の主体性かということだと思います。これは、他人の例で考えた方がわかりやすいと思います。例えば、赤木健太郎という人がいた場合、彼は、外から見ると、明らかに個性と自我と主体性を持った一個の人格として振舞っています。しかし、赤城健太郎の「意識」は、そのことに「原因として関わっている」のではなく、ただ、そのことを「結果として見守っている」ということだと思います。

(4)「意識」は「意識を生み出す脳細胞群」の活動の結果であるという表現は、因果関係ではなく、言葉の説明か?
この疑問は、「スクリーンに映る映像は、映写機が投影した結果である」という表現は、「映像」と「映写機」の因果関係を表わしているのではなく、「映像」という言葉の説明ではないのかという疑問と同じだと思います。ここで重要なのは、それが説明であろうがなかろうが、「映写機の投影」が「スクリーンの映像」の原因であるという「事実」に変わりはないということです。同様に「意識を生み出す脳細胞群」は「意識」の原因であることに変わりはないということです。

<文字数制限のため、続きは「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/23 22:49
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この回答へのお礼

(5)「無意識」と「意識」の発動関係はどなっているのか?
ここでの説明は、上記の(2)の説明を発展させるものです。それは、「意識」の発動プロセスに関わる考え方です。

(1)人は、眠っているときは「無意識」である。
(2)目が覚める程度に応じて、「意識」が発動され、その対象が順次拡大していく。
(3)完全に目が覚めても、「意識」は常に「何か関心のある対象」にしか振り向けることができない(意識の志向性)。
(4)しかも、「意識」が振り向けられる対象は、刻々、流動的に変化する(意識対象の流動性)。
(5)そうすると、(2)で書いた「意識を生み出す脳細胞群」と「無意識を生み出す脳細胞群」とが、常に互いに異なった別の細胞群だとすると、「意識」の柔軟な志向性の実現が困難である。従って、脳内細胞としては、「意識用」と「無意識用」に固定的に区分されているのではなく、基本的に全てが「無意識を生み出す脳細胞群」であるものの一部が、必要に応じて活性化されて「意識を生み出す脳細胞群」に変化すると考えた方が合理的だと思います。すなわち、「無意識を生み出す脳細胞群」と「意識を生み出す脳細胞群」の2つの別々のものだけがあるのではなく、「脳細胞群(無意識)」と「脳細胞群(意識)」というものが、流動的に存在すると考えます。ということで、(2)の(1)、(2)の細胞群は互い相互変換すると仮定してみました。

(6)「ビリであること」に気づくのは「無意識(の原因細胞)」ではなく、「意識(の原因細胞)」ではないのか?
確かにおっしゃる通りですね。その説明としては(5)の考え方に基づき、以下のようなプロセスを考えました。

(1)マラソン走行中の周りの情報(他の選手との相対位置関係など)が、視覚を通して脳細胞に送られる。
(2)脳細胞(無意識)が状況認識(他の選手より遅れているいないなどの認識)を行う。
(3)脳細胞(意識)が「他の選手より遅れていること」の価値認識を行う。
(4)意識が「他の選手より遅れていてまずい(ビリである)」と感じる((3)の価値認識の結果)。

こうやって考えてみると、(2)、(3)は、「無意識を生み出す脳細胞群」と「意識を生み出す脳細胞群」であっても良かったみたいですね。あまり、良い例ではないようですが、(5)の考え方でも説明できるので、そのままにしておきます。

お礼日時:2005/12/23 22:53
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