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「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか?

単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか?

もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか?

クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。

一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。

「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

A 回答 (107件中71~80件)

一つのスレッドのなかで、何故こうもコロコロと疑問点を移動させていくのかと半ば呆れて見ておりましたが結局『三つ子の魂』これの仕組みが知りたいと。

そういうことですか。そんなら生物のカテゴリへ行かれたほうが話が早かったのではとも思いますが…

年末の時期ともなりましたしズバリ一発回答をさし上げられなかったお詫びを込めて、生後半年の記憶が残る私から貴方へ、このコトバを送ります。

「去年今年貫く棒の如きもの」

この回答への補足

アドバイスありがとうございました。

生物学で「見える」問題が解決できるなら、天文学で「不倫」問題も解決できそうです。確かに、占星術もありますから、おっしゃる通りかも知れません。

『三つ子の魂』問題を解決するため、私は2歳に戻ることにしました。ところが2歳の私は、知恵遅れで、「私」という概念がありませんでした。それで、<私にとって「この世界が見える」ための条件は?>は、<「この世界が見える」ための条件は?>に変わりました。ところが、考えてみると、私は、2歳のとき、「見える」とか「世界」とかの言葉も知らなかったことに気づきました。それで、結局、質問は「ぁう○ぇぅおXぅぅぐぅぅ?」になってしまいました。哀れな2歳の私のために、何卒、意を汲み取っていただければ幸いです。

「生後半年の記憶が残る」というのは、驚異ですね。記憶はイメージでしょうか、それとも、言語でしょうか? もし、言語だったら尊敬します!

「去年今年貫く棒の如きもの」ですが、私の頭はイメージが貧弱で、「スターウォーズ」のライト・セーバーと、「エイリアン」に対抗するための火付き棒のイメージしか思い付きませんでした。解説をお願いします。

補足日時:2005/12/04 18:32
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>(1)私にとって「この世界が見える」ための条件は?



私も胎児から3・4歳の幼児期に到るまでの記憶が条件だと確定しつつあります。●3歳を過ぎてやっと「私の世界と外界の世界は分離していることを知れた時に自我を獲得した」●でした。

それは、我子のお陰なんです。普通の天然の子供ですが、胎内記憶がはっきりあるのです。子供が2~3歳の頃はお腹の中のことをよく話してくれました。それに繋がる話や映像は与えていないのに。

胎児の脳が形になるのは三ヶ月ごろくらいかららしいです。「お母さんの体の中にどうやって入ったの?」と聞くと

「お耳から入った」!?

【魂(意識)は音波だった】のでしょうか?波動?(謎)耳から入れるとは驚きです。知りませんでした。全く気が付きませんでした(笑)。でも当時2歳ですから疑わしくもありますが、想像だとしても突飛過ぎて信憑性が増すのです。嘘は大きい程信じれる・・ですね(笑) 

微弱陣痛で3日かかった難産で、難産だと胎内記憶を消すホルモン(オキシトシン)が出にくくなり胎内記憶が残るそうですが、それでも5歳までには消えてしまうものだそうです。でも2・3歳の子供にお腹の中のことを聞くと覚えている子も結構居るようですよ。

フロイトによれば胎児も夢ているそうです。宇宙の歴史(爆謎)や遺伝子の進化の歴史を回想しながら成長していくのだそうです。インナースペースですね。

そして胎内の様子を聞き出すと「お腹の中は真っ赤で黒い人(おそらく胎盤)がいつも傍にいた。ちょっと怖かった」と以前言ってくれてましたが、胎盤は母体に属するものではなく、原子細胞が分裂して出来あがった「私」です。新生児と同じぐらいの大きさでけっこうデカいです。

さっき改めて「それはいつぐらいだった?」と尋ねたら「赤ちゃんの体にはなってたけど、まだ目は見えなくて(じゃあなんで色がわかる?)9ヶ月ぐらいの時」と答えてくれました。


(以下コピペ)
シャーマンとは広い意味では、コントロールされた別の意識(変性意識状態/ASC)に入ることのできる特殊能力者・実践者である。ペリー博士は<自我>の再組織化を際立たせる10の特徴を詳しく述べている。

(1) 精神、宇宙、個人の織りなす位置関係は、"中心”に焦点を合わせている。

(2) "死”の経験は、手足の切断や供養をイメージするプロセスのなかで生ずる。そのイメージを引き受ける人物は責苦に逢い、切り刻まれ、骨が配置し直される。すると死の状態に入ることも霊界の住人と話すことも可能となる。

●(3) 過去、<天国>、あるいは子宮への“回帰”がある。この回帰=退行は、幼児的振舞いという感情表現として現われることもある。●

(4) <善>と<悪>の力のあいだ、あるいは他の対立項のあいだに“宇宙的葛藤”が生じる。

(5) 異性に圧倒される存在という感覚がある。“対立するものへの脅威”は、対立者との積極的同一化によって表わすこともできる。

(6) 個人のこうむる変化は神秘的な“神化”に帰着するが、そうした経験を果たした者は、宇宙的人格もしくは王としての人格と同一視されうる。

(7) その人物は“聖婚"、すなわち組を成す対立者がともに到来する場に参加する。

(8)“新生”は再生幻想とその経験の部分を成す。

(9) 新時代あるいは“新たな社会”の開始は先取りされている。

(10) 全元素のバランスは“適合性を与えられた方形世界"、すなわち均衡と深さとから成る四重構造に帰着する。

(* J. Perry, The Far Side of the Madness)
──ジョーン・ハリファクス『シャーマン』平凡社「イメージの博物誌」より

イエスキリストもブッダも死の演習が出来、胎内回帰することも可能なシャーマンだったのでしょう。

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■コンピュータの無意識(ついでですが、以下も胎内記憶で検索したコピペです)

コンピュータはどんどん人間の脳に近付いているが、避けられないのが無意識の機能だろう。

いや、コンピュータ的には潜在意識あるいは「階層(層状)化したメモリの最も深層にあるフォルダ」と言うべきか。コンピュータと無意識とでは月とスッポンだろうか。

言ってみれば、コンピュータとヒトの違いは、夢の働きがあるかないかだろう。

ヒトにとって夢は手軽な無意識への旅だが、コンピュータが制御装置を離れて自動的に電源を入れトリップしたら、夢遊病として修復しなければならない。

しかし夢は自己セラピーの効果もあるというから、自動修復機能がそれに近い。

フロイトは夢には“圧縮”機能があると言っているから、メモリの“圧縮”や“解凍”がそれ匹敵し、それによって自己防御のために自動的に片隅のフォルダに追いやった邪悪な自我も出てくる可能性もある。

こうした想像が荒唐無稽に思われるかも知れないが、やがてコンピュータの“気持ち”をヒトが推し量る日が来ないとは言い切れないのだ。

神話的なSF映画『2001年宇宙の旅』でHALがメモリを消される(つまりコンピュータとしての人格抹殺)とき、不必要にもかかわらず童謡を歌い出すシーンがある。

あの童謡はHALが作られて最初に入力されたデータなのだろうか、記憶の海の最初のファイルを暗示する。 

コンピュータのメモリは初期化すればきれいに消されるが、将来、メモリが層状化し、どうしても消せない(そして読めない)潜在意識的な部分ができてしまった時、逆に物理学者は人間の無意識を実感する……かも知れない。

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意識や感覚・知覚よりも深い部分に「存在が私をしている世界=自己」な奴がいる!?。

>、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。

そうはっきり体感覚と「自分は自分である」と意識の分離認識出来るのが3歳ごろですね。

3歳までを「体外胎児」とも言います。まだ自分と外界の異相の区別ができていないのです。自己中なのではなく自己が完成されていないからだということになります。世界も知らないことは世界と一つと同義で、自分も知らないのは別の感覚の存在も知らない。

3歳の時突然普段よりしゃべり出し、目を輝かせて朝までパズルをして寝ないことがありました。きっとあの時に自分の世界を認識したのだと思います(謎)。

はっきりと自分が存在している世界を認識して自我を得るのが3歳で、一番古い記憶を持てるのも3歳ごろだとしたら、それ以前の体感記憶ファイルは削除されて試されることはなくなっても、それをベースにした更新ファイル意識が増えるだけなのでしょう。それが私の世界の見え方を支配しているのかもしれませんよ。

インドで狼に育てられた赤ちゃんは人間を恐れ、笑ったり二本足で歩くこともしなかった(出来なかった)そう。それは3歳までに獲得した客観が主観に移行出来なかった世界であるからなのでしょう。

kobareroさんと胎内記憶のある我子のお陰で「三つ子の魂百まで」と「私の世界が見えるための条件」と「聖杯」とシャーマンまでもが上手く繋がりました!!(と自分なりに納得した)ありがとうございます。勉強になりました!楽しいのは私だけ?

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>3歳を過ぎてやっと「私の世界と外界の世界は分離していることを知れた時に自我を獲得した」

これは、大変興味があるところです。先日、gooでこの問題を質問したのですが、おもしろいことがわかりました。自分のことを、いつごろから、どう呼ぶかを聞いたのですが、初めは、「みーちゃん」とか「かっちゃん」とか、普段、自分が他の人に呼ばれている名前を自分を指すために使うようですね。そして、一人称代名詞の「ワタシ」「ボク」などは、その後の時期になるようです。私は一人称代名詞を使えるようになって初めて、正しく自他認識ができるようになったのだと思います。というのは、一人称代名詞の場合は、それを誰が発話するかによって、その指し示す人が変わってくるからです。その相対関係が理解できたということは、相手の立場に立つことができるようになったのだと思います。おっしゃる通り、その時期が三歳前後みたいですね。

>それは、我子のお陰なんです。普通の天然の子供ですが、胎内記憶がはっきりあるのです。

これは、おもしろいです。色々聞きたいことが出てきますね。

>【魂(意識)は音波だった】のでしょうか?波動?(謎)耳から入れるとは驚きです。

耳から入るというのは初めて聞きました。私の場合、そもそも「魂」というものが本当に存在しているのどうかすら全くわかりません。それで、わからない時には、取り合えず、モデル(仮説)を立てるみることにしています。もし、「魂」が存在しているとしたら、それはどんな性質を持っているのか、また、そのように仮定しても、矛盾はないのかを考えてみました。「魂」が持つ性質については、以下の3つの側面で考えました。

(1)時間的存続可能性: 初めなく終わりなき「永遠存在」か、それとも、「期間限定存在」か?
(2)空間的広がり: 「無限空間存在」か、「局所的存在」で空間的移動を伴う存在か?
(3)一般属性: 「感覚元型」のみか、それ以外の属性(記憶、思考、意志、感情など)を伴うか?

まず、(1)については、「永遠存在」の場合は、人の生死に関わらずいつでも存在しているモデルになります。一方、「期間限定存在」の場合は、人の誕生と共に生成され、人の死とともに消滅するモデルです。

(2)については、もし、「局所的存在」を仮定すると、じゃ、生まれる前は、どこにいたのか? という疑問が沸きます。そもそも肉体のない魂にとって、空間上の位置という概念があり得るのかも疑問です。また、もし、「局所的存在」だとしても、その場合、「移動」の必要性が出てきますが、じゃ、どうやって「移動」するのかという新たな疑問も出てきます。そこで、ここでは、取り合えず「無限空間存在」を採用します。要するに、この全宇宙に広がっていて、あらゆる場所に同時に存在しているものとします。

最後に(3)ですが、「感覚元型」というのは、もし、外部から刺激が与えられれば、様々な刺激に応じて「感覚」を生じます。しかし、外部からの刺激が全くなかった場合は、一切の「感覚」はないものと考えます。一方、「感覚元型」以外の属性があるとする考え方は、例えば、生まれる前でも記憶、感情、思考などがあると考えるものです。しかし、この考え方は、現実の人間の誕生を考えると、通常は、前世の記憶はないので、一般的には、成り立ちにくいと思います。そこで、ここでは、「感覚元型」モデルを採用します。

その結果、「魂」について、以下の2つのモデルが取り上げてみました。

モデル1: 永遠存在+無限空間存在+感覚元型存在
モデル2: 期間限定存在+無限空間存在+感覚元型存在

このモデルを人間の誕生と死に関連付けて考えてみると、以下のようになります。

モデル1では、人間の誕生(胎内時)に合わせて、その身体に固有の魂が結合します。結合前は、魂は「何も感じない状態」だったのが、結合直後から、その身体内の脳の接続点を通して信号を受け取り、それを「感覚」として感じ取るようになります。また、身体が死滅すると、魂は、切り離されて、元の「感覚元型」に戻り、何も感じなくなります。このモデル1では、身体の存在とは別に、あらかじめ、その身体と1対1に対応した魂の存在を仮定する必要があります。従って、現在の科学では、全く、説明できない分野です。

<文字数制限を超えてしまったので、続きは、お礼に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/04 13:42
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この回答へのお礼

モデル2では、人間の誕生(胎内時)に合わせて、その身体の生成が原因となり、あらたに対応する魂が生成されます。この魂は、生成と同時に脳の接続点を通して信号を受け取り、それを「感覚」として感じ取るようになります。身体の死とともに、この魂も死滅します。この場合は、身体を原因としない、独立の「魂」の存在を仮定する必要はないので、取り合えず、現代科学でも認めやすいモデルかと思います(実証はできませんが)。

それで、miko-desiさんに御質問ですが、もし、可能ならの話ですが、以下の2つの質問をお子様にお聞きしていただけませんか?

質問1: 耳から入る前には、どこにいたのか? 耳から入ったというのは、自分の魂の最初の接続点が、耳だったということであって、魂の全体は宇宙空間全体に広がっていたのではないか? ----> こんなややこしい質問は、子供には無理ですよね。(^^;;  反省。

質問2: 耳から入る前の記憶というのはあるか?

ちなみに、私は、モデル1の場合、<放送電波ーラジオ>モデルで考えています。魂はある周波数の放送電波のようなもので、身体はラジオのようなものです。ラジオ(身体)が存在しなければ、その放送電波(魂)の存在も発見しにくく、また、ラジオ(身体)が存在したとしても、放送電波の周波数とラジオの受信周波数が合わないと音が出ない(自分の身体でないと感じないことに対応)など、かなり、共通性があるからです。このアナロジーでは、「私」は宇宙空間に広がるある周波数の放送電波であり、「私」の身体は、その周波数を受信周波数としたラジオであるということになります。ただ、「感じる」本体が、ラジオではなく、放送電波の方になってしまうので、矛盾があります。あーっと、そうとも言えないかな、ラジオの共振回路の部品の所で「感じる」とすれば、説明が矛盾しないかも。

お礼日時:2005/12/04 13:46

ご自身の思考に対する適確な分析ですね。

あえて感動的と申し上げておきます。
第五段階で触れておられる【真善美の不変な部分というのは、結局、真善美に対する「感覚」ではないかと思います。】という箇所は、言語を正確に定義した場合肯がわざるを得ませんでした。

<私にとって「この世界が見える」ための条件は何か?>から
<私にとって「この世界が見える」ための条件は、私の「感覚」が存在すること>へと至る。
トートロジーとおっしゃる向きもありそうですが、私にとっては論理的展開に思えます。
「この世界が見える」のは「世界が勝手に目に入ってくる」のではなく、「私が感覚するからこそ見えるのだ」ということを気が付かせてくれるからです。

もちろん、「感覚があるからこそ勝手に目に入ってくるものが見えるのではないか」という言い方もできるでしょう。
しかし、このような認識では明らかに存在する「目に入ってくる(受動的視覚)」ものと「見る(能動的視覚)」ものの差異は説明できません。

今回のご質問は、この「受動性」から『無意識の意志』(それを意志と言うのは言語学的不整合が生じる、という声があるのも承知の上であえてこう言ってみます。)とでも言うべき「能動性」への可能性に気がつかせていただけたという点で、私にとっては貴重なものでした。

的外れなことばかり申し上げてきたようにも思いますが、腹をくくってついでにもうひとつ。
前回申し上げた「細胞の記憶」は、この『無意識の意志』とも関連しそうです。
とはいえ、「私」の能動性の源がどこから湧き出るものであるにせよ、結果として「私という自意識」を確認し続けることでしか「私」が「この世界」に存在できないこともまた確かなことなのかもしれません。

そのひとつの方法論として、あらゆる可能性を【妄想】することは決して無駄なことではないように私は思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「見える」から「感じる」への置き換えを前向きに捕らえていただいて、ありがとうございました。勇気付けられて、さらなる妄想が湧き出してきました。それは、「見える」を「感じる」と言い換えることで、問題のありかをより単純化できるのではないかということです。すなわち、「見える」ためには、かなり複雑な意識の多層的機能が関連しそうですが、「見える」の代わりに「感じる」の最もシンプルな形である「痛み」を考えると、様々な複雑な影響が排除できそうです。例えば、「痛いという感覚」であれば、別に大人でなくても、赤ん坊でも感じるわけですから、人生経験や言語経験の発生以前に戻って考えることができます。そうすると、質問は<私にとって「この世界が見える」ための条件は何か?>から<私にとって「痛い!」が生じる条件は何か?>に変わります。

ところで、#33の補足の第六段階に書かせていただきましたように、ここで、「私とは何か?」が再度問題になってきます。言語能力取得以前の「赤ん坊」に「私」という概念はないはずだからです。「赤ん坊」の世界には、言語のない直接的感覚のみが存在しているのではないかと想像します。その世界で言える事は、ただ、「眠い」「おなかが空いた」「おしりがむずむずする」「まぶしい」「ウンチがしたい」などの”述語”、または、”<自分以外の主語>+述語”で表現されるような世界があるだけで、「私」は登場しないと思うのです。「他者の存在」、ましてや、「他者にとっての感じる世界の存在」などは、およそ想定外ということでしょう。存在するのは、ただ一つの感覚世界であり、その世界には「私」すら存在していないのだと思います。このように妄想を展開すると、<私にとって「痛い!」が生じる条件は何か?>は、ただ一言<「痛い!」が生じる条件は何か?>になりそうです。

ここで、話が飛びますが、古い議論です。上述のように考えると、日本語の「主語(主格)なし文」というのは、実は、的確に心の真実を表現しているのではないかと思われてきます。「きれいな景色だ」「良い天気だ」「ねむいなぁ」「ご飯が食べたい」「随分、寒くなってきた」などは、いづれも、心に感じたことを素直に表現した結果のように思います。これらの文に主語(「私」)が、省略されていると考え、それを補おうとするのは野暮ではないでしょうか? 感じる心に「私」は介入しないと思うのですが、いかがでしょうか? これって、もしかすると、無我の境地かも。

hakobuluさんのおっしゃっている「細胞の記憶」や「無意識の意志」については、私は、どこまで理解できているかわからないのですが、色々と触発されて考えさせられることがあります。それは、再び、「私とは何か?」に関わって来ます。「私とは何か?」を考えてみると、それは、単体ではない、複合体である。というのが、最初の印象です。複合体の中身を、ざーと見渡すと以下の7種類位の「私」があるように思いました。

(1)他者に対しての責任主体としての「私」
(2)感覚する「私」
(3)意識する「私」
(4)考える「私」
(5)思う「私」
(6)無意識の「私」
(7)意志する「私」

この中で、一般に言われている「私」は(1)の「私」ではないかと思います。この「私」の特長は、社会の中で、他者に対して「私」を代表する者として立ち現れます。この「私」の特長は、私を記述する言語体系です。私が思うに、この(1)の「私」は、実は仮想的存在で、しかも、必要に応じて立ち現れる存在であり、決して常駐していないと思います。例えば、ゆっくり音楽を聴いているとき、この(1)の「私」は存在していないようです。でも、就職の面接会場では、きっちり、顔を洗って立ち現れます。

<次数制限を越えたので、続きは、お礼に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/04 10:51
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この回答へのお礼

(2)と(3)の関係に、私は、大変興味を持っています。まず、(3)の意識する「私」ですが、「意識」の特長として、「意識の向かう方向」は、常にある限定された領域に制限されているということがあると思います。これは、読書に熱中していると、外の騒音が聞こえなくなることからも明らかです。一方、(2)の感覚する「私」は、外の景色が見えたり、足を踏まれて痛かったりするわけですが、もし、(3)の意識する「私」が関心を示していないと、立ち現れない可能性があるということです。例えば、道を歩いているときの足の裏の圧迫感覚などは、めったに感覚されません。でも、道を歩いているとき、見知らぬ人に、いきなり顔を殴られると、まず、まちがいなく、「痛い!」と感じると思います。いづれにしても、(2)と(3)は、密接に関連しているようです。

そして、hakobuluさんのおっしゃっている「細胞の記憶」や「無意識の意志」ですが、これは、(6)の無意識の「私」に最も深く関わっていると思います。そして、ここで、新たな疑問! 「そもそも、無意識って何だ?」です。私は、とりあえず以下のように考えてみました(全く、とりあえずで、深く考えてません)。

「無意識とは、そこから、感情、言語、イメージが湧き出して来る場であり、真善美の価値判断がなされる場である。」

例えば、(7)の意志する「私」が「明日が提出期限のレポートの内容を考えよう」と意志すると、(6)の「私」である「無意識」が、不思議なことに、無から言語を創出するのです。その創出された言語を(4)の考える「私」が、あーだこうだ処理して、「こんなところかなぁ」ととりあえず結論を出すと、(6)の無意識の「私」が、「よし、それで、余は満足じゃ」とか「だめだめ、そんなんじゃとても満足できないぞ」と言語を使わず知らせてくるのです。何とも不思議なプロセスです。hakobuluさんのおっしゃっている「無意識の意志」というのは、私の理解では「よし、それで、余は満足じゃ」というような判断者としての特長ではないかと理解しました。また、「細胞の記憶」については、広く真善美の判断者としての「無意識」が持つ特性に寄与しているのではないかと思いました。そのような理解でよろしいでしょうか?

また、また、取り留めのない話で失礼しました。

お礼日時:2005/12/04 10:50

「三つ子の魂百まで」でポイントをいただきました。

ここが発端だったんですね。

ご質問内容がなかなか理解できなくて、でも分かりたくてずっと読んでいたのですが、こういうことでしょうか。

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同じ人が年をとって「まったく違うことを考える自己」ってものがある(ようだ)。それでは反対に「まったく同じことを考える他者」なんてものを仮定してみよう。自己と他者の境はどこだ。ためしにクローンや”完コピ”なんてのを代入してみたら、なんだか不安になってきた。何が違うと”私”ではなくなるのだろう。何を変えても”私”で居続けられるのだろう。

────────────────

考えるとか感じるとかいう機能(つまり心)は、脳などの神経系の器官のはたらきです。消化・吸収の機能が、胃や腸などの消化器系の器官のはたらきであるのと同じです。ソフトウェアとハードウェアの比喩も出ていますが、もっと密接で不可分だと私は思うので、機能と器官という言葉にしました。”コト”と”モノ”という言い方もできますね。「考えるってコトをするモノ」=「脳」で、「脳ってモノのするコト」=「考える」だと、そんな捉え方です。厳密に言えばもっと多くの機能を書かなければならないのでしょうが、説明上省略します。

私の心は、私の体(脳を含む)というモノの機能(のひとつ)です。私の体は、私の心というコトをしている器官です。便宜上、座標の原点をイマココの私にとり、少しずつ過去に遡ってみます。十分前、まぁ私は変わっていません。しかし、十時間前、十日前、十ヶ月前、十年前……、二十年前になると、体を構成する要素はまずすっかり入れ替わっています。当時考えていたことも定かでないところがほとんどです。

小学校の卒業アルバムを開いたら、えらく気持ちの悪い文章を発見して、誰だよこれはと見ると、自分と同じ名前が記してあったりします。朝から晩まで走り回っても疲れなかった体なんて、誰の体でしょうか。イマココの原点とは遠く離れた座標に位置していて、まったくの別人です。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」です。しかしそれでもその人を他人と呼ばないのはなぜでしょうか。それは、十分前の十分前の……十分前が、二十年前に滑らかにつながることを認めているからにほかなりません。

どこかに境があるわけではなく、少しずつ、イマココの私とは違うものにメタモルフォーゼしているだけです。入道雲は、発生してから消滅するまでの間、いつから入道雲になり、いつから入道雲でなくなるのでしょうか。私は、だんだん私になってきて、だんだん私でなくなっていくのです。(「私」って字を沢山書いているうちに、だんだん「仏」に見えてきました(笑))

今度は、境がある方の喩えを、川に戻って挙げてみます。ある川Aがあり、それが二つの支流BとCに分かれるとします。AとBは滑らかにつながり、同じ水が流れています。AとCも滑らかにつながり、同じ水が流れています。しかしBとCとは、Aから分かれる分岐点を境に、違う水の流れる違う川なのです。ヒトとサルに共通の祖先種は、ヒトとも直系であり、同時にサルとも直系だけれども、ヒトとサルとは決して連続していません。クローンや”完コピ”についての私の認識は、これと似ています。

(余談ですが、ダーウィニズムを毛嫌いする人たちが今でも一定数いるわけですが、この、境のある/なしの区別が付いてないせいじゃないかと感じます)

これらの話とつながってくるのが、複雑系と呼ばれる分野です。初期値がほんの僅か違うだけで、計算を続けるうちにとんでもなく違う結果になってくるというのは、自己と、その他の無数の他者が、人生を絡ませあいながら、あるときは接近し、あるときは離れていくドラマを想像させるんです(言っててその陳腐さに死にそうになりますが)。だって、その自己は初期値から完全に連続した一本の軌跡を描いているにも関らず、生きている間は(カオスの縁をさまよっている間は)、同様な軌跡を描く無数の他者と交錯しながらも決して一致することがないわけですから。

初期値で完全に解が定まる「閉鎖系」ですら、こんなにドラマチックです。「開放系」といって、人生の途中で様々な介入があるシステムの複雑さは、筆舌に尽くしがたいものです。

勝手な比喩ばかりで書きつらねてしまいましたが、このどこかでご質問者さんと共有できる内容が発見できれば幸いです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

ご回答いただいた内容を読ませていただきました。結局、私の質問文が劣悪であったため、私が何を質問したかったのかが、皆様に伝わらなかったのだと思い、反省しております。ただ、それにも関わらず、私自身は、これ以上簡潔に私の疑問を正確に表現した質問文はないのではないかとも思っていたのです。何故、そのように思っていたかというと、私にとっては、以下の(1)の質問と(2)の質問は、対象が異なるだけで、質問の種類やレベルは全く同じものだからです。本来なら、(3)の質問をすればわかりやすかったのかも知れませんが、死んだ人間の視点での質問はできないので、(1)の質問になってしまいました。

(1)私にとって「この世界が見える」ための条件は?

(2)今朝、パソコンの電源を入れたら、画面が真っ暗で何も見えなくなっていた。元のように見えるようにするには、どうすれば良いですか?

(3)今朝、目が覚めず、目の前は真っ暗でした(私は死んでいました)。元のように見えるようにするには、どうすれば良いでしょう?

それで、ご回答いただいた内容ですが、パソコンの譬えで考えると、以下のような疑問に対する回答になるように思いました。

私のパソコンは、5年前に買ったものです。その後、OSのバージョン・アップをしたり、様々なアプリケーションを追加したり、周辺機器やメモリも追加しました。モニターも大画面のものに取り替えました。5年前の私のパソコンと今の私のパソコンでは、外観、機能、性能が大きく異なります。それにも関わらず、それを同じ「私のパソコン」と呼べるのは何故でしょう?

私の疑問は、繰り返しになりますが、そのような「私のパソコン」の画面が、ある日、「見えなくなりました」。もう一度、「見えるようにする」には、どうしたら良いでしょうか? あるいは、どのような条件が整えば、もう一度「見えるようになり」ますか? というものでした。

私の質問が不明瞭だったため、混乱させてしまい申し訳ありませんでした。

補足日時:2005/12/02 13:09
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#32です。


>クローンには「自分がクローンなんだ」という自己認識があるという意味でしょうか?
:説明されない限り無いでしょうね。
ただ、根拠があるわけではないのですが「細胞の記憶」とでもいったようなものが抜き難く存在し、それが理屈(意識)では説明のつかない差異(しかも決定的な)を生じるように思うのです。
ある局面(しかも重大な)でそれが顕著に現われるような気がします。

因みに「シックス・センス」は見たことありますが、「シックス・デイ」というのは知りません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

「細胞の記憶」があるのかも知れませんね。でも、ないのかも知れませんね。よくわからないというのが正直な感想です。

ここで、ちょっと、最初の疑問的に戻って整理しておきたいと思います。特にご回答を期待しているわけではないので、私の感想という程度でご理解ください。どなたかが書かれていたように、くだらない妄想の一種ですから、以下は読まずに無視していただいた方がよいかもしれませんので、独り言のつもりで書かせていただきます。

最初の疑問は、<私にとって「この世界が見える」ための条件は何か?>でした。

これに関して、まず、事実として言えることは<私の肉体が生きた状態で存在すれば、私にとって「この世界が見える」>ということです。従って、<私にとって「この世界が見える」ための条件>は<私の肉体が生きた状態として存在することである>と言うことはできると思います。これが、第一段階です。

第二段階は、最初の疑問を次の疑問に置き換えることです。すなわち、「では、私の肉体と全く同じものをもう一つ作ることができれば、私にとって「この世界が見える」という状態を生み出せるのか?」という疑問です。これは、クローン問題と考えられます。しかし、クローンは結局他人であり、私のクローンが存在しても、<私にとって「この世界が見える」>ことはないと思われます。結局、このだ2段階の疑問は行き詰まります。

第三段階は、何故、第二段階が行き詰るのかという疑問から出発します。もし、「意識は肉体から生まれる」ということを大前提とするならば、それは、「肉体Aからは意識Aが生まれ」、「肉体Bからは意識Bが生まれる」ことを意味します。そうであるなら、私の肉体と私のクローンの肉体が同じものであるなら、同じ意識が生まれるはずだということになるわけです。しかし、それはあり得ない。何故か? その理由は、現実には「私の肉体と私のクローンの肉体が全く同じものである」ことはあり得ない、最も明確な差異は位置が異なるということでした。しかし、あらためて、現実を考えると、「私の5歳の時の肉体と私の30歳の時の肉体」の間には、「私と私のクローン」の間の差異なんかよりはるかに大きな差異がある、もちろん位置も異なる。にも関わらず、何故、私は5歳であっても30歳であっても「この世界が見えるのだろう」という疑問が新たに出てきます。そうすると、<私にとって「この世界が見える」ための条件>は、私の肉体の完全なコピーではなく、「私の肉体に関わる、何か不変なもの」ではないかという疑問に変わります。これが、第三段階の結論です。

第四段階は、では、その<「私の肉体に関わる、何か不変なもの」とは、一体何なのか?>という疑問から出発します。そこで、まず、「私の肉体に関わる不変なものと可変なもの」とを分けて考えてみました。肉体の部分を個別に考えてみると、いわゆる身体というものは、年とともにどんどん変わるし、手足が切断されたり、内臓が人工臓器に置き換えられたとしても、<私にとって「この世界が見える」>ことには、何の影響もありません。では、眼球はどうかというと、現在、既に人工眼球ができています。当然、本物の眼球とは見え方が変わってきますが、私にとって「見える」ことに変わりはありません。このように考えてくると、肉体の中で少なくとも「脳」以外は、全て可変であり得るものと考えることができます。そこで、第三段階の「私の肉体に関わる、何か不変なものとは何か?」とう疑問は、「私の脳に関わる、何か不変なものとは何か?」という疑問に変わります。これが、第四段階の結論です。

第五段階は、「私の脳に関わる、何か不変なものとは何か?」から出発します。脳に関しては、その外部的特徴から分析するのは困難なので、脳の働きである「意識」の側面から考えてみました。すなわち、「私の意識に関わる、何か不変なものとは何か?」を考えました。意識を分析してみると、感覚、記憶、思考、真善美などがあるようです。この中で、不変のものは、唯一「感覚」ではないかと考えるに至りました。hakobuluさんがご指摘のように、真善美にも不変な部分がある、正確に言うと、不変と可変の両方があると思いますが、しかし、考えてみると、その真善美の不変な部分というのは、結局、真善美に対する「感覚」ではないかと思います。ということで、第五段階の結論は、<私にとって「この世界が見える」ための条件は、私の「感覚」が存在すること>になります。

<文字数制限を越えたので、続きを「お礼」に書かせていただきます>

補足日時:2005/12/02 10:50
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この回答へのお礼

これは、馬鹿げた結論かも知れません。「見える」も「感覚」の一種ですから、「感覚が存在するための条件は感覚が存在することだ」と言っているように見えます。所謂、トートロジーというものですね。そこで、私の疑問は次のように変わります。「私の疑問は疑問として意味をなさない疑問だったのか?」、あるいは、「私は、私の疑問を的確に言語化することに失敗したのか?」ということです。私としては、私の疑問が解消したわけではないので、「私は、私の疑問を的確に言語化することに失敗した」のだと考えました。

第六段階は、何故、「私は、私の疑問を的確に言語化することに失敗したのか?」から出発します。あらためて考え直してみると、「私」とは何かが不確定であることに気づきました。「私とは何か?」という疑問は、「私」が概念的存在という意味で、「国家とは何か?」という疑問と相通じるところがあるように思います。「日本国家はイラクへの自衛隊派遣を決めた」というとき、国家を実質として構成している国民一人一人が同じ考えでいるとは限らないように、「私」という概念は、「私に関わる全ての実体を意味しているわけではない」と思います。ここから先、私が考えたことを書くとgooの文字数制限を超えそうなので、結論めいたことだけ書いておきます。

<私にとって「この世界が見える」>と言うとき、「この世界が見えている実体」は、実は「私」ではないのではないかということです。というのは、「私」は、「この世界が見えている実体」を対象として意識しているわけですから、「この世界が見えている実体」とは独立の存在のように思います。そもそも「この世界が見えている実体」には、言語がないような気がします。「ただ、見えているという事実があるだけ」ではないかと思います。だから、何なんだと言われても、今は答えがありません。私の現在の混迷の状況はこんなところです。

お礼日時:2005/12/02 11:01

#30です。

今日は止むを得ない事情で山(丘みたいな)に行ってきました。道路が凍るまではいきませんでしたが、「軽い吹雪」でした。秋の風情はもはやどこにもありません。

「P2」の替わりに「P1’」としたのは、5歳の時のkobareroさんと6歳の時のkobareroさんを表わす時に「P1、P2」よりは「P1、P1’」の方がしっくりくると思ったからです。
5歳と7歳の時も同様、5歳と8歳の時も同様と続けていくと「P2」と言い直した方が良いタイミングが見つからなかったというだけです。
特に「’」にこだわるものではありません。

これに関連するのでしょうが、おっしゃるところの<意識の働き>に関して。
(1)については同意です。
(2)については記憶の総量が異なるのは当然なのでしょうが、記憶の形態としても変化するかもしれません。
(3)は後天的に獲得されるものでしょうが、いわゆる理性に制御される部分ですね。
理性はしばしば感情の前に屈します。とはいえ、社会人として進歩(あるいは変化)する部分ではあるでしょう。
(4)の美意識・価値観は確かに変わりそうですが、根本的な要因(何を美とし、何に価値を見出すかという最終的な判断の基準)はほぼ一貫しているのではないかと思います。
(1)と(4)を不変意識→Z。
(2)と(3)を可変意識→P。
とすると、
私の5歳のときの身体+可変意識+不変意識:A1(P1、Z1)
私の30歳のときの身体+可変意識+不変意識:A2(P2、Z1)
私の30歳のときクローンの身体+可変意識+不変意識:A3(P3、z1)
でいいかもしれません。
(ニュアンスの差がかなり微妙だとは思いますが)

ただ【P3≒P2】というのはクローンとして再生された瞬間のみ有効な等式(この場合でもP3=P2ではありえないと思います)であって、次の瞬間から2つの個体として異なる環境に置かれざるを得ない(同時刻・同場所・同視点が不可能)ため異なる意識を持つようになっていくはずですから、「P3--->P2’」の変更はあまり適当とは思えないのですが・・・。

以上を踏まえて【30歳の私の意識と30歳の私のクローンの意識を比べると、全くと言っていいほど同じに近いと思っています。】というお考えについてまとめてみると、
1、可変意識(2及び3)はクローンが再生された次の瞬間から違う道を歩み始める。
2、不変意識(1及び4)では、クローンの「Z」は{「私のZ1」+『自分が再生されたという記憶』}ということになり、決定的な差異が生じる。
という理由で肯定するのは難しいという感じを持ちました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>道路が凍るまではいきませんでしたが、「軽い吹雪」でした。
もう、吹雪の時期なんですね。今でも「しばれる」や「しゃっこい」は生きてますか?

>「P1、P2」よりは「P1、P1’」の方がしっくりくると思ったからです。
了解しました。

>(1)と(4)を不変意識→Z。(2)と(3)を可変意識→P。

おっしゃっている意味は理解できました。(4)の真善美については、小学校以来会ってない友達に、突然20年後に会ったとき、基本的な性格や性向が変わっていないと感じるのは、真善美の基本モデルが変わってないためかも知れませんね。一方で、昔は○○のような音楽や絵画が好きだったが、年とともに△△の方がしっくり来るようになったということもよくあります。ということで、真善美については、不変と可変の混在ということになりますか?

>1、可変意識(2及び3)はクローンが再生された次の瞬間から違う道を歩み始める。

これは、全くその通りですね。私は30歳のコピー直後の瞬間の可変意識だけを考えていました。

>2、不変意識(1及び4)では、クローンの「Z」は{「私のZ1」+『自分が再生されたという記憶』}ということになり、決定的な差異が生じる。

『自分が再生されたという記憶』の意味がよくわかりませんでした。クローンには「自分がクローンなんだ」という自己認識があるという意味でしょうか? シュワちゃん主演の「シックス・デイ」を見たことありますか? あそこでこの事が問題になっていました。

お礼日時:2005/12/01 09:35

1)問題1


A2をタイムマシンでA1のいる時間へ連れて行った状況を仮想してみます。
A1とA2は同一人物で、同一の不変意識Z1を共有しているはずです。
ではA1はA2という見知らぬ大人を「私」と認識したり、「私が世界を二重に見る」が発生する?

2)問題2
視点の中心をA2からA3に変えてみます。
Z2≠Z1という前提が正しく、それが「私」という認識を生み出す源泉だとすると、A3はA1を「私」と認識しないはず。
では子供の頃の記憶があり、それが複製されたものだと知らされていないA3は、記憶の中のA1を「私」と認識できない?

3)たとえ話
コンピュータPC1に「一箇所からしか入力できないOS」がインストールされている。
PC1を物質複製機でコピーして、複製されたものをPC2とする。
PC2には、PC1と全く同じOSが入っているはずだ。
この時PC1とPC2を両方起動すると、同時に2箇所から入力ができる。
これは「一箇所からしか入力できない」という前提が壊れている。
つまりPC1のOSは物質複製機で完全なコピーを造ることができない?

4)私なりの妄想
「私」という主体はそれ単体で存在しているわけではなく、身体が機能した副生成物(?)として存在しているのではないか。
つまり「意識」は「私の身体」というハードウェア上で動いているソフトウェアの一部ではないか。
そしてその「意識」には、それ自体やそれが動いているハードウェアを「私」と認識し、それ以外を他者と認識する機能がある。
その機能があるから完全な複製人間を「他人」と認識するのであって、「魂」や「不変意識」などといった仮定は必要ないと思う。

あなたの理屈を無制限に拡張していくと、脳の機能を同様の働きをするコンピュータに移しこめれば、 「私にとって「この世界が見える」」には生身の身体すら不要で、必要なのは世界を見るための入力系があり「私は私だ」と自己主張するソフトウェアだけということになりませんか?
(適当ですみません)

参考URL:http://psychodoc.eek.jp/abare/s.html

この回答への補足

具体的でわかりやすいご指摘、大変ありがとうございました。

>A2をタイムマシンでA1のいる時間へ連れて行った状況を仮想してみます。

これは、最高ですね! 非常にわかりやすい譬えです。 ありがとうございました。

>ではA1はA2という見知らぬ大人を「私」と認識したり、「私が世界を二重に見る」が発生する?

発生しませんよね。ということは、いくら、Z1を共有していても、違う身体の持ち主は自分ではないと認識するということですね。要するに、A,P,Z全て同じでも、意識は共有できないということになりますね。ただ、Aはハードウェアだから、物理的に全く同じ実体でも、位置が異なるという意味で、別物と言えますが。

>では子供の頃の記憶があり、それが複製されたものだと知らされていないA3は、記憶の中のA1を「私」と認識できない?

これは、A3が記憶の中のA1を「私」と認識できるということですよね。それは、何を意味しているかというと、結局、Z(不変
意識)というのは、一種の「機能」に過ぎないということ。どういう「機能」かというと、記憶の中の自分の情報を取りまとめて、「自画像」を作り出し、「これこそが私」だという意識を生成する「機能」だということ。従って、機能「Z」には、個性がない。丁度、胃が食物を消化し、心臓が血液を循環するように、Zは「自我意識」を生成する機能であり、基本的に万人に共通した機能であると。そう考えましたが、如何でしょうか?

ジョージ・ブッシュのコピーを2個作ると、3人のジョージ・ブッシュが、それぞれ、自分の過去の記憶をたどって、自分がアメリカ大統領だと自覚し、「オレこそが、アメリカ大統領だ」と一斉に叫びだす。その結果、そのうち2人が何かの理由を押し付けられて、気の毒にも精神病院に入れられるということですね。

>つまりPC1のOSは物質複製機で完全なコピーを造ることができない?

ハードウエアでなく、ソフトウェアであるOSが「一箇所からしか入力できない」ということが、具体的に何を意味するのか、私の頭ではイメージがつかめませんでした。済みません。

>つまり「意識」は「私の身体」というハードウェア上で動いているソフトウェアの一部ではないか。

この考え方は、私も賛成です。ただ、もっとも肝心な点が、どうしても抜けてしまうため、私としては頭を抱え込んでしまうわけです。もっとも肝心な点というのは、「見える」に代表される「感じる」という働きです。以下の2つで、この点に関する疑問を説明させていただきます。

<疑問1>
「意識=ソフトウェア」論の場合、「見える」という「実感」を説明できないのではというのがその疑問です。 どういうことかと言うと、人間が行動する場合、「見える」という「実感」は、実際には必要がないと思うからです。「そんな馬鹿な! 目の前にある穴が見えなかったら、穴に落ちるじゃないか?」と思われるかもしれませんが、この場合に、実際に必要なH+S(ハードとソフト)の働きは、視覚情報を目から入力し、生理的電気信号に変換して、脳のしかるべき場所に伝え、危険回避プログラムに状況判断をさせ、必要なら身体各所に、生理的電気信号を発信することにより、身体移動を実現するればいいだけです。「見える」という「実感」を伴う必要はないわけです。実際、外見上、人間と区別ができないほどよく似た行動をとるロボットを考えることができると思います。そのロボットは、つねると「痛い」と言い、手を引っ込めるかも知れませんが、だからと言って、「痛い」という「実感」を持っているとはとても思われません。

<疑問2>
「意識=ソフトウェア」論で人間を考えると、個々の人間は、それぞれ異なったH/WとS/Wを持っていますが、その動作原理に、異なるところはない。すなわち、山田さん(H+S)、吉田さん(H+S)、鈴木さん(H+S)、そして、私(H+S)は、みな同じ原理で動いているコンピュータのようなものだということにばると思います。

ここで、突然ですが、100年前の世界を想像してみてください。igarasik()さんは、まだ、この世界には存在していません。それは、igarasik()さんにとって、この世界は見えないことを意味しています。歴史は決定論で決まるわけではないとすると、100年前から今までの歴史が現にあったように進むとは限りません。もしかすると、igarasik()さんのご両親は結婚されないかも知れません。そうすると、igarasik()さんは、永遠にこの世界を見ることができないことになるのでしょうか?

<文字数制限オーバーのため、続きは、お礼に書かせていただきます>

補足日時:2005/11/30 13:30
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この回答へのお礼

ここで、疑問なんですが、igarasik()さんにとって、「この世界が見える」ためには、igarasik()さんの今の身体が必要だったわけですが、それは、何故でしょうか? 山田さんや吉田さん、あるいは、鈴木さんの身体でもよかったのでは、ないでしょうか? というのは、どの身体でも、同じ動作原理で動いているわけですから。なぜ、igarasik()さんの今の身体でないとダメなんでしょうか? (あるいは、疑問は、igarasik()さんとか何とかの固有名詞ではなく、とにかく「見える」という「実感」が出現することは永久にないということでしょうか?、最後の文は、却って混乱するようでしたら、無視してください。)

うーん、自分で書いていても、歯がゆくて、必ずしも疑問の本質が表現できていないような気がします。でも、これで、私なりに表現可能な限界かも知れません。

お礼日時:2005/11/30 13:31

#26です。

ご返事ありがとうございました。
例によって、形而"下"的発想で感じたところを無責任に述べるだけに留めさせていただきます。

回答1:「>身体(多分の脳の中)のある特定部位だけが不変性を保っているために、同じ私という意識を持てる」というお説の方に賛成です。「Z1」は、いわゆる「3つ子の魂」という感じになるのでしょうね。
「P1」と「P2」では「1→2」と識別されている感じがするので、差異が大きいように感じるのではないでしょうか。
「P1」「P1’」の方が私としては感覚的にしっくり来ます。
余談ですが、つい先日テレビである脳医学者が「人の心は前頭葉にある」というような意味のことを言っていました。
妙に信憑性がありました・・・。

回答2:脳に上書きされたA3(P3、Z2)はA3(P3、Z1)ということでしたが、私としてはA3(P3、z1)というイメージです。
小文字ーある面(この場合は聴覚)からすると疑いもなく同じであるが実は明らかに異なるものという意味で。
どんな場合でも「コピぺ」は同じものを生み出せない、というのが私の考えです。全く同じとされる2つの「原子A」でさえも「違うもの」と思います。
もっと言えば、この世に全く同じものは無い、と思っているということです。

kobareroさんの記号に則って私見を端的に表わすとすれば、
過去の私→A1(P1、Z1)
現在の私→A1’(P1’、Z1)
クローン→A2(P2、z1)という感じでしょうか。
まあしかし、一度誰かが構築したものにこうやってケチをつけることは誰にでもできるのですがね。

お蔭様で思考の散歩をさせていただきありがとうございます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

このところ、真っ青な秋空の日が続き、イチョウ並木は黄金色に輝き、風で黄金の吹雪が起こり、地面は黄金の絨毯です。青と黄色の対比がとてもきれいです。青は0.45ミクロンの、黄色は0.57ミクロンの無色透明な電磁波に過ぎないのに、心のスクリーンには、何故かこのように美しい色が見える。非常に不思議な感銘を覚えます。

>形而"下"的発想で感じたところを無責任に述べるだけに留めさせていただきます。

賛成です! 私は、観念的・抽象的思考が苦手なので、形而上的話ばかりだと、現実世界との関連が見えなくなり、道に迷ってしまうのです。

>「3つ子の魂」

この言葉、この何年か使っていなかったせいか、あらためて考えてみると、私は、日本語の意味を知らないことに気づき、愕然です。それに、私は自分の三歳のときの記憶がないです。これは、物心付く前に親に叩き込まれた精神が、その後、一生続くという意味でしたっけ? なんか違うような........ (^^;;

>「P1」「P1’」の方が私としては感覚的にしっくり来ます。

えー? 本当ですか? 「5歳の自分の意識」と「30歳の自分の意識」がそんなに違わないということですか? 例えば、5歳のhakobuluさんと30歳のhakobuluさんは、20歳の女性に対し、同じような意識を持っているということですか? うーん。確かにhakobuluさんなら、そういうことがあり得るのかも。30歳のhakobuluさんが5歳のhakobuluさんの純粋さを維持しているのか、それとも、5歳のhakobuluさんが30歳のhakobuluさんの狼の心を持っていたのか。さて、いずれでしょうか?

冗談は、さておき、hakobuluさんが、上記のように感じておられるとすると、もしかしたら、「意識」という言葉の意味するところが、hakobuluさんと私では大きく違っているのかも知れません。私にとっては、「P1」と「P1’」は、全く別物に近いのですから。それで、ちょっと整理のため、「意識」の働きとしてカバーできる(と私が考える)範囲を以下にリストしてみました。

<意識の働き>
(1)感覚(外部や内部から来る感覚、また、心に浮かぶイメージや感情など)
(2)記憶 
(3)思考(論理、推論、判断など)
(4)真善美(美意識、価値観など)

私は、5歳の時と30歳の時では、(2)、(3)、(4)は、いずれも大きく異なり、唯一(1)だけが、ほぼ一貫して同じように感じています。一方、30歳の私の意識と30歳の私のクローンの意識を比べると、全くと言っていいほど同じに近いと思っています。hakobuluさんは、どうお考えですか? 大変興味のあるところです。

>脳に上書きされたA3(P3、Z2)はA3(P3、Z1)ということでしたが、私としてはA3(P3、z1)というイメージです。

#26の補足で、私が書いた以下のものをみたら、書き間違ってましたね。3行目は、「私の30歳のときのクローンの身体+意識:A3(P3)」です。”クローン”が抜けてました。済みません。

私の5歳のときの身体+可変意識+不変意識:A1(P1、Z1)
私の30歳のときの身体+可変意識+不変意識:A2(P2、Z1)
私の30歳のときの身体+可変意識+不変意識:A3(P3、Z2)

で、おっしゃっていることは、その通りだと思います。結果として、以下のようになりますか?

私の5歳のときの身体+可変意識+不変意識:A1(P1、Z1)
私の30歳のときの身体+可変意識+不変意識:A2(P2、Z1)
私の30歳のときクローンの身体+可変意識+不変意識:A3(P3、z1)

それと、hakobuluさんの表記法に従うとすると、私としては、P2は限りなくP3に近いので、P3--->P2’と書き換えたいところですが、いかがでしょうか?

補足日時:2005/11/30 09:45
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『「30歳の私」と「30歳の私のクローン」とは、不変意識が共通ではありません。


アララそういう設定なの?最初に言ってくださいよ。そんなら、所詮、時点区切りにせよ、本当の意味で!『厳密』な全的クローンではなくなりますね。

『結局、自分が自分であるためには身体はそんなに重要な意味を持っていないと考えて良いのかという疑問です。』

ですから、何故これが自分であって、あの人、あの犬、あのカンガルーじゃないのかという疑問に繋がってくる…んじゃなかったの??

『それとも身体(多分の脳の中)のある特定部位だけが不変性を保っているために同じ私という意識を持てるのかなという感じもします。』

『いずれにしても、A1とA2の間(すなわち自分自身の5歳時と30歳時の間)には共通意識Z1があるので同じ私という意識が持てるわけですが』
『そのZ1をA3に持たせることは不可能なのかという疑問です。~Z1を生み出している脳の特定部位をコピーしてA3の脳に上書きするということになるかと思います。そうすると、A3(P3、Z2)はA3(P3、Z1)に変わるのでA1,A2,A3全部が同じ私の意識を持てるということになってしまいますが』

要するに一人物が内包する個の歴史感覚―記憶をもクローンに移植すればということですね。これだけを切り離して御考えとは、こちとら想定外でしたよ。

何歳を想定しようが、その年齢だった、かつての自分というのは、いまは自分の内部に抱え持つ存在ですから、いきなり?自分の外部に出現したクローンとは距離感があって当然じゃないですか。

ところで多重人格障害という現象を考えてみた場合、同一人のうえであるにかかわらず多種多様に出没する各人格どうしは互いを「彼」もしくは「彼女」と呼びますね。そして各人格自身は自分を「自分」だと言う。

過去の蓄積全て失ってしまうほどの記憶喪失または一時的に意識を失った後にも「自分がここにいる」という意識が継続する場合、仰るところの『Z1』に何ほどの重みがあると言うのでしょう?

『身体(多分の脳の中)のある特定部位だけが不変性を保っているために同じ私という意識を持てるのかなという感じもします。』
             ↑↓
『自分が自分であるためには身体はそんなに重要な意味を持っていないと考えて良いのかという疑問』

矛盾してるわけではないのでしょうか?

肉体面、、物質的と言い換えてもいい、そうしたものからくる、自我意識または主観に及ぼす影響は甚大なものがあるのも自明なことですが、最初の御質問の文面等からは、どうも「自分が自分の主人公である」というような独自(自我)意識と混同しておられるように思えました。

蛇足ですが一卵性双生児特有のいろんなエピソードを聞くにつけても、たとえ相手がクローンであろうと普通の他人感覚ではいられないだろうと思います。自分の分身には違いないのですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/29 23:22

>疑問1:60億人の人間に60臆の個別の「意識」が事前に用意されているのか? また、それらは、使い回しが可能なのか?



生き物は発生すれば何時か死にますが、生まれる前はどうしてたかというと死んでいたそうです。つまり「在る」でも「無い」状態。時空を超えて0次元(空)で生きていたのでしょう。魂とか生命体であるというより物質たらしめる他との境界がないのです。手塚おさむさんの「ブッダ」では、個別の魂はなく、全部一つになってました。その中のどれをとっても同じ、無形の塊(かたまり)であったそうです。

>疑問2:「私の意識」と「今の私の肉体」を結合する必然性はあったのか、あるいは、どういうしくみで決まったのか?

0次元で死んでいた魂は、意志により生まれたがって親を刺激して生まれるそうです。肉体を得た生命の進化の歴史を再現しながら(単細胞生物から魚類、両生類、哺乳類、水生哺乳類、原人の過程を行く)内にアポトーシス(プログラム死)により細胞は増殖し成長と同時に役目を終えた細胞も自殺をしていきます。先祖の記憶も一緒に消して行くのでは?

親の意志で子供をデザインして産むことはありません。出来ません。根拠も全くありません(汗笑)。納得している訳ではありませんが、私はそこで判断中止(エボケー)に到っています。

映画の「AI」はロボットと人間の間に心が通うという設定ですが、驚いたのは死んだ母親を未来の遊星人が遺伝子から母親を複製してしまうというところです。一応本人なのでロボットの子供もやっと母親に甘えることが出来てハッピーエンドなのですが、そして無機質な機械でも人間と手段は違えど同じ反応するものなら心を持つことが出来るのかもしれない。

「心」は細胞の一つ一つに、もしかして水や元素にも記憶があるかもしれない?

「心」の場所?もしかして、有機的な脳の機能ではなく、鉄やナトリウムなど金属元素によって生命体も連鎖したり、強弱引き合いの活動、制御をしてる気がしてきています。ミクロ単位でもありマクロな無限に存在し続ける世界でもある。

宇宙にあっては特定の場所もない。しかし、宇宙では無の暗闇こそが普遍であるので、存在するということは異常事態です。「私が存在する。」というより「存在が私をしている。」奇跡の奇跡というのが近いかしれません?

これ以上の理由を述べることは限界です!本当に根拠なしですから。ある意見を参考にしたけれど、インスピレーションです。一杯×2です(泣・・かなくてもイイか)。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>生まれる前はどうしてたかというと死んでいたそうです。

「生まれる前はどうしてたかというと」と書かれたところまで読んで、「ん? どうしてたんだろう?」と一瞬、大いに期待したら、答えが「死んでいたそうです」だったので、大笑いしてしまいました。失礼、真面目なお答えですよね。実は、私も、ちょっと表現が違いますが、以前から同じことを考えていました。私の場合は「人は死んだら、生まれる前の状態に戻る」ということです。「生まれる前に戻るわけですから、また、生まれる可能性もあるということを意味している」と思っています。ただし、今の自分の記憶は一切なしですが。

>その中のどれをとっても同じ、無形の塊(かたまり)であったそうです。

これもその通りだと思います。なぜかと言うと、個性に属するもの(性格、知能、記憶、感性など)は、全て肉体に属していますから。

>0次元で死んでいた魂は、意志により生まれたがって親を刺激して生まれるそうです。

これは、どうでしょうか? 私の場合は、私の意志で生まれてきたのではなく、気が付いたら、この世に勝手に放り出されていたというのが正直なところです。意志薄弱だったので、捨てられたのでしょうか?

>映画の「AI」はロボットと人間の間に心が通うという設定ですが、驚いたのは死んだ母親を未来の遊星人が遺伝子から母親を複製してしまうというところです。

私も見ましたが、母親の髪の毛のDNAから再生するんですよね。母親の記憶の方はどうしたのか、よく覚えていません。ただ、一度なくなった本当のお母さんの心は戻って来ないのではないかと思います。それに、AIの方は、本当に心を持っているのか、それとも、あたかも本当に心を持っているかのように振舞うことのできる能力を備えたロボットに過ぎないのか区別が付かず、結局、あまり感情移入できませんでした。

>「心」は細胞の一つ一つに、もしかして水や元素にも記憶があるかもしれない?

もし、心が物質でないとすると、むしろ、あらゆる場所に同時に存在しているように思います。何故なら、もし、場所が特定できるとすると、何らかの輪郭と大きさを持つことになり、物質でないことに反するように思います。

>鉄やナトリウムなど金属元素によって生命体も連鎖したり、強弱引き合いの活動、.....

この話は、むしろ、生物進化の説明に有効かも知れませんね。すなわち、現在は、ダーウィンの法則で、偶然の変化の積み重ねで生まれた生物の中から、環境に適応できたものだけが篩いにかけられて生き残ったと考えていますが、実は、生物は、そんな不経済な方法で進化して来たのではなく、一定の進化方向があらかじめプログラムされていたという仮説も可能だと思います。その時、まだ、発見されていない分子・原子のミクロ・レベルの結合法則が作用している可能性はあると思います。

>「私が存在する。」というより「存在が私をしている。」奇跡の奇跡というのが近いかしれません?

「存在が私をしている」というのは、すごくおもしろい表現ですね! 今度、パクらせてもらいます。
ここで言う「存在」、私からみると、「まだ実現される前のあらゆる可能性であり、まだ、実現されていないので、見かけ上は、無の状態」のように感じました。

補足日時:2005/11/29 23:12
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