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危険運転致死罪、というのができたということなのですが、
そもそも、運転免許を取得する時点で、車は走る凶器であること、年間1万人の日本人が交通事故で死んでいること、飲酒は危険であること、みんな納得した上で運転している(塩爺みたいに「忘れました」というやつは更新できない)わけですから、それを知りながら、飲酒運転や暴走によって人を死なせるのは「未必の故意」による殺人罪にならないのでしょうか。

町なかを刀を抜いて走り回るより、車の方が危険だし、じっさいに刀で切られて死ぬ人は何人もいない。「殺すつもりはなかった」といっても刀で死なせたら殺人で、車で死なせたら殺人でない、という区別の根拠がわかりません。

あえて、「致死罪」をつくることで、かえって罪が軽くなるような気もするのですが。

A 回答 (3件)

 未必の故意は、科刑上、故意と同等に扱われますから、その判断は厳格になされる必要があります。

殺人罪であれば、「自分の行為によって人を殺してしまうかもしれないが、それでも構わない」と認識することを要します。ご質問にあります、飲酒運転や暴走等の無謀な運転をする者の中には、たしかに上記のような認識を抱きつつも、そのような行為に及ぶ者も存在すると思います。このような者に対しては、未必の故意を認めて、殺人罪を適用することは、理論上も問題ないでしょう。ただ、飲酒運転や暴走等の無謀な運転をする者の多くは、「自分の行為によって人を殺してしまうようなことはないだろう」と認識しているはずです。このような、無謀な運転をしてはいるが、人を殺してしまうというほどの認識までは抱いていない、という者に対して、未必の故意を認めて殺人罪を適用するのはいささか横暴です。

 問題は、殺人罪の未必の故意を抱いているかどうかをどうやって判断するかということです。これがたとえば、ご質問にあります、刀を振りまわす行為であれば、客観的に判断して、彼には殺人罪および傷害罪に関する未必の故意があったと言えます。刀を降りまわしておきながら、「人を傷つけるつもりはなかった」という抗弁は認められないでしょう。しかし、これが車の運転であった場合、その行為(車を運転すること)自体は、たしかに危険な行為ではありますが、社会上認められた正当な移動行為です。車の運転をしている者すべてに、殺人罪や傷害罪の未必の故意を認定することは問題がありますし、実際上も不可能でしょう。

 飲酒運転によって命を奪われた者の無念は如何ばかりかとは思いますが、飲酒運転という行為そのものは多くの人が行っている行為です。この人たちすべてに、殺人罪の未必の故意を認定することはできないでしょう。これを認めてしまうと、飲酒運転で事故を起こした者すべてに殺人罪もしくは傷害罪が成立してしまいます。お酒を飲んで車を運転することは、非常に危険な行為であり、慎むべきことは言うまでもありません。しかし、だからといって、この行為に殺人罪と同等の危険性を認めることはどうでしょうか。少し行き過ぎの様に思います。

 殺人罪が成立しないとしても、以前の最高刑5年の業務上過失致死傷罪では、悪質な交通事故に対して対応できないことは私も十分に認識していました。今回の改正は実に妥当なものであると思います。しかし、危険運転をしたというだけで、最高刑死刑の殺人罪が適用されるのはやはり行き過ぎだと思います。交通事故は、被害者も苦しいですが、加害者も苦しいはずです。自業自得といえはそれまでかもしれませんが、車を運転している以上、いつ誰が起こしてもおかしくないような犯罪です。今回の改正の原因となった事件は私も知っています。多くの国民が、この加害者に対して酌量する必要などないと感じたと思います。しかし、交通事故を起こす加害者の多くは、ごくありふれた、どこにでもいるような人たちです。「うっかり」でやってしまったのです。過失であることを考えれば、やはり刑罰のバランスを考えるべきではないでしょうか。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「刀を振り回す」というのが、時代劇で敵陣につっこんでいくようなものであれば、切ることが目的ですから「未必」なしに「故意」になるとおもうのですが、誰も狙わず、ただ振り回して人込みの中を走りまわった場合、とお考えください。

過去の質問もみたのですが「死ぬかもしれない」と認識した上で実行に及ぶのは「未必の故意」だそうですが、運転免許を取得・更新する場合に、「飲酒は事故の元である。毎日悲惨な事故を起こしている。被害者も加害者もたいへんなことである」というのはさんざん教え込まれているわけです。
ただ、聞くだけで納得しなくても免許はもらえる、ということであれば、免許を与えるほうがおかしい。
(刀であれば、許可がいるけれど、刀の許可のために教習所通いも更新のための講習もないし、包丁であれば許可も要らない。「包丁で人を刺したら死ぬとは思わなかったなあ、」ということは通用しなけれど、実際には身の回りで包丁で刺されて死んだ人は殆どいません。車で死んだ人はいます。)
集団暴走なんて、刀よりよほど危ない。

実際の量刑については、それぞれの場面で考えればいいと思うのですが、最初っから刑事犯罪として立件もしない、というのが理解に苦しむところです。
いちいち損なことで犯罪者を増やしていったら、社会が動かないから、大目に見よう、というのが原則なのでしょうかね。

お礼日時:2001/12/22 17:11

 私もおっしゃることはその通りだと思います。

日本の行政、司法の諸制度は、車社会をいかに円滑に維持するかのみに心を奪われ、飲酒運転が引き起こす悲惨な事故をどうやって減らすかということについては、あまり興味を示さないのではないかとすら思ってしまうほどです。

 私の個人的印象にすぎないのかも知れませんが、日常の生活の中でも、あまり事故防止とは関係ないような警察の取り締まりはよく見る一方、飲酒運転を防止するための取り組みはそれほど熱心ではないと見受けられます。繁華街周辺で取り締まりをすれば、みんな気をつけるようになると思うのですが。

 もっとも、そのような取り締まりを強化すればするほど、飲み客は減るので、今度は飲食業界の方から悲鳴が聞こえてくるわけです。特に年末のこの時期、国全体の景気動向にも影響を与えかねないとあっては、多少の死人が出てもそう取り締まりを強化するわけにはいかない、という判断が当局のどこかにあるとすれば、首をかしげざるを得ないと思います。そう考えたくはありませんが、行政機関は、そのジレンマの中のどこかでバランスをとっているのかもしれません。

 また、ただでさえ犯罪が増加し、刑務所は満杯状態と聞きます。交通犯罪であれ、なんであれ本来なら刑務所にいくべき犯罪者が弁当(執行猶予)もらうなどして娑婆にあふれているのは、そのようなことが背景にあってのことだという噂もあるくらいです。

 この問題は運転者のモラルの問題と言うよりは、ある意味、行政や司法の機械的な姿勢が現在の状況に明確に反映した姿にすぎないと、私は感じています。殺された方はたまったものではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
感情的には、飲酒運転に甘い、というのは、とくに被害者の皆様には強く感じられることだと思います。

「飲んで乗る」ことが人命に関わることだ、という認識ができないような運転者に免許証が与えられることが間違いだろうと思います。

取締側として、罰則は裁判所の決めることですので、いくら検挙してもどうせ・・・、という意識があるのかどうか。(免許取り消しになれば運転はできなくなるのだから、被害は防げるわけですが、時々、警察官が捕まっているからなあ。もみけしもあるだろうけど)

お礼日時:2001/12/22 16:51

 たしかに、建て前上はそういうことになってます。


 でも実際にはそんなことはありませんからね(^_^;

 昨日のことなんですが、「運転中はピリピリしてるね」と言われたんです。
 これは当然のことで、俺は運転は命張ってやるもんだと思ってるからです。黄色信号に進入するだけで冷や汗ダラダラもんです(^_^; 自分なりには、安全に細心の注意を払ってるつもりなんですが、でもそれでも実際やばかったことあって、もう2度とやらんと思ったこともありましたもん。

 でもそんなこと全く考えてなく、本当に「足」と同じように考えてる人がいるのも事実ですから。
 大手チェーンの居酒屋が駐車場を完備してるような世の中ですから、ドライバーの意識を高めるために出来た法律と思ってるんですが、どうでしょうね。
 いつの世の中も、法律というのはごく少数の悪者が原因で改正されるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ピリピリしてあたりまえなんですよね。

車が売れないと自動車産業は困るし、車で買い物に来るお客がいないと、百貨店も飲食店も困る。

そこそこ注意してうまくやってくれ、という警告なのかもしれません。

お礼日時:2001/12/22 17:15

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