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”信じる”という言葉は”シン”と漢語読みですが、ということはもとは中国から来た外来語ということでしょうか?社会生活の基本にある言葉だと思うのですが、やまとことばにはもともと存在しなかったということなのでしょうか。語源を教えていただければ助かります。

A 回答 (3件)

日本には、「まんなか」はあっても、


「中央、中心」は無かったと考えています。

嘘、本当はあっても、
「信用できる」は無かったと思います。

信用出来る人間が存在しない以上、
信じる必要も無い事になります。

音を全て消しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

外部からくる情報を「信じる」とは比較的、抽象的な言葉なのかもしれません。

日本人は「みとめる」、「ききとめる」などの言葉があらわすようにいたって視覚的、聴覚的ですね。

お礼日時:2006/05/05 01:24

まず No.1 さんの補足です。

やまとことばには 「まこと」 ということばがあり、「信」 「実」 「誠」 「真」 の漢字があてられました。

「信じる」 には、確信、信用、信仰などの用法がありますが、

  「われもまことしからずは思ひながら」 (徒然草 73)
  「いつはりと思ふものから 今さらにたがまことをか我はたのまむ」 (古今和歌集 713)
  「まことの心をおこすといふは、他のことにあらず。仏法を信ずるなり。」 (宇治拾遺物語 154)

などのように、 「信じる」 に通じる用法がありました。

  「まこと」 は日本文学の根底にある不易で普遍的な精神で、(中略) 上代文学にはこれが純一な形で表れており、中古の 「もののあはれ」、 中世の「幽玄」 なども、 「まこと」 の上に時代性を加えたものといえる。 (『旺文社 古語辞典 改訂新版』)

のだそうです。

信仰の意味に関しては、No.2 さんの補足です。

  日本語には 「ゆゆし」 「かしこし」 「いつくし」 など、すべて、自然の霊力を恐れ、威力のあるものに触れないようにすることを表わす言葉はあるが、神に自己の罪を告白し、懺悔することを表す言葉はない。日本人にはそのような意識や習慣がなかったからである。 (大野晋 『日本語の年輪』)

のだそうです。

「信じる」 は、たしかに 「社会生活の基本にある言葉」 ですが、「信仰する」 という意味では、 たとえばイスラム教やキリスト教などを 「信じる」 という場合とくらべて、ある種いいかげんに 「信じる」 ことを表す場合が多いようです。よかれあしかれ、それは 「信じる」 がやまとことばでないこととも関係しているのではないかと思いますが、いかがでしょう。

「信じる (信ず)」 がいつ頃から使われるようになったかは、わかりませんでした。
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この回答へのお礼

非常にわかりやすい説明と例文をどうもありがとうございます。

そうですね、もしかして神が自己をなげうってでも「信じなくてはならないもの」になるのは西欧のように、はやい時期から多様な信仰形態が競争しあって、個人がある信仰をしていることを提示することが死活問題になる場合においてあらわれてくるコンセプトなのかもしれません。

お礼日時:2006/05/05 01:06

うう…確かに「信じる」に相当する大和言葉は見つけにくいですね。


「敬う」「奉る」…ちょっと違う。
思うに、「信じる」という概念は多少なりとも疑っている状態ともとれます。
なぜなら、100%疑わないなら、「信じる」必要はないわけで…
もしかしたら上古の日本は人や神を「信じる」必要もないほど、心から信じていた幸せな世界だったのかな…
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね、「信じる」必要がないとは日本人が異文化との接触がすくなかったということにも関係しているようにも思われます。

他の島国文化ではどうなのか興味ありますね。

お礼日時:2006/05/05 01:15

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