プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

教えて!gooで質問をして、回答と補足で遣り取りをしてると、ほとんどの人が、その文面
を越えてその裏にいる書き手の人格・人物を知ろうとし、それがわからないと不安のよう
です。(特に質問や回答が複雑になると)
そして、自分なりに相手の人格・人物を想定して、回答の遣り取りをしてるようです。
これはなぜなんでしょうか?

わたしの場合、そういうことをほとんど気にしません。
なぜなら、匿名性がある以上、相手の人格・人物を探って想定したところで確実で完全な
人物像が得られるわけでもなく、相手は現実の人物の裏打ちはあるとはいえ、それが
ネットワーク上に現れた人物像と同じとは限らず、むしろ別人物と捉えた方が妥当だと
思うからです。
それを現実の人格・人物まで知ろうとする行為は、あてずっぽうを信じるような愚かな事
に思えます。
そのような事に惑わされるよりも、質問や回答の文面だけを真摯に受け止めて回答の
遣り取りにこそ努力すべきだと思っています。
(文面の点は、わたしの場合は老若男女に通じる汎用的?な形にしています。)

このなんらかの人物・人格を想定しようとする行為、それがないと不安だと感じる心理は
どういう原因からなんでしょうか?
そこには、なにか人間のコミュニケーションの根源的な心理が隠れているのでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

おそらくすべての事情に当てはまる場合でないと推測いたしますが、私はケースバイケースではあるものの然るべき必要なことだと思いますよ。



少し質問の射程が広すぎるようです。あんまり頭がよくないので話がまとまらないかもしれません。よく分からないところはご指摘ください。必ずしも唯一の正解であるとは思いませんが(そもそも正解なんてありませんよね)、しかし一つの可能性ではあると思います。

多くの人は常に多くのものを認知しており、解釈しており、生きています。そのため、あまり複雑な情報を処理するのは得意ではないようです。ここでいう複雑とは答えが明確にでない・位置づける事が困難であるもののことをさしています。自分が理解できるものを好むというのは、頭がパンクしてしまうことを回避していると考えられます。このことは自分が理解できる=自分の知識体系の中に構成・位置づけることができるという関係の存在を仮定します。つまり、自分が理解できるように、解釈するということです。もしも、自分が全く知らない・検討もつかないような状況に遭遇してしまったときには、その必要性に応じて、1.熟考して新しくラベルをつける、2.自分が知っている似たものに近いラベルをつけて簡便的に判断するといういずれかのプロセスを踏むようです。おそらく後者が採用されているのでしょう。2の方略は基本的に自分と関係が遠い人によく採用されます。自分と関係がないので、知識だけあれば十分(相手から不利益をこうむる事がない)だからではないかと想像できます。これらの一連のプロセスはほぼ自動的に行われます。

なぜこのようなプロセスが行われるのか。これは若干物語になってしまいます。このことを考えるのにあたって、「ヒトとして社会生活を営むということ」がキーワードになるのではないでしょか。人は群れで生活してきましたし、今も文化によって程度の差はあれど、人と人とが支えあって生きています。この長い社会生活を営むために必要な機能として、「相手はどんなやつか」を即時に判断することが要求されたと考えられます。相手が危険なやつであるのに、危険だと判断できない場合、自分は殺されてしまう可能性があります。生物としてのヒトが自分が殺されないように動機づけられると考えると、相手の特性について知る事は、自分が生き抜くために必要な機能だと考えられます。

従って、ネットの世界に限りません。むしろ、今回の件は、1.テキストという形で保存されたからこそ、認識することができた、2.やり取りが紋切り型であることの影響であると考える方が妥当だと思います。それは、日常場面で考えてみるとよいかもしれません。日常場面では、無意識のうちにその人物に対する判定を行います。例えば、電車で席をゆずっている人を見かけると、多くの人はゆずった人はやさしいに違いないと認識します。実際は、やさしさのためではなく、駅に到着して降りただけかもしれません。お金をもらったのかもしれません。しかし、人はある人物像について強い確信を抱いています。

なぜ、このような状況が起こりうるのか。その一つの答えは、人は解釈の世界に生きているということです。相手の事を完全に把握できるという思い込みがあるということです。ヒトは社会生活を営んでいるので、状況に応じて違う自分を演じています。例えば、サラリーマンのAさんを想定します。Aさんは昼間は会社員ですが、夜はパパであり、旦那であり、もしかしたら息子になるかもしれません。どれも同じAさんですが、すべて違う役割を演じています。そのように考えると、そもそも人格とは何か。心って何?多分に難しい問題をはらんでいると思います。私は形のないものだと思っています。比喩ではなくて。つまり、自分(認知する人)が対象について解釈した結果、自分が納得できるものに作り変えたものだと思っています。

■まとめ
ヒトが社会生活を営む上で、適応上、相手の特性を自動的に判断してしまう。このことを拡張して、自分が理解できる形に落とす必要性があるので、自分の経験などと照らし合わせる必要性が考えられる。そして、今回の例では、その一連の流れが特に文字によって保存されることにより顕在化したのではないかと考えられる。

この回答への補足

>2.自分が知っている似たものに近いラベルをつけて簡便的に判断する・・

いわゆる「過去の経験・文脈に依存した認知」ということですね。

>長い社会生活を営むために必要な機能として、「相手はどんなやつか」を即時に判断することが要求された

現実社会ではそれは妥当だと思います。わたしも雑踏の中で同じ判断を行なっているでしょう。
しかし、ネットワーク社会=非接触型社会において危険性がそんなに深刻な問題かというとその点は疑問です。

>ヒトが社会生活を営む上で、適応上、相手の特性を自動的に判断してしまう。
>このことを拡張して、自分が理解できる形に落とす必要性があるので、自分の経験などと照らし合わせる
>必要性が考えられる。
>そして、今回の例では、その一連の流れが特に文字によって保存されることにより顕在化したのではないかと
>考えられる。

疑問が2つあります。
(1) 「ヒトが社会生活を営む上で、適応上、相手の特性を自動的に判断してしまう。このことを拡張して、自分
   が理解できる形に落とす必要性があるので、自分の経験などと照らし合わせる必要性が考えられる。」
  というのは、通常の現実社会には妥当な説明だと思います。
  しかしネットワーク社会では、どうなんでしょうか?
  今回は、もともと人対人の「おしえて!goo」を対象としましたから、書き手の存在は前提になります。
  しかし、ネットワーク社会には、人ではない人のようなもの、例えば自動応答サイトのかなり良くできた
  ものなどがあります。そのような疑似人格に対しても、同様の特性判断をしてしまうのでしょうか?
  つまり、「自動的に判断」するに「人の存在が前提となった時」という条件がつくのではないでしょうか?
(2) 「特に文字によって保存されることにより顕在化したのではないかと考えられる。」ですが、今回は書き手
  がいる事が明確な「おしえて!goo」を話題としています。
  しかし、世の中には多くの文章が存在します。
  たまたま、手元にTIMEの広告があって文章が並んでいますが、その書き手の特性を判断しようとはしま
  せん。
  つまり、相手(書き手)の特性を自動的に判断する事には、まだ別の条件があるのではないでしょうか?

補足日時:2006/08/15 12:29
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/15 13:10

受け入れがたい理由は分かる気がします。



ネット社会と現実世界は本質的には異なっているのに、現実世界の延長線上にある。といわれたら誰でもきつねにつままれたような気持ちになりますよね。今の段階では、(あくまで現段階では、ですよ?)認知者の世界観がそれをどう認知するかにかかっているので、リアルだと判断されれば、ネット社会=現実世界だし、リアルだと判断されなければ、ネット社会≠現実世界になる(これを実証することはおそらく不可ではないかと。それは世界観は、常に新しく構成・更新されていくから。しかし、現時点での操作した結果は自己報告によってわかる)。

このように考えると、
ネット社会は現実世界の延長線上にあるときもあれば、そうでないときもある。

とした方が妥当ではないですか。ケースバイケースに。つまり、人の根源的な心理というよりも、話題や状況によるものではないかと。私はそれが一番しっくりきます。

補足内容から推測いたしますと、人物を想定するかしないかではなく、それが顕在化するかしないかに注目されているような節があるのですが・・・ちょっと分かりにくくなるかもしれませんが、ネット社会において、人物を想定する行為が露見するのは、文字によって意味が伝達されるからですよね。理論に沿った流れではないですが、大まかに言えば、人物の想定(同定)→言語化(表現内容を考える)→書き込むのように考えるのが自然ではないかと。

こう考えると、人物を想定する行為と想定した性格を表現する行為は乖離しています。ネット社会においては、後者の行為が顕著に見られることは明らかになっております(確か)。

質問の趣旨から離れていっているかもしれませんが・・・

この回答への補足

>このように考えると、
>ネット社会は現実世界の延長線上にあるときもあれば、そうでないときもある。

言い方を変えれば、個人(認知者)の世界観の構築の仕方次第だから、それに依存している。
そして、わたしの場合は、現実社会≠ネット社会として世界観を構築しているということですか。

>人物を想定するかしないかではなく、それが顕在化するかしないかに注目されているような節があるのですが

前者は、投稿者の意思の問題で、後者は投稿者の脳内現象のように受け取りましたが、そうすると、わたしの
注目点はやはり前者です。
意思に基づいてまたは意識して、どのくらいの鮮明さで相手の人物を想定するかという点です。

>ネット社会において、人物を想定する行為が露見するのは、文字によって意味が伝達されるからですよね。

端的にはそういうことになりますね。
意味伝達を相互作用と捉えると相手を想定する事になる。それが実際の意味伝達の実行で、相手を想定した事が
はっきりする。

>大まかに言えば、人物の想定(同定)→言語化(表現内容を考える)→書き込むのように考えるのが自然では
>ないかと。

そこに、わたしの主張の弱点があるのです。
つまり、ネット社会において、相互作用のために相手を想定するというのが0ではないにしろ希薄であろうと
いうのがわたしの見方です。
しかし、(人との)相互作用という論点で考えると、ご回答でいわれた、上記のプロセスを経る事になってしまう。
つまり、人物(客体)の想定が最初の段階で行なわれる事になる。

では、人との相互作用という論点をはずしてみて、人物の想定をはずし、代りに「表記内容/外界の認識」と
いうのを設定してみます。
表記内容/外界の認識→言語化→書き込むという行為があり得ないかというと、充分にあり得るように思います。
それは外界の情報に呼応した自己表現としてのネット社会への情報発信行為です。
ここでの回答においても、上記の性質のものが多々あるのではないでしょうか。(確信はありませんが)

補足日時:2006/08/22 09:16
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この回答へのお礼

度重なる御回答ありがとうございます。
あまり意見交換・議論的な要素が多くなると運用側から削除されるかもしれないので、こちらの疑問点が残っている点はお気になさらないでください。折角のご回答が削除されてしまっては残念です。

お礼日時:2006/08/22 09:24

>可能性は0とは申しませんが、極めて低いのではないでしょうか?・・・それは、電車やバスに乗り合わせた他の乗客を特別個別に意識しないのに似ています。



私の回答の仕方がよくなかったのですが、これは可能性が0でなければ必ず生起されるものです。ただ、判断の処理水準が異なるのです。電車やバスに乗り合わせた他の乗客を特別意識することは普段あまりないのではないかと私も思います。しかし、携帯電話で通話している乗客を見たらどうでしょうか。これは人によるところですが、多くの場合、その人物について特性の判断を行うのではないでしょうか(どこの誰か、どんなことをしていそうか、という情報から、性格とか人格とかはどうかまで)。

>情報発信という観点からネット社会を見ると、受信者を個別に認識した相互作用は極めて希薄なのではないでしょうか?

これは根拠をもって私も主張することはできないのですか、おそらく希薄である可能性はないとは言えないと思います。しかし、相互作用が希薄であるかどうかは問題ではないのです。(一時的にであっても)相互作用を持つかどうかが問題なのです。というのは、前者は影響力の違いを意味しているのに対し、後者は志向対象の有無をさしていると考えられます。つまり、個別の認識ができるということは、より精緻な情報処理を行うという可能性を示唆しているのに過ぎないのではないか、と考えられます。

>相互作用が希薄な状態で、敢えて人物を想定する事の意味付けとはなにかが疑問として残ります。

これも私の回答の仕方が悪かったせいですが・・・揚げ足をとるつもりではないですが、敢えてというのは、する必要がないのに、というのが裏にあります。上述したように人物を想定する事自体が自動的に行われるということです(言語化するかどうかは表現の問題なので別)。

ちなみに余談の件。私も回答されないような・・・というか、どれだけ議論が進んでも推論の域をでないだろうという確信があるのと、心理学用語が飛び交いそうですので・・・ちょっと(笑)

この回答への補足

「ネット社会と現実世界の(明確な)違い」
回答を拝見してずっと考えてたり調べたりしましたが結局結論がでませんでした。

>これは可能性が0でなければ必ず生起されるものです。

>相互作用が希薄であるかどうかは問題ではないのです。一時的にであっても)相互作用を持つかどうかが
>問題なのです。

相互作用が全くないのか、少しでもあるのかの点に、判断点をおかれるとわたしとしては反論の余地がなくなり
ます。
あとは平均像として「可能性は0とは申しませんが、極めて低い」と申し上げました。
ですので、なかには0という人もいるでしょう。
それが多数派なのか、少数派なのかという論点になります。
ですが、これも実証的にデータを持って説明できません。

ということで、自分の感覚からすると、受け入れ難いが反論できないというのが正直なところです。

補足日時:2006/08/20 06:26
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この回答へのお礼

数回にわたる御回答、大変ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/20 06:28

同じ人物が再回答を続けると他の方が書きにくいかもしれませんが、私がきりのよいところまで続けたいので。

宜しくお願いいたします。

>相手(書き手)の特性を自動的に判断する事には、書かれた内容、それとの読み手との関係の強度に依存している
と理解してよろしいでしょうか?

そうです。他にも要因があるかもしれませんが、私が根拠を示す事ができるのはその二つだけです。ちなみに、ケースバイケースですが、基本的には相手との関係性を強く求める(維持する必要性がある)場合、自動的に判断する以上に、意図的に積極的に情報を検索・取り入れようとするプロセスが働きます。


>対面で認識のある人間に書くメールは、現実世界のものが優先・・・対面の認識のない方へ向けて書いてる場合は・・・パソコンに向かって単に自分
の表現物を記録していくという行為です。この感覚から質問の「なぜ教えて!gooの回答者は質問の背景にいる人物を知りたがるのか?」が出てくるのです。
>先に述べたように、わたしの感覚では、現実社会とネットワーク社会の異質性を・・・現実社会での事象の延長として考えれば足りるというお考えなんですね。

結論としてはそうです。私は、いろんな人から見られる可能性がある時点で、例えパソコンに記録するだけの行為であったとしても、相互作用しているという認識が生起する可能性があると思います。人は基本的に他者からの評価に敏感であるようですから。従って、教えてgoo(ネット社会)だけに限られるという前提条件はノーではないでしょうか。対象に向かって、相互作用するという観点からでは、ネット社会も現実世界も同じですから。


蛇足。
>今こうして補足を書いてる時のわたしの心理状態、キャラクター表現は、わたしが現実の世界で手紙を書く時の心理状態、キャラクター表現と異なります。

これはおっしゃっている通りだと思いますよ。厳密にいえば、そのように報告されているから分かる、ということですが。ただ問題は、現実世界とネット社会が異質なものだから、人物を想定する必要がない、おかしい、という論理は成立しないということでしょう。今まで回答しているように、人間は例外なくほぼ自動的に判断しているようですので。

この回答への補足

>私は、いろんな人から見られる可能性がある時点で、例えパソコンに記録するだけの行為であったとしても、
>相互作用しているという認識が生起する可能性があると思います。

可能性は0とは申しませんが、極めて低いのではないでしょうか?
というより、教えて!gooの回答であれば、質問者以外にも閲覧者もいます。それを個別に認識して個別相互作用と
いう形にはできないように思います。
逆に閲覧する群衆と化して、その中に質問者さえ吸い込まれ、相互作用が希薄になるのではないでしょうか?
それは、電車やバスに乗り合わせた他の乗客を特別個別に意識しないのに似ています。
(ぶつかる程に接近すると別ですが)

わたしの言った、
「対面の認識のない方へ向けて書いてる場合は、受取り手の想定がなく、パソコンに向かって単に自分
 の表現物を記録していくという行為です。キャラクター表現的にも没個性化していると思います。」
は、まさにこのパターンです。

>教えてgoo(ネット社会)だけに限られるという前提条件はノーではないでしょうか。対象に向かって、
>相互作用するという観点からでは、ネット社会も現実世界も同じですから。

現実世界で、相互作用する対象の特性判断をするというのは、以前の回答の補足で肯定しました。
雑踏のなかで常に行なっていると。それは特性判断の対象がすれ違うたびに個別に認識できるからです。

しかし、上で述べたように「教えて!goo(ネット社会)」では、回答(自分の発信した情報)は、どれだけの
人に読まれるかわかりません。故に相互作用が現実社会より希薄になると思うのです。

その点は、現実社会とネット社会の違いではないでしょうか?
たしかに、現実社会でも、個人を識別できない群衆がいますし、ネット社会でもメールのように個人を認識できる
場合もあります。
しかし、情報発信という観点からネット社会を見ると、受信者を個別に認識した相互作用は極めて希薄なのでは
ないでしょうか?

>現実世界とネット社会が異質なものだから、人物を想定する必要がない、おかしい、という論理は成立しない
>ということでしょう。今まで回答しているように、人間は例外なくほぼ自動的に判断しているようですので。

「ネット社会で人物を想定する必要がない、おかしい」とまでは申しません。
ただ上で述べたように相互作用が希薄な状態で、敢えて人物を想定する事の意味付けとはなにかが疑問として
残ります。

余談:そろそろ「現実社会とネット社会は、連続か、乖離しているのか」という質問を起こしましょうか?
   でも抽象的すぎて回答がされそうもありませんね(笑)

補足日時:2006/08/17 19:14
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 19:20

私の場合、ですが。



曖昧な質問をされた場合に、後々の質問責めを避けるために、目的を尋ねることはあります。
そうしないと、質問が解決しても目的が達成されず、さらなる質問が繰り返される可能性があるためです。
特に、状況説明が得意ではない質問者さんですと、回答者側である程度、足りない情報を想像することが要求されます。
質問者に補足要求しても、基本的な用語が理解できていないために、上手く説明できないこともあります。
私自身は意識していませんが、結果的に、質問者の人物像まで想像する事もあるかもしれませんね。
そうした方がより短い時間で解決を図れる気がします。

あと、もう一つは承認欲求の強い質問者の場合。
この手の質問者は、ただ単に質問に答えるだけでは満足しません。
質問時の前提として不安に想っている事があり、不安が解消されなければ、質問し続けます。
質問者の本当の欲求は質問に対して回答を得ることではなく、不安が解消されることなのです。
そうした質問はここへ書くべきではない場合もありますが、お節介が顔を出して、メンタルケアを試みる事もあります。
特に、「人間関係」カテゴリの回答者は、そうした傾向が強いのではないでしょうか。

私が質問者の背景を想像するのは、(今考える限りでは)上述の二通りですが、
もう少し単純に、質問者が「回答を求めているか」「アドバイスを求めているか」という認識の違いもあるかもしれません。
質問者が回答を求めている場合は、質問者が客観的に分かり易い質問をし、回答者が適切に質問内容を理解することが必要になります。
質問者がアドバイスを求めている場合は、質問者は質問に至るまでの背景をできるだけ多く説明し、回答者もその背景を理解することが必要になります。
回答者は質問者が「回答」と「アドバイス」のどちらを求めているか、を適切に判断することが必要なのかもしれませんね。

この回答への補足

御回答を読ませていただいて、失礼な言い方ながら、結局は相手についての情報の量・質を必要とするお考えの
ようです。

わたしのもともとの「人物・人格を想定する」の意味合いは
「あたかもそこに人物像が浮かぶぐらいまで人物・人格を想定する」といったレベルです。
言い方を変えると個人攻撃ができるぐらいまで、人物像を想像している。

それと、回答者のおっしゃる
「質問・回答を円滑にするために情報収集する」
「承認欲求の強い質問者の不安を取り除くための敢えて回答者の詳細を収集する」
とには、やはり開きがあります。

補足日時:2006/08/17 19:13
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補足を拝見致しました。



>しかし、そうだとすると、このようなメディアの存在価値とはなんなのでしょうか?
>それともそれがこのメディアの自然な発展の形だとしたら、それを許容することが正解なのでしょうか?

御質問者様のように、基本的に「調べものをする」場であるとして、対象に「人格」をみる必要はないと割り切ったスタンスでおられるかたにとって、こうしたサイトは特別な必要性のないものでしょう。
それだと、このサイトが、ここまで隆盛にもなりません。
反して必要欠くべからざる人にとっては、まさに対象に「人格」をみることができる(想定することが許される)からこそ必要なのです。

こうしたサイトに「ドップリと」浸かってしまう人の共通点として現実的な日常生活のなかで存在を許されている場所が狭い、その狭さゆえにか交流する人間関係が少ない、その代償としての役割を求めているのではという指摘は時々見かけます。
つまり他の御回答のなかからコトバだけお借りしますと『延長された我が身体』としての機能を、こうした場所で働かせようとしている。

「居場所」が少ないことの原因として本人の恣意的主観の激しさも大いに挙げられ得るとしますと、現実の対面する交流生活では容認され難いそれが、容認され得る余地のある世界であるということが、取りも直さず、こうした人々を引き付けてやまない理由でもありましょう。

そして現実の日常生活では、ますます周囲との溝が深まり、その代償を、より強く、こうしたサイトに求める結果、その恣意的主観が頂点を極めるに至って、やはり、ここでもトラブルを引き起こす言動に至ります。

一度限りの応答に終わっていれば「人格」を想定する前の段階で留まっておれることも可能ですが、これが何度も連続しての遣り取りが繰り返され、感情や価値観の表出を含んできますと、そこに否応なく、あるおぼろな「人格」(イメージ)が立ち上がってくるわけです。
そして、いかにバーチャルな場であろうと、ここではここのなかで、どのような連続した言動をとったかという、ひとつのまとまった結果が残ります。たとえ「削除」という手段が入ってもです。


>「イマジネーション」で知識の浅薄さを補うという事の危険性を感じます。
>その「イマジネーション」の使用する習慣が、このメディアの中だけでなく、現実社会へと流出していく事が怖いです。

2ちゃん××等は、その極端な現象を、すでに体現しておりますね。
こうしたことにつきましては私自身、まことに微力ながら、これまでに抵抗を試みたことはあります。
運営側にも何度か指摘しております。

しかし、2ちゃん××においてそうであるように、ここもまた「需要と供給」のシステムが確立されていまして、それは、ここの参加数や規模をみれば明らかです。つまり「一般大衆」の支持を得ているということです。

ですから
>それを許容することが正解なのでしょうか?

という問いかけには「然り」という答えが返って来るでしょう。
「否」という者は、ここでは異端です。

ただ大多数の存在に加えて御質問者様や、その考えに近い面を持つ私のような者もおりますので、実際には一様ではないということは言えます。程度の差ということもありますから。
「独り言」に応えてくれる場として必要とする人もいれば、応えてあげることを第一義にしている人も、自分の思想信条を整理・確認、ついでに披露するために利用している人もいるし主な動機はいろいろです。

削除された御質問においては、御質問者様を「所有」できなかったから回答者は怒ったのでしょう。
これは質問者・回答者の立場にかかわらず、しばしば争いの原因になるものです。現実の生活でも、そうなのではないかと思います。
つまりは自分の手元に引き寄せたいのですね。

このようなサイトで「イマジネーション」を貪ることを禁じることが不可能だとするならば、唯一の救いは現実の日常生活において、より幅の広い視野と深い洞察を獲得していくことしかないのではないかと思います。
でなければ御質問者様が危惧なさるように、その「イマジネーション」は人を陥れる凶器になりかねません。

私も哲学カテゴリー等で、このサイトについての質問をしておりますが、ここでは自分は「異端」なのだということを自覚するにつれ、離れていくべきと考えています。

なお「発信者開示請求」についての御指摘、有難うございました。

この回答への補足

>現実的な日常生活のなかで存在を許されている場所が狭い、その狭さゆえにか交流する人間関係が少ない、
>その代償としての役割を求めているのではという指摘は時々見かけます。
>つまり他の御回答のなかからコトバだけお借りしますと『延長された我が身体』としての機能を、こうした
>場所で働かせようとしている。

>「居場所」が少ないことの原因として本人の恣意的主観の激しさも大いに挙げられ得るとしますと、現実の
>対面する交流生活では容認され難いそれが、容認され得る余地のある世界であるということが、取りも直さず、
>こうした人々を引き付けてやまない理由でもありましょう。

現実では「発表会のステージ」は得にくいが、ネットワークなら得られる。それが魅力になっている。

>>その「イマジネーション」の使用する習慣が、このメディアの中だけでなく、現実社会へと流出していく
>事が怖いです。
>          (中略)
>「需要と供給」のシステムが確立されていまして、それは、ここの参加数や規模をみれば明らかです。
>つまり「一般大衆」の支持を得ているということです。
>          (中略)
>>それを許容することが正解なのでしょうか?

>という問いかけには「然り」という答えが返って来るでしょう。

とすると、現実社会がイマジネーションで押しつぶされる、言い方を変えると現実社会がイマジネーションで
バーチャル化(仮想的になる、現実に取って代わる)する可能性もありますね。
もちろん下手なイマジネーションは見破られるのでしょうが、人の機微にふれたり必要性のあるイマジネーション
は受け入れられる。しかし、それも破綻する可能性を秘めてる。

昨今、小学生同士の殺人や傷害事件があります。あれも現実社会ではもともと「みんな仲良く」というのに
無理がある。しかし、イマジネーションで仲良しである事を補わないと、仲間はずれ(=「発表会のステージ」が
得られない。)が起きる。だからそこを取り繕う。
だが、取り繕ったものだから、いつか破綻をきたす。それがあの手の事件なのではないかと思います。

>削除された御質問においては、御質問者様を「所有」できなかったから回答者は怒ったのでしょう。
>これは質問者・回答者の立場にかかわらず、しばしば争いの原因になるものです。現実の生活でも、そうなの
>ではないかと思います。
>つまりは自分の手元に引き寄せたいのですね。

件の回答者は、イマジネーションでのコミュニティを想定していた。当然この質問者(わたし)も、その一員だと
思っていたが、実は違っていた。そこで破綻をきたす。

>このようなサイトで「イマジネーション」を貪ることを禁じることが不可能だとするならば、唯一の救いは
>現実の日常生活において、より幅の広い視野と深い洞察を獲得していくことしかないのではないかと思います。

あとわたしとして提案できるのは「孤高さの修得」ですね。
「現実的な日常生活のなかで存在を許されている場所が狭い」これを克服して肯定的に受け止められるかです。

>ここでは自分は「異端」なのだということを自覚するにつれ、離れていくべきと考えています。

わたしはむしろ、このようなサイトひいてはネットワーク社会のの異常な常識(形容矛盾してますが)に受け
入れられないなら、敢えてそこに残り、異端なりの行動を見せる事を考えます。
そこには、啓蒙などという崇高な考えはありませんが、このようなサイトがイマジネーションで均一化していく
なら、異分子を敢えて注入して攪乱するという事を試みたいです。

補足日時:2006/08/17 19:07
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/17 19:11

通りすがりのものですが、面白い補足いただき、少し一服してみましょう。



まず、ご紹介した本ですが
贈与は純粋に考えると「純粋贈与」は存在しない。と言うことです。
人間は、相互に依存して、社会的に生きるしかありませんから、与え続ける事は、理論的にも不可能だと言う事です。
贈与でなくて交換だから気になると言う、因果関係ではありません。「わたし」を物質として「身体」と同じように扱うと誤解が生じやすいです。この辺り微妙ですが、ひとまず「わたし」は物質ではありません。精神のようなものは、いわば、湖の波のようなもので、湖の水ではありません。寄せる波と返す波が幾層にも重なり合える、空間を必要としない存在でしょうか。ですから逆に「わたし」は、今、質問者である「あなた」にある意味所有されているわけです。
このことを「拡張する身体」と捉えていただきたいです、もっともこの言葉は今村さんの言葉で、これが最適とは申しませんが。つまり、身体を拡張すると表現するより「わたし」(空間に場所を必要としない≒仮定)が波のように相互に所有(影響)しあう、と表現した方が、判り易いでしょうか。
つまり、相手を気遣っているのではなく、自分を気遣っているのです。
尤もこれは、根源的な心理で、普通は他人を気遣っていると考えるのが常識的な見方ですが。
本に関しては、興味があれば、ご自身でお読みください、わたしとは違った理解もあるかもしれません。

次に、わたしの限界について
質問を分析すると
1)質問者の背後に人物を想定する人がいる
2)その理由が知りたい
3)わたし(ご質問者様ご自身)は、想定しない
わたしにできる可能性のあることは、2)ついてだけです。
1)も3)も、人それぞれで、それ以上は、是非とか規範の問題になります。
わたしの感想では、1)3)に関して、是非を問うのはあまり意味が無いように感じます。

さて、興味深い補足について
ネットワーク社会の通信販売を取り上げて見えますが、これは面白いですね。
以下は批判ではなく、単なる分析として読んでください。
商品の交換と、コミュニケーションの交換を、同様に考える事は可能だろうか、狭義の経済的取引は客観的価格という、等価形態が、ひとまず成立していると言う仮定の上で成り立っています。商品は誰が作っても同じ商品ですから、単に等価とされた対価が支払われるかが問題になります。
処で、既に転倒があります。価値とは本質的に主観的なものであり、商品一般が客観的に同一性能を表現する以前は、生産物(商品)の背後に、作った人の能力や誠意と言った人格が最初はあったはずです。
商品が大量生産されることにより、生産者の人格が後退し、同一商品=同一価格の客観的価値が、思考の節約、日常の利便性を武器として席巻してしまったようです。
これに対して、このサイトの様なコミュニケーションの交換は、広義の経済と捉えることができます、ここでは、貨幣のような客観的価値基準が今のところ生成していません。その為、ここでの交換は、概ね不等価交換で、時々、単純な質問が解決して、双方満足する等価交換が、偶然的に成立するのかもしれません。
しかし、基本は、主観的不等価交換が中心です、質問を商品のように客観化せずに、背後の質問者を想定する事も理解できるのではないでしょうか。

最後に想定の程度の問題
この件はわたしも常々注意しています。
回答に際して、質問者が理解しやすいように、年齢や性別を推測する状況から、極端には、過去の投稿や、過去のHMにまで、質問者や回答者の背後の人格に関心を示すと言った状態まで、その程度の差は千差万別と言うのでしょうか。
「質問者の背後に人格を想定する」この言葉で表現される事には、以上の千差万別の状態の程度の違いがありますから、双方が、一つの言葉で違う状況を念頭に置いて会話をする場合は、誤解や議論の原因になり易いですね。

今回のわたしの想定は、きわめて常識的なそれですが。
ところが、この常識的という言葉も、全然正確では有りません。これでは回答を終わらせられませんね、ただでさえ長々書いて。

言葉は物質を扱うには便利です、定義されたものとして固定できます、ただし、精神と言った生成し続ける、或いは変化している状態を固定すると、途端に弊害が現れるようです。と、解った様な捨て台詞で、立ち去るのであった。合掌

この回答への補足

>贈与でなくて交換だから気になると言う、因果関係ではありません。
>                 (中略)
>身体を拡張すると表現するより「わたし」(空間に場所を必要としない≒仮定)が波のように相互に所有
>(影響)しあう、と表現した方が、判り易いでしょうか。

敢えて安易な言葉を使ってしまえば、「流動的な関係性を構築する」といったところですか?
本は読ませていただきたいと思います。『交易する人間』今村仁司 は講談社選書メチエで手に入るようですし。

>1)も3)も、人それぞれで、それ以上は、是非とか規範の問題になります。
>わたしの感想では、1)3)に関して、是非を問うのはあまり意味が無いように感じます。

おっしゃる通りです。わたしも理由だけわかれば充分です。
ただ、質問の背景説明をする関係で自分と他者の違いを提示したり、ダメもとで自分と他者の違いについての
お考えを伺いました。
結局、その回答?が上記ということですね。

>さて、興味深い補足について

ネットワーク社会での交換の一例として通信販売をだしてみたのですが、商品とコミュニケーションの異質性を
指摘されるとは思いませんでした。
わたしはの想定してたのは、現実社会での商品売買時と通信販売での商品売買の比較です。前者は、店構え、
売れ行き、ブランド性、知名度、相手方の多くの特性を気にします。それに較べて後者は商品のみを気にします。
その点で、現実社会とネットワーク社会の差異を提示できると思っておりました。

>質問者や回答者の背後の人格に関心を示すと言った状態まで、その程度の差は千差万別と言うのでしょうか。

わたしの想定したのは「あたかもそこに人物像が浮かぶぐらいまで関心を示す」といった意味合いです。

>言葉は物質を扱うには便利です、定義されたものとして固定できます、ただし、精神と言った生成し続ける、
>或いは変化している状態を固定すると、途端に弊害が現れるようです。と

うーむ、深いなーと感想を述べるに留めます。

補足日時:2006/08/16 22:00
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/16 22:04

再回答です。

回答していくうちにやっぱり面白い質問だなと思っています。射程が広いというのは、私が問題を焦点化できていないからだったのかもしれませんね。

>疑問が2つあります。
(1)ネットワーク社会には・・・疑似人格に対しても、同様の特性判断をしてしまうのでしょうか?つまり、「自動的に判断」するに「人の存在が前提となった時」という条件がつくのではないでしょうか?
(2) 「特に文字によって保存されることにより顕在化したのではないかと考えられる。」ですが、・・・相手(書き手)の特性を自動的に判断する事には、まだ別の条件があるのではないでしょうか?

(1)と(2)は別回答にしますね。そちらの方が分かりやすいと思いますので。

○(1)について
ご指摘の通り、生存確率を高めるためだけで説明するのには無理があると思います。あくまで生存確率を高めるという事は一番大きな枠組みです。有史以来、この生存確率を高めるために、社会生活に適応する必要性がある。と主張したかったのですが、言葉が足りませんでした。ちょっと先走りすぎました。条件については仰るとおりで、私もそのように思います。不必要かもしれませんが、もう少し前提条件について、回答させてください。

今の段階で私が考えているのは、前の回答から進んだところにあります。社会生活に適応すること≒主観によって構成されている自分の世界に適応することではないだろうかということです。このために特性判断をすることは然るべき必然性のあることだといえます。ちょっと分かりにくいのですが、単純にいえば、(自分は通常ではうまく生活しているから)自分が異常であると思いたくない、思われたくない心理過程が働くのではないかということです。既知の情報と異なる情報=差異情報を受けると、人は混乱(表現としては不適切かもしれません)してしまうことからも妥当であると考えています。この情報のやり取りは、対面であるかどうかは必要としません。なぜなら、自分がその差異情報を”リアル”であると受け止めるかどうかにかかっています。しいていえば、対面である方がこの影響が強いということではないでしょうか。

質問者さんはネット社会と現実世界は乖離しているとお考えのようですが・・・これは推して知るところですので、誤解していましたら申し訳ありませんが。例えば、友達に非難される場合と教えてgooで非難される場合、本質的には異なっていますが、一つの非難に変わりありません。ただ、ネット社会と現実世界は乖離しているものだという認識が先立てば、「ああ、こういう変なこというやつもいるんだ」と思います。一方で、ネット社会と現実世界が乖離していない場合、相手を変なやつだと思う事によって、自分の認識が正常であると考えられます。私見ですが、ネット社会と現実社会が乖離している根拠はないように思いますが・・・?(いかがでしょうか?)。つまり、私が言いたい事はこの自分の世界が正常であることを維持するためにラベルづけをするのではないかなと。ネットであっても現実であっても、同じように。ここで問題になっているのは書き手ではないのです。自分の認識上で存在する相互作用している相手=”対象”に過ぎないと考えられます。

前置き長くなりました。。。文才がないので、読みにくいですね。まとめを書きますので、それで・・・

■(1)のまとめ
”事前に情報(相手が自動返答するだけ)を知らない限り”、相手と自分とが何らかの形で相互作用しあうことになれば、同じように人としての特性を判断・想定をしてしまうのではないかと考えられます。それは、自分にとって不利益を被る可能性があれば、より顕著に働くと容易に想像できます(ネット社会と現実世界の乖離の件)。
ちなみに人の存在を前提条件としているのではないか?については、おそらく微妙にノーではないでしょうか。自動応答のような”擬似人格”のコミュニケーションに違和感を覚えない場合、事実としては擬似人格でしょうが、やり取りをするユーザーは生身の人間であると思う(はずです)。それは擬似人格に関する情報がないわけですから、違和感がなければ、そもそも人かどうかを疑うプロセス自体が生起されないと考える方が妥当であろうと思います。

○(2)について
TIMESや小説などの文章はそもそも相互作用を前提としていないように思います。つまり、そこに書かれていることは事実であったり、ある世界観が描かれていたりするわけです。情報を得たり、読書を楽しんだりすることが第一目的だとすると、文章以上の情報を詮索する必要はありません。これがおっしゃっていることのすべてだと思います。私たちがある対象について知る必要性があるのは、その対象と関係を持つ可能性がある場合に限り、より強く働きます(0か1かという問題ではありませんので曖昧な書き方になりますが)。この辺の処理のプロセスはその必要性に応じて、ほぼ自動的に行われますのでなお曖昧な表現になってしまいますが。ちょっと趣旨から外れそうなので割愛いたしますが。

■(2)のまとめ
対象との接触/非接触は、影響を強めるか弱めるかに影響するに過ぎない。従って、どんな文章でも執筆者の背景を詮索する動機が生起されるはずである。しかし、人間は常に同じプロセスを辿って認知しているのではなく、必要に応じて情報を獲得しているのに過ぎない。情報の真偽が疑わしいとき、作者の意図をより明確に知りたいとき、(1)の場合と同様のプロセスが働くと考えられます。

ちょっと余分ですが・・・
私たちが生きている現実に正しい価値観というものは存在していません。あくまで違う情報がない(当然、解釈が入ります)ということをもって、正しい・妥当であると判断をしているに過ぎません。そもそも人物像自体存在しないと私は考えています(確認:これは、私がとっている立場での問題ですので、真実や事実の類の話ではありません)。私は、人は状況の力を大きく受けるものだと考えています。例えば、やさしいやいい人とか、言葉としては明確で意味も分かります。しかし、言葉に対応する”もの”はあくまで行動に過ぎません。行動を理解するためには一定のルールに従った解釈を必要とします。確かにヒトの中に”何か”が存在するようにも思えますし、魅力的です。しかし、私にはその”何か”があるという根拠はないように考えております。このように考えると、ネット社会と現実世界の間に大きな割れ目があるとは私には思えません。確かに、このようなプロセスの中に根源的な心理が隠れているとも言えるように思います。しかし、それはあくまで現実世界では見えにくいけど・・・というレベルの話ではないでしょうか。

この回答への補足

>社会生活に適応すること≒主観によって構成されている自分の世界に適応することではないだろうかという
>ことです。このために特性判断をすることは然るべき必然性のあることだといえます。
>                 (中略)
>既知の情報と異なる情報=差異情報を受けると、人は混乱してしまうことからも妥当であると考えています。

前回(No.7)の補足にわたしが書いた「過去の経験・文脈に依存した認知」があり、その想定する主観的な対世界
認識がある。
その範囲を越えないように制御するため、特性判断を行ない、主観的な対世界認識のなかに収めておくと。
しかも、それは現実世界、ネット世界の区別無く。

>私見ですが、ネット社会と現実社会が乖離している根拠はないように思いますが・・・?

根拠といわれると困るのですが、
乖離というより、社会として見ると別々のものとしてわたしは認識してしまいます。
接点が幾つかあるとは思いますが、別の秩序があり異なる構成であるという認識です。
特に、わたしはコンピュータ、ネットワークを飽くまで機械としてしか認識してないので、現実世界と異なる
別の世界と認識してしまうのでしょう。
その別々の世界を相互に渡り歩いているわたしの人格はというと、やはり別々のものに思えます。
というより現実の人格とネットワーク上の人格が細い接点で繋がっている感じです。
だから、今こうして補足を書いてる時のわたしの心理状態、キャラクター表現は、わたしが現実の世界で手紙
を書く時の心理状態、キャラクター表現と異なります。
対面で認識のある人間に書くメールは、現実世界のものが優先してしまいます。
しかし、対面の認識のない方へ向けて書いてる場合は、受取り手の想定がなく、パソコンに向かって単に自分
の表現物を記録していくという行為です。キャラクター表現的にも没個性化していると思います。

この感覚から質問の「なぜ教えて!gooの回答者は質問の背景にいる人物を知りたがるのか?」が出てくるのです。

>”事前に情報(相手が自動返答するだけ)を知らない限り”、相手と自分とが何らかの形で相互作用しあうこと
>になれば、同じように人としての特性を判断・想定をしてしまうのではないかと考えられます。

ここは疑似人格の完成度の程度をどう想定するかで意見の相違がでてしまう事に気がつきました。
わたしは、SONYのAIBOの程度の完成度の疑似人格だったら、多分無理でやはり機械として認識されると
思いました。だから、現実の人の裏打ちが条件になると思ったのです。
一方、回答者は相当完成度の高い疑似人格を想定しておられるようなので、たしかに人間と区別がつかない疑似
人格では、相対した人間も、相手を人間として特性判断・人格想定を行なうと思います。

ところで、まだコンピュータの黎明期・・をちょっと過ぎた頃に、こんなプログラムがあったそうです。
・キーボードから、人間が今悩んでる事を入力する。例:「この頃、不眠症なのか、眠れないんです」
・すると、プログラムが、人間の入力内容を、ほぼそのままオウム返しで、但しプログラムが返事をしたように
 ディスプレイに表示する。例:「そうなの?、不眠症で眠れないのね」
この程度のプログラムでも、このプログラムを使った人は現実のカウンセラーがコンピュータの繋がった先にいる
と認識して、現に治療効果もあったそうです。逆にカウンセリング以外ではまるでダメだったそうです。

以上の点から、疑似人格の完成度、対応する分野によっては、「人の存在を前提条件としているのではないか?」
は、おっしゃる通りNOのようです。


>私たちがある対象について知る必要性があるのは、その対象と関係を持つ可能性がある場合に限り、より強く
>働きます

>必要に応じて情報を獲得しているのに過ぎない。情報の真偽が疑わしいとき、作者の意図をより明確に知りたい
>とき、(1)の場合と同様のプロセスが働くと考えられます。

相手(書き手)の特性を自動的に判断する事には、書かれた内容、それとの読み手との関係の強度に依存している
と理解してよろしいでしょうか?


>ネット社会と現実世界の間に大きな割れ目があるとは私には思えません。確かに、このようなプロセスの中に
>根源的な心理が隠れているとも言えるように思います。しかし、それはあくまで現実世界では見えにくいけど
>・・・というレベルの話ではないでしょうか。

う~ん、先に述べたように、わたしの感覚では、現実社会とネットワーク社会の異質性をより強く感じています。
それ故に、この質問をしたわけですが、回答者の方は、その2つの社会の異質性を感じない、根拠が
ない、それ故に、現実社会での事象の延長として考えれば足りるというお考えなんですね。

補足日時:2006/08/16 21:56
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/16 21:59

>そこには、なにか人間のコミュニケーションの根源的な心理が隠れているのでしょうか?



コミュニケーションの中には、本質的に支配被支配の関係が潜んでいると思いますよ。このサイトは、一見、回答者の贈与行為のように見えますが、以下の引用にあるように、厳密に贈与と言えるのは、人間の社会には恐らく無いでしょうね(決め付ける事はよくないと知りつつも)。
質問も回答も結局交換ですから、対価を望む気持ちが、如何しても避け難く、私の経験としても、お礼ぐらいは欲しいものだと、感じる事が多いです。問題はここでの交換は、等価交換ではないことに注意すると、なんとなく、やっぱり、貸し借りの感覚が付いて回るような気がします。
そこで、回答者としては、質問者が自分の回答を理解してくれるのか、お礼も締切りもしない人、折角回答したのに、ナシのつぶて、と言う事は、できれば避けたいので、質問者の背後が気になるのは、人情ですね。

上記の様な、感覚的なことを、身体論として判り易く説明した本の一部を引用しておきます。
最初に贈与の不可能性(1)、回答にお礼等の反応を望む事で、このサイトは交換の場だと言う事(2)、そして最後に、「生産条件」と言う部分に「生を楽しむ」「自己の評価を上げる」等の諸要求を見立てて、質問に回答することにより、貸しを作る。「延長されたわが身体」に「回答者の回答」が対応するわけです。お礼がない事は「わたし」を無視された、と表現すると、言い過ぎでしょうか。「延長された身体」をさらに拡大する為、質問の背後に、交換のルールに気づいていない、或いは無視する質問者が気になるのでしょうね。私も少なからず、その一人でしょうね。

ただ、スーパー回答者様なんかは、上記の説明が当てはまらないかも、それでも贈与ではなく、何らかの満足感で秤が吊り合っているのでは、等と、推測いたしますが。

―――以下 引用上から(1)(2)(3)―――

贈与としての贈与、返礼なき贈与を純粋贈与と名づけよう。純粋な贈与行為は、「これは贈与だ、私は誰かに与えるのだ」と意識したとたん贈与ではなくなる。贈与が純粋に返礼なき贈与であるならば、贈与する当事者も贈与される当事者もそれが贈与であると気づいてはならない。

・・・なぜなら、もし贈与の相互行為が交換であるなら、いっさいの人・物は決定的に、最終的に、場所移転をとげて二度と回帰しないからである。

生産条件は「延長されたわが身体」であるからだ、生産条件への関係は自分の身体への関係と同じである。所有とは二つの身体への関係である。自分の有機的身体と自分の外にありながら自分の身体の延長である非有機的身体への二重の関係、それが生きることであり、生産することであり、所有しつつ存在することである。
このような原初的関係は(二重身体への所有関係)は、あらゆる社会形態とは独立に、人間が人間であるかぎり、どこにでも横たわる普遍的事実である。(『交易する人間』今村仁司)

ちょつと通りすがりに、素人が質問文だけで回答いたしました、
勘違いが有るかも知れませんが、ご笑納ください。
心理学の事はよく知りませんが、少なくとも感情はうつろう物です、私の解釈一つだけが正しいわけでは有りません。

この回答への補足

ご指摘の今村仁司の著作は読んでませんので、引用された部分から理解につとめました。

つまり、この「教えて!goo」というメディア上で行なわれている事も、
一見「おしえて『あげる』」・・情報の無償贈与のように見えて、
実は、「おしえて、『もらう』」・・教えて、そして対価をもらう、交換行為だということですね。
その結果として相対する相手の事が気になるということでしょうか?

>回答者としては、質問者が自分の回答を理解してくれるのか、お礼も締切りもしない人、折角回答したのに、
>ナシのつぶて、と言う事は、できれば避けたいので、質問者の背後が気になるのは、人情ですね。

しかし、自分の場合で考えると(個人を一般化していいかとりあえず度外視します)、質問者を特別意識せず
自分の言葉で、但し平易な言葉で回答する事に努めます。
また、回答した後の事はあまり気にしてません。思い出したように「なにか回答したのがあったけどどうなって
いるだろう」と確認する程度です。ポイントの認識も同じ様なものです。
そういう意味では極めて無関心です。

そして、ネットワーク社会では仮に交換だとしても、相対する局面、対面の局面はないわけで、そこで相手を
気にすることの理由も弱いと言えます。
例えば、通信販売で代金を先方の口座に振り込む、この時先方の事をそれほどまでに気にするでしょうか?
また、先方がどんな人物なのかを想定するでしょうか?
先方のことよりも、送達間違いがないといいなとかの、むしろ先方の周辺に頭が向くように思います。

それから、質問者の背後が気になるという心理(その人の関する事柄を手に入れておきたい)と、質問に書きま
した「自分なりに相手の人格・人物を想定して、回答の遣り取りをしてる」という、そこに人格・人物までを
想定というか擬人化(人に対して擬人化という用法は適しませんが)、「こんな奴が質問/回答してる」という
想像の心理の間にはまだ開きがあるように思います。
前者が、自分の不安感の解消だとすると、後者は、それ以上に積極的に人の姿をそこに作り出しているように
思われます。
これらの点は、どのようにお考えでしょうか?

補足日時:2006/08/15 22:35
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/15 22:37

御質問者様の削除スレッドを目撃した者です。



その切っ掛けは、これもまた削除されました質問の、文中参照されていたUrlから入ったのですが
そのスレッドの御質問者が、貴方様についてのメンタル面での問題を、仄めかしを超えるほどに表現されていたものですから実際のところ、かなりのバイアスがかかった状態で拝見することになってしまったわけです。

こちらのサイトは名目上、かなり詳細なカテゴリー分けが設けられております。ですが、いまはもう御質問者様も身に沁みておられることと存じますが、肩書きの信憑性もさることながら実際、殆んどは専門知の世界に身を置いてはいない一般人であるのが実態のようです。
そして御質問者様自身、なぜ「専門的な根拠を示せる回答を…」との希望を明らかにしているに関わらず、一般人が、わざわざ回答してくるのかという素朴な疑問を持たれましたことに、実は、このサイトの致命的な本質が隠されているわけです。

なぜ、その分野の専門知に遠い一般人が、わざわざ回答するのか。
そのカラクリを仔細に観察しますと
こうした人たちと申しますのは、ひと口に言えば「中途半端」です。なまじに少しは知識を仕入れている。それが専門分野の現場に所属している立場から見て、どのように浅く薄い知識であるかということを確認することもできない。
なかには、その「浅く薄い」知識を足がかりに見事な推論を展開できる能力をお持ちのかたもいらして、この「推論」こそが明日の専門世界の黎明をもたらす一助になるという信念をお持ちのかたもいらっしゃいます。
そして、その推論の積み上げ方に加え、質問する人の自己愛的な部分を上手に刺激してあげるツボを心得ていらっしゃる場合、これはもう好評を博すわけです。

つまり「浅く薄い」知識+人情の機微を心得ている人にとって、ここは登場回数を確保できる「発表会のステージ」を用意してくれているサイトなのです。
こういう方にとって、このサイトは、まさに「生きがい」でしょう。
そしてまた「浅く薄い」知識すら持ち合わせぬ質問者にとって、本物の専門知で回答されるのは、むしろ、ありがた迷惑ですらある。
両者間には見事な「受容と供給」が成り立っているわけです。
そしてそれは世の「一般大衆」の象徴でもあります。

ところが御質問者様の場合、察するところ「一般大衆」の範囲内に納まっているかたではなかった。
そこが、御質問者様が疑問に感じられた回答者自身の読み違えでしたでしょう。つまり「想定外」だったのです。

とは言え御質問者様の削除された例の御質問本文自体が、いらぬイマジネーションを描き立てる面を含んでいたことも指摘できます。
もちろん文字の羅列と、それを産み出した本人の間に大なり小なり乖離はあるはず。それは十全に御承知でいらっしゃるはずにも関わらず。

このサイトの特徴として「浅く薄い」知識の人は、別の部分を以て不足分を埋め合わすのだということを申し上げましたが、その「別の部分」というのは、まさしく「イマジネーション」です。

たまに、そうしたものに一切依存せず、グーの音も出ないほどに鮮やかな専門知を示してポイントを上げられるかたもおられます。御質問者様も、そのお一人です。
こういうかたがピラミッドの僅かなトンガリ部分を成し、その下を「薄く浅い」人たちが構成し、その下が…と続きます。これがこのサイトの大まかな構造です。

そのピラミッドの中程を構成している人は「浅く薄い」ことの補強に「イマジネーション」を活用する癖がついておりますから、もうそもそも質問文自体にイマジネーションを忍び込ませる隙あらばこそ、その質問に参加するわけです。
そしてそれは、決して自分を遥かに凌ぐ相手であるとは想定していない。小柄な少年かと思っていたのに立ち上がってみたら大男、だったわけです。
しかし、ここまで来てしまったら今さら引き返すこともできない。

本物は泰然と構えているものでしょうが、なまじなインテリ気取りが一番、自尊心が強い。

そこで苦肉の策として御質問者様の「痛くもない?腹を探る」という選択に及んだ、という結果になってしまったのではないでしょうか。

そこには男性であれば余計に、なのかもしれませんが「メンツ」の問題も絡んでいたと見えますし、簡単に組み伏せられるとタカを括っていた相手が、そうではなかったことのバツ悪さもありましたでしょう。
それは御質問者様が何か内面的な問題を抱えているのだ、というイマジネーションを自らに言い聞かせてもなお、後味の悪さが残るものであったと思います。
ですから、そのことを他者に確認するためのスレッドを別に立ち上げずにおれなかった。
つまり彼らお得意のイマジネーションを以てしても、貴方の知性と、それに相俟った魅力が、より上回ってしまった。
私は、このように見受けました。

要するに妬まれてしまったのですよ、結果的に。
勝てる相手だと何気に思っていたら予想が外れたうえ、組み伏せるのに四苦八苦、思ったより相手が食い下がってくる。しまったコイツは手ごわい!と冷や汗をかきながら藁をもつかむごとく最後までお得意のイマジネーションの助けを借りようとしたんですね。

ここまで来ると、もう、質問者であるか回答者であるかの違いなど関係ありません。

それと同時に
食い下がってくる相手に食い下がれば下がるほど、それがまた相手の食い下がってくる姿に自分の姿が重なってくる。。。
その部分では
他の御回答でも挙がっていますような
「投影」という作用が働いたのかもしれません。

これが接点のない、たとえば専門家と全く知識のない素人でしたら住んでる世界が違いますから接触することすらない。
一部で、素人を寄せ付けない学問カテゴリーがあるのを見れば分かることです。
ところが、かえって「浅く薄い」部分あればこそ接触してしまうのですね。

念を入れて申し上げますと
このサイトは、実質、専門知の人が質問をするにふさわしいところではありません。何故なら同じく専門知の人は僅少であるうえ、「浅く薄い」人たちにとっては出番を奪う「敵」と見做されかねないからです。

イマジネーションというのは野放図な環境においては、どこまでも自分につごうよく展開するものです。
そして、ここに一貫した居場所を確保したがる人にとっては、ここはイマジネーションを遊ばせてくれる世界なのです。
そうした人が大半である以上、イマジネーションを刺激してしまうような質問をすることは彼らの「期待」を誘うものです。
貴方は、どうやら彼らの期待を裏切ってしまったのではないでしょうか。

そしてもちろん、「自分につごうのいい」イマジネーションをフルに活用する人が、現実の日常生活においてコミュニケーション上の齟齬を来たし易いであろうことは容易に考えられます。

その代償として知識を溜め込むという作業をする人は、それを披露するステージでコミュニケーション面の欲求不満を癒したい。

その結果、ますます、こうしたサイトに逃げ込んでくるわけですね。

したがって、背景を深読みする嗜癖のある人が多いのは、こうしたサイトでは、なんら不思議ではないわけです。

蛇足ですが御質問者様が削除されたスレッドのなかで述べておられた「侮辱罪」「名誉毀損」に対して「プロバイダー開示」という手段を示しておられたことに注目させられました。

この回答への補足

今回は、最近わたしの周辺で起きた事件をご存じの方から回答していただける事が多いようでちょっと驚いて
います。

このサイトの参加者のヒエラルキーか実際のところどうなのかは検証の手段がないのでなんともいえません。
ですが、それを一つの仮説として肯定した場合、「分野の専門知に遠い一般人が、わざわざ回答するのか。」の
カラクリの説明も整合性を確保していて、この「教えて!goo」の社会モデルとして的確のように感じました。
そして今回わたしの周辺で起きた事件の説明もつきます。

>つまり「浅く薄い」知識+人情の機微を心得ている人にとって、
>ここは登場回数を確保できる「発表会のステージ」を用意してくれているサイトなのです。
>こういう方にとって、このサイトは、まさに「生きがい」でしょう。
>そしてまた「浅く薄い」知識すら持ち合わせぬ質問者にとって、本物の専門知で回答されるのは、むしろ、
>ありがた迷惑ですらある。

子供たちの間に次のような遊びが存在するとは思えませんが、
要は、「教えあげる&教えてもらう『ごっこ』」ということであり、相互に大差の無い知識の持ち合いの中で
ちょっと有益に(みえる)事を教える事ができると賞賛される。
そこへ知識豊富な者(例えば大人)が参加すれば「つまんなくなった」「大人は入っちゃダメ」となる。

しかし、そうだとすると、このようなメディアの存在価値とはなんなのでしょうか?
このようなメディアを調べ物のために有益に使う人もおそらく少ないながらいるでしょうし、またそれが本来の
利用方法だったと思います。しかしそれを「発表会のステージ」にしてしまい使いこなせない。
デジタル・ディバイドという言葉は半分死語化してますが、現在のこのメディアの状況はメディア・リテラシー・
ディバイドと言えるように思います。
それともそれがこのメディアの自然な発展の形だとしたら、それを許容することが正解なのでしょうか?

>このサイトの特徴として「浅く薄い」知識の人は、別の部分を以て不足分を埋め合わすのだということを申し
>上げましたが、その「別の部分」というのは、まさしく「イマジネーション」です。

「イマジネーション」で知識の浅薄さを補うという事の危険性を感じます。
たしかに「教えて!goo」サイドは、
「回答の精度に責任は持ちません、最終的判断は自己判断するなり正式に専門家にお尋ねください」と謳って
いますから、リスクのある回答であることは認識しています。
しかし、そのリスクが「イマジネーション」、悪く言えば「その場つくろい」「つじつま合わせ」のようなもの
から作られてるとしたら、これは想定外ですね。
(わたしの場合、信頼できると思った回答でも自分で後調べをしますから、あまり問題になりませんが)
そして、その「イマジネーション」の使用する習慣が、このメディアの中だけでなく、現実社会へと流出して
いく事が怖いです。

結論部分に関して、

>背景を深読みする嗜癖のある人が多いのは、こうしたサイトでは、なんら不思議ではないわけです。

自分の能力を披露してよろこんでくれる人間か、悪く言えばカモになるかどうかを探るということですね。

>蛇足ですが御質問者様が削除されたスレッドのなかで述べておられた「侮辱罪」「名誉毀損」に対して
>「プロバイダー開示」という手段を示しておられたことに注目させられました。

「プロバイダー開示」ではなく「発信者開示請求」ですね。
しかし、実際ネットワーク上では実名を出さない限り「侮辱罪」「名誉毀損」は成立しません。
わたしも、現実世界の事件となり得るならという仮定で「発信者開示請求」を持ち出しました。

補足日時:2006/08/15 21:00
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この回答へのお礼

長文の御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/15 13:08

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