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あまり詳しいことは知りません。素朴な疑問なのですが、ヘーゲルにおける弁証法で、大きな役割を果たす「止揚」は、これはこうだ、という必然的な原理なのでしょうか、それともこうあってほしい、という道徳的な要請なのでしょうか。的外れな質問かもしれませんが、どうか意見を聞かせてください。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

 申し訳ありません。

逆質問になります。「必然的原理なのか、道徳的な要請なのか」というご質問は、『法哲学』序文に見える「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」との命題に関連したものでしょうか?

 ご質問そのものに関しては、「ヘーゲルは現実を《~すべき》という当為(道徳的要請)を乗り越えて《~ねばならない》という必然・義務において捉えようとした」とお答えできます。『論理学』の第二部「本質論」の「現実性」に見える記述、ならびに『法哲学』における「道徳性」の位置付けから、そのことははっきりと申し上げられます。

 どのような問題関心をお持ちなのか、もう少し詳しくお示しいただけたら、他にも何ごとか語れると思いますが、いかがでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
なるほど、すこし整理された気持ちです。
ところで、serpent-owlさんの回答で、また疑問が湧いてきました。
もう少し勉強してから、また補足説明と質問をしたいと思います。

お礼日時:2002/04/12 12:13

必然的な原理だと思います。

少なくともそう習った(笑)
ヘーゲルにとって、自然界や社会の「運動法則」の一部が止揚です。
自然界や社会は「神が形を持ったもの」であり、
弁証法は「神の運動法則」です。
キリスト教の影響をかなーーーり受けているので、
キリスト教の考えを知らないと究極的に理解できないのかもしれないです。

以上素人より。
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