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旧東海道が日本橋から京都三条までなので、幕府と朝廷は密接な関係にあったと思います。

当時政治の実権は幕府が握っていたし、今のように天皇は象徴でもありませんでした。

では、天皇家はそのころ何をしていたのですか?教科書には江戸時代の天皇のことはなにも書いてないですよね。

A 回答 (4件)

朝廷、天皇はいま同様に象徴と言うか、幕府が格好をつけねばならない時に利用されたものと思います。

戦国時代に、多くの大名が京都を目指したのは、天皇の権威を利用して自分の全国への影響力を広めようとしたからでしょう。大名などが ”xxx守”とか”正三位””中納言”などを名乗るのは、”宮中から位を授けられたり”して
名乗れるのですが、宮中単独では出せないでしょう(幕府が朝廷にこうして欲しいと要請するのでしょうね)。

天皇をはじめ貴族たちは武力や財力ではなく、抽象的な宗教的権威、文化的権威、血筋などを武器にして幕府などと関係を持ち、自分達の地位を保っていたのではないでしょうか。歴史書を読みましょう。きっと何かしら書かれているはずです。ただ言えることは、天応家をはじめ宮中が一般庶民社会と何らかの関係を持ったことは、現在も含め過去に殆どないと言っても過言ではないと、私は思っています。
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基本的に天皇というのは「支配者に対して『支配することの根拠』を与える」存在でした. 一応「幕府」というのは「征夷大将軍が仕事をするところ」なので, 「征夷大将軍にする」機関が必要であり, その機関が天皇だったわけです. で, この「支配することの根拠」が危機的になった幕末では「公武合体」という運動が起こったりしています.


ついでにいえば, 江戸時代の大名の官職は貴族 (公家) とは区別されており, 幕府が朝廷に対し官職の任免を奏上するという形式になっていました.
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日本の場合は、実力でのし上がった武家政権であっても、政権の樹立


や安定の為には、天皇家の伝統的権威の利用価値がありました。乱暴
な言い方をすれば、伝統的権威と言っても天皇家にとってはすること
が別に何もなかったとしても、存在することそれ自体に意味があった
訳ですね。
と言うだけでは答えにならないので、まあ、儀式や宮廷文化のような
ことがだいたい想像されるのですが、その辺りは詳しい人にお願いす
るとして、ここでは以前に調べていて私個人が興味深かった点を挙げ
てみました。

まず目に付くのは、お勉強とお習い事です。私の手元にある光格天皇
の略譜では、三部抄・伊勢物語・琵琶・古今集・天仁遠波・入木道な
どの「御伝授」の記録が見え、光格天皇が公家や皇族から伝授され、
その後、光格天皇から何人もの別の公家や皇族に伝授しているようで
す。「御伝授」の記録は、江戸時代の他の天皇にも見られるので、皇
族を含む上級公家の間で、けっこうお勉強とお習い事の教えあいっこ
をしていたということでしょうね。
ちなみに「三部抄」とは、たぶん和歌の解説書のこと。「天仁遠波」
は「てにをは」であり、ものの本によると漢文の訓読に由来するが、
江戸時代には和歌の用語法をも意味する言葉とのこと。「入木道」と
は書道のことです。

あと、意外と目に付くのが、火災による避難の記録です。「すること」
という点では範囲外なのかもしれませんが、でも、なんか多いです。
保険屋さんは、親子孫の三世代のうちには火事に遭うなんて言います
が、当時の皇居の火災は天皇一代で二度も三度もです。で、恐らく皇
居が焼けて‥とまで行かなくても、近隣でボヤがあったらいちいち避
難していたんでしょうね。で、天皇一人だけ高級ホテルに泊まるなん
て訳にはゆかず、内侍所などの内廷機関も避難して、それらに伴う儀
式をして‥結構大変かも。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「何をしていたか」という質問が悪かったようです。

具体的にどんなことをしていたかではなく、「どんな扱いだったのか」が知りたいのです。

象徴でもない、主権も持っていない・・・じゃぁ何?という疑問です。幕府より上の立場であったのか、それとも今と同じように政府の命令が無いと公的な行動ができない状況だったのかなど、当時の朝廷の扱いを教えてください。

よろしくお願いします。

お礼日時:2007/03/09 00:22

「どんな扱いだったのか」ということであれば、月並な返答ですが、


「禁中並公家諸法度」を見れば、おおよその把握はできるのではな
いでしょうか。専門的にはいろいろな「見解」もあるようですが、
必要であれば Wikipedia でもご覧になれば、概説的なことはじゅ
うぶんに書いてあります。

鎌倉・室町幕府は、必ずしも国内の隅々までを掌握できた訳ではな
く、権門とも呼ばれる、天皇を頂点とする公家勢力や寺社勢力など、
侮り難い勢力を保持していた権力機構が複数存在していました。武
家政権は、権門を押さえ込もうとする一方で、実態としては相互依
存の関係にもありました。
江戸幕府の権威の源泉も天皇にあったことは他の方の指摘の通りで
すが、公家勢力や寺社勢力などを権門の地位から転落させ、ほぼ完
全に幕府の掌中というか統制下においたという点で、近代に続く中
央集権化への画期となりました。
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