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例えば久石譲やBzやZARDなどの邦楽と、
エンヤやマライヤキャリーなどの洋楽を聴き比べると良く思うのですけど、

日本の音楽って、主旋律重視と言う感じがするのです。いかにメロディで表情を豊かにするか、が最も重要視されていて、極端な話あとはそれほど重要ではない、という。

対して洋楽系統は、もう少し全体的な雰囲気を重視させる気がします。エンヤなどは日本人好みのテイストではあるけど、久石譲などと比べるとやはりそれほど主旋律は自己主張しませんよね。(BON JOVIなんかは主旋律重視の気もしますけど)

どちらが良いか悪いかではなく、この違いはどんなところから来ていると思いますか?文化とか価値観など、何か思いつくフシがありましたら、聞かせて下さい。

A 回答 (3件)

>武満徹や坂本龍一はそのイミで言うと革新派、ということになるのかも知れない、ということなのでしょうか。


逆に滝廉太郎などは、もうバリバリの和風スタイルですよね

逆だと思います。滝廉太郎の曲はシューベルトっぽいですし、西洋の「和声」や「楽式」の概念が入ってきたばかりの日本で、それに習って曲を書いた人というイメージが強いです。山田耕作もそんな感じですね。もう既に西洋では12音技法や無調などが台頭し、そのような作曲スタイルが時代遅れになってきた頃に日本で流行り始めたというか、そんな感じだと思います。

逆に武満徹の作品こそ日本的な精神に則っていると思います。
有名どころでは尺八と琵琶の協奏曲である「ノヴェンバーステップス」について作曲者は「東洋の音を五線譜で表すことはナンセンスである」ことや「音律などに関する日本人の音楽観の復興」などについて述べています。
一音の伸ばしに美を追求することや、西洋では排除される「ノイズ」や「間」に音楽を見出すところなど日本的なセンスだと思います。
同様の傾向に西村朗がいると思います。似たような旋律を少し時間的にずらしてあわせる「ヘテロフォニー」という手法を前面に押し出したり、彼の作風は明らかに東洋的な概念によっています。

坂本龍一はポップスの曲が多く、それ自体がクラシックの考えとは全く異なるので、武満や滝廉太郎と同列に並べることが違っていると思います。しかしながらポップスはそのものが西洋的概念です

初めの質問に戻ります
>日本の音楽って、主旋律重視と言う感じがするのです。いかにメロディで表情を豊かにするか、が最も重要視されていて、極端な話あとはそれほど重要ではない、という。

そうですね。「主旋律と伴奏」や「和声と対位法」という概念自体が西洋からの輸入です。日本には古来より旋律は1本しかありません。それか一音の伸ばした音だけです。

>対して洋楽系統は、もう少し全体的な雰囲気を重視させる気がします。エンヤなどは日本人好みのテイストではあるけど、久石譲などと比べるとやはりそれほど主旋律は自己主張しませんよね。(BON JOVIなんかは主旋律重視の気もしますけど)

ポップスにおける「邦楽」「洋楽」と本来の意味の「東洋」「西洋」の意味をごっちゃにしています。それらはまったく異なるものです。

とりあえずコメントしますと「全体の雰囲気」=「調和」と捉えるならばそれは正しいです。西洋音楽は縦のライン(=和声)と横のライン(=対位法)、全体の構造(=楽式)等の要素ををいかに調和させるかを考えて作られています。とてもシステマティックなものなのです
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。並びにお礼が大幅に遅れてしまって申し訳ありません。

専門的な分析、とても参考になりました。『わかりやすい旋律=邦楽』ととらえるのは間違いなのですね。私は音楽の学術的なことに関しては素人知識しかないので、おぼろげながらにしか理解できないのですが、少しづつわかってきたような気がします。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/09 08:19

日本人がハーモニーをつけるようになったのは、明治以降に西洋音楽を教育にとりいれるようになってからだと思います。

合唱・合奏するときでも、ユニゾンが基本だったはずです。
それまでハーモニーらしいのは、雅楽での笙の演奏とか、琴、三味線、声明くらいで、それも4度や5度のハモリ中心ですから、歴史のちがいと言えるのでしょう。

声明が、グレゴリオ聖歌ほどにハーモニーへ影響しなかったのは興味深いです。

英語と日本語では、ハーモニーをつけてローングトーンを歌うとき、英語のほうが音の変化が楽しめて、コーラスが気持ちいいように感じます。

「ナーゼー」とコーラスするより、「WHYー」のほうが連続変化して楽しいです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>日本人がハーモニーをつけるようになったのは、明治以降に西洋音楽を教育にとりいれるようになってからだと思います。

そうなのですか。浅学なので良く分からないのですが、武満徹や坂本龍一はそのイミで言うと革新派、ということになるのかも知れない、ということなのでしょうか。

逆に滝廉太郎などは、もうバリバリの和風スタイルですよね。考察してみると面白いです。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/26 22:50

色々な理由があると思いますが、



●民族性
欧米は日本人に比べ複旋律つまり同時に多数の声部が進行する事を聞き取る能力がに勝っている。和音感覚も向こうの方が強い。
日本人は単旋律で育って来た民族。近年まで和音の概念すら希薄でした、もちろんこれはアジアや中近東にも言える事ですが。

よってもともと主旋律にどうしても耳が行きやすい。そもそも伴奏なんて聞いていない(笑)

●作り手側のスキル。サウンドの充実度
ポップミュージックにおいて主旋律だけでなくアレンジ・サウンドに関する歴史、ノウハウは欧米が上。日本はその後を追いかけている傾向にある。最近やっと追いついて来た。

●リスナーの注目度
しかしまだまだ日本のリスナーはバックのアレンジ・サウンドにまで興味が行かない。
これは映画を見慣れない視聴者が映画自体のストーリーや主役の演技だけに注視しすぎ、脇役の演技,背景の美しさ、カメラワーク、タイトルバックのセンス、エディットの上手さ、などになかなか目がいかない現象に似てる気がします。
「ここのギターが格好良い!」「このリズムセクションが良い!」と思う一般リスナーはまだまだ少ない。

●センス、指向の違い
日本人の音楽、とくに歌もの曲に関する美意識は「絶対的なメロディーと歌詞,覚えやすく、強烈で,耳に付いて離れないキャッチーさ」を求める傾向にあります。
欧米人はあまりそういう要素が強いと気恥ずかしく、ミュージカルのようで大仰だと感じるようです。


最後にエンヤとマライヤキャリーを個別に語りましょう。

●エンヤは主旋律のはっきりしない,広く言えば環境音楽的、ヒーリングミュージック的。ヒーリングミュージックの歴史はまだまだ日本は浅く、
ヒーリング的な要素を持った唄ものとなるとまだまだ日本ではメジャーではない。レイハラカミやコトリンゴなんて日本人だけどかなりサウンド重視ですよ

母国語が乗るとその言葉の意味を追いかけようとし、「環境的」にはならなくなる。
ちなみに日本語の唄ものは受験勉強のバックには向かないそうです。


●マライヤのようなものは「与えられたストレートメロディーをどんだけ自分なりにコブシを利かせ,フェイクして歌うかが勝負」的な所があります。ルーツがブラックですから。
マライヤの「ウイザウト・ユー 」なんて原曲のメロディーが分からないくらいフェイクしまくりです。
ところが原曲はとても日本人好みのメロディー重視の曲です。
っていうかマライヤの曲って結構メロディー重視だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

丁寧に教えて下さり、ありがとうございます。

私的にはどちらも帯に短し襷に長し、という感想を持つことが多いのですね。超情緒的なメロディーを謳う邦楽を聴くと確かに照れくさくなってしまう一方で、かと言って洋楽ばかり聴いていると重厚な反面『もう少し分かりやすくてもいいかな』とか思ったり(笑)。足して二で割ったくらいが丁度良いと個人的には思うのですけど、流石にそういうのは中々ないですね…。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/10/26 22:45

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