あなたの習慣について教えてください!!

 関連して≪謙遜の意味≫、≪謙遜の意味━2≫を質問させていただいております。
 謙遜の実践は、無原則に何かの大きな権威に頼る、それを自分の合理化に使う、ということとはどうしても反しますよね。

 特に宗教などでは
   他の宗教や信仰に対する場合
   或は異端や独自性、個人性にする場合
   小さな虫さんや生命、それらの背景にする場合
 そして宗教というのは
   誠実であればあるほど、教えには謙虚にしていくと同時に、個人性やともすれば異端性は避けられないのではありませんか?
   素直と同時に、異端というか、独自性になる悩みはあるのではないでしょうか。そんなことはありませんか?
   宗教って団体性になじまないと存じますが、いかがでしょうか?
   宗教的なかかわりって、全く個人の次元を基本にした事項ですよね。
   宗教組織のの内部的論理や見方は外部的にはどう差し控えるのでしょうか。どんな態度が許されるのでしょうか? 
  ひいては、イギリスやその他のキリスト教国、キリスト教文化圏などの国家の宗教、民族の宗教というのは、このことではどんなことを自分に課したらいいのでしょうか?
 
 そして私達日本人も、民族的宗教心情や心性は無視できませんよね。
 こういうことについてどうか断片でも、随筆でも、そして所感でも結構なのでお教え下さい。

A 回答 (5件)

 No.4です。


 ぶっきらぼう過ぎましたか。

 マタイの一節は 別のほうのご質問(謙遜)への補足をいただいたものに対応しています。

 自分で 自分が 良貨であるとは たしかに 言いにくいと思いますが。わたしは 思っています。

 墓石をきれいにしたり周りを掃き清めたりするというのは その偉人の魂を受け継ぐというよりは その讃歌を歌っているという場合です。その声は 一般に 大きいと思います。無難な感じでもあるんでしょうか。悪貨ではなく より少なく良貨であるように思えます。

この回答への補足

 マタイの一節は、パタンジャリのヤマ・ニヤマの精進につうじるのでしょうかね。何はともあれ、ちゃんとした日常をきちんと足を構えて、するのは基本だ、という。汝為すなかれ、と、汝為せ。ということでもあるのですが。

補足日時:2008/01/17 10:03
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この回答へのお礼

 bragelone様
 これはよくわかりました。ありがとう御座います。
 
 このご回答自体全体が謙遜の雛形ですので。
 わたしはそんなには及べないんだの思い謙遜と命名したいと存じます。

お礼日時:2008/01/16 07:48

krya1998さん こんにちは。



★ 誠実であればあるほど、教えには謙虚にしていくと同時に、個人性やともすれば異端性は避けられないのではありませんか?
☆ ここに反応しました。これは 《悪貨は良貨を駆逐する》という法則のことではありませんか。
 過去の偉人たちを貴ぶのですが 意地悪くいえば せいぜい墓石を白く綺麗にしたりその周りを掃き清めるというあり方に成りがちです。
 良貨は――と言った時点で もうわたしは 謙遜ではなくなっていますが もともと脳天気ですので つづけますけれど―― 謙遜でいても 声の大きい側によって隅へ追い遣られますし 少々 声を張り上げるならば それ見たことか やはり同じ穴のむじなではないかと やはり蔑まれるのが落ちです。
 どうしましょう?

 なお さらに謙遜でなくなろうとすれば マタイの一節で

   だから あなたが祭壇に供え物をささげるとき 兄弟が自分に何か
  反感を持っているのを思い出したなら その供え物を祭壇の前に置き
  まづ行って兄弟と仲直りをし それから帰って来て 供え物をささげな
  さい。
   (マタイ その段落としては 5:21-26)

を思い出しました。ぶっきらぼうも 生来の性格のようです。

この回答への補足

 ANo.5をこれから拝読します。有難う。
 《悪貨は良貨》のお話は、自分を持することの一環としてのちゃんとした生き方のことかと存じておりました。それであれあば、私達の教えでもいわゆるパタンジャリの八段階に最初の基本基礎は、顕教的なヤマ・ニヤマという生活の基礎的整えという実践です。

 マタイ:はそうやって生活関係で問題をある程度は、問題のないようにすることは、ある程度はこころがけなければならない。

 そういうことが基本だよと、brageloneさんからのお諭し(おさとし)なのかなと、ぞんじておりましたが。
 これからANo.5をよく拝読します。

 

補足日時:2008/01/16 07:35
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この回答へのお礼

 bragelone様 こんにちは。たびたび有難うございます。
 仰るような、ご信仰もあるのですね。
 私は、やはり都合いいところだけとって、勝手に自分のやり方をしている、《良貨を駆逐する悪貨》するやり方をしていることいなるのでしょうか。

 ここでどうして、墓石の掃除や声の大きさ。そしてマタイのこの部分が出てくるのか全く、頭の回転が利きません。

 関係がわかりません。ぶっきらぼうはお互い様ですね。
 

お礼日時:2008/01/15 17:29

私のような俗物にはkrya1998さんのお悩みは理解しがたいようです。


アドバイスできるとすれば、たぶん見るべき所のピントがずれてしまったんじゃないでしょうか。
それゆえ観念的なことにとらわれるんじゃないでしょうか。

この回答への補足

 観念的、・・という感じがありますか。
 もっと実践的で、挺身していかないといけませんね。
 頭より、きちんと歩むことからね。

補足日時:2008/01/17 10:06
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この回答へのお礼

 shift-2007様
 度々ありがとう御座います。
 我々のラージャ・ヨガのグルデヴァのお一人であられるイエス・キリストも多くの方には今は、息の呼吸での肉と身で御語りになられないと、結局は語られた文章やことば、そうだとされるもので私達は精進してまいります。
 ここに解釈と運用という手が、常人には入るのはやむを得ないことです。そして精進や生活はどなたもみな同じで、個別の差はないのですが、個別の指導を、常人に不可視のイエス・キリストからは受けるのは難しくなっております。受けていてもそれと気付くことができにくい。
 そして文章やことばとして残るもののかい、文理解釈では応じきれなくて、曲解か、勝手解釈、逸脱解釈ではないかと、危惧するものです。
 そういうことが異端や違反までもいかないとしても、分派的ではないかと危惧するのです。
 そういう類でして、ひたすら本心からの誠意性と誠実をささげていれば、どうこうの悩みはございませんでしょう。
 欧米などを経由してのキリスト教しか、普通は接し得ないのですが、これも宗教のひとつですから、いいのですが、不審なことが山とあり、そんな少しずつの逸脱の歴史かもしれませんね。
 私達はそれに捉われないように、勉強しているつもりです。
 直接にはヴァガヴァン・クリシュナからの系譜として。
 http://www.yogananda-srf.org/

お礼日時:2008/01/15 07:42

>周りのどんな森羅万象、万物にも思っている状況でしかありません。



異端についてもう少し噛み砕いてもらえないでしょうか。
特に上記の部分が分からないのですが。
自分自身の中に自負というプライドが無いのなら、何が問題なのでしょう?

この回答への補足

 異端の説明は難しい。
 正統の対義語でしょうか。
 その教えの基本原理には叛かない場合と、それさえ覆す場合とありましょうね。
 私は基本原理にしっかり自分を生きようとすると、教えの全部の細かいことには、拘りきれない。遵守できえない。
 これは人間の個性性のなせるところで、多少はしかたないのでしょうね。
 だから程度の問題かもしれませんね。
 しかし、気持ちは悩むのですよ。

補足日時:2008/01/14 17:46
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この回答へのお礼

 有難う御座います。
 遵守が難しいと、勝手にゆるくしたり、解釈しましてね。
 個性化しなければいけないのだから、異端と分派は世の慣いなどと
勝手なことをほざいているようですね。
 階段というか坂道を上るには、迂回も仕方ないかなと、自己眺めながら、勝手に許容しております。
 話は少し違うのですが、・・・。
 正統にしているとか、異端や分派だという自己への意識を欠いて、いわば、壁と差別感。そして中華思想的。そしてかの ​http://kikitai.teacup.com/qa3641295.html​ ANo.8 cyototu様のお話などの行為や観念の持ち方は、むしろ異端や分派での差別や壁もなく、権威性みたいな、正統性みたいなものに寄りかからない仕方のほうがいいのではないかなと、存じますが。
 壁の外と中、同じ囲炉裏、同じ釜の飯。
 これは定住や統治組織の誕生からでしょうか?人間の性(さが)ですか。
 来訪神の歓待。これはどうでしょうか?世界のどの国にもある風習ですね。旅人もそして遍歴の方々。そして遊行など、その他求道に喜捨するとか。
 婆子焼庵の公案の例も、その中の一つの事件かもしれませんね。

お礼日時:2008/01/17 10:24

質問の意図を理解しているか自信がないのですが、


そもそも自分を日本人、キリスト教徒と呼ぶ必要があるんでしょうか。
つまり、何かの団体に属したり、自分にレッテルを貼る必要があるのかなと思います。
例えば、人を愛する為に洗礼を受ける必要があるんでしょうか。

神であれ国家であれ、一体化というのは結局、主従関係でしかないように思うんですが。

この回答への補足

 呼称もレッテルも無用でしょうね、本当はね。
 
 国家や人間組織というのは地上の人間集団の統治権力ですから、個人を越えますね。とことんでは、そして基本と基底ではいやおうを許さない、権力関係ですね。
 神と具体的個人は、どう構成しても主従でしょうね。本質において。
 創造、維持、溶解をしている主体たる意識ですものね。
 主従の意味がちがうとしても。

 両方の。この主従性に目をやらない、目を敢て背けていっても実態は変わらないですものね。

 確かに。的団体に属するとか、faith性とかいうことは第二義的ですね。
 ここらが、だから、・・・。とそして。しかし、・・・。
 となりますね。

 以上は、信仰の外での一般的な知的な演繹での話ですが、信仰とはそんな論理ではないもののようです。グルは絶対ですから。
 そしてグルだけが神との介在が可能なのです。
 これが信仰でしてね。実際そうだとしか思えないでおりますよ。
 あまりでかいことは控えるにしても、ささやかな幾多の試練や経験から、そのように思えるのですが。
 だからレッテルや属し、これが問題ではないのです。
 勝手か、背いていないか。これは大事です。
 団体に異端や分派なんて、への河童です。神とグルが許せば。
 しかしそうはいかないのが信仰です。団体により神とクルは私達を指導しているのですから。
 理知の演繹の問題ではないのです。盲目でもないのです。
 意識対象と内容のない、意識自体の問題です。

補足日時:2008/01/17 10:37
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この回答へのお礼

 shift-2007様
 有難う御座います。仰せの通りです。
 現実はそうは行かないとところが、悩ましいですね。
 
 私のいう異端は、どの境壁、信仰・主義・統治の境壁にも入ってなんとかということではなく、僻地でもどこでも、ひとしずくの雨滴、そして野の草、小さな石、片隅の空気。と自分をも、周りのどんな森羅万象、万物にも思っている状況でしかありません。
 この三点の質問ご回答の自負というおことばも戴きましたが、実は私には、森羅万象、どんなもの、人、そして万物に何も自負がない。
 そんなものがないのです。

お礼日時:2008/01/14 08:05

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