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小学校はいいとして・・

中学校、高校は、
半年後とに自分の好きな教科を、選択できるんです。
時間的に可能なら、何教科でもOK。
体育だけでもいいし、全教科でもいい。

授業料の問題はここではおいといて。

私は、いくら体育が好きでも、
よほどの才能が無い限りは、(あっても?)
体育だけを選択するようなことは、だれもしないと思います。

なので、能力に著しい偏りが生じることは無い、
と、私は推測するのですが。

デメリットは、能力の偏り。
メリットは、勉強意欲の向上。など。

どう思いますか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3802893.html

A 回答 (14件中1~10件)

>“共同体が構成員に要求する最低限の知識”


>を学ぶのは、中学一年時まででいいと思いませんか?
 この発言の前に質問者様は

>構成員全員に必要な知識など存在しません。
 
 と仰っています、まずご自身の意見を明確にすべきでしょう。その上で質問にお答えしますと現在の中学一年生までの学習範囲だと、国語なら大人向けの書籍を読むだけの常用漢字も、数学ならようやく論理力の訓練としての意味合いが出てくる関数や証明問題も学べず、英語に至っては僅か一年のみのそれだけでは殆ど意味を成さない学習になってしまいます。

>根本的に、中学二年以降に学ぶ知識が偏ったところで、実生活に支障がでるような致命的欠陥にはならないと、安易に思っているから(周りの大人の発言から)です。
 “周りの大人の発言”がどのようなものかはわかりかねますが、ろくに本も読めず、論理的に物事を思考する訓練に欠け、外国人に道案内をする程度の英語も話せず、有権者として持つべき社会に関する知識もない国民で国が溢れればこの国がどのようになるのかを想像するのはさほど難しくないと思います(今の日本人の知的水準が望ましいものであると言うわけでもありませんが)。


>有効な選択、という定義はなんでしょうか。
 その後の人生がより幸福に送れる可能性が高くなる選択、という所でしょうか。例えば中学2年生でサッカー選手になる事を夢見ている少年が授業時間を全て体育の授業に当てて高校までの5年間を過ごし、サッカー選手になれなければ(大抵の人間はプロにはなれません)彼がそこから取れる将来の可能性は大分限定されてしまいます。これよりは部活でサッカーを継続しながら授業でも最低限受験勉強をすることが可能な程度の知識を蓄積するほうがリスクが分散され有効な選択たりうる可能性が高いでしょう。

>大学卒業まで、自分の嗜好、目指す職業を探す猶予がある。
 揚げ足をとるようでなんですが就職活動の準備を始め3年生中頃まで、という方が一般的ですね。

>それならば、たとえ短い猶予でも、真剣に考えること
 “完全”選択授業を行う事と、子供たちが自分に何が必要なのかを考える事の間に明確な関連性が説明されていません、補足をお願いします。

>全体の利益の追求は、個人の利益の追求に他ならないと考えます。
 一つ単純化した例を挙げてご説明します。日本企業が海外に工場を建てるよく見られる事ですが、これは海外の労働者の賃金が日本人のそれよりも安いからです。つまりこれは一企業という“個”にとって利益になる事です。では日本の全ての企業が全ての労働力を外国人労働者に頼ったとしてそれは“全体の利益”になるのかというと話はそう単純ではありません。仮にそのような事が行われると全ての企業が日本人を雇うことをやめてしまうわけですから、日本人労働者は収入を失ってしまい日本全体にとっては甚だ不利益な事になってしまいます。またそれは企業も生産したものが買ってもらえなくなるということですから回り回って個の不利益すら招きかねないのです。このように個人の利益の総和が必ずしも全体の利益になるわけではありません。


>今の教育は過保護だと思います。
 それは完全放任主義を肯定する直接的な理由にはなりません。
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> 無用の用、知らなかったです。


あきれてものも言えないとはこのことですね。理解していないとは思ったんですが、まさか知らないとは。そんな程度の知識で教育を語るなど、富士山にも登ったことがないのにエベレストに挑むようなものです。

> というか、そんなこと言ったら、
> 「この世に無駄なものは何も無い」、に近い。
案の定ですね。そんな程度の理解しかできないから、学校教育の何たるかも理解できないんです。
あなたが知るべき言葉としては、「無知の知」という言葉もあります。これも、さぞかし面白い解釈をしてくれるかもしれませんが...ただ、忠告しておきますが、これ以上恥はさらさない方がいいでしょう。

> 古文と経済はどう関係しているんですか?
> 検討もつかない・・。
やれやれ...ま、ごくわかりやすい例を挙げましょう。
経営者の書いた本とか、講演とかを聞いたことありますか?必ずといっていいほど、何か故事を引くものです。「無用の用」さえ知らないようでは、彼らの話は理解できません。ま、これは漢文ですが、古文でも同じことです。古典(古文)を読んだこともない、読めないような人には、彼らの話は理解できないし、彼らも相手にしません。あなた程度の知識では、それなりの会社なら、社長訓示程度でも理解できないでしょうね。まして、経済の勉強などには差し支えること請け合いです。

一番大事なことは、私がすでに指摘し、あなたも認めているように、中学や高校レベルで、自分の将来を決定できるわけはないということです。すなわち、自分に必要な知識が何なのかわかるはずもないのに、それを完全な「選択制」にしてしまおうということ自体、大きな矛盾なんです。

もっとわかりやすいことを言いましょうか。あなたのような人の存在自体が、中学や高校での教育で、選択の幅を広げられない理由そのものです。あなたのように、自分の無知を棚に上げて、大人の助言も受け入れず、「無用の用」の意味も理解できないような人間を養成することが、学校の存在理由ではないのです。

> そうですか・・?
> 結構いい手ごたえを感じているんですけど・・
> 能天気なんですかね。
おそらく、単に国語の読解力の問題でしょう。
では、補足を求めましょう。あなたの構想に対して、ポジティブな「回答」は、No.1~12のうち、何件くらいだと思いますか?
これは、あなたに回答する上で、どのように回答すればいいのかを理解するために重要です。私は今まで、あなたの読解力は人並みなんだと仮定していたのですが、その仮定自体が誤りだった可能性が高まりましたので。それにより、私もあなたに回答する方法を改めるでしょう。あるいは回答自体をあきらめるか。(地震はナマズが引き起こすんだと思っている人に、現代の地震予知研究のことを話すようなことは、それこそ無駄ですからね。)
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>無論、漢文の授業も選択式にすべきです。


>やりたくない人にやらせるほど、役に立つ授業では無い。
また、
> 商業や経済を学びたい人が、古文や三角定理を学ばなければいけないのです。
> それは非効率的だと思いませんか?
と仰っていますが、

役に立つかどうかという、技術や手段の話をしていて、
何をすべきかという、目的の話をしていません。

やりたいから、楽しいから、といった基準をもってして、
なんでもありにはできないんです。

やりたいこと、楽しいことにも色々ありますから、
なぜやりたいのか、どう楽しい(つまり、充実している)のか、
そこが大事だというのが、目的の話です。

そこの話をしないでおいて、既に決まっている目的のために、
しかもその理由が、やりたいから、楽しいからというだけの目的のために、
役に立つかどうかの話をしていても、そこから目的はでてきません。

例えば、町内の清掃というボランティア活動について考えを巡らせてみてください。
ゴミ拾いなんて誰でもできるんです。寒いから関節がちょっと痛むねーなんて言いながら、
(語弊があるかもしれませんが、身体能力の低い)年配の方がやってたりするんです。
(ゴミ拾いに参加すればいい、という話では決してありません。)

別の例としては、最先端の科学を研究しても、そこからその研究の目的は出てきません。

技術や能力がなければ、人の役に立てないとお考えなら、それはなんともさびしい限りです。
また、必要な技術や能力が備わっていても、それを使わないということもあるわけです。

学校教育は目的に関わる問題も取り扱っています。技術や手段に関わる問題だけではありません。

質問者さんが、古文や漢文、三角定理の学習をされたくない、嫌だ、
といった以外に仰りたいことがあるようには思えません。

やりたくない、そしてやりたくないことはやらないのであれば、
できる限りやらないで済ませるしかありませんね。
商業や経済を学ばれたいのなら、どうぞ思う存分、授業外になさって下さい。

やりたいことがある、楽しいことがある、というのは、
様々な可能性を秘めている状態であるとしか言えません。
だからこそ、学習する側に、学習内容を一任することはできないのです。
やりたくなくなったから、やらない、楽しくなくなったから、やらない、
といった判断基準へ、学習内容の最終的な判断を委ねることはできないのです。
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この回答へのお礼

>質問者さんが、古文や漢文、三角定理の学習をされたくない、嫌だ、
といった以外に仰りたいことがあるようには思えません。

そうかもしれないですね。
口ではみんなのためとかいいながら、
実は自分のため?
とはいっても、私はもう学生じゃないし・・・?

やりたいことやらせてあげたいですよねー・・。
社会にでたら、やりたくないこともやらなきゃいけない。
学生の間くらい、好きなことやらせてあげたいよ。

働いても幸せになれるわけじゃない。
金があっても、地位があっても。

だったら、好きなことやればいいじゃんか。
安定が幸せだと思う人は、全教科学べばいい。

なんてね。
係累ができたら、そんなこともいってられないか。

お礼日時:2008/03/02 19:57

> 高校生だって(大学生だって?)将来のイメージなんて持ってる人がどれだけいますか。



だ・か・ら、高校でも大学でも「必修科目」ってものがあるんですよ。

個々人が自分の将来を性格に完全にイメージできるなら、あなたの言うような制度もありえます。ですが、それは無理というもの。だから、将来のイメージが固まってゆく度合いにあわせて、少しずつ選択の余地が増えてゆくのです。

> 私たちの知らない、思想の及ばない場で決められたことが、
> 私たちの生活を拘束している。

だから、そう思うならあなたはあなたで「意見」を言えばいい。
でも、ここでの「回答」をみれば、それは、到底『社会』に受け入れられるようなものではないことはよくわかったでしょう?あなたの意見が容れられないのは、単にあなたの意見が傾聴に値しないから、ってだけのことです。

あなたは要するに「オレ様」ってやつで、自分を物差しにしてしか物事を判断できないのでしょう。あなたの持つ、短い短い物差しでは、こういう社会のあり方にかかわるような議論にかかわるのは、そもそも無理なんです。

あなたは「守株」という言葉を持ち出しましたが、あなたの言っているような議論は2~30年前からずっと言われているけれど、やってみたらうまくいかなかったから「最近は」だれも相手にしない議論なんですよ。株にしがみついているのは、誰が見たってあなたの方なんです。

漢語の知識云々というなら、あなたは「無用の用」と言う言葉も多分理解していないんじゃないでしょうか。それを知っていれば、あなたもこんな「質問」に時間を割かないですんだんじゃないですか?

> 商業や経済を学びたい人が、古文や三角定理を学ばなければいけないのです。
> それは非効率的だと思いませんか?
冗談じゃない。
いまどき、商業や経済を志すものが、古文や三角関数を学んだこともなしに勤まるとでも思ってるんですか?

そんな、何もわかっていないあなたが出した「折衷案」とやらに対する私の意見は、どこが「折衷」案なのかわかりませんが、「論評に値せず」です。

まずは、少しは大人の言うことを聞くことです。
人の言うことは聞かずにオレの言うことは聞け、まさしく子供の駄々ですね。
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この回答へのお礼

>到底『社会』に受け入れられるようなものではないことはよくわかったでしょう?

そうですか・・?
結構いい手ごたえを感じているんですけど・・
能天気なんですかね。

物指し?
では長い長い物指しを持っている人を教えてきただけませんか?
指標にしたいので。

>やってみたらうまくいかなかった
何を目的に「やった」んでしたっけ。
そして、何をもって「うまくいった」と判断し、
何をもって「うまくいかなかった」と判断するのですか?
私の物指しでは短すぎて、それを決めることが許されないようですので、教えてください。


無用の用、知らなかったです。
というか、そんなこと言ったら、
「この世に無駄なものは何も無い」、に近い。
教育に哲学を持ちこまないでください。
あなたの回答を見ていると、中学のときの教師を思い出します。
哲学とか教育論とかよく持ち出していた。
嫌なこと思い出させないでください。

古文と経済はどう関係しているんですか?
検討もつかない・・。

周りに、あなたのような大人ばかりいるわけではないので。
子供は時代の縮図ですから。
知ってください。

お礼日時:2008/02/29 13:14

昔の人は良いことを言っていますね。


「思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」
自分ひとりで考えるばかりで学ぶことをしなければ、独り善がりになって危険だ。2500年以上前の人の言葉です。

こういう言葉がスラッと出てくるのも、そして
「あぁ、それは論語の言葉ですね」
「そう、孔子です」
「確か前段がありましたよね」
「はい、学びて思わざれば則ち罔し、です」
と知識が共有できるのも、みんなが同じように(この場合は漢文ですが)学んだ成果だと思いますよ。
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この回答へのお礼

韓非子中に、「守株」がありましたよね。

いたずらに古い習慣を守って、時に応じた物事の処理ができないこと。

少なくともこの言葉だけは、時代を越えることができると思いますね。

ことわざやなんかも、今の時代では当てはまらないものがありますからね。


無論、漢文の授業も選択式にすべきです。

やりたくない人にやらせるほど、役に立つ授業では無い。

お礼日時:2008/02/28 11:58

少し言い方が悪かったかもしれない。


物事を判断するには、主体性を持つことと同時に、きちんとした見識が必要。主体性を持っているだけでは意味がない。ただ、主体性形成によってそうした見識を深めようというインセンティブが増大するということは言えるので、あえて主体性ということのみを書いた。
中学生・高校生の判断なんて所詮ごく限られた見識と感情によってなされるものであるから、そこに頼って放任するのはマズいということがまず一点。つまり、見識がないというのは、すなわち盲目の状態であって、将来の方向性が盲目的決定によってなされるのは良くない。古文や数学は将来使われるかと言われれば、使わない人が圧倒的に多いだろうが、それを学ぶことを完全に選択制にしてしまうと、一時の限られた状況下における判断によって一生の可能性が大きく制限されてしまうということが起きる。もちろん、中学生・高校生が選択を行う時にそんな自覚はしてないので、それこそ不幸なことになる。もし主体性形成がなされようとも、また「選択は自業自得」という自覚を持とうとも、その判断は所詮かなり制限された見識によるものであるから、どちらにしろ不幸。だから、勉強に偏りを出していくのは、教養・見識を強制的に身につけさせた高校程度より後で良いのではないかというのが個人的考え。
ただ、主体性形成によってそうしたことへのインセンティブの増大がかなり期待できるという点は考慮する必要があると思う。しかしながら、同時に主体性形成にあたって教養が大きな役割を果たすということも見落としてはならない。
また、放任主義が主体性形成を促すということも一概に言えない。更に、一律の教育が主体性形成を阻害するというのも一概に言えない。そうした見識はある意味においてステレオタイプ的と言える。フロムの「自由からの逃走」のような逆説(この場合にあてはまるかは別の話だが、自由の持つ逆説のイメージとして好例なので例に出した)もありうる。つまり、「放任された時に皆真剣に考えるようになる」という前提を考え直す必要性を感じざるを得ない。そうした主体的行動のインセンティブとなるものが、意外と強制された学習であったりする。

正直なところ、自分が現在進行形で置かれている教育環境があまりにも特殊(つまり「自業自得」を生徒や教員のほとんど自覚しているような環境)なので、この意見が客観性を持ちうるかについては非常に怪しい。

結局は、将来の可能性を制限しかねないという点が大きい。その点に於いては強制的な学習というのは一定の効果をあげると言って間違えない。ただ、理想的環境において放任するというのも方法としてはある。しかしながら、その理想的環境は放任主義によってのみでは構築されえないという逆説があるのではないか。その点を考える必要があると思う。
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この回答へのお礼

見識がなければ、選択できない。
見識を与えるには、ある程度の詰め込み教育は必要。

結論。
全教科選択式は不可能。
(常識で考えるとそう)
___________________
(以下は私の勝手な考え)

詰め込まれる「前」と
詰め込まれた「後」では、見識の量もそうだが、
「質」が変わってしまう気がする。

詰め込まれる前の、「無知」に私はむしろ価値を感じている。
知識は、世界(視野)を広めるのか。
生半可な知識は、むしろ世界を狭める気がした。

学校は閉塞的だ。
社会の縮図といいながら、まるで違う。
籠の中と外の違い。

抽象的な表現をするなら、学校と社会の境目をもっとなくさなければいけない。
(中学と高校がもっと、専門学校のように、実質的な資格やスキルを身につけられる場であってほしいが、公共の施設である以上は限界があると知る・・・)

お礼日時:2008/02/29 23:32

巻くっきりフリーに選ばせたらとんでもない能力の偏りになるでしょう。



最低限各教科何時間は取らないといけない。
その上で各専門的な事業は掘り下げてとることが出来る。
そのようなシステムならいいでしょうが、
まるっきり取らないことも可能というのは、「自分のしたくないことも我慢してする」ということが無くなりよくないと思います。
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この回答へのお礼

>自分のしたくないことも我慢してする

そんなもの、訓練しないとできないことですか?
我慢しなくちゃ生きられないのなら、我慢するでしょ。

あ、我慢と辛抱は違います。
我慢には目的がない。
辛抱には目的がある。

したくないけど、しなきゃいけない勉強。
どれくらいありますか。
四則の計算と読み書き、PCさえできりゃ、日本で生きていけませんか?

ごめんなさい。一方的に主張してしまいました。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/02 20:08

教育する側が、教えるべきこと/教えたいことと、


学習する側が、学習すべきこと/学習したいこととが、
合致しないからでしょう。

教育の目的は人格の完成にあります(教育基本法)。
学習する人間が、好きな能力を伸ばすことは目的とされていません。
もっとも、好きな能力を伸ばすことこそが、
人格の完成に資すると判断されれば、話は別なのでしょう。

ただし、歴史教育に関しては、必修になるかもしれませんね。

必修科目、選択科目などというと、大学での講義を思い出させられます。
みなさん、好きな講義とってましたか?
らくーな講義を調べて、とってましたか?
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この回答へのお礼

>、歴史教育に関しては、必修になるかもしれませんね。

神奈川のどこかの高校で、日本史が必修になりましたね。

うーん、、どうなることやら・・・
個人的には、歴史は嫌いじゃないし、意味もあると思うけど、
中には意味が無いと感じる人もいる。
意味を自分で作る人は今少ない。
社会から求められてるものだけに、意味を見出す人もいる。
歴史を知らなくても生きてはいけるから、
意味が無いと感じる人もいるんです。

そういう人の意思も尊重してほしい。

ここでの質問を無視して考えるなら、
日本史の必修化は半分賛成です。
残りの半分は、
必修にするだけでは、意味がないからです。
なぜ必修にするのか。という「意味」の部分を、
社会は尊重しない。

学校と企業が、お互いのことを理解していません。
というより、
学校と企業を近づけようとする人がいません。
それはむしろ悪だと思ってる人がいる。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/02 20:20

>構成員全員に必要な知識など存在しません。


それは質問者様の個人的意見です。少なくとも日本政府はそう考えていませんし私の知る限り一般常識として義務教育はそのように認識されています。あえて付記するのであればこの場合における最低限の知識と言うのは“個人が自身に求める最低限の知識”ではなく“共同体が構成員に要求する最低限の知識”であるということです。現在の教育内容が最善であるとは思わないし、必要な変更はなされるべきでも最低限のラインを保障するが必要であることに変わりはありません。

>折衷案として、中学一年時は、今と同じ必修科目を学ばせる。
>中学二年もしくは中学三年からは、すべて選択性に移行する。
>というのはどうでしょう?
 より現実的なプランという意味であれば選択科目の枠を増やしつつ必要最低限の必修科目を確保するほうがいいように思います。なぜ質問者様は全ての、部分的ではない、決定権を子供に委ねなければならないとお考えになるのでしょうか?

>猶予を与えれば子供たちは自分で有効な選択をできると思います。
 なにか具体的な根拠はあるのでしょうか?私個人の感想としては自分の適性や嗜好も定まらない思春期の子供たちに有効な選択をさせる事はきわめて困難なように思います。


>少なくとも、その一年間、「今の中学一年生」とは全く違う視点で、勉強に臨むと思います。
 それは仰るとおりなのかもしれませんが、
・ただ楽な履修を選んでしまう子供たちが出てきて将来に有効な履修を行った子供たちと比べて埋めがたい差ができてしまいかねない事
・必修科目がないので統一的な学習進度の確認が難しく受験システムの構築が困難になる事
・個人の為の教育以外にも社会の為の教育と言う公教育の機能が果たし難しくなる事
などのデメリットを考えるとわざわざ全科目を選択性にしなければならに程の理由が浮かびません

>折衷案を使えば、この問題も解決ですね。
 中1までの内容で浅く広く学べると認識されているのなら仰るとおりです。

>「好き、嫌い」で判断していないし、そのために変革を望んでいるわけでもありません。
 失礼しました、文脈から誤解してしまったようです。

>学校は楽しくても、「勉強に疑問を抱く」生徒はいますよ。
 現状を是としているわけではありません、しかし質問者様の案は現在のシステムより多くの深刻な問題を抱えかねないように思います。
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この回答へのお礼

“共同体が構成員に要求する最低限の知識”
を学ぶのは、中学一年時まででいいと思いませんか?
つまり、義務教育を7年にするという構想。


>全ての、部分的ではない、決定権を子供に委ねなければならないとお考えになるのでしょうか?

根本的に、中学二年以降に学ぶ知識が偏ったところで、
実生活に支障がでるような致命的欠陥にはならないと、安易に思っているから(周りの大人の発言から)です。
その前提の上で、すべてを委ねようとしているのです。
私が子供を買いかぶっていることにも原因があるのでしょう。

>自分の適性や嗜好も定まらない思春期の子供たちに有効な選択をさせる事はきわめて困難なように思います。

みなさま、やはりそう思うそうなので、
もっと説得力のある根拠などを考えますね。
(有効な選択、という定義はなんでしょうか。
大抵が、学歴による収入の差を考えて、半必然的大学に行く人たち。
いってみれば、大学卒業まで、自分の嗜好、目指す職業を探す猶予がある。明確な目標を持って大学に行く人は少ないと思います。
結局は、いくら時間を与えようと、その時間の価値が低ければ、惰性で生きることにつながる。
それならば、たとえ短い猶予でも、真剣に考えること、
未来も大事だけど、今、自分に何が必要なのかを考えてほしい。
そう思います。)

>社会の為の教育と言う公教育の機能が

全体の利益の追求は、個人の利益の追求に他ならないと考えます。
今の教育は過保護だと思います。
勝手な思い込みですが・・。


もう少し案を練る必要がありますね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/05 10:25

現在でも、中学や高校の課程には選択科目と必修科目とがあり、生徒の側に「選択」の余地はあります。

逆に言えば必修の科目とは、中学、あるいは高校において、最低限身につけておくべき、と判断された科目であり、「選択性にすべきではない」という判断が下されたものです。だからこその「必修科目」なのです。

もちろん、必修と選択との見直しは定期的に行うべきものだし、行われています。その選択について意見をお持ちということならば、それはそれで「意見」すべきものでしょうが、そもそもすべてを選択にしてしまうということは、選択にすべきか、必修にすべきかという「検討」自体をしていないことを意味するわけで、まず説得力がありません。それを生徒の側に押し付けてしまえば、結局のところ混乱を招くだけでしょう。

そもそも、学習する内容が有用か無用かというのは、ちゃんとその知識を身につけなければ理解できないわけで、学習する前にそれを選択するというのは、不可能に近いのです。政治経済に数学の知識は欠かせないし、数学には国語の読解力が必要です。現代社会において知識というのは相互に複雑に関連しあっていて、どれが必要でどれが不要かなんて、大人でもわかっていない人は少なくありません。
すべてを選択性にするというのは一見理想的に思えますが、中学や高校の個々人が自分の責任でそれを適切に選択できるということは、自分の将来を正確にイメージできるということであり、そもそもできっこないのです。だから仕方なく、それを多くの専門家が考えて議論して、今の必修と選択とを決めているわけです。

それに意見しようというのであれば、それはご自由でしょう。ですが、それにはそれなりの経験と知識がなければ意見自体できません。あなたにその自信があるなら意見すればいいし、受け入れられないのであれば、それはあなたの言っていることに説得力がないからでしょう。
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この回答へのお礼

だれがどこでいつ、
必修と選択を決めているんですか。
私たちの知らない、思想の及ばない場で決められたことが、
私たちの生活を拘束している。

>専門家が考えて議論して、今の必修と選択とを決めているわけです。

なにを議論したのか、少しは伝えてほしいです。
そうすれば、「何故勉強するのか」なんてくだらない疑問を、誰ももたずにいられるでしょう?

「強制」されている、
それだけで勉強に対してマイナスなイメージをもつ者もいます。
自分で選べる、
だからこそ「責任」が生まれるし、「楽しみ」も生まれる。
結果として能力の質が上がる。

>将来を正確にイメージできるということであり、

高校生だって(大学生だって?)将来のイメージなんて持ってる人がどれだけいますか。
持っていたとしても、そんなのたわいも無い空想でしょう。
イメージできるまで「待つ」ほどのものでしょうか。

半年毎に選択できれば、十分では?
そこまで甘やかさなければいけないの?
子供はそんなに愚か?

私には、「過保護すぎて、子供が可哀想」にしか見えません。

あと、下に書いた折衷案にたいする意見も聞かせていただけると助かります。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/28 23:38

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