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こんにちは。

「preaching to the converted」がなぜ「釈迦に説法」になるのでしょうか

A 回答 (4件)

こんにちは。

11/27のご質問ではご丁寧なお礼のお返事を有難うございました。

ご質問:
<「preaching to the converted」がなぜ「釈迦に説法」になるのでしょうか>

2つの解釈
(1)「説教に耳を貸さないから」
(2)「単に説得」
が考えられます。

1.「釈迦に説法」とは
「相手が熟知していて言う必要がないことの例え」
になり、それが転じて
「物事の理屈を意見をすること」
という意味で使われることもあります。

そこから、
(1)the convertedに言う必要がない→言っても無駄
(2)the convertedに理屈をわからせるよう説得すること
という2つの解釈が可能なのです。

2.この英文が使われている前後文脈にもよりますが、the convertedは「改宗した人」「改心した人」「(主義などを)転向した人」という意味になります。この語が使われている文脈によっては「洗脳された人」「~の信望者」などの意訳でも用いられます。

3.(1)の解釈では、一度宗教・考え・主義を変えた人を、説得してあらたに考えを変えさせるのは難しい、改心させるのは無駄、ということの例えとして、意訳で「釈迦に説法」を使っているものと思われます。

4.(2)の解釈では、一度宗教・考え・主義を変えた人を、もう一度説得して理屈をわからせよとすることの例えとして、意訳で「釈迦に説法」を使っているものと思われます。

5.ここでの「釈迦に説法」の具体的な解釈が、「説得は不必要・無駄」と言っているのか、「無理でもなんとか説得する」と言っているのか、いずれも、前後文脈から判断されます。

以上ご参考までに。
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この回答へのお礼

 Parismadamさん、素早い回答有難う御座います。
 いつもながら、理路整然とした説明で内容が分かり易いです。
 その博識さが羨ましいです、本当に有難う御座いました。

 ところで、NameのとおりParisからの発信ですか?

お礼日時:2008/05/27 17:41

Gです。

 もしかしたら説明が足りなかったと思いましたのでもう少し書いてみますね。 (I hope I will not be preaching to the converted.であれば良いのですが、もしもの場合を考えて書きますね)

もう買ってくれているお客さんに自社の製品を買って欲しいと説得している事に対してpreaching to the convertedと呼んでいるのですね。 他の会社の製品を買うことに決めた会社に自社の製品を買ってもらうように説得使用としている、と言うことではないのですね。 

そして、それをやっている人に対してお客さんはDon't you know you are preaching to the converted?と「もう我が社は御社から買っていますよ! 知らなかったのですか?」と言う風に使うわけです。 つまり、Are you so stupid? We have been already buying from your company!とざっくばらんに言っているのを避けているわけです。

やり方が分かっている人に横からやり方を教えようとしている人に向かって、You're are preaching the converted. 俺の尻がまだ青いと思っているのかよ、俺を何様だと思っているんだ、やり方を教えたいならやり方を知らない人に教えたらどう?なんていう表現のフィーリングを直接言わないでこの表現を使うことが出来るわけです。 どれだけ気を悪くしているかは口調によって変えることになりますので、「ちゃんと知っているから黙っていて」とか「俺にやらせておけば良いのさ」くらいの軽い表現ともなるわけです。

Am I now still preaching to the converted? <g>と言う風に言って、(笑)を入れて、「これで分かってくれたでしょうか」的な意味合いになるわけです。

改心した人に改心しろと説教しているような事さ、と言うせりふに似ているわけですが、その「直接の意味ではない」と言う事です。

なお、同じような意味で、To preach to the choir/quireと言う表現も使います。 
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この回答へのお礼

Ganbatteruyoさん、有難う御座います。

お礼日時:2008/05/30 08:48

アメリカに住んで40年目の終わりに近づきました。

 私なりに書いてみますね。

ここでは、実際に使われている意味合いを知る、と言うことが必要となります。 なぜならこれは「釈迦に説教」と言うように、一つのイディオムとして使われているからなのですね。

文法的に解釈しようとしても実際に使われている意味合いでなければその解釈はおかしいと言うことになるのですね。 これはお分かりですね。

good morningをどう解釈しようとも日本語での「おはよう」と言う挨拶として使われるイディオムなんだと言う事を知っていなければこの表現を理解している、とは言えなくなるわけです。

ではどんな意味合いで使われているかと言うと、

あなたに同意している人・人たちに同意させようとしている、と言う状況を示したり、もう理解している人にあたかも理解していない人にしゃべっているように理解させようとしている(進行形でよく使われます)と言う意味として使われるわけです。

両方とも似ていますね。 似ていますが、一つは自分に同意させようとしているけどその相手はもう既に同意しているのに気がつかない、と言う状況で、片方は、もう既に説得されていると言うのに気がつかないでまだ説得している、と言う事なのですね。

日本で一生懸命英語の勉強をいろいろなやり方で頑張っている人に、留学なんてしなくてもいいんだよ、と言う自分の意見に同意させようとすると言うことが前者ですね。 後者は、デートに誘っている時に相手は既にOKしているのにまだ誘っている、と言う状況を示している表現だと言う事です。

よって、確かに基は改心した人に改心しろpreachしたりすることに対していったのでしょう。 しかし今では「イディオム」として使われているのですね。 ですから、宗教的な意味合いはもうありませんし(釈迦に説教の基の意味合い的な用法はないと言う事です)、一度改心した人をまた違うように改心しようとしている、と言う意味合いでは使われていないのです。

ですからカトリックに改心した人をルーテル教会に変えさせようとしている、と言う状況で使われることはないと言う事です。

ですから、釈迦に説教の意味合いの「もう分かっている人にそれ以上言う必要はない」「もう分かっている人にそれ以上説得をしている」と言う二つの意味合いとしての表現として日本語訳が使われているわけです。 

私の書いたことをそのまま鵜呑みにするのではなく疑念の目で理解してください。 そうする事で、突込みが始まりますので、本当のことなのかどうかご自分でもいろいろなサイトを使ってチェックしてみるか、突っ込みをかけてください。

参考になりましたでしょうか。 分かりにくいところがありましたらどんどん突っ込んでまた書いてくださいね。
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布教・説教は、邪教の信者や不信心な人たちを真の信仰に目覚めさせるために行うもの。


既に改宗・改心して真の信仰の道に入っている人に対しては、あらためて布教・説教の必要はない

・・・ということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

d-yさん、有難う御座います

お礼日時:2008/05/30 08:48

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