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ハングルで書かれた公文書はずっとなかったそうですね。
いつ頃から出始めたのでしょうか?
また、ハングルで新聞を最初に作ったのは日本人だったとか。。
どなたなんでしょうか(福沢諭吉の弟子だったとか、、違うかな)
そして、それと現在のハングルを体系づけたのは日本政府だったとか、
どのようになんでしょうか。
分かる範囲で結構です。よろしくおねがいします。

A 回答 (4件)

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
福沢諭吉の弟子・井上角五郎が初めて漢字ハングル混交文新聞発行に大きく寄与し、
日本が置く朝鮮総督府が現代ハングル綴字法を制定したわけですね。

お礼日時:2008/07/06 17:45

ハングルで新聞 の御質問


 官報以外でハングルによる民間新聞は、「独立新聞」というのが最初だったと読んだことがあります。日本人については残念ながらよく知りません。独立協会という改革自主独立を啓蒙する団体が発行した新聞で、主幹人はソ・ジェピルという人です。

 ご参考までに、ソ・ジェピルという人は、1881年か1883年(1881年だったと思うのですが1883年と書いてある文もある)に高宗が送った日本留学生の一人で、東京の戸山陸軍学校で1年間留学します。この時、満18歳か20歳でした。金玉均と親しかったので、福沢諭吉と会ってたかもしれません。その後米国へ留学し、帰国。1884年、閔氏政権を倒すクーデターを金玉均たちと起こしますが失敗。一族皆殺しに遭います。大体は絞首刑。幼児だった彼の子も殺されます。20代前半だった妻は部屋に閉じ込められて餓死させられたそうです。彼は米国へ逃げ、働きながら夜間高校と夜間大学で学び、医者の資格を得ます。医者の娘と結婚し、病院を設立(逆玉?)しますが、設立数ヶ月の時、韓国から誰かの手紙が来て突然帰国。誰からの手紙だったか、忘れました。帰国直後1896年、独立協会を設立。ユン・チホ、イ・サンジェ、ナムグン・オクら、西洋の近代思想と改革思想に目覚めた人たちと活動します。
 「独立協会は自主独立のために民衆を啓蒙し、彼らを政治活動に参加させ、全国民の自主的努力で自主独立と自由民権の目的を達成しようとした。」(韓国中学校国定教科書)
 「独立協会は・・・役員の選出、事務の運営が民主的だったため民衆の自発的参加度が高く、ソウルのみならず地方主要都市にも支会が設置された。・・・民衆の開化の為の活動を通じ民衆の中に根を下ろした。」(韓国高校国定教科書)
 同協会は、高宗がロシア公使館から王宮に戻ることや、高宗が皇帝を名乗る事などを建議します。大院君は初め、独立協会の活動に協力しますが、政府の外勢依存的政治軍事政策を同協会が批判し、立憲議会の設置による近代的民主主義政治を主張すると、皇国協会という官製擬似団体を作り同協会の活動を妨害します。また大院君は暴力妨害も繰り返して同協会を強制解散させ、ソ・ジェピルはまた米国へ亡命します。
 医者として暮らしていましたが、1945年帰国。政治的活動をしようとしますが、イ・スンマンににらまれて命が危うくなって、またまた米国へ亡命。戦前に米国でイ・スンマンと親交があったのかもしれません。1951年、米国で死去。
 という人です。何だか独立協会の宣伝みたいになっちゃいました。(ハ、ハ)また、ソ・ジェピルは今韓国で親日派と捉えられているようです。どこが親日派なのか、意味わかりません。なんでだろ~。
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この回答へのお礼

ええ、宣伝のようになっちゃいましたね。
No3さんによると、ソ・ジェピルは2番煎じのようです。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/06 17:53

朝鮮における新聞の発行は日本人によってというか日本人が大きく関与した。

とするのが良いと思いますが、ハングルによる新聞の必要性を説いたのは明らかに日本人です。ま、例によって福沢さんです。
(・∀・)y-~
そこで出てくるのが井上角五郎なる人物です。
なかなか気合の入った人のようで彼の感情を表す文物や資料を目にしたことがないので、どんな心理状態でそれを成し遂げたのか私には測れませんが、周りが諦めてとっとと撤退するなか不屈の思いでハングルを使った啓蒙を進めた代表的な人物です。福沢諭吉の書生なので、まぁ弟子ですね。「漢城旬報」という新聞形態のを開化思想の政治集団が発行しこれに関与し翻訳や編集をしたのがこの人です。
これら新聞発行に関わる人たちは改革派と言う政治思想の人たちによって作られてるものですから途中頓挫します。
オッキュン等による甲申政変そしてその革命失敗によってです。
彼等にとってのハングルを再度纏め上げ民衆に普及させると言う活動は主にこの時代開化派の人たちの思想を一般人レベルでも理解させる伝達の道具として有効だと考えてのことでしょう。しかし漢城旬報にしてもそれほど庶民レベルにそれが下ったというわけでは無かったようです。
1886年再訪朝した角五郎は日本で鋳造したハングルの活字を持って再度漢城旬報の発行に関わったとされており。定期刊行物でのハングル漢字混合使用での新聞はこれが初めてと言われています。で、ハングルの父とまで言われてる角五郎ですが、べつに角五郎が現代ハングルを作ったというのではなく、その形成に助力したというのが相応しく時々この扱いを勘違いした人が見られます。独りで作れるわけないじゃんw
因みにハングルオンリーでの近代的な新聞としてはオッキュンの弟子であるジェピルが独立新聞というのを1896年に刊行しております。
また、改めて検索してみますと漢城旬報と朝鮮旬報とを取り違えてる文章も多々見られますが別物です。

前出されてる阿比留文字ですがぁ・・これはあくまで奇説であり。
人工文字ですらなく偽書とされています。
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この回答へのお礼

井上角五郎なる諭吉の弟子が朝鮮半島初の漢字ハングル混交新聞発行に大きく関与したわけですね。(漢城旬報)
その後、ジェピルがハングルオンリー新聞を発行。(独立新聞)

ありがとうございました。

お礼日時:2008/07/06 17:52

以下のURLを参考にしてみてください。



  http://www5f.biglobe.ne.jp/~handshome/study1.htm

  http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/htm …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
上はよく言われる歴史そのままですし、
下は日本の恥ずべき偽文字ですね。

お礼日時:2008/07/06 17:48

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