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「ウサギは亀に追いつけない」という、パラドックスがありますよね。それの答えは、「物体は移動するときに、その移動線上のすべての点を通るのではなく、瞬間移動の連続である。つまり、ウサギと亀の差がゼロになるときは、ごく短い距離をうさぎが瞬間移動(テレポート)して、追いつき、追い越している。」というのは間違っていますでしょうか?つまり、この世にあるものは、移動するとき、すべてテレポーテーションの連続なのです。同じ時間、同じ瞬間に別に地点に物体は移動し、瞬間移動のように同時に違う地点に存在しうるのです。こうだとすれば、物体は移動しない、止まった矢のパラドックスも、解けます。どうでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

此の質問では、時間が過ぎ行く速度を勝手に変化させてしまっていますよ!

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No.18の文中


ロトの前の素粒子が亀

ロトの妻の前素粒子が亀
に訂正いたします。
ついテレポートさせてしまいました。
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旧約聖書においても神とロトとの会話の部分にこの数直線の切断と連続を集合論として扱っている部分がみられる。



創世記

アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

・・・・・・・・・・・・

その後ソドムとゴモラが神によって滅ぼされる時、ロトたちは破滅の中から救われたが、ロトの妻は途中で振り返り塩の柱となった。
ソドムは何故神によって滅ぼされ
ロト達はその中でも救われる者となったのか。
神によって救われるものと滅ぼされるものの切断によって境界はできる。
解り易く人の心を素粒子として一列に隙間なく整列させた数直線と仮定すると神に救われる者と滅ぼされる者とはどこで何故
境目ができたと考えられるか。

ロトの妻は限りなく救われるものに近付くが救われる者には成れなかった。
ロトの妻は兎
ロトの前の素粒子が亀
亀が救われるものに含まれるものの数直線の端っこの点
救われるものの集合の境界。

慈悲が自立した愛なら
愛は依存
境界線は自立の自覚のある慈悲に含まれる。
愛は兎
慈悲は亀
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通常、吐き出し口としてのホワイトホールは光を放ち


吸い込み口としてのblack-hallは光をも飲み込んでしまうとされておりますが。。。

流体力学や電磁気学においては吐き出し点と吸い込み点として数学的には扱われます。
それぞれの点は虚数界へとつながる
ブラックホールは臨界点に達すると跳躍し形跡だけを残して
光を放つホワイトホールとして出現でもするのでしょうか。
ビッグバンの形跡は宇宙のいたるところで見つけられてもそれは宇宙の片隅のことを言っているだけで宇宙の全てを表現していないのではないだろうか。
宇宙は振動系なのではないか。
宇宙に充満する振動は例えば音
共振する波長
和音
未完成の衝撃的不協和音

宇宙はリズムかそれとも旋律か
リズムは粒子
旋律は波

静寂


調律
無音響室のなか
生ずる音をかき分けてかき分けて求める音
こんなものではない
こんなものではない

やがて声がする
讃歌
歓喜の詩
合唱へと昇華される

思考の種は心の中でびゅんびゅんテレポテーションする。
こういうと怒る人がいるかもしれませんが
理論の堅苦しさ、味気なさを補完するかのように
女性は会話の途中であられもないところにブンブン飛ぶ傾向があります。
つまんない~
世界はそんなことだけでできてるんじゃないわよ
もっと私を見てっ
て感じできらびやかな装飾で目くるめく世界へいざなう。
自己主張として光物の装飾を好んで身につける女性もいるけどそれを人が好むかどうかは趣味による。
なんちゃって脱線する。

デカルトはそのいきなり脈絡なくテレポーテーションする思考の誤謬の可能性に悩まされ
ユークリッド幾何を取り入れて思考が勝手に跳躍することを許さず文章とその次にくる文章との間に脈絡を持たせようとした。
幾何の証明問題を解いていく過程で自らがその効果を確認できていることを方法序説の中で述べている。
幾何学の証明問題は脈絡をもたせてはじめて次の文章に跳躍することを許しある結果へと導く。
実体に基づく感覚ではゼノンのパラドックスは兎が亀を追い抜くことを厳密に許さない。
解析学はゼノンのパラドックスを応用して線の切断と連続性を確認する。

しかし人間はがちがちに固められた論理や突き詰められ効率化された新自由主義的社会の中で常に潜在能力を開発させながら組み込まれた機械の一部のように生きなければならないわけではないのであるから
目を覚まし共通概念化され固定化された論理を離れれば
人間の思考は現実とかけ離れたあらゆる時空へテレポーテーションできる空間をもっておりそれを顕現化できる可能性ももってはいるようですが
新たな虚の擬似経済学の空気を読もうとして惑わされ
そのまままた新たな虚界へと眠りにつくことがありませんようにと願っております。
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た~~びたび、すいっちょん!



気になってウェブを漁った所、この問題は未解決の如きの記述が散見できるのだが、それって厳密さを欠かないのだろうか?
このパラドクスはたしかに多くのものを生んだだろうけれど、いわゆる「無限についての数学」はすでに、これは少なくとも乗り越えているんじゃないだろか?
だって私は数学には疎いし成績も赤まみれだったけど、例えば「集合論」は有限量だけでなく無限量も扱うと思う。


私はむしろこれは「論理学」に与えたショックの方が尾をひいたんじゃないかな、と感じるわ。
論理学は随分これによって厳密さを求められたんじゃないだろか?
というのは
私達がそもそもこれを「パラドックス」だと認識できるのはあくまで「現実には抜き去る」という「経験」が有るからですよねえ。
もしこれがこういう「経験」を伴わない命題であったとしたら私たちはきっと全員コロッとゼノンにやられていて、いたいけな私なんか何を見返りに要求されてたか分かったもんじゃないわ。
おお、怖いっ!


な~んちゅう事を考えてしまいました。
どなたか平易な言葉で教えてくれると自分も納得いくんですけど・・・
しっかし、それにしてもいい歳して自分は今何をしてるんですかいの~~う!


ふふふ・・・でも実はもうひとつ考えてる事があります。・・・それは・・・
この質問者さんにとって私の様な回答者がある事など折込ずみの自明な事なのであって、実はこの方がご自身でひらめいた何か、又は私などが知らない何かの数学について、皆が知ってる「ゼノンのパラドクス」を舞台に借りて何が出てくるか試したいのではないか、相手はゼノンではないのじゃないか?????
私はこのカテは初めての為、空気を読めずにお猿さんしてんじゃないか?

などとも実は思ってはいたのです。
買い物にいかなきゃ。言いたい事だけこいて、さあ、いざ退散!
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ゼノンは我々が思いがちな知恵をひけらがす意地悪な頓知狂の学者ではなく、おそらくは「無限論」に目を向けさせたかったのではないか、と思います。



テレポーテーションと結びつけたいという何か恣意的な意図(スピリチュアルな関心?)がお有りなのか、これを導入しないと解決できないとお考えなのかは分かりませんが、これはたぶん別段それを用いずとも、単にゼノンあたりから発展した「無限論」で解決してるのではないでしょうか?

うまくいえませんが
「どういう無限もひとくちに均一の無限と考えないで無限のサイズというものを比較すべき」と言っている様に私には感じられます。

この場合、「すべての可能性の機会」は「追い抜けない可能性の機会」と同じくたしかに共に無限ではあるのですが、こういう場合にあえて「無限のサイズの大きさは前者の方が大きい」という「無限の比較」のごとき考えを設定してゆかぬと現実世界の解釈は成立しなくなる、と言いたかったのだろうし、たしかにそれが現実ですよね。

「証明」というのは「すべての機会においてAであり非Aである事はありえない」が必要なのに、ゼノンの説明は「無限という非常に多くの機会においてAであるから正しい」とすりかえてしまっているのですよね。

かたわらに非Aの機会が仮に一回でもあればこの理屈はそもそも崩壊するというのに、実はこの場合はそちらも無限回ある、というわけで「証明にはなっていない」とできませんでしょうか?

私はそんな気は起きないですがもし数学に興味をお持ちなら「無限論」あたりを勉強したらどうか、などと無責任な事を書いてみます。

もともと回答などという代物ではなくこちらが喚起されて考えさせてもらった、といった方が正しいです・・・
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今一質問文を解読できないのですが


ウサギと亀のパラドックスはものすごく簡単でそのパラドックスのなぞの答えは時間です、ウサギが亀の位置のポイントに目指そうとすると亀が動きますなので永久に追いつけないように見えますが、時間で考えると亀のポイントまで行くのにだんだん短くなります、なので最終的に0秒になった次の瞬間追い越すのです。
!質問の意味が分かった!そうです瞬間移動してます、してます凄いですWHITE-HALLよく気がついたよね、そうですねしてますよね違う速度の物体3つあったとして、ある一定時間を決めて(今回は0.1秒にしましょう)その3物体を直線状に置いて0.1秒すすめたらまったく違うポイントに現れてきますよね、そうです物体は動いているのではなく手ボーテーションしているのですね、その考え方は確かに間違いではありませんね、しかしウサギと亀にどう関係あるんですか?
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No.7、No.11、No.12のm_cosmosです。



釈尊とその弟子にあてはめてみると
亀に釈尊、兎にその弟子を相当させてます。
釈尊には十大弟子がいたと言われます。
大筋は
兎は亀の後を常に追いかけますが決して兎は亀にたどり着きません。
兎は亀とは一体として重なり合えない。
ある時限りなく亀に近付いたある兎に亀は言います。

お前はすでに悟りを啓いておるのにどうして何時までも私の後についてくるのか。
すでに飛び立つ時は来ている
行って自らの道を生きよ
なくことはない
私はいつも貴方と共にある
かくしてある兎はそのパラドックスから涙ながらに抜けるのであった。

ある兎は亀の入滅までパラドックスから抜けることはなかった。
亀の入滅後兎の記憶をもとに亀の言葉を経にした。
亀が入滅してもその兎は心の中で亀の後をどこまでも追いかけて生きたのかも知れない。悟りなどよりもただ亀を慕ったのだろうか。
その兎は死ぬ時も亀と一緒だっただろう。
その兎が悟っていたかどうかなどどうでもよい。
ただ経を編纂するに当たり弟子のなかで誰が本当に悟りを啓いていたのかを
一番よく知った可能性はある。

ア~ナ~ンダなんて言わないで。。。
おしまい
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No.7及びNo.11のm_cosmosです。



どちらも無限の可能性があるという観点からは
パラドックスから抜け自らの道を歩み生きることによっても
パラドックスのど壷にはまって点を捉えようとして生きても
無限の可能性は認めらそうです。

水理学的に湧き出し口は点として扱われ
汲んでも汲んでも尽きることのない井戸に行き着きます。
ただし金銭的には恵まれないかも。。。

運命の扉の開き方はそれぞれ
自助努力し人事を尽くして天命を待て

キリスト教徒ではないのですが分かりやすいので使わせてもらえば
求めよ されば与えられん
となるのかな?Q様
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No.7のm_cosmosですが



亀を点とみなすと兎は分け入って分け入って点を捕らえようとする試み
の話とも捉えられます。
点とはそういうものなのさって
点は認められても追っても追っても決して捕らえられない部分を持たない点の意味の象徴としてのお話。
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