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 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。
 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。
 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。
 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。

 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。
 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。
 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。

 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

A 回答 (55件中51~55件)

こんばんは、brageloneさん。



★ とするなら、「書を捨てよ、町へ出よう」と。 
☆ この結論は 必然性が ありません。書の読み方を変えれば いいわけですから。


頬かむり、頬かむり  ( ̄^ ̄) しらんぷり~♪

「書を捨てよ、町へ出よう」と、言葉通りに町に行ってくれてたならば

“鬼の居ぬ間に”と、思ったんだけど… あまかった。

くそお、おぼえてろー。

●ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。


おぼえてますって、あれはたしか…

一休さんのお話の中にありましたね。

和尚さんが出かけたすきに “ペロリ”

―――――死のうと思ったけど、死に切れません―――――

という奇妙な話


他には…

【附子(ぶし)】
http://www.hal.msn.to/kankaisetu/chuyaku106.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA% …
ソクラテスの死の謎への疑問がわいてくる
風の便りで東洋に生薬というものがあることをこのときすでにソクラテスは耳にしていたのではないだろうか?西洋の医学の領域へ東洋の医学が侵犯してくるのではと脅威を感じていたとしたら…ソクラテスが呷ったとする毒杯の毒はトリカブトだったとしたら…あえて、毒杯を呷り自らの死をもってして西洋の医学の領域を守ろうとしたとは考えられやしまいか?いやそうではなく、ソクラテスは西洋の医学に東洋の医学をとりいれようとしたのではないかな?自らの死をもってして塊根の運用法を後世に課題として残したとは考えられないかな?
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この回答へのお礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 いそがしいですね。コーチも たいへんだ。
 ★ おぼえてますって、あれはたしか… //一休さんのお話の中にありましたね。
 ☆ コーチが 思い出せない。《Q:ブッダは 神ですか》などを探したけれど 見つからなかった。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 和尚さんが出かけたすきに “ペロリ”
 ―――――死のうと思ったけど、死に切れません―――――
 という奇妙な話
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どこだったか 分からないだけではなく その話の中身も 覚えていない。というていたらく。

 ただし 《第二の死》ということは これまでに 触れたことがあったと記憶しています。

 ○ 善が完全に欠如した状態は 人間として 死だと規定します。
 ○ ふつうは この死が――なぜなら 善が欠如しただけですから その善を埋めればよいわけです それなのに―― しかも 死ななくなる。
 ○ 死の状態が 固定してしまう。
 ○ 埋め合わせればよいはじめの死は 第一の死です。この第一の死が 固定してしまって 埋め合わすことも出来なくなった状態 これが 第二の死です。
 ○ つまり 第一の死が 死ななくなった状態です。
 ☆ これは 人間として 実在するとお考えになりますか。

お礼日時:2009/02/12 19:22

オコリザルです。


私の自らの死に様に対する認識やイメージは「解き放たれて自分に帰ること」です。そのような至福を思い浮かべます。
一般の人が考える非業の死とは違います。
そういえば業によらない罪の無い死なれば安心していられると思うのですが、一般には非業の死は恐怖とされていますね。

悪の最後のはったりたる第一の死については、その勝負を買って第二の死を目指せばいいんです。勝負はあっけなくつきます。悪の認識する死は訪れません。

この勝負は本当ならすでに誰もが試して決着のついている問題です。
悪は心ないし無意識野での課題ですが、かつて流行した世紀末の予感やノストラダムスの予言した、かの大王様の封印合戦の内訳がこの悪意の死のはったりを笑い飛ばす行事でした。もう終わったことです。記憶を検索する場合は2000年でなく2001年に立ち会ってください。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。むつかしい。
 ★ 悪の最後のはったりたる第一の死
 ☆ という言い方は おもしろいですね。《悪》が われわれに 勝負を挑むというわけですね。すでに われわれは 勝利しているとさえ 言っているので そしてまた 言っているからこそでしょうか 悪の残党が 《死を覚悟で 勝負を挑んで来る》ということですね。そういう見方は おもしろいですね。

 ★ その勝負を買って第二の死を目指せばいいんです。
 ☆ これは むつかしい。理解が 焦点を結びません。なんだかなぁ。
 ★ 第二の死を目指す
 ☆ とはどういうことか。
 (1) 悪からの呼びかけに挑むのだが もはや 勝負はついたとして 実際には 放っておくのか。
 (2) 何らかの応酬を こちらからも 行なうのか。それは たとえ 《〈第二の死〉につながるような振る舞い》であってさえ 果敢に こちらからも 何かを仕掛けるのか。
 (3) あたかも その悪を体現した人間を相手にして とことん おつき合いをするという意味なのか。つまり そのときには 第二の死へ導かれるおそれが あるが 気にしないということか。
 (4) あるいは おつき合いをするその前に すでに こちらから 何らかの仕掛けを出して 勝負に出るのか。そのときには あたかも 相手の悪の状態よりもさらにわるい状態を こちらは よそおって 相手に 度肝をぬかせしめるのか。

 ★ 勝負はあっけなくつきます。悪の認識する死は訪れません。 
 ☆ ということのようなのですが。ううーん。むつかしい。

 ★ この勝負は本当ならすでに誰もが試して決着のついている問題です。
 ☆ これも 同じようですね。
 ▲ 《わたし すでに この世に対して 勝利している》(ヨハネ福音16:33) 
 ☆ とは イエスが 言っているのだけれど。
 ★ かつて流行した世紀末の予感やノストラダムスの予言した、かの大王様の封印合戦の内訳がこの悪意の死のはったりを笑い飛ばす行事でした。もう終わったことです。
 ☆ これが 分からないのです。わたしは この予言者を てんで 相手にしていなかったですから。何のことやら という状態です。
 primeapeさんは ふつうに 説明をほどこすというスタイルでもないですからねぇ。
 留保しつつ 進みます。

お礼日時:2009/02/12 18:35

追伸まで


 ☆ というとき 《至高神のお考えに沿ってい》るかどうか その意味での《善 / 悪》は 人間に理解できるか。これが 問題になります。
 理解できなければ 《絶対悪》は 人間の存在としては ありえないとなります。どうでしょうか。

★ その通りです。全体の99.999999・・・% 人間の存在としては ありえないのが正しいですね。でも100%じゃ無かったのですね。至高神のお考えを知ってひねた人間が過去にいたのですね。過去人間として存在し今も多くの人を惑わしてますね。惑わされたものは無知の知だから《絶対悪》では無いといえるでしょうが。知っていた者は存在していたわけですから《絶対悪》も存在するわけですね。知るということは神に近い人物ですね。神に近い人物はひねれば《絶対悪》にり得るわけですね。キリスト教ではその例として天使がサタンになった話が残ってますね。
逆に言えば、全体の99.999999・・・%の人間は知りえないことだから人間にはありえないともいえますね。神近くの存在からいえば《絶対悪》はあり得るし、絶対多数の神から遥か遠い存在からいえば《絶対悪》はあり得ないという結論が出るわけですね。どちらも正しいですね。私は《絶対悪》の存在も知ってますし、それが極一部のひねたものであることも知っていますから、存在の肯定はしますが特異な例なので否定もするのですね。こういった特異な例を除くとほとんどは「無知の知」で悪を働くものですね。

この回答への補足

 mmkyさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 いやぁー すごいことになってまいりました。
 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 全体の99.999999・・・%の人間は〔* 絶対者なる神を〕知りえないことだから 〔* 《絶対悪》は〕人間にはありえないともいえますね。
 神近くの存在からいえば《絶対悪》はあり得るし、
 絶対〔* 的な〕多数の・神から遥か遠い存在〔* であるわたしbrageloneたち〕からいえば 《絶対悪》はあり得ないという結論が出るわけですね。どちらも正しいですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その例として
 ★ 神に近い人物
 ☆ が挙げられています。
 ★ 神に近い人物はひねれば《絶対悪》になり得るわけですね。キリスト教ではその例として天使がサタンになった話が残ってますね。
 ☆ まづ 《天使》は 《人間》ではない ですね。そうすると この《神に近い人物》とは 誰かとなります。人間の言葉を用いて明らかにするということは できることなのでしょうか? どう お尋ねすればよいかも分からないのですが。
 ひょっとして エデンの園におけるアダムやエワなる人間たちのことでしょうか? 神と会話が出来ていたみたいですから。その神に逆らうほどの根性(?)を持ち合わせていたようですから。
 ただし 楽園を追放されただけで あとは おそらく 必ずしも 《第二の死》の状態にまで堕ちたのでもないようには 受け留めているのですが。

 ううーん。
 ちなみに そうだとしますと この究極の悪を体現し その死とも呼びうる悪が 固定してしまった《第二の死》の状態にあるという人間は 現代人には いますか? いませんか?


 ▲ (コリント後書11:14-15) ~~~~~~~~~~~
 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前回での
 ▲ (ヨハネ福音8:44) 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その〔* 偽り者たちの〕父だからである。
 ☆ をも合わせて考えるのですが これら《サタン=悪魔》は やはり 天使の成れの果てであって 人間ではないと考えられます。そうして それゆえにも
 ▲ サタンに仕える者たち / 悪魔は 〔偽り者たちの〕父である
 ☆ というように いわゆる怒りの子らないし闇の子らの父であり親分であると理解します。つまり 人間が サタンに仕え 悪魔の子になるのですが 絶対悪を体現するというサタンは 人間ではない。と いまのところ 考えられるからです。
 いまのところ なんとも 分かりません。

補足日時:2009/02/12 10:17
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こんばんは、brageloneさん。



【QNo.4693818 読解の質問(2)】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4693818.html


ここのお話に出てくる主人公の僕の文末の「(…と言う大人がい
ないのが)残念である。」

この言葉なんだけれど、何で残念だって言葉が出てくるんだろう?

先の言葉に

「彼らまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」

と、言葉がおかれてる

不自然なんだよなー。

何が不自然かといえば、僕も当時、子どもだった筈。

「僕は昔から本の虫だった。」←の言葉からしてかなりの本好きのよう。

仮に、僕が思うように

「彼らまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」

と、言う大人がいて子どもから本を取り上げたとしたら…

子どもである僕も本を読むことはできなくなったことだろうに。

なのになぜ

「(…と言う大人がい ないのが)残念である。」

と言う言葉が出てきたんだろう?

図書館は僕の聖地、ズカズカズカと見知らぬ者がやってきて

場が荒らされるから?それに対する嫌悪感?

はたまた、誰も彼もが本を読み出すことで、子どもの内では

それまで僕しか知らなかったことを他の子どもたちも知ることになる。

すると、物知りとして一目おかれていたことが一目おかれることではなく

知っててあたりまえの常識となり、それまでの僕の存在が希薄化する。

そのことへの脅え?

うーん、これを書いている僕は…

読書とは教育ではなく、世知辛い現実を捨てて、豊かな世界に耽ってしまう人の性であり、現実を忘れさ
せる合法的な麻薬である。


と言うところからして、おそらく子どもではなく大人の僕なんだろう。

だとしたら…悔恨?

子どものしがちな無茶なことはせず、大人の命令に逆らわない従順な
児童だった。

他の小学生はのびのびと育って←僕もそうありたかったのかも?

時には子どものしがちな無茶なこともし、大人の命令に逆らい反抗もする児童期を過ごしたかったのではないか?

実体験を積む機会を逸してしまったことへの自戒?

とするなら、「書を捨てよ、町へ出よう」と。



【書店革命に挑む不思議な魅力の人(その2)】
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20 …
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この回答へのお礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 ★ とするなら、「書を捨てよ、町へ出よう」と。 
 ☆ この結論は 必然性が ありません。書の読み方を変えれば いいわけですから。

 ▲ 「彼らまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」と言う大人がいないのが残念である。
 ☆ 作者の考えでは
 ▲ 読書とは教育ではなく、世知辛い現実を捨てて、豊かな世界に耽ってしまう人の性であり、現実を忘れさせる合法的な麻薬である。
 ☆ というのであれば そのようには読むすべも持たない子どもたちが 読書をすると言っても 意味がないだろうと言っているようです。

 これは ただの趣味の問題です。こんな文章は どうでもよいものです。出題者の気がしれません。
 出版業・取り次ぎ業・書店業については よく分かりません。ブックオフの引き取り値段の安いこと。そんなものかなぁと思う。よく分かりません。回答は?

お礼日時:2009/02/11 22:07

brageloneさん、mmkyです。

また難しい問いですね。この問いでやっと「悪は存在しない」に関するbrageloneさんの真意が理解できました。brageloneさんはあまりに高潔なので、例えば、内村鑑三先生のように多々理解できないとこがあるんですね。これはほめ言葉ととってくださいね。
さて、すこし、外れてるかもしれませんが、究極の悪というものを真理の目から見た回答を以下参考程度に書いておきます。

正確には善の欠如が悪ということではありませんが、「うそ」を「善の欠如=悪」と定義するということであれば、本人は善意であるが「うそ」を「正しい」と信じて、更にそれを広めることが究極の悪と呼ばれるものですね。現実にこういう人たくさんいますし、そういう人たちの死後は悪霊とか悪魔と呼ばれてますね。悪霊とか悪魔は積極的に「うそ」を広めているからそう呼ばれるのですね。これはある意味一面的見方なんですね、なぜなら彼らの側に立てば、「うそ」が「まこと」であるから、つまり善を広めているのですからね。
そういう意味で、「もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は実在するものでしょうか。」は存在します。しかしながら本人が「うそのまこと」に気が付けば「善の欠如=悪」がなくなるわけですから個人的な「悪」はなくなりますね。ただし、うそを広めたわけですからそれに感化された多数が悪なんですから、その責任はあるということですね。この答えは「悪は存在しない」に通じるものですね。
最初に戻って、善の欠如とはなんぞやということですが、本性の欠如だけでは善性の欠如とはいえません、すべての捕食動物は何かを殺して生き延びるしかないので、人間が殺すことを生きがいとしてもそれは、人としてではなく動物の本性と呼ばれるだけだからですね。動物の存在は悪とはいえませんね。人間の形のライオン、スフィンクスなどといえばよいだけですから。本性論は人間は動物にもなれるという証明だけですね。それを善とするか悪とするかは決め事であるといいたいのですね。
つまり、何を善「まこと」とし、何を悪「うそ」とするかは誰かが決める必要があるのですね。善悪は、人間の本性にもかかわるが、そんなに単純な問題ではないということですね。
「もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は実在するものでしょうか。」は存在します。といいましたが、過去多くの宗教家、哲学者、思想化がそのわなにはまって最終的な悪になっていることは事実なんですね。
一流であればあるほど、弟子も多く、大善ですから逃れられないですね。自らの善がうそであるとは信じられないというかたばかりですよ。私はいつも正しいこと「善悪の善」を答えているつもりですが、お前の言ってることはうそと思う人のほうが遥かに多いでしょうね。それは「うそがまこと」だからですね。
つまり無知の知が究極の悪ということなんですね。無知の知を悪とするには当然、真知が存在するためですね。真知がどこから来るかといえば究極の至高神からですね。言い換えれば、至高神のお考えに沿っていれば善、反すれば悪と呼ばれるのが真理ですね。
あまりに簡単すぎて高潔な哲学者には耐えられないかもしれませんが「まこと」はこれしかないのですね。

この回答への補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 項目として ふたつ ありますね。
 ひとつは これまでにも 問題としては挙がっていたもので 
 ○ 他の動物の生命については どうなのか。殺して肉を食べることは 悪ではないのか。
 ☆ というものです。これにつきましては まだ 逃げの一手です。
 ★ それを善とするか悪とするかは決め事であるといいたいのですね。
 ☆ のごとく 共同の主観がさだまれば いいのですがという姿勢です。(いい考えは ないでしょうか)。

 さて 
 ★ 「もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は実在するものでしょうか。」は存在します。
 ☆ というお答えをいただきました。この問題です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・「うそ」を「善の欠如=悪」と定義するということであれば、本人は善意であるが「うそ」を「正しい」と信じて、更にそれを広めることが究極の悪と呼ばれるものですね。現実にこういう人たくさんいますし、そういう人たちの死後は悪霊とか悪魔と呼ばれてますね。悪霊とか悪魔は積極的に「うそ」を広めているからそう呼ばれるのですね。これはある意味一面的見方なんですね、なぜなら彼らの側に立てば、「うそ」が「まこと」であるから、つまり善を広めているのですからね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分からないのですが 部分的には 疑問ないし補足要求を提出することができます。
 (α) 善そして悪の判断は 飽くまで 主観の問題である。本人が 知っている。なぜなら 自然本性としての心(《まこと》)に逆らったかどうかは 自分の心に 分かっている。
 (β) ウソを言うことが その相手に対しておよびその情況において 最善の策だと判断したばあいには うそも方便ということで それは 悪の善用だと考えられる。
 (γ) ところが そういう日常の次元をはるかに超えて
 ★ 本人は善意であるが「うそ」を「正しい」と信じて、更にそれを広めることが究極の悪と呼ばれるもの
 ★ 悪霊とか悪魔は積極的に「うそ」を広めている
 ☆ という事態があると言われます。これについても まづ
 (γ-1) 他者に向かって《善意》と言おうが言うまいが 本人は 心の善から逸れているかどうかは 分かっている。〔=(α)〕
 (γ-2) つまりは 《「うそ」を「正しい」と信じて》と言っても 本人の心の内では すでに 《うそ》だと 分かっている。言いかえると それは 自己欺瞞である。つまり 悪である。

 (γ-3) 次の文句は どう解釈すべきでしょう。
 ▲ (ヨハネ福音書8:44) ~~~~~~~~~~~~~~~
 悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。
 彼の内には真理がないからだ。
 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この《悪魔》の状態が 実在の人間として ありうるかです。あり得ますかねぇ。
 ★ しかしながら本人が「うそのまこと」に気が付けば「善の欠如=悪」がなくなるわけですから個人的な「悪」はなくなりますね。
 ☆ ともおっしゃっています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 無知の知が究極の悪ということなんですね。無知の知を悪とするには当然、真知が存在するためですね。真知がどこから来るかといえば究極の至高神からですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは まづ 
 (δ) 《無知の知》というところは けっきょく 《無知》ということですね。言いかえると――ソクラテスのそれではなく―― おそらく 心の中で 自分のまこととしての・つまり善としての心が分からないというふうに取ると むしろ 分かりやすいように思います。
 (ε) 次の概念に対しては むしろ 人間の次元における(α)の自知の原則を持って来たいとは思うのです。
 ★ 真知 および 至高神=真理
 ☆ なぜなら これらは 人間にとっては なぞだからです。言いかえると
 (ζ) 人間の判断する《善》は 相対的なものであってよいという構えなのです。《悪》も 実際には 善の《部分的な》欠如であって やはり 相対的なものです。
 (η) 言いかえると この相対的な善か悪かを みづからの心の内で 判断できないというのであれば それは たしかに 悪としての無知です。

補足日時:2009/02/11 20:02
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この回答へのお礼

 一般には ウソあるいは心のへそ曲がりであることを知っていて つまりは 悪であると知っていて これを みづからの心に逆らって おこなうのだと考えられます。
 (θ) したがって いまの課題は
 ○ 果たして 究極の悪 ないしは 絶対悪は 人間において 実在するか。
 ☆ です。

 ★ 言い換えれば、至高神のお考えに沿っていれば善、反すれば悪と呼ばれるのが真理ですね。
 ☆ というとき 《至高神のお考えに沿ってい》るかどうか その意味での《善 / 悪》は 人間に理解できるか。これが 問題になります。
 理解できなければ 《絶対悪》は 人間の存在としては ありえないとなります。どうでしょうか。
 あるいは そこまでの概念をあてはめるのではなく――つまり《絶対者》の視点を持ってくるところまでは行かなくても―― 限りなくその絶対悪に近づくという場合が あるか。これは 依然として 問いに残っています。そのような《第二の死》があるか。です。

お礼日時:2009/02/11 20:09
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