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 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。
 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。
 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。
 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。

 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。
 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。
 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。

 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

A 回答 (55件中41~50件)

maimaisusです。



少々お伺いしたいのですが、今の段階でも

悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

って考えているのですか?
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 今の段階でも

   悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を
  言うと推し測られます。

 って考えているのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その死が固定する前の段階である《第一の死》としては 現実でありうると考えております。
 固定してしまった《第二の死》 これは 理論上 あると考えており 現実に 人間が その状態になるかというのが この質問です。
 感触として得ている内容を さらに つけ加えれば 《この状態に近い場合が ありうるのではないか》というものです。

お礼日時:2009/02/14 21:54

[ううーん。


 ちなみに そうだとしますと この究極の悪を体現し その死とも呼びうる悪が 固定してしまった《第二の死》の状態にあるという人間は 現代人には いますか? いませんか?]

について一言まで
brageloneさんの定義に合致する現代人はいないですね。ただ眼に見えない究極の悪に踊らされて《第二の死》の状態に陥りつつある者は何人かはいますね。知ってやってるか知らずにやってるかは問題ではなく、その効果や結果から同等とみなされるということですね。これがあの世の評価ですね。
それから、キリスト教でいうサタンはかって大天使の1人が地上に生まれたときの名前ですね。聖書以前のはるか遠い昔ですが実際に存在して霊能力にも優れていたから神近い人物であったのですね。サタンとして生きた後は、地上に生まれたことはないですがいまだに悪さしてますね。ある領域に閉じ込められて悪さしか考えないような魂は死んだも同然ですね。これを魂の死と呼んでますね。消えるわけではないんですね。
聖書には書いてないことばかりですけど、疑問を持った者は誰しも数十年もすればわかることです。
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この回答へのお礼

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 ★ brageloneさんの定義に合致する現代人はいないですね。ただ眼に見えない究極の悪に踊らされて《第二の死》の状態に陥りつつある者は何人かはいますね。
 ☆ そうですか。なるほど。次のサタンの場合と同様に 《近い》という状態であると 分かるような気がします。だれが どうかということは わたしには 分かりませんが。
 
 ★ それから、キリスト教でいうサタンはかって大天使の1人が地上に生まれたときの名前ですね。
 ★ 聖書には書いてないことばかりですけど、疑問を持った者は誰しも数十年もすればわかることです。
 ☆ 《観想》ということをとおして 得られる知見は ないとは言えないと考えます。現代では 稀れだとは思っていますが
 ○ 異言
 ☆ という現象が起きるとは 聞いております。
 ▲ (パウロ:コリント前書12:10) ~~~~~~~~~~~  
 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして たしかに 《異言を解釈する預言のほうが 重要である》とも 言ってはいますが 現象を否定すべくもないと聞いています。

 それと もう一点。すでに イエスがそれらに勝利したということも 大事だと思います。後遺症のごとく つづいているかに思われます。

 そのような究極の悪をも 人間が 知性を用いるだけによって 善用することができるようになれば しめたものなのですが。

お礼日時:2009/02/14 21:48

映画「羊たちの沈黙」で悪の権化であるドクターレクターが、


アウレリウスを語っています。
目に見えるものを手に入れようとする非常に強い欲求。

これは、人間故の情動、衝動であり善となり、悪となります。

一方で、神(神学の神よりも広い意味かもしれませんが)のおぼし召しは、
情動に由来する善とする理由も悪とする理由もありません。
宇宙の意識とか宇宙の意思という表現をする場合もありますが、
人間から見て、これを善の位置に据えると、悪の位置も必然的に
変わらなければなりません。
いわゆる人間生活における善悪と神、宇宙、ガイヤなどは、
善悪は善悪でも別の言語を使用しなければなりません。
共通する部分がないとは言いませんが、明らかに異なる概念であって、
意識して分けておかないと訳が解らなくなるように思われます。

最大の違いは、前者は存在を含め死を悪とするが、後者では必ずしも悪とならない(あるいは
知りえない)ことでしょう。

>《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》
 ということから、究極の悪と人間にとっての真の敵は違うものに聞こえます。
ドクターレクターが悪であって、羊の救出が善であるのは誰にでも単純に理解されます。
一方で、究極の悪が無いことも解ります。
でも、これは人間にとっての真の敵とは、異なることのようにみえます。

善の不存在、第二の死といっても、上述の人間の善悪と神の善悪との関係から、
いわゆる善悪は二重に折り重なっていると思います。

20世紀最大の悪人ヒトラーの所業は、もちろん悪なのですが、
もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪とは言えませんね。
とはいっても、人間にとって言えば、ヒトラーの再来を許すことが、
ヒトラーの所業に匹敵する真の敵であるとは言えると思います。

この回答への補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 残念ながら 
 1. アウレリウス
 2. 神(神学の神よりも広い意味かもしれませんが)のおぼし召しとしての善悪
 ☆ これらが はっきりしません。《羊たちの沈黙》については ヱブ上で 《あらすじ》を大体 把握しましたが 《アウレリウス》は 出て来ないのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 目に見えるものを手に入れようとする非常に強い欲求。 /
 これは、人間故の情動、衝動であり善となり、悪となります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《人間故の情動、衝動》は ここでは 心において まことかウソかで 善悪を判定してください。また その人の主観の問題です。本人は 知っています。
 ★ 情動に由来する善とする理由も悪とする理由もありません。
 ☆ 《神のおぼし召し》からすると ということですが それは 分からないのです。また 判定のために 持ち出しません。主観の中で たとえ持ち出しても それは その人ひとりだけの判定基準であるに過ぎません。《わたし》にとっての まことか うそか 善か悪か これだけを扱います。(普遍性について あとで もう一度 取り上げます)。
 ☆☆ 《究極の悪》≒《人間にとっての真の敵》
 ☆ としたのは ほかのお応え欄で述べたように その内実は 《話が通じない》という事態を招くことです。これが 《敵》だという最大の理由です。一生 話も心も通わないという問題です。

 ★ ドクターレクターが悪であって
 ☆ というのは この人間が 人肉食について おのれの心において まことか それとも うそかを 判定することに基づきます。
 存在としての善を欠如させるゆえ 悪だと判定する。判定するけれども その嗜好は 止められない。――というときには 善の完全な欠如に近いという状態であるでしょう。もし この嗜好をやめるくらいなら 人間をやめるというまでに意志を固定し始めたなら それは 第一の死の究極の状態に限りなく近づいたと同時に その第一の死が死ななくなるという第二の死にも 馴染んで行ったことになるでしょう。

 思うに――思うに ですが―― 第一の死の状態になっても なおまだ あたかも魂が残っているというかのように 存在としての善を回復することは可能であるように思います。そして 人間が 現実に その第一の死の固定という究極の死に到るというのは 考えられないように思えます。

 これらを 神から見たら どう見えるか。これは 分かりません。言いかえると 人それぞれの主観において 想像することは 自由です。もし仮りに 普遍的であるという解答が得られたのなら その人は みづからの主観を みなに 披露すべきでしょうね。これを 人それぞれが 判断します。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 とはいっても、人間にとって言えば、ヒトラーの再来を許すことが、
 ヒトラーの所業に匹敵する真の敵であるとは言えると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった主観を共同化しうるような内容の解答が 得られるかも知れません。

 * 総じて言って 今回は 中身が いささか あいまいであるように思えるのですが。

補足日時:2009/02/14 17:29
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またまたオコリザルです。


A11のデットリーなゲームをさらに面白くするルールです。

私が勝手に決めました。

死にたいと言う亡者を殺すことで答えると殺人衝動が起こります。
大抵の方々はこの殺人衝動を抑えるために、生きることお蹂躙して気を紛らわせます。
これが性欲です。
本質は快楽殺人犯志願者です。
brageloneさんに言って置きますが所詮現実の愛の営みとは目的が違うゆえ無縁。よって無罪でも無害でもあります。
さて、本当に思い余って亡者を殺してしまうと、(存在の場合は)あたまから角が生えるかわりに、行き場を失った縁起ゆえ実社会で殺人を犯すことになります。一昔前は鬼を娑婆に養って置けば事が済んだのですが承知で出来るでしょうか。
そのような困った問題の答えを自分で出して亡者の願いを聞き届けることが供養です。
この勝負を買うとすぐ方が付きますよ。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 誤解があるかとおそれますが 前回のやり取りを継ぐとしますと わたしには 別の見方があります。

 ★ 亡者
 ☆ とは およそ 善と悪との見分けがつかなくなっている人間だと定義します。それは 当然 自分の心の中のことは ウソでないかウソかの見分けくらいはつくのですが それよりも 社会の中での勝負の問題に接して ウソでない善が勝つかウソのほうが勝つかによって 影響を受けるということです。果ては ウソか まことかではなく どちらのウソが勝つかの問題になります。

 そうなると 内面のまことかウソかは もうどうでもよいことになります。善か悪かは 内面の判断の問題ではなくなり 世の中の強いほうが 仮りの善だという認識になります。仮りの善が 永遠に続くという見方です。そうなると 寄らば大樹の陰であるどころか 地獄の沙汰も金次第という《判断形式》が みづからの意志行為となって 固定して来ます。それでも
 ★ 死にたいと言います。
 ☆ ということでもあるのでしょうね。心が 失われていなかったのでしょう。しかも そのあと 善の回復に向かうのではなく そうではなく 善の欠如の完全性を目指して 絶対悪なる悪魔のもとへ馳せ参じるということも起きるのでしょう。

 この亡者を忌々しく思う人が その者に対する殺人衝動を起こすという場合ですか。どうなんでしょう。
 分かっていることは もし そこで 衝動が起こるとすれば その者のほうにも 亡者におけると同じような悪が巣食っているということなのでしょうね。亡者の内面における《善の欠如》を 自分の中にも見るからこそ その欠如をどうにかしたいと思うのでしょう。

 その二人のあいだで 互いに どちらも
 ○ ほろびなさい。旧き人を脱ぎ 新しき人を着るために ほろびなさい。
 ☆ と言い合いをすると よいのではないでしょうか。
 ★ あたまから角を生やして
 ☆ 互いに 徹底的に 互いの欠陥を憎み合い 互いに その存在の善をみつめる地点へ出るよう ののしり合うとよいでしょう。
 ○ おまえは 亡者だ。
 ☆ と言い合いっこすると よいでしょう。方がつくかどうかは 分かりません。進展はあるでしょう。

お礼日時:2009/02/14 16:25

オコリザルです。


A4の続きで思考実験を名目にした肝試し大会です。

>一般の人が考える非業の死とは違います。
そういえば業によらない罪の無い死なれば安心していられると思うのですが、一般には非業の死は恐怖とされていますね。

地獄の業火に焼かれる(業火ですよ!)亡者には非業の死はあくまでも恐怖であるはづです。
存在の本質、例えるなら魂は、死後彼岸にわたります。そこでは先達の計らいを受けるまでも無く自ら業が無いことを悟ります。この彼岸の悟りたる非業の死であれば、要するにいかなる苦もない。したがって死後は誰もが存命中に煩わされた燃え盛る業火と縁が切れて入滅を果たします。ところがそのような故人も存命中は真実の死を知らない。したがって世間様のご期待の通り苦痛と恐怖にまみれた、亡者の案内どおりの非業の死を体験します。それはこの世に、肉体と一緒に脱ぎ捨てて逝く仮面です。その苦痛の叫びを受け取るのはお葬式に参列した人々です。そして死者に許しを請いたくなります。この辺は先祖崇拝のダークな一面ですが、故人を全て仏と見なすのは正論です。このとき故人は非業ゆえに存命中の方えと伝播感染する亡者が第一の死を望む魔物です。存在とは無縁に、ただ偽者の死から死えと渡り歩いていく亡者です。娑婆を精神世界の中心にすえると、このような亡者とお付き合いすることになります。だからそのような場合は慈悲が必要です。

亡者がこのようにつかみ所が無ければおっかないですね。
除霊は霊媒師にお金を払って頼んでも無理ですから自分でしてください。(見抜ける私としては、いい迷惑でした)神様は、存在と無縁であることが決定的でして、感知しようがありません。
ですから亡者のお願いは自分で聞いてあげるんです。(それしかありません)
そうすると死にたいと言います。
その勝負に乗ってください。
それが慈悲を全うすることでもあります。

いや~。おっかないですね~。ほんとだったらこわいですね~。
でも、このような心理構造が日本人仏教徒の業の側面です。
その信仰が真摯であればお坊さんも神様も頼りになりませんから、自ら何とかしようとするでしょう。その場合は何を持って仏とするかです。自分に気が付いているかどうかです。人様に親切にして「救い」を助け合いでお茶を濁したりしていられないと思いますよ。亡者のゴミ掃除もしないでどんな顔をして「悟りたい」だの「救って欲しい」だの考えるんでしょうかね。

この回答への補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ふつうに言う《死》
 ☆ の問題と絡めて 突いて来ましたね。前回わたしは この点は 保留していますからね。
 まづわたしの死生観を明らかにします。
 ▲ (ヨハネ福音10:18) ~~~~~~~~~~~~~~~ 
  ――だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそ
   れを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けること
   もできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ みごと このイエスのとおりに行くと断言しているのではありませんが いまこう思っていても それは 誰に迷惑をかけることでもないと考えます。したがって 
 ★(No.4回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私の自らの死に様に対する認識やイメージは「解き放たれて自分に帰ること」です。そのような至福を思い浮かべます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに 《イメージ》があるわけではないのです。言いかえると 死後のことは 何も考えてもいません。無記です。《至福》であるかないか 天国かどうか そのようなことを一切考えていません。もっと言えば どうでもよいのです。そういう死生観です。《死ぬ前に やりたいことを全部やっておこう。やり遂げて死のう》 これです。
 このイエスの言葉を聞いて 中には《彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている》と言う者もいれば いや《悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない》と言う者もいたと言います。

 ★ 非業の死
 ☆ とは ブッディスムでは
 ○ 前世の善因を受けないこと。また、そのさま。
 ☆ としての死だそうですね。ただし
 ○ 非業:《仏語。前世の業因によらないこと。》
 ☆ という意味もあるようです。こちらのほうをおっしゃっているのですね。
 ★ 存在の本質、例えるなら魂は、死後彼岸にわたります。そこでは先達の計らいを受けるまでも無く自ら業が無いことを悟ります。
 ☆ 《業因によらない》だけではなく 《業が無い》ということですね。

 ここで 話を端折ってしまいますが 問題は やはり
 ○ 三世をつうじての因果応報 / 善因善果(楽果)・悪因悪果(苦果)
 ☆ にあるのではないでしょうか。(1) 誕生以前および死後 これは 人間に分からない。分かったと言う人がいても その真偽は 永遠に確かめられない。どこまでも行っても 切りがないという悪無限に陥ります。 (2) 善行をしたから善果を得ると決まっていれば つまり悪行をしたから悪果を得ると分かっているのであれば それは 世の中すべてが 人間の理性能力と努力とで 決まると言っています。相対的なものごと あるいは 相互依存関係にあることがら これが それぞれ人の善あるいは悪の行為によって 区分けされ その意味で 調えられるということになります。もしそうであれば だれもがと言っていいほど みなが そうするのではないでしょうか。逆に いちど間違いを侵したなら もうあとは悪因悪果だというのであれば だれもが腐ってしまうでしょう。
 因果応報説のあほらしさです。そもそも ブッダは このような輪廻転生を 説いたのでしょうか。説いたとすれば ゴータマの馬鹿野郎です。
 ですから この因果応報の観念の渦の中に飲み込まれて 欲望や悪のとりこになっているような《亡者》については たしかに
 ★ 亡者のゴミ掃除
 ☆ が必要となるのでしょうが 考えてもみてください。亡者になる素があるわけですから その元さえ断てば もはや 闇の子らは いなくなります。
 ★ そうすると〔* 亡者は〕死にたいと言います。
 ☆ という暗闇。
 ▲ (伝パウロ著: エペソ書5:8) ~~~~~~~~~~~~
 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

 ▼ (パウロ:コリント前書13:10) 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ブッディスムが 《部分的なもの》であると わたしからは 言います。とにかく 《仏教は 暗い》。親鸞のみだと いまのところ 考えています。

 ★ そうすると〔* 亡者は〕死にたいと言います。
 ☆ このような闇の子らは たしかに 第二の死を 永遠に耐える悪魔のもとに 身を寄せるもののようです。そこなら 安心だと思うみたいです。善のかけらも亡くしてしまえば 完全に悪となり その完全さが 神からの光のように思われるのでしょう。

補足日時:2009/02/14 15:40
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究極の悪とは正義のことだと思います。

人を憎んで殺したり、金に困ってものを盗んだり、賄賂を使って利益を得たりするのは、究極の悪ではなく、心の弱さの結果だと思います。究極の悪を行う人の心は公明正大で自身に満ちている必要があります。唯一それを可能にするのは、正義だと思います。
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この回答へのお礼

 oilllioさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 究極の悪とは正義のことだと思います。
 ☆ ここには 分からない言葉が ふたつ あります。
 ○ 究極の悪: 《悪の究極》と言っても それは どちらでもよいのでしょうが それは 《善の完全な欠如=第一の死》そしてさらには《この第一の死が死ななくなるという第二の死》とは別に捉えられているのでしょうか?
 ○ 正義: これも 一般に なんとなく分かった気がする言葉ですが その内実は 分からないと思われます。

 ☆ これら 二つの概念を 等しいということは 感覚として 次の意味になるのではないかと推測しました。

 ○ 社会の安寧と秩序のためには 悪を行なうことに対して その行なう者を 何らかのかたちで 拘束しなければならない。いわゆる警察機能ですね。
 ○ 現行の法律では 極悪の犯罪に対しては 身体の拘束だけではなく 死刑という悪を内容とする手段で臨む。
 ○ こういった秩序のための行動をとるときには 《公明正大》な対策と処置が必要で 《自信に満ちて》行動しなければならない。
 ○ このように 究極の悪とは 社会正義をおこなうところに見られるものである。

 ☆ でしょうか?
 おそらく これは 法とその執行に関して 性格づけをするなら そういう側面があるのではないかという議論なのでしょうね。
 趣旨説明の中の《悪の究極》のこととは別でしょうね。人間ないし存在じたいが その本来の善を すべて 欠如させて 死の状態になること しかも その死が死ななくなって 固定してしまうこと これとは 関係なく 社会秩序の維持は 行なわれるでしょうから 別なのでしょうね。
 でも ありがとうございました。解釈が まちがっていましたら 指摘してください。

お礼日時:2009/02/13 22:31

maimaisusです。



 >【A】 《絶対悪》は 《第二の死》として 理論上 考えられるが これは 人間において 実在するか。

存在が善で在ると想定するなら、理論上考えられないし、存在もしません。
ってご自分の持論でしょに。

>(A-1) 第一の死: 存在としての善の完全な欠如 = 悪の究極の状態

としての存在はなく、善性の屈折の形みたいな事じゃあないですかね。
そうでないと、もともとの存在は善である理論が成り立ちません。

【B】の回答も、同じ理由で存在しませんが、現実の話とは切り離して考えるべきだと思われます。
そもそも、存在は善と言う考え方自体が、現実とか実在をあてはめて考えるには、不向きな考え方だと、思うからです。
過去の私への回答欄にも、現実とかの事は言っていない理論の話、そんな様な、内容の話があったと思いますが。

>北朝鮮のえらい人 あるいは 世界の警察を自認するアメリカ政府 それらの思想は 悪鬼に近いでしょうか。どうでしょうか。
 麻生内閣 あるいは 小泉政権は どうでしょう?

北朝鮮の偉い人と、アメリカ政府を一緒にしたらまずいですね。
そもそも、北朝鮮の偉い人に会ったことないし、アメリカ政府自体は思想的には、悪いとは思いません。ただアメリカ政府の偉い人たちがどうかは、よく知りませんので何ともお答えできません。
麻生内閣・小泉政権も同じ理由ですね。
本当の処はよくわからないので、無責任な事も言えないでしょ。


そうそう、書き忘れたので。
存在としての善の完全な欠如=悪ではなく、善の完全な欠如=無です。
従って悪も存在しない状態と考えるのが妥当という事です。理論上は。
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この回答へのお礼

 ご回答を寄せていただき たいへんに ありがとうございました。
 
 ご見解が ちがっていて それは 前提が違っているということのようですね。
 わたしの提示した前提では 考えられないというご趣旨だと受け取りました。
 その点 了解いたしました。

お礼日時:2009/02/13 21:17

こんばんは、brageloneさん。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どこだったか 分からないだけではなく その話の中身も 覚えていない。というていたらく。

 ただし 《第二の死》ということは これまでに 触れたことがあったと記憶しています。

 ○ 善が完全に欠如した状態は 人間として 死だと規定します。
 ○ ふつうは この死が――なぜなら 善が欠如しただけですから その善を埋めればよいわけです それなのに―― しかも 死ななくなる。
 ○ 死の状態が 固定してしまう。
 ○ 埋め合わせればよいはじめの死は 第一の死です。この第一の死が 固定してしまって 埋め合わすことも出来なくなった状態 これが 第二の死です。
 ○ つまり 第一の死が 死ななくなった状態です。
 ☆ これは 人間として 実在するとお考えになりますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html
右脇にくれないの傷跡(あと)ふたつですと?うーん。だとすると、仏さんは左利きか。脇に差すといえば…脇差し。で、傷跡ふたつとなれば、大小を腰に下げていた。で、右脇に跡なのだから自ずと左利きだと推察できようか。あかく跡が残るとは…よほどの力がかかったか、脇に差した大小が熱をもつかしなければこれほどまでに跡は残るまいに。仏さんに何があったというのだ。うーむ。

【QNo.4278933 命が大事ならば】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4278933.html
“肥料だってほかの動植物の死骸だよ。”

また、クッサイこと言うて  ヾ(-_- ) ちょっと ちょっと 無理がある
植物がテクテクテクと動物の死骸のとこまで歩いて行って
「お命ちょうだいいたす」とでも言うかー?
言うわけないやん。



ほーい、時代劇場バージョン?

敵討、仇討ち…相殺…家名の復興

【相殺とは】
http://www.kazu4si.com/HP/kaisyuu/nakami/sousai. …
http://www5f.biglobe.ne.jp/~saigyou/sousai.html
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この回答へのお礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ですが よう分からん。なんのこっちゃ?

 相殺すべき債権債務があるってことですか?
 何かのことで おあいこってことですか?

 ヾ(-_- ) ちょっと ちょっと 無理があるよ。

お礼日時:2009/02/13 18:25

maimaisusです。



>《死が死なない》絶対悪のほかに 限りなく絶対悪に近い究極悪があるかも知れません。
 言いかえると――どれだけの妥当性があるか分かりませんが―― 《永遠の死であり悪であるサタン》に仕える悪鬼 この悪鬼になった人間は いるのではないか。こういう問いも 派生していると考えることができます。

存在が善という前提ならば、それは、在りません、存在する限り、善なので、どんな形であろうと、それは善です。言うなれば、善のへそ曲がりです。

>それは 一般的な言い方では まづ《無視・無関心・取り合わない》なのですが 具体的には 《話をしていても 話が 通じない》という場合です。

これいに関しては、幾つかの要因が挙げられると思います。
単に話しても自分が負けるのが嫌で話さない。
精神的に、話している余裕がない。
話す気がない。
思考的に、そう言った話をする土壌がない。(これ、私とbrageloneさんみたいな感じ。)
まあ、他にもあるとはおもいますね。

>わたしは 妹の介護をしているのですが 或るとき かのじょから《お兄さんに面倒を見て欲しいと頼んだ覚えはない》と言われました。この種の発言によって 百回を超えて 絶望に陥りました。《悪鬼》ではないかと疑いました。

自分も似たような事、言われたことありますが、そんな風には、思いませんでいた。
何故ならそれは、自分が自分である為にしていることであって、相手がどう思うかは、相手のかってだと思っているからです。
あとは、そう言う人たちに、そう思わせないように、いかに相手を理解するではないかでしょうか。

 >(1) 《善の欠如》としての悪の究極 すなわち 《善の完全な欠如》は 考えられます。

考えられますが、前提状の話から行くと、存在しません。
そう言う、前提の話です。
従って、2.3.4.は存在しないって事でしょ。今までの話(他の質問を含む)で、そう言う話になっていたと思いますがね。

この回答への補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 関連質問を出しましたので 注意が分散するかも知れません。
 まづは 整理します。

 【A】 《絶対悪》は 《第二の死》として 理論上 考えられるが これは 人間において 実在するか。

 (A-1) 第一の死: 存在としての善の完全な欠如 = 悪の究極の状態
 (A-2) ただし この第一の死も 《悪は存在しない》という前提に立てば 存在に拠って 欠如した善を回復することができる。
 (A-3) 第二の死: 第一の死が 確定し固定してしまい いわば 質が変化して 善の回復が望めなくなった状態 = 悪の究極のさらに究極の状態 = 絶対悪
   * (註) ここで 《いわば 質が変化して》を補います。

 【B】 第二の死の状態にあるものを サタン(悪魔)だと仮りにすると このサタンに仕える悪鬼というものが 考えられる。想像上・理論上考えられるこの悪鬼は では 人間として 実在するか。

 (B-1) もし仮りに 《悪鬼》なる状態の人間が実在したとしても それは 善の回復が見込めると思われる。
 (B-2) そこでは 《絶対悪》への《質の変化》は 起こっていないという想定になる。
 (B-3) 上の二つの事項の認識は それで よいか。

 ★ 存在が善という前提ならば、それは、在りません、存在する限り、善なので、どんな形であろうと、それは善です。言うなれば、善のへそ曲がりです。
 ☆ これは 《悪鬼》の問題についてですが 上の(註)――《〈いわば 質が変化して〉を補います》――および (B-1、2、3)を参照してください。
 もちろん これに対して 《そういう質の変化は 起こり得ない》という見解を示すことも あり得ます。それによって その悪魔に仕える悪鬼というものも 存在しないという見方のことです。
 あらためて お考えいただけるでしょうか。

 ★ 《話をしていても 話が 通じない》という場合・・・に関しては、幾つかの要因が挙げられると思います。
 ☆ これについては 要因・理由がどうであるかを問わず 《話が通じない》という状態を考えます。《咬み合わない・咬み合わせない》場合です。その状態が 一生つづくという場合です。
 したがって こちらの側の《理解の量も質も》 問いません。《通じない》という場合なら 少々おおげさであっても 《悪鬼》ではないかと疑うという場合を 取り上げます。内面を そのように 問わないで 話を進めて行って なるほど 疑いには 根拠がなかった(つまり 間違いであった)と分かれば それでいいという思考実験です。(要因を取り上げて 調べるより 早いと考えます)。

 北朝鮮のえらい人 あるいは 世界の警察を自認するアメリカ政府 それらの思想は 悪鬼に近いでしょうか。どうでしょうか。
 麻生内閣 あるいは 小泉政権は どうでしょう?

補足日時:2009/02/13 15:49
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へー究極の悪そう言う捉え方ですかなるほどね。



brageloneさん論から言うと、てっきり
善性の搾取。例えば快楽殺人とか、大量虐殺・戦争の誘導みたいなことだと思ってました。より多く、人間が死ねばそれだけ善性が減る訳ですから。

brageloneさん論からすれば、
>《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。
は、無いのでは。

この回答への補足

 補います。

 《死が死なない》絶対悪のほかに 限りなく絶対悪に近い究極悪があるかも知れません。
 言いかえると――どれだけの妥当性があるか分かりませんが―― 《永遠の死であり悪であるサタン》に仕える悪鬼 この悪鬼になった人間は いるのではないか。こういう問いも 派生していると考えることができます。

 しかし この悪鬼の事例は 具体的に明らかにすることは きわめて むつかしいと思われます。その事例の情況をすべて説明しなければならないでしょうし その人の生まれてからの歴史をすべて説明しなければなりません。また その人との関係をも 明らかにする必要が生じるでしょうし そうなると こちら・つまりわたしの歴史をすべて説明しないと 判断がつかないと考えられます。
 この前提に立って 簡単な説明で済ませてもよいと思われる事例を 取り上げます。

 それは 一般的な言い方では まづ《無視・無関心・取り合わない》なのですが 具体的には 《話をしていても 話が 通じない》という場合です。
 わたしは 妹の介護をしているのですが 或るとき かのじょから《お兄さんに面倒を見て欲しいと頼んだ覚えはない》と言われました。この種の発言によって 百回を超えて 絶望に陥りました。《悪鬼》ではないかと疑いました。今では ほとんど安定していて ほぼ何の障害もない状態になっていますので 病気が言わせたのかと思われます。

 ほかの事例は もう一点 ほかの人間との関係において ありますが 要するに 話がかみ合わないし 交通が出来ないという場合です。すでに 公表していますが そういう場合もあると述べておきます。
 《お二階さんとのやり取り》も そうかも知れません。

 中途半端のままですが。

補足日時:2009/02/13 12:52
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この回答へのお礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

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 brageloneさん論からすれば、
  >《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。
 は、無いのでは。
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 ☆ (1) 《善の欠如》としての悪の究極 すなわち 《善の完全な欠如》は 考えられます。
 (2) それを 《第一の死》と呼ぶことも 考えられるでしょう。
 (3) 《悪は 存在しない》の命題にもとづくなら この《第一の死》として 善が完全に消滅したとしても なお 存在に拠って その回復が 得られると 理論づけることは できるでしょう。
 (4) では この《第一の死》が もはや 固定してしまうこと したがって 元の存在の善なることが 復活しなくなること これは ありうるか。
 ☆ こういう問いです。
 (4)は 《究極の悪なる状態》として 《第二の死》と呼ぶようです。この理論は 実在の人間存在において 現実となるものなのか。どうでしょう。

お礼日時:2009/02/13 11:04

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