プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

A 回答 (81件中31~40件)

生きようとする→生きることができる。

良い影響を受けたい、人にも良い影響を自分が与えられたら…これは自然が与えた、本能レベルにある「精神の自己保存」超自我ではないでしょうか。

天地に人の存在価値はなく、唯、人と人に関係が生じることで人間の価値があるものと仮定します。というか断定してもいい。「価値」を表明したり判断するのは人間以外に居ないものだから。

人間関係の接点に「想い、想われる」があれば存在論的に「生きるに値する人」ということにして(いつもながら曖昧に進めます)、どうして想うだけで存在価値になるかというと、生きると何かをしてるからです。

何かすると何か想われる。それが生きてる人との関係であろうが、死んだ人との関係でも、まだ名前も性別も分からない生まれる前の人でさえ想われるのは非生産的な人間ではないといえますよ。

死んじゃったら自分の身を守ることも何か行為することも出来ないけれど、生きることの主体が「能動的な行為の総体」と見なすよりも「受動的に想われ具合の相対」として見なせば死者も感銘を与え続ける限り能動的に生きていることになります。

生きようとするには能動的な手ごたえの呪縛から放たれ、受動的に「想われる」ことで自分を守らずいても生きることが出来る。

というものらしいです。ちょっと危ない理論かもしれません。
満開の桜を見ました。桜って花が散ってから、太陽の栄養を摂って芽吹くのが不思議です。人生の奥義(?)はこれからだという若い命を散らせた過去の英霊を想いました。彼らが与えた感銘が、彼らが今も生きてる証としたいです。

真の優しさは悲しませる。のだという。
大切さは怒らせるものとも想う。
悲しませる、怒らせるが排他なら、優しすぎず、大切にもしない。のがいいのかなぁ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>生きようとする→生きることができる。良い影響を受けたい、人にも良い影響を自分が与えられたら…これは自然が与えた、本能レベルにある「精神の自己保存」超自我ではないでしょうか。
:「>本能レベル」というのは、自然な欲求という意味でしょうが、その意味であればおっしゃるとおりと思います。

>生きようとするには能動的な手ごたえの呪縛から放たれ、受動的に「想われる」ことで自分を守らずいても生きることが出来る。
:これは、悟りの境地?なのでしょうかね。
でも、なかなか良いフレーズですね。

>満開の桜を見ました。
:北国なので羨ましいです。

>桜って花が散ってから、太陽の栄養を摂って芽吹くのが不思議です。人生の奥義(?)はこれからだという若い命を散らせた過去の英霊を想いました。彼らが与えた感銘が、彼らが今も生きてる証としたいです。
:特攻隊ですか・・・。
彼らも国家による排他の犠牲者ですね。

>真の優しさは悲しませる。のだという。
大切さは怒らせるものとも想う。
悲しませる、怒らせるが排他なら、優しすぎず、大切にもしない。のがいいのかなぁ。
:深いとこついてきましたね。
優しくしないで怒らせたり、大切にしないで悲しませたり、もあります。
優しさも大切にすることも必要なことですが、優しさと甘やかし、大切にすることと自由を奪うこと、これらを混同してはいけない、ということなのかもしれませんね。
 

お礼日時:2009/04/07 20:13

おはようございます。



> 哲学で論理的に解決できないものでしょうかね・・・。
私は「論理では解決できない」と考えています。
正確に言えば「論理だけでは解決できない」と考えています。
> それをするならば五体投地の意義を十分に理解させてからでないと
> 意味がないのではないか
私は「そんなの当り前じゃないか」と思うのですが。
説く、というのはそういうことではないでしょうか。
説く、とは「物事の筋道を話して分からせる」ことです。

辞書的な解釈はさておき
問題は「分からせる」ためには何が必要か?です。
> 「あ、そうだよな・・・」と素直に、あるいは直感的にでもいいですが、
> 納得できるような論理
「あ、そうだよな…」と直感的に納得できるのは
経験知から類推解釈できるからだと思います。
難解な言い回しをしてしまいましたが
「そういうのってアリかも」と思えるのは
見たり聞いたり経験したこととの共通性のようなものを感じるからでしょう。
多分、hakobuluさんの仰る納得できるような理論とは
言い換えれば「リアリティ」ではないでしょうか。

例えば礼節を、先の回答では辞書に準じて
>「社会生活の秩序を保つために必要とされる行動・作法」です
と書きましたが、これをとりあえず文字通り受け止めれば
礼節を考えるために社会に対して「リアリティ」を、まず持つ必要がある筈です。
とはいえ、ここで論じたいのは「礼節」についてではありません。
礼節は、あくまで、以下を論じる例として挙げたものです。
> 環境に対する個の位置づけをきちんと持たなければならない筈で
> 個の位置づけを持たずに、個の内面ばかりを膨張させて
> 無限に膨らんだ個がメリット/デメリットを論じようとするのが
> イケナイのだと思います。
ここで言う環境とはエコのことではなく
自分を取り巻く外部のことです。
自分が寄生し共生する外部のことです。
内面ばかりで外部のない人、外部にリアリティを持てない人に
自己と外部(非己)のバランスをどう論理化して哲学として伝えても
「あ、そうだよな…」と直感的に納得することは出来ないと思うのです。
> 環境があまりに流動的でありすぎて
> 位置づけの手がかりがなかなか見つけにくい状況である
> 可能性はないでしょうか。
多分、自分の外部に「絶対」を想定する力が弱いのだと思います。
絶対、はNo.50のbragelonneさんに説いて頂いた方がイイのですが
要するに「理論で捉えられない領域」です。
理論で論じられたら「相対」ですから。
「この世界は自分の都合とは別にある」という単純なことに気づけないと
「この世界は自分の都合とは別にある」という単純なことにリアリティを持てないと
> 環境があまりに流動的でありすぎて
> 位置づけの手がかりがなかなか見つけにくい
と思ってしまうでしょう。

外部にリアリティを感じられない人に対しては
外部がリアルに働きかけないと
(一般的には教育という形で干渉するのでしょうか)
(当然、教育する側は外部にリアリティを持ってないとダメですよ)
(一般的には「他者への敬意を持って」などというのでしょうか)
その人は多分、永遠に「自分が世界の全て」であり
「外部」=「異物」=「排除してイイもの」としか捉えない筈です。

外部に絶対を想定して
外部と自己の位置づけを考える、すなわち
自己を相対化して、はじめて外部とのインターフェイス、すなわち
顔が出来る。
顔は、アイデンティティと言い換えてもいいでしょう。

この辺りの話はhakobuluさんも以下のQ&Aにご参加されているから
周知だとは思いますが・・・
http://okwave.jp/qa4803472.html
顔のない者=のっぱらぼうの見る風景は
全てがのっぺらぼうなんでしょうね。
気持ち悪いから排除しちゃえ、って感じなんでしょうね。

この回答への補足

あ、どうも、こんばんは。
ご回答ありがとうございます。

>私は「論理では解決できない」と考えています。
正確に言えば「論理だけでは解決できない」と考えています。
:そんな気もしないではないのですが、しかし、たぶん私の理解力不足なのでしょうが、
>説く、とは「物事の筋道を話して分からせる」ことです。
:ともおっしゃっているわけで、どうもうまくお考えがつかめません。
つまり、「筋道=論理」と単純に考えているのですが。

>「あ、そうだよな…」と直感的に納得できるのは
経験知から類推解釈できるからだと思います。
:なるほど、それはあるかもしれませんね。
ひとつ勉強になりました。

ただ、
>言い換えれば「リアリティ」ではないでしょうか。
:でもありましょうが、眠っている経験知に訴えかける言葉や論理はないものでしょうか。
う~む・・・。
と納得できるような。
あるいは、
ハッ!
と気づくような。
必ずしも私たちはリアルを把握しているわけではないような気もするのですが。(自他共に対して経験知とは未知の要素も多いのでは?という意味です)

>(礼節は、あくまで、以下を論じる例として挙げたものです。)
環境に対する個の位置づけをきちんと持たなければならない筈で
:ということになるわけすか。
なかなか新鮮な視点と感じます。

> 個の位置づけを持たずに、個の内面ばかりを膨張させて
> 無限に膨らんだ個がメリット/デメリットを論じようとするのが
> イケナイのだと思います。
:たしかに【ばかり】ではいけませんよね。

補足日時:2009/04/07 19:48
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この回答へのお礼

(つづき)
>内面ばかりで外部のない人、外部にリアリティを持てない人に
自己と外部(非己)のバランスをどう論理化して哲学として伝えても
「あ、そうだよな…」と直感的に納得することは出来ないと思うのです。
:筋は通ってますね。
丸め込まれそう・・・。^^;

しかし、おっしゃるとおり、
>多分、自分の外部に「絶対」を想定する力が弱いのだと思います。
:ここなんですよね。
わざとリアリティを持たないでいるわけではない、ということがね。
深い問題なのだと思います。
どうしたら、
>「この世界は自分の都合とは別にある」という単純なことに気づけ
:るようになるでしょうか。
私見では、自分の都合が認められた経験を持たない者が、そのようなことに気づけなくなってしまうように考えます。
自分の都合が認められないのであれば、他人のそれを認める必要もないはずだ、というわけです。
あなたの都合も大いに認めましょう。
というところから始めないと、いくら「>単純なこと」でも納得できないでしょうし、納得できないことを人は実行しないものでしょう。

>外部にリアリティを感じられない人に対しては
>外部がリアルに働きかけないと
>その人は多分、永遠に「自分が世界の全て」であり
>「外部」=「異物」=「排除してイイもの」としか捉えない筈です。
:「リアルに働きかけないと」とおっしゃる点はわかるんですけどね。
「働きかけ方」の問題になってくるのかな・・・。
もしそうだとすれば、働きかける側の人格といったようなことも影響してきますね。
そうすると、働きかけてそれが有効に作用するような人格というのはどういうものだろうか、ということになりそうです。
つまり、「>外部にリアリティを感じられない人」に対してどのような評価をしているのか、によって違ってくるような気がします。

暴走族でも北朝鮮でもやくたいもない回答者でもいいですが、「外部にリアリティを感じられない人」に対する場合、その心情をどのように捉えた上で「>働きかけ」をするのが有効なのかという問題に進んでいくのでしょうね。
 
 

お礼日時:2009/04/07 19:48

#52ぽこぺろぽです。



 箱ぶるさんの必要悪としての排他性を狭めるべきとのお考えはよくわかります。

 ではをその判断基準をどこに置くべきか、これに尽きるでしょう。箱ぶるさんは話し合いが重要とのお考えのようですね。あなたと私ならそれでいいでしょう。あなたの質問に私が真面目に答え、あなたが丁寧なお礼を返されました。すでに両者とも対話の姿勢が出来上がっているわけです。

 しかし北朝鮮はミサイル包囲網と経済制裁をちらつかせて、やっと六ヶ国競技の席につきました。しかしのらりくらりと質問の回答にもならない回答を寄越すわけです。あなたのおっしゃるようなやんちゃ坊主とは次元が違います。例の彼もしかり。淋しいには違いありませんが、私の目を見つめることはできずに退散したではありませんか。つまり最初からあなたとも対話する気がないのです。

 ではどうすればいいか。幕末に勝海舟と坂本龍馬が会談するとき、激昂しても刀を抜かないように、互いの刀を離れた場所に置いて対峙したそうです。結論として対話の意志を確認できて、刀狩りに応じないかぎりは排他性は必要悪として用いられることでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> しかし北朝鮮はミサイル包囲網と経済制裁をちらつかせて、やっと六ヶ国協議の席につきました
:たしかに、かの国の問題をやんちゃ坊主で納めようとするつもりはありません。
ただ、ほんの70年ほど前には、かの国より頑なで手に負えなかった国に私たちは住んでいるという事実も忘れるべきではないでしょう。
だから言いなりになる、という意味では全くありませんが、そのようなことを心の片隅に置いて対処するのとそうでないのとでは、(いずれ)おそらくかなりの違いが出てくるように思うわけです。

>つまり最初からあなたとも対話する気がないのです。
:それはわかっていますよ^^;
損だとわかっていてもやってみたい子供がいるでしょ?
あれと同じことです。
ま、もしかしてそれすらわかってないのかもしれませんが、
しかし、そのことを責めても意味が無いでしょう。

>対話の意志を確認できて、刀狩りに応じないかぎりは排他性は必要悪として用いられることでしょう。
:言葉自体が「刀」なので難しいところですが、刀狩りに応じるという気持ちがないと、たしかに対話はできませんね。
いずれにせよ、双方同時に応じるということは難しいわけで、相手の見極めは必要でしょうが、どちらかが先に応じてみる、ということじゃないでしょうかね。
 

お礼日時:2009/04/07 14:04

kigurumiです。




うーん、カコブルさんの視点、これかな?と思ったのですけど、違ったら、ちゃう!って言ってくださいね。


私は排他と認識しないものを、カコブルさんは排他と認識しているんじゃないか と。

これでズレが起っているのかも。


>望むしかない、とまで行けなくても、
>排他という、ほぼ本能的感覚に一石を投じるような展望が開けていけば、と思います。

あの・・・エヴァゲリで説明していいですか?

うーーん セリフが書いてあるページが見つからない。
必殺技 というほどでもないが、動画。

その動画のリンクをここに張ると、サイトから即効削除されるので、、、


序: googleで<渚カヲルの憂鬱>を観て見てください。

アニメだと思ってるかもしれませんが、、、、。
あなたが認識する唯一の世界は、あなたがその世界の創造主ですよね。
だから、<ハルヒが世界を作ったと思える世界>を創造したのはキョン(だと思う)

まだ序ですから、何私が言いたいか わからないかも。

つぎーー

破:  googleで<新世紀エヴァンゲリオン 最終回ラストシーン>を検索して観てみてください。

シンジは他人から好かれること以前に、打たれることに慣れていない。
彼の処世術は他人に同調することで、トラブルを避けてきたので、それは無難な生き方だったが、損なことに殴りあうコミュニケーションもあると学べなかった。

例えば意見を出して、相手が自分と違うことを言うとする。
相手ともめごとを起こしたくなければ、「そうだね 君は正しい」と言いさえすれば、トラブルは防げる。
孤立をしなくて済む。
相手を傷つけないで済むし、自分も傷つかない。

でも、本音とは違うので、不満足は残るわけです。


シンジはいつもアスカにガミガミ言われている。
「あんた馬鹿」と自信たっぷりなアスカに、従うようになる。

アスカの「あんた馬鹿」は相手を見下しているわけじゃない。
彼女の愛情の裏返し。

アスカは強く自分というものを持っている。
だけど、他人の意見も聞きたいわけです。
確信を強めるために他人の意見を聞こうとするソクラテスみたいなもの。

「あんた馬鹿?」はアスカなりの他人とのコミュニケーションの始まり。

ところがそう言われた人は、アスカに拒絶されたと思い込んでしまい、尻込みをしてしまう。


ディスカッションするというコミュニケーションが、アスカなりの他人との接触の仕方。

だって アスカは母親がいなかったから、他人に対する愛情の示し方がわからないから。


というわけで、アスカの「あんた馬鹿」は相手を排除する目的で発せられたものじゃない。

だけど、シンジはアスカによる排除だと勝手にそう思い込んだ。

シンジの捉える心の角度がそうだったため、結果、アスカがシンジを罵倒し排他発言する世界が創られた。

そしてシンジはそれが真実だと思ったし、創造主のシンジにとってはそれが唯一の世界になった。


ジミー・カーターがあまりにもノコノコやってきて対話を望んだ場合、頑固な壁を作っていた相手は、「どうやら彼の目的は説得じゃなさそうだぞ」と思うかも。

「排除しようとする者が、こうもノコノコやって来るわけ無い ひょっとして こちらのことを知りたがっているのか? ジミー・カーターは攻撃者じゃないかもしれない。」

そう相手が思えた時、対話の席についてもいいと思うのかも。
排除だと思っていたが、排除ではなかったのか となれば、扉は開くでしょう。


>イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロ

一つ一つ例を挙げないと、排他につながるのか検証できませんが、虐めに関しては、ちょっと複雑。

一つ目は、本人だけが虐めだと思っているケースもある。
本人がそう感じたら、それが唯一の世界になってしまう。

二つ目は、虐められる側が、実は回りに害を与えているケースもある。
本人は害を与えているという感覚は無い。
御互いの認識のズレ。

虐めはいけない という前に どうしてそういうことが起ったか調べ、起らないように変更するってのが、虐めを減らすことにつながるでしょう。

その調査を怠って「虐めはダメですよ。卑怯なことです。虐めは悪だって説明する必要も無いことをするな」と言って終わりだと 虐めは消えず、地下にもぐって陰湿化するだけ。
より発見が遅れるだけ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>アニメだと思ってるかもしれませんが、、、、。
:いえいえ、拝見しましたがなかなかシリアスなストーリーなんですね。
僕は僕でいていいんだ、という最終回のとこなんかいいんじゃないでしょうか。

>アスカの「あんた馬鹿」は相手を見下しているわけじゃない。
彼女の愛情の裏返し。
:暗黙的にせよ了解がある場合ですね。

>だって アスカは母親がいなかったから、他人に対する愛情の示し方がわからないから。
:大いに考えられますね。

>だけど、シンジはアスカによる排除だと勝手にそう思い込んだ。
:はい。

>シンジの捉える心の角度がそうだったため、結果、アスカがシンジを罵倒し排他発言する世界が創られた。
:自分の「>心の角度」は時折検証してみる必要がありますよね。

>そう相手が思えた時、対話の席についてもいいと思うのかも。
排除だと思っていたが、排除ではなかったのか となれば、扉は開くでしょう。
:そうですね。
怖がらせない。
安心させる。
とういことなのでしょうね。

>一つ目は、本人だけが虐めだと思っているケースもある。
本人がそう感じたら、それが唯一の世界になってしまう。
:エバゲリですね。

>二つ目は、虐められる側が、実は回りに害を与えているケースもある。
本人は害を与えているという感覚は無い。
御互いの認識のズレ。
:これもあるでしょうね。

>虐めはいけない という前に どうしてそういうことが起ったか調べ、起らないように変更するってのが、虐めを減らすことにつながるでしょう。
:おっしゃるとおりですね。
ただ、いじめによる被害と本人が感じるようであれば、その(感じたという)事実を周囲がまず受け止める体制(習慣)は取っておく必要があるでしょうね。

お礼日時:2009/04/07 23:15

kigurumiです。



>kigurumi さんもある程度はどんどん言っちゃうほうでしょうから、今さらですが、やはり言うべき時は言うことが大事なのでしょうね。

はい、言ってもいいんです。
和・調和を美徳とする集団からすると、和を乱すとんでも野郎になりますが、そういう人がいない集団は、文明が停滞する。

ただ、他の人とは違うので、孤立する。

孤立が怖いのなら、いくじなしと言われようと、集団に歩調をあわせる方が無難な生き方でしょう。


なんだっけ? 前、五木なんとかが本に書いていた。
彼は昔、カモメのジョナサンという外国の小説を翻訳したらしく、自分が翻訳した本の主人公ジョナサンは馬鹿だと言っていた。

ジョナサン 何者?と内容を調べて、「ああ、、、私みたいなものか」と苦笑した。
五木なんとかからすれば 私は馬鹿らしい・・苦笑。


wikiで今カモメのジョナサンを調べたら、『下界のカモメからは悪魔と恐れられて…。』と書いてある。

ちなみに私は某宗教の信者たちから 悪魔 と呼ばれてます。
某宗教の信者達って下界の人だったのか!
なわけないですね。
両者とも同一の次元に住んでいる。

ただ 見る角度が違うから、違うものになっているだけ。

ジミー・カーターだって、どんな嫌な相手であっても、自分と同じ次元に住んでいる、が見る角度が違うため、認識が違ってしまっている と思っているのではないか と。

だったら、解決手段が見えている。
それぞれ相手がどの方向から見ているかわかれば、相互理解が深まり、解決につながる。

私は某宗教信者にどのように見えるのか説明しろーって迫るのですが、説明してくれないので、本気出させようと煽る。笑
でも、出てこない。
もしかして実体が無いから説明したくでもできないんじゃないか と思い始めています。

えーーい お前らもういい! ってことで独自に調べて「そゆことか」と一応 納得。



>一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。

排他性じゃなくて <違い> ですね。
違いが無ければ、影響を受けることは無い。


>どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

違いがあるから影響を受ける。
時にはそれは良い影響でもあることもある。


違いに耐えられないのなら、自分の思想を持たずメジャーな思想に思考せずついていくのが、自分が傷つかないですむ方法でしょう。
ただ そこには自分は居ませんけどね。
いるが 同化しているので、存在しているのかどうかわからない。
だって周りと違いが無いから、違いがわからないと自分がわからないから。


ってなことを、エヴァゲリを見て感じたこと。

シンジは他人との違いが恐ろしくて、他人の言いなりになるんです。
これが彼なりの処世術。
他人と違うと、他人に捨てられ孤独を味わう。
それが怖くて他人の言いなりになっていた。


で、
アスカに詰め寄る場面がある。
アスカに自分に何をしろと命令してと懇願する。
アスカは「あっちいって」と拒否。

「あんた誰でもいいんでしょ。 みんなが怖いから私に逃げてるだけじゃないの。」


拒否されたシンジはどうしたと思います?
アスカの首を絞めた。

それほど、孤独を嫌ったわけです。
で、結局「みんな死んじゃえ、自分も死んじゃえ」と他人に向けたタナトスを自分に向けたため、世界が終った。

世界は個人個人の心で作られているわけで、その創造主を殺したら、世界は終るしかないでしょ?


アスカはアスカで他人に認められることで、自分の存在を確認していた。
他人に認められなくなった彼女は廃人になった。
あとで、ATフィールドの意味がわかり、もりもりATフィールド張って自分を形作りましたけどね。

シンジもそう。
違いが存在する世界を容認したため、魂だけの実体から人の形を取り戻した。


ATフィールドは、他人と自分との境界線。
境界線が無いと自分が無い。
境界線があると、違いが出現し、他人のATフィールドに接触したとき(違いに接触したとき)自分が痛い思いをする。


ってなことで、

>「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

生きようとするとATフィールドが出現し、それは他人を傷つけるし、自分も他人のATフィールドに傷つく。
それでも自分を形つくりには、異質が絶対に必要。
自分という唯一の個性を形作るには、異質の存在を望むしかない。

自分とは違う者の存在を容認する。
容認するってことは、仲良くするってことじゃない。
ATフィールドで自分が他人を傷つけ、自分も他人のATフィールドで傷つくが、それでも生きたいと思うことが、自分の心が作る唯一のこの世を再生する。


ってことが、エヴァゲリのメッセージかなぁ??

ってことで、新世紀エヴァンゲリオンの哲学など 触れてみてはいかがでしょうか。

尚、ゼロテ党にひきずられてユダヤ戦争に突入した というのは、そうなのですが、別の要因がなければ、ユダヤ戦争にはならなかった。
今回 関係ないので、何故ユデアの人々がローマを自分達の国から排除せざるを得なくなったのかは説明しません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>和・調和を美徳とする集団からすると、和を乱すとんでも野郎になりますが、そういう人がいない集団は、文明が停滞する。
:濁った水は腐る、ですね。
中には却って腐らせるような場合もあるみたいですが。

>前、五木なんとかが本に書いていた。
彼は昔、カモメのジョナサンという外国の小説を翻訳したらしく、
:五木?ひろし?。まさかね。
あの人は 同じかもめでもジョナサンじゃなくて「かもめ町みなと町」か。
あ、五木寛之のことですね。

>ジミー・カーターだって、どんな嫌な相手であっても、自分と同じ次元に住んでいる、が見る角度が違うため、認識が違ってしまっている と思っているのではないか と。
:共感できます。

>それぞれ相手がどの方向から見ているかわかれば、相互理解が深まり、解決につながる。
:そうですね。
その方向を据えている場所が、みなそれぞれ複雑みたいなので難しいんでしょうね。
でも、この視点はわかりやすくて有効じゃないでしょうか。

>違いが無ければ、影響を受けることは無い。
:はい。

>違いがあるから影響を受ける。
時にはそれは良い影響でもあることもある。
:だから、排他性の場合って言ってるでしょ。^^;

補足日時:2009/04/06 22:21
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この回答へのお礼

(つづき)
>違いに耐えられないのなら、自分の思想を持たずメジャーな思想に思考せずついていくのが、自分が傷つかないですむ方法でしょう。
ただ そこには自分は居ませんけどね。
:そういうことなんですよね。
いいこと言うなあ・・・。

>ってなことを、エヴァゲリを見て感じたこと。
:ガクっ・・・。

>世界は個人個人の心で作られているわけで、その創造主を殺したら、世界は終るしかないでしょ?
:まあ、主観的にはそうですね。

>シンジもそう。
違いが存在する世界を容認したため、魂だけの実体から人の形を取り戻した。
:あ、生き返ったんですか。
よかった・・・。

>ってなことで
:はい。
以上は決して雑談ではなく、これを前提にして核心に迫っていただけるということですね。
深い一行です。^^;

>それでも自分を形つくるには、異質が絶対に必要。
自分という唯一の個性を形作るには、異質の存在を望むしかない。
:ははあ、こうきますか・・・。
なかなかですねえ。
ここは深めていくと面白いかもしれません。
望むしかない、とまで行けなくても、
排他という、ほぼ本能的感覚に一石を投じるような展望が開けていけば、と思います。

>新世紀エヴァンゲリオンの哲学など 触れてみてはいかがでしょうか。
:kigurumi さんの解釈があったればこそですね。
大変興味深く拝見しました。
 

お礼日時:2009/04/06 22:21

土日の間に物凄くスレッドが伸びましたね。



> 礼節を知らない人間に礼節を説いても意味がない
知らないことを説いても意味がない、という発想は全く共感できませんが
とりあえずそういうことだとしたら
> 「弱者を保護する」ことが、
> 動物とは違うところの人間のある部分を満足させ得るのだ、
> という哲学を示すことが本道ではないかと
『「弱者を保護する」ことが、動物とは違うところの人間のある部分を
満足させ得る』ということを知らない人に哲学を示して意味があるのですか?
知らないことを説いても意味がないが
知らないことを哲学で示せば意味をもつ、というときの
哲学って何なんだろう?と思いました。

今回の与件を確認しておくと
> 「生きようとすると排他の関係になる」から
> 「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには
> どのような哲学が必要と思われますか?
ですから、私がNo.24の回答に書いた
> 「評論家気取りの傍観者目線」をなくすことです。
というのは「行動せよ」という哲学のつもりなのですが
> 側面からのアプローチになるように思います。
これは「側面からのアプローチ」なのか・・・orz

> 評価されるべきである、という根拠となる哲学無しでは
> 評価もおざなりになり、永続性に欠ける
という考えを前提としてお借りしますが、与件である
> 「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには
という一文は
●排他を発揮しなくとも生きることができるとしたいのだが
 (排他を発揮しなくとも生きることを正当化したいのだが)
 その根拠となる哲学無しでは永続性に欠ける
と書き換えられると思います。
言葉遊びになっちゃいますが
●排他を発揮することなく生きていこう
と言い切れば、それはそれで立派な哲学だと思うのですが
(イエスもジョン・レノンも似たようなことを言っていたと思います)
それでは根拠がなくて説得力がない、ということか・・・
私は自分一人で生きられるとは思ってないので
●排他を発揮することなく生きていこう
と言われて、そんなに疑問を抱かなかったのですが
それでは根拠がなくて説得力がないのか・・・
ここで悩むのは「根拠となる哲学」ってどういうものですかね?
例を示して頂けると助かります。

回答のスペースなのに質問だらけになっちゃいましたね。
補足要求としておきますね。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>【礼節を知らない人間に礼節を説いても意味がない】
知らないことを説いても意味がない、という発想は全く共感できませんが
:ここは補足させてください。
礼節というのは(その根本的必要性を示すというよりは)あくまで決まりごととして教えるものですよね。
ですから、たとえば、その習慣のない日本人に五体投地をやらせようとするようなものではないか、と感じ、それをするならば五体投地の意義を十分に理解させてからでないと意味がないのではないか、と考えたわけです。

あるいは、意味もわからぬままお経を読め、と言うようなもの?でしょうか。
只管打座でしたっけ、ひたすら座禅することが悟りへ近づく道である、のような意図でおっしゃっているのであれば、そういう考えかたもあるのかな、と思うわけですが、そういうことでもなかったんですよね。

以上が、
>知らないことを説いても意味がないが
知らないことを哲学で示せば意味をもつ、というときの
哲学って何なんだろう?と思いました。
:に対する返信になります。
ここにおける私の骨子は、
【意味があるとすれば、礼節の意義が実感として本人の心深く納得できたときでしょう。】
という部分です。

補足日時:2009/04/06 19:33
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この回答へのお礼

(つづき)
>「評論家気取りの傍観者目線」をなくすことです。
というのは「行動せよ」という哲学のつもりなのですが
【 側面からのアプローチになるように思います。】
これは「側面からのアプローチ」なのか・・・orz
:そうですね。
ここに関しては、揚げ足取りの形になってしまいますが、決してそういう意図はなく、
(礼節の)意味も理解できないまま行動しても意味がないのではないか、ということになると思います。
こういった時点で、取りも直さず、礼節というものの意味を私自身が理解してないのだろう、と自己分析せざるを得ないわけですが、それもまた質問の一要素であったとご斟酌願います。

>●排他を発揮することなく生きていこう
と言い切れば、それはそれで立派な哲学だと思うのですが
(イエスもジョン・レノンも似たようなことを言っていたと思います)
それでは根拠がなくて説得力がない、ということか・・・
:全くおっしゃるとおりです。

>●排他を発揮することなく生きていこう
と言われて、そんなに疑問を抱かなかったのですが
それでは根拠がなくて説得力がないのか・・・
:そう思います。

>ここで悩むのは「根拠となる哲学」ってどういうものですかね?
例を示して頂けると助かります。
:と言われましても、それを質問させていただいているのですが。^^;
「あ、そうだよな・・・」と素直に、あるいは直感的にでもいいですが、納得できるような論理、といったようなものでしょうか。

どんな宗教でもその根本は「汝の隣人を愛せよ」だと、この前テレビで言っていましたが、愛すべき時と対峙すべき時があるというのが実際のところだろうと思われます。
宗教はここを逃げているように思います。
あるいは無理押ししている。
哲学で論理的に解決できないものでしょうかね・・・。
 

お礼日時:2009/04/06 19:33

自分の身を守るのは生きるためには必要なことです。

排他性は積極的に発揮されるべきではありませんが、他者が正当な理由も愛情もなく何かを貶めるときは、緊急避難として認められるでしょう。

 たった今、あなた自身がしつこい回答者につきまとわれているではありませんか。彼は私にも二つの質問に渡ってこれを続けたのです。誰もが認める状況においては、このような人にはその排他性をいかんなく発揮されるがよろしい。彼は誰も相手にしなくなるまで、回答にならない回答で人を貶めることをやめないでしょう。この過渡期においては、それをやめさせるのも立派な愛です。

 成熟した社会においては、我が身を守るための排他性は唾棄すべきものです。しかしあまりに未成熟な社会においては必要悪だと考えます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>排他性は積極的に発揮されるべきではありませんが、他者が正当な理由も愛情もなく何かを貶めるときは、緊急避難として認められるでしょう。
:同感です。
正当防衛も排他の一種ではありますが、これがなければ生きられませんしね。
正当防衛と過剰防衛の境界はどこだろうか、ということにもなるでしょう。

>私にも二つの質問に渡ってこれを続けたのです
:本当に寂しくて相手してほしかったんでしょうね。

>この過渡期においては、それをやめさせるのも立派な愛です。
:おっしゃることの正当性は理解できます。
それが必要な場合も大いにあるでしょうね。

しかし、やんちゃ坊主が遊んでいる集団にちょっかい出していたずらしてる、という印象が私にはあります。
無意識では仲間に入れて欲しいんじゃないでしょうか。
そうではないとしても、自分の考えや思いをわかって欲しい、という気持ちが強いのだと思います。

補足日時:2009/04/06 15:11
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この回答へのお礼

(つづき)
そのような場合、堂々と相手の立場も考慮しながら物を言うのが大人の対処なのですが、なにしろ、やんちゃ坊主の場合はね。
現実においては、無視され、馬鹿にされ、一度も認められたことのない人でしょう。
つまり、素直に表現することが怖くなっているわけですよ。
一種の錯綜(コンプレックス)があるということですね。
可哀想な人に決まってますから、そのへんのことも斟酌してあげたいものです。

> 成熟した社会においては、我が身を守るための排他性は唾棄すべきものです。しかしあまりに未成熟な社会においては必要悪だと考えます。
:おっしゃることはよくわかります。
また、必要悪としてのそれも否定はしません。
ただ、「必要」と思うその範疇を超自我的意志を用いて少しづつでも狭めていかないと、いつまでたっても必要悪は無くならないのではないでしょうか。

>彼は誰も相手にしなくなるまで、回答にならない回答で人を貶めることをやめないでしょう。
:まあ、そうかもしれませんが、そういったこととの兼ね合いかもしれませんね。
数人の方が主張され、今の段階ではもはや定着しているかと思われることですが、「排他からの脱却」に必要な要素として、「徹底した話合い」があげられています。

しかし、「話し合いのための条件」も個々それぞれ異なるようで、そう一筋縄ではいきそうもありません。
このへんを探っていきたい、とこの意味でも上記のように考えるわけです。
 
 

お礼日時:2009/04/06 15:09

 No.49です。



 ★ (No.49お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「もう少し勉強してみてからというふうに思っています。」
ではなく、
 「よく理解できませんでした」
と素直に表現すべきだったかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どちらにしましても その表現を
 ☆☆ 探究範囲の相違という理由
 ☆ という言い方で 受けて お応えしました。つまり その心は 《もう おまえの理論は 要らない》という本意だとおもんぱかってのわたしの行動です。

 こんなことは どうでもよいことです。その程度の排他性は 日常茶飯事です。わたしにとっては 許容範囲です。自由です。そうではなく わざわざ さらにこのように投稿しましたのは 次の誤解が なお残っていると思われるからです。

 ★ (No.49補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「散逸構造の理論」によって、
  『 (α) 「存在しているものとは残っているものだ」という事実と、その構造を興味深い視点から教えていただいたと思っています。』
 が、
  『>偶然のもたらす新しい秩序の再形成が過程されるのではなく 自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行する』
 :というお考えには同感であり、それは私の基本線でもありますし、それは全く変わっていません。

 ということを申し上げたわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち このお考えに文句を言おうとするのではなく 反論すら もう しませんが そのようにお考えであることの内容に関して わたしは 矛盾がある・つまり二つの見方は互いに両立しないと思っています――こう ひとこと 重ねて 述べておかないことには それに わたしも 賛成したことになるおそれが出てまいります。ひとえに この思いで さらに 投稿いたしました。
 見解の相違ですから これも 互いに 自由のゆるす範囲ではないでしょうか。
 くれぐれも 批判――に 結果として なるかも分かりませんが その批判――のためにではなく(なぜなら 根拠も 示していませんし 示そうともしていません) わたしに対する誤解を 防ぎたい この一心からです。では。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>その心は 《もう おまえの理論は 要らない》という本意だとおもんぱかってのわたしの行動です。
:そうですね。
たしかに前者は、そう取られてもいたしかたない表現だったかもしれませんね。
その意味で【素直に】言い直したわけですが、それすらもこのように解釈されてしまうわけですか。
ということは言葉尻を捉えるようで申し訳ないですが、
仮に、「よく理解できませんでした」と bragelonne さんが表現される場合には、必ずそういう意味である。
このように解釈してよろしいでしょうか?

>その程度の排他性は 日常茶飯事です。
:とのことですが、徹底して話し合うことに重きを置いている方のお言葉とも思えません。
排他性は指摘し、相違があれば共有できるように近づけるものだとばかり思っていましたが。
しかし、そのように感じてしまわれたならば、それは反省すべきなのでしょう。(私が、ということですが)

>そのようにお考えであることの内容に関して わたしは 矛盾がある・つまり二つの見方は互いに両立しないと思っています
:事実を検証するということと、その後の展開を思考することが、両立するしないという問題でしょうか?
先の大戦下において、アメリカの兵力が圧倒的に勝っていることを証明したために、売国奴だと言われたような感覚ですね。

> 見解の相違ですから これも 互いに 自由のゆるす範囲ではないでしょうか。
:#44における、
『自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行すると考えます。』
というご見解と矛盾しているように思われますが。

あ、しかし、誰しも、「もうやってらんないよ」というキャパシティの問題がありますからね。
それを忘れてました。
bragelonne さんのご見解を示していただけただけで十分ありがたいことだ、と思うべきなのでしょうね。
お世話になりました。
久しぶりに殺伐とした気分に浸されております。

以下独白。
「>直裁的で歯に衣着せぬ表現には、時として好感」とのバランスなんだろうな。 
 

お礼日時:2009/04/05 19:30

 No.44&30&19&10です。



 探究の範囲がちがうとおっしゃったことを 了解しましたとお答えして 立ち去る意を ほかの余計ごとといっしょに 書きこんだので ややこしくなりました。

 ★ (No.44お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >偶然のもたらす新しい秩序の再形成が過程されるのではなく 自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行すると考えます。
 :同感です。
 基本線は全く変わっていません。
 (α) 「存在しているものとは残っているものだ」という事実と、その構造を興味深い視点から教えていただいたと思っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 引用部分は あたまの《偶然の理論によって 》というところが抜け落ちていますが それは 別として 
 ★ 同感です。
 ☆ と言われて そのあとの説明部分(α)では わたしの考えと まったく 違っていますので そのことをのみ 明らかにする義務があると思ったゆえの投稿です。

 こうなると さらに ややこしくなるかも知れないと思いますが 少々の不利が わたしのほうに降りかかっているだけであるならば もう 投稿は致しません。最初に述べたところの 探究範囲の相違という理由によります。それでは。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>偶然の理論によって 偶然のもたらす新しい秩序の再形成が過程されるのではなく 自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行すると考えます。
:前回のこの部分は、cyototu さんおっしゃるところの、「散逸構造の理論」を念頭に置かれて(反論して)いるのかな、と感じてしまい、あのような表現になりました。
端折りすぎですよね。
失礼しました。

「散逸構造の理論」によって、
『 (α) 「存在しているものとは残っているものだ」という事実と、その構造を興味深い視点から教えていただいたと思っています。』
が、
『>偶然のもたらす新しい秩序の再形成が過程されるのではなく 自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行する』
:というお考えには同感であり、それは私の基本線でもありますし、それは全く変わっていません。

ということを申し上げたわけです。
わかりづらい表現をしてしまったことでお手数をおかけしてしまい、申しわけありません。
誠意あるご投稿に感謝いたします。
 

補足日時:2009/04/05 16:31
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この回答へのお礼

(つづき)
ところで、
#30補足欄における、
『>>いわばその全体の支配の構図を 縮小して=相似形において 見倣うぶんには その社会体制にとっては 《和を乱す》ものではないと受け取られるということでしょう。
:そうでしょうか・・・。
しかし、その「全体の支配の構図」は、どのような理由でできあがったことになるのだろうか、という疑問は残ります。』
という部分に関して bragelonne さんから何らかの言及があるものと暗に期待していたのですが、それが無く、しかし、私が余計なことを述べてしまったせいもあったのでしょうが、「>どうでしょう」と言われて、ご迷惑かもしれないと考えあえて答えを求めませんでした。
差し支えなければ、軽くで結構ですが、ご見解を示していただければ有難いと思います。
「>どのような理由で」とは、「>どのような欲に端を発しているだろうか」という意味です。

同じく#30補足欄で、
『>それが 明確に現われるのは やはりおそらく 一定の社会全体に 支配構造が形作られたあとではないか
:というご見解については、もう少し勉強してみてからというふうに思っています。』
と述べているところですが、
「もう少し勉強してみてからというふうに思っています。」
ではなく、
「よく理解できませんでした」
と素直に表現すべきだったかもしれません。
よろしくお願いいたします。
 

お礼日時:2009/04/05 16:31

だから質問の設定から実相と乖離しているという。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

浅学なもので、もしかするとそういう側面はあるかもしれませんね。
どのように乖離しているのか『わかりやすく』教えていただけるとありがたいのですが。

お礼日時:2009/04/05 13:27
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