アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

A 回答 (81件中51~60件)

動物だと「種」で行動パターンが決まっております。

で生活スタイルの違う別種を排除しようという生活様式になります。しかし人間はただ一種なのに、生活様式は非常に段階バリエーション豊富で、これが排他の根本にありますね。なので本能的には極自然な状態ではないかなと
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間はただ一種なのに、生活様式は非常に段階バリエーション豊富で、これが排他の根本にありますね。
:なるほど。
そういう見方もできますか。
同種の動物でも排他はありそうですが、文明が人間をより排他的にしてきたのかもしれませんね。

>本能的には極自然な状態
:ということもわかります。
そうなると、段階バレーション豊富にできたのは本能以外の一種の能力だろうと思うのですが、この能力の片面の開発に留意していければいいかもしれませんね。
 

お礼日時:2009/04/03 20:20

 No.19&10です。


 
 No.10のほうで
 ○ 排除された第三項で しかも その排除のされ方が 見事であったゆえに 死後に その排除の側から 聖化された場合。
 ☆ これは キリスト・イエスの例が いちばんだという議論があるということでしたが 
 ○ 我が国では 菅原道真が天神さんとして祀られた。
 ☆ というのが 分かりやすいでしょうね。
 ○ 聖徳太子にしても どうも そのようなのですが。

 ★★ (No.10補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イジメ論ということで言えば、「排斥、あるいは支配」というのがその本質だろうと思っています。
 2年ほど前、拙ログにも記しているのですが、その心は、他者の中に異質を捏造することによって自己アイデンティティを確立しようとする。
 です。 / つまり、《第三項ないし異者 の排他(排斥)》が、ある個人においてはもはや必然であるわけでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましては 取りあえず お応えしようと思えば こうです。
 ○ ひとは 孤独です。どうしようもなく 独りです。この孤独は――あるいは それは 独立性でもあるのですが―― じつは すべてのひとに共通です。 
 ○ そこから 《第三項》が 現われると説きます。最大公約数として共通であるゆえ 第三項として 除け者にされ 生け贄にされるのだと。
 ○ つまりは 第三項に いぢめる側は 自己自身を見ているということのようです。同類であるゆえに 異質性を持つ者をつくり 異者として扱うようになる。
 ○ いぢめるのは 元気を出せと言って 自分自身を 奮い立たせているとも言えます。と同時に 自分が いぢめられる側に回るのは いやだから しっかりと 異質な者だという共同観念を作りあげ きちんと いぢめておくという気持ちもあるのでしょう。
 ○ それには 《一匹 対 九十九匹》という構図が いちばん いいのでしょうね。
 ☆ そういった意味での――観念および行為の錯綜した構造としての(=コンプレックスとしての)―― ★ 《自己アイデンティティの確立》の問題なのだと言います。

 この《いぢめ》だけを取り出せば まだ 《支配》という問題は 出ていないかも知れません。それが 明確に現われるのは やはりおそらく 一定の社会全体に 支配構造が形作られたあとではないかと思われます。いわばその全体の支配の構図を 縮小して=相似形において 見倣うぶんには その社会体制にとっては 《和を乱す》ものではないと受け取られるということでしょう。
 いわば――たぶん 例として出して いいと思うのですが―― 家元制度が 典型的な 《秩序の体制》であると考えられます。家元のいくつかの縮図としての分身が ヒエラルキアをつくっているという事態です。

 この秩序でもある支配の体制を築こうと思い立った人間 それは いったい どういう思惟・内省=生産・行為の形式を持っていたか。この問題ですが No.19に移ります。

 ★ (No.19補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 愛であるとも言えるのかもしれませんが、愛を与える必要がある、と判断した段階ですでに支配(少なくともその芽)が顔を出しているようでもありますね。
 支配欲求というのは怖れから発しますから、この意味では排他性に通じるものがありそうです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問題に関しましては 長談義になると考えます。その理由を ひとことで言えば 武力による支配体制の確立というものは 高が知れているということだと考えます。首のすげ替え クーデターでしょうか に終わるだけのものは 大して 研究に値しません。
 これには きわめて 思弁的な思索 したがって あたかも山師のような予想屋になっての むしろ神学的な瞑想を 哲学によって経験的な思惟として 解釈するという作業が 必要であるかも知れません。
 ★ 愛を与える必要がある、と判断した段階ですでに支配(少なくともその芽)が顔を出しているようでもありますね。
 ☆ この一文に着目します。そうすると 二つの要素が 浮かびあがります。
 ○ 《わたしは 神のように いかなるものの下にも立つまい》という決断をした者だと捉えられる。どこから そういう決断をするようになったかは 分からない。
 ○ たとえ 悪魔に魂を売ってでも 悪魔でさえ 光の天使を装うのですと言われるごとく 自分は 有徳の人間にならざるべからずと決断して 修行をおさめた者だと捉えられる。
 ★ 支配欲求というのは怖れから発しますから、この意味では排他性に通じるものがありそうです。
 ☆ この要因について どう捉えればよいか まよっていますが おそらく わたしの感覚のほうでは 
 ○ 《怖れ》は 持ったかも知れない。
 ○ まづは 包括・統括そして《光の天使》としては 《愛》に通じる包容 これを おのが旗に描いて 振る舞ったであろう。
 ○ という意味は その抱擁にも似た包括としての秩序を 第一に掲げ そのもとで この秩序を乱す行為に 排他性を発揮する。
 ☆ と考えます。

 《同和問題》というのは 歴史の初めからあったわけではありませんが 恰好の第三項形成の事例だと考えられます。エタという名前がつけられました。
 その事例という意味は 《排除・排斥》というとき 一方で 除け者として・また生け贄として(あるいは 見せしめとして) 完全に抹殺するまでに排斥する場合と 他方では そうではなく 第三項として 自分たちの孤独のあたかも支えとして そこに・という意味は 社会の周縁に 居てもらわねばならず 居てもらわねば困るとさえいう場合とが あるはづです。
 後者は《生かさず・殺さず》としての排除形式ということになります。
 そういうウタの構造が 考えられるのではないでしょうか?
 
 今回は――と言って どこまで続くか 分かりませんが―― ここまでとしたいと思います。どうでしょう?

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>つまりは 第三項に いぢめる側は 自己自身を見ているということのようです。同類であるゆえに 異質性を持つ者をつくり 異者として扱うようになる。
:個人的には、「過去の自分自身」を見ている、のように思っていました。
ですから、
> ○ いぢめるのは 元気を出せと言って 自分自身を 奮い立たせている
:のではなく、過去の(ふがいない)自分に復讐し、つまり精算行為であり、自己アイデンティティ確立の一環なのではないか、ということです。
「いじめ続ける」目的で自分の手元に引き付けておく、支配としてのいじめの構図があると思います。
これは支配の場合ですが、排斥の場合においても生育環境によって、その必要性に自ら駆り立てられるのではないかと考えます。
よって、
>それが 明確に現われるのは やはりおそらく 一定の社会全体に 支配構造が形作られたあとではないか
:というご見解については、もう少し勉強してみてからというふうに思っています。

>いわばその全体の支配の構図を 縮小して=相似形において 見倣うぶんには その社会体制にとっては 《和を乱す》ものではないと受け取られるということでしょう。
:そうでしょうか・・・。
しかし、その「全体の支配の構図」は、どのような理由でできあがったことになるのだろうか、という疑問は残ります。

「愛を与える必要がある、と判断した段階ですでに支配(少なくともその芽)が顔を出している」のほうに関してのご説明は、むずかしくてよく理解できませんでした。

「支配欲求というのは怖れから発しますから、この意味では排他性に通じる」のほうについて。
怖れなければ支配する必要もないと思われます。
支配したがり、あるいはされたがり、がいるだけなのかもしれません。
>抱擁にも似た包括としての秩序
:これほど恐ろしいものはありませんよね。

補足日時:2009/04/03 22:45
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
> 後者は《生かさず・殺さず》としての排除形式ということになります。
 そういうウタの構造が 考えられるのではないでしょうか?
:この後者が、支配としてのいじめの構造と酷似していると言えます。
その意味で「>排除形式」というよりは「支配形式」と呼ぶほうがわかりやすいかもしれません。
自らのどろどろとしたエスとしての本能的部分を彼らに背負わせ、蔑みつつ支配することで自らの贖罪を果たしたような気になっていたのではないか、と考えます。
排除してしまっては贖罪(したつもり)ができなくなります。
「ウタ」が何を意味するのか不明なのですが、エタと呼ばれた人がいたことは知っています。

> 今回は――と言って どこまで続くか 分かりませんが―― ここまでとしたいと思います。どうでしょう?
:私としては、それほど立派な材料を調達できたわけでも、また熟練して調理ができるわけでもなく、つまり、レストランに来ていただいたとは思っておらず、そうですね、場末の屋台を冷やかしに来て頂いた、という感覚で居ります。
気に入れば腰を据えてコップ酒でもあおりながら管を巻くのも良いですし、いくつか立ち話した後、いつの間にか我が家へと向かう人がいるのも、また自然と感じます。

「>どうでしょう?」と確認されると、何か無理にお引止めしていたような罪悪感さえ覚えますが、私ならではの特殊な感覚なのでしょうかね。
(純粋の意味での)ご配慮だとは思うのですが
「> 今回は――と言って どこまで続くか 分かりませんが―― ここまでとしたいと思います。」
だけで意味は十分通じますし、
「>どうでしょう」は、蛇足ではないでしょうか。

余計なこと言ってすみません。
ご質問されていることの何かのご参考になればと思い、あえて述べてみました。
 

お礼日時:2009/04/03 22:44

> 再度、本意を


では、私もNo.18の回答の続きに戻らせて頂きます。
脇の甘かった部分を少し固めてきました。
> 排他によって優越感などを得ている場合」のデメリット
排他によって優越感などを得ている状態というのは
No.25さんも仰っているように
礼節を欠いた状態だと思います。
それは、メリット/デメリット以前の
人間としての成熟/未熟の問題として捉えられていた筈です。
先の回答で「声を上げた者が不利益を被る」と書きましたが
礼節を評価しない社会になった、と言い換えてもイイかと思います。
礼節を知ること、人間としての成熟度を上げていくことは
そんなに簡単なことではないと思うのです。
簡単でない、面倒臭いことなのに、出来ても評価されないんじゃ
デメリットばかりでメリットないじゃん、と思うと
排他によって優越感などを得ている者が増えてくるのだと思います。

排他を免疫学に例えてみると
排他が出来ないとは免疫不全疾病の状態であり、生きることが困難になります。
一方、排他が過剰な状態というのはアレルギー疾病の状態であり
これまた生きることが苦しくなります。
「礼節を知る」を免疫学に例えれば
免疫システムがバランス良く機能している状態であると言えると思います。

免疫バランスを正常に保ちましょう、という意見に
異を唱える現代人は恐らくいないと思います。
ところが「礼節を大事にしましょう」と言うと
説教してんじゃねえよ、などと
一部(だと思うのですが)の人たちが過剰に反発して攻撃してくる。
多分、今、私たちは
未熟さに対する「寛容さ」と
未熟さを「甘やかすこと」や「放任しておくこと」をゴッチャにしているんだと思います。
よって、弱者を保護する行為を尊重する社会
弱者を保護する者を優遇する社会
すなわち、礼節を大事にしましょう
礼節を知った成熟者をレスペクトしましょう
という意見に戻ります。
> 行政あたりで是非検討していただきたい内容です。
私は、このような「他人まかせ」の態度はよくないと思うのです。
(これは自己批判でもあります。)
礼節とは「社会生活の秩序を保つために必要とされる行動・作法」です。
免疫システムの例えに戻れば
外部侵入を認識できなくても過剰反応してもいけないように
過剰な「排他を発揮しなくとも生きることができる」ことへの転換に向けては
「個」と「環境(社会など)」のバランスで考える視点
環境に対する個の位置づけをきちんと持たなければならない筈で
個の位置づけを持たずに、個の内面ばかりを膨張させて
無限に膨らんだ個がメリット/デメリットを論じようとするのが
イケナイのだと思います。
未熟者を排除することなく(放任とは一種の排除でしょう)
未熟者に寛容でありながら、でも未熟さを甘やかさない
未熟さに対しては礼節を説き続けるしかないのではないでしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>では、私もNo.18の回答の続きに戻らせて頂きます。
:感謝いたします。

>簡単でない、面倒臭いことなのに、出来ても評価されないんじゃ
デメリットばかりでメリットないじゃん、と思うと
排他によって優越感などを得ている者が増えてくるのだと思います。
:現実的側面からの援護射撃としてこういった制度というか、雰囲気の醸成は有効であることに異論はありません。
ただ、あくまで側面からのアプローチになるように思います。
行政(あるいはNGOなど)あたりで検討するのに適していると思ったのは、それゆえです。
評価されるべきである、という根拠となる哲学無しでは評価もおざなりになり、永続性に欠けることになるように思われます。
どうしても、個人が納得し、確信する必要があるのではないでしょうか。
少なくとも、求められるのはそこを目指すための手法ではないかと思います。

>出来ても評価されないんじゃ
:そうですね。
ただ、社会に評価されなくとも自分が評価できるようになれば納得いくでしょうし、満足もできるように思うのですが。

>排他によって優越感などを得ている状態というのは
No.25さんも仰っているように
礼節を欠いた状態だと思います。
それは、メリット/デメリット以前の
人間としての成熟/未熟の問題として捉えられていた筈です。
:まさに、ここなのですが、なぜ未熟なのかを考慮する必要はあるように思うんですよね。
ま、自分の問題として考えますが、未熟であろうとして未熟になっている人間はいないわけで、礼節に関連して端的に言えば、礼節を知らずに育ってきたからなのでしょう。
礼節を知らない人間が増えたので礼節を評価しない社会になった、ということになると思います。
この場合、礼節を知らない人間に礼節を説いても意味がないのではないでしょうか。
意味があるとすれば、礼節の意義が実感として本人の心深く納得できたときでしょう。
>説教してんじゃねえよ、などと
一部(だと思うのですが)の人たちが過剰に反発して攻撃してくる。
:気持ちは、私にはよくわかるような気がします。

補足日時:2009/04/03 19:54
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
>未熟さに対する「寛容さ」と
未熟さを「甘やかすこと」や「放任しておくこと」をゴッチャにしているんだと思います。
:これは全く同感ですね。
自信の喪失が根底にあるような気がしますが。

つまり、
>よって、弱者を保護する行為を尊重する社会
弱者を保護する者を優遇する社会
すなわち、礼節を大事にしましょう
礼節を知った成熟者をレスペクトしましょう
:というご見解において、「よって」と「すなわち」の因果関係が理解されにくいように感じるわけです。
「弱者を保護する」ことが、動物とは違うところの人間のある部分を満足させ得るのだ、という哲学を示すことが本道ではないかと考えるわけです。
それこそがゆるぎないメリットに気付く契機になるような気がするのですが。

>礼節とは「社会生活の秩序を保つために必要とされる行動・作法」です。
:秩序を保って守るべき社会たり得ているのかどうか、そのへんの価値観における相違ということもあるのかもしれませんね。
礼節の解釈自体に齟齬が生じている可能性も考慮する必要があるかもしれません。

>「個」と「環境(社会など)」のバランスで考える視点
環境に対する個の位置づけをきちんと持たなければならない筈で
個の位置づけを持たずに、個の内面ばかりを膨張させて
無限に膨らんだ個がメリット/デメリットを論じようとするのが
イケナイのだと思います。
:理解した範囲では誠に正論ではないかと感じました。
「>個の位置づけ」とは、私とは何者であるのか、いわゆる自己アイデンティテイの確立といったようなこととも関連しているように思ったのですが、環境があまりに流動的でありすぎて、位置づけの手がかりがなかなか見つけにくい状況である可能性はないでしょうか。
いつの時代も環境は流動的であったのでしょうが、文明の進歩とともにその速度が(それと知らぬうちに)過剰になりすぎ、追いつけない、と口にすることすら許されない社会になっているような気もしますね。
やや、とりとめもないままで・・・。
  

お礼日時:2009/04/03 19:53

#15です。



>>この生物の進化と言う一筋縄では理解できない経験を無視して、
 
>アリと人間とを隔てる何かがそこにあるのだとするならば、その視点から排他について考察してみることは無駄ではないように思うわけです。
その視点から、よろしければ再度ご意見を伺うことができればと考えます。

これらに関して、何処まで納得ないし説得が出来るかどうか、自信はありませんが、論述を試みてみましょう。

私は物理学で飯を食っておりますが、この分野では1970代に「散逸構造の理論」と言う革命的な理論のが出て、物理学ばかりでなく、工学、生物学、心理学、社会学、歴史学などに、画期的で全く新しい視点を提供してくれました。その理論の正当性は、上で述べた各分野で現在でも続々確認されており、その理論を提唱したイリヤ・プリゴジンは1977年にノーベル化学賞を戴いております。物理学や数学で良く聞くカオスの理論はその一部に関係しております。

この理論の詳しい事はご自分で調べて頂くとして、ここの話に直接関係する部分に絞って、紹介しましょう。この理論が明らかにしたことは、「前もって書かれたシナリオが存在しなくとも、物質や個体の集合系は、偶然の成り行きで、どんどん複雑な構造を自発的に作り上げて行くことができる」と言うことです。そして、「その状況は幾つかの条件がそろうと、サイコロを振って出てくる確率よりも、桁違いに大きな確率でその事象が起こる」ことを明らかにしました。その条件の中で、ここの話に関係するのは、「その系が外に開かれており、周りとの情報や物質の遣り取りで系が安定状態から十分離れた、不安定状態に無ければならない」と言う条件です。すなわち、系は周りとの競争や摩擦で、緊張した状態にいなくてはならないと言うことです。安定して、異質物との間の摩擦が無く、緊張感のない状態に置いておくと、やがてその系は自家中毒に陥り、消滅してしまいます。このことは、物理系のみならず、生物や人間の世界でも起こっており、それを散逸構造の理論は、定性的のみならず定量的にも予測し、その正当性が多くの例で確認されて来ているのです。

ここでは、人間社会と生物の例を紹介しましょう。近代の産業革命は西欧から起こって来ました。何故、他の地域ではなく、西欧からだったのでしょうか。それは、この地域は、中世から長い間、中央集権国家として統一されておらず、群雄割拠の封建制度だったからです。各国に封建を持った豪族や小国の王達が、いつも一触即発の緊張状態に居り、散逸構造が自発的に現れてくるための不安定性の条件を満たしていました。各国は生き残りのために、あらゆる偶然のチャンスを利用せざるを得なかったのです。このような社会では、軍事力や富ばかりでなく、思想的にも武装しなくてはならないので、学問や芸術が速いテンポで極度に進歩します。
 
他の例は、今から2千5百年前の中国の戦国時代です。その後、秦によって中国は戦国時代の封建制度から中央集権制度に移行してしまいましたが、中国に現在までに残っている世界に誇るべき哲学の殆どは、この不安定な戦国時代に輩出しております。中央集権国家として安定した平和国家が誕生した後には、新しい哲学は殆ど生まれて来ては居りません。
 
日本がアジアで唯一スムースに近代産業革命を成し遂げて、欧米の列強に植民地化されなかった大きな理由は、西欧を除いてこの国だけが、鎌倉幕府以来の封建制度と言う、人類史上では例外的な政治制度を採用していたお陰で、各大名や各藩の間に適度な緊張感が保たれていたからです。事実、西欧と日本を除くと、ここ2千年の歴史で、他のどの国でも中央集権制度という統一国家の制度を採用していたようです。封建制度での価値観は、必然的に多様化しますが、中央集権下では、価値観は統一化されてしまいます。安定した中央集権国家では、所謂、没個性になってしまうわけです。
 
散逸構造の理論によると、系が不安定性に押しやられると、小さな揺らぎがどんどん成長して、今まで安定であった状態に留まることができなくなります。そして、系は大抵の場合相反する2つの状態の一つ、例えば右か、あるいは左の状態に移って行きます。このどちらの状態に移るかは多分に偶然による確率で決まってしまいますが、いずれにしてもどちらかに分岐します。ある者は、右に留まり、あるものは左に変化すると言った分岐です。この分岐を繰り返すことによって、ある者はある分岐点で死に絶えたり、前の状態に留まりますが、ある者はどんどん複雑に変化して行く。すなわち多様化の出現です。ある者はその分岐でチョウになり、またある者はトンボに分岐します。しかし、この分岐は、前もってのシナリオに従ったわけではなく、置かれた環境の行きがかりで出て来た構造ですから、チョウがトンボより優れているのいないのという論述が意味をなさないわけです。そして、生物の世界でその複雑さの頂点に立っているのが人間、あるいは人間の脳味噌です。
 
このように、異質物との摩擦による緊張感が、この宇宙に多様化を容認し、我々人類の存在を可能にしてくれているのです。もちろん、今後、次々に現れる分岐点の通過で、人類がどの方向に行ってしまうかは、確率的に起こることなので、何が出てくるかは分かりませんが、過去の生物や人類の歴史を見てみると、もし生き残れたとすれば、前よりより複雑で豊富な存在形態に移行して来ております。ただし、どんな複雑な構造が出てくるかは、行きがかりによっているのであり、前もってシナリオが無いのですから、神様でも分かりません。

ですから、前の投稿で、
>>一見不合理に見える物でも、その皮を幾重にも剥くと、意外な肯定的な側面が見えてくるものです。

あるいは、

>>排他性を非難するよりも、その排他性の持っている肯定的な側面を表層的でなく、本気で深く抉り出してみるべきです。

と言った訳です。

この散逸構造の理論は、人間社会の事象ばかりではなく、アリの社会構造の分析でも多大な効果を上げております。その結果は、

>アリやシロアリと根本では大差ありません。しかし、大差ないということは小差はあるわけでしょう。

ということに関して、小差は余り重要ではないという方向で理解されているようです。現在の人類が以前と比べて如何に論理的、科学的、合理的になって来たとは言え、質問者さん自身の人生の圧倒的な部分が、未だに、論理ではなく、また、必然でもなく、偶然に支配されていることを、質問者さんは同感して下さると思います。そもそも、質問者さんが日本語を話し、日本語で考えていること自体が、偶然の結果なのですから。
 
散逸構造の理論は、決して人間は他の存在とは特別に異なった存在ではなく、人間もこの宇宙の一員であり、全ての存在を支配する大局的な宇宙の法則に支配されていることを教えてくれた点で、画期的な理論なのです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>「散逸構造の理論」
:大変興味深く拝見しました。

>「その系が外に開かれており、周りとの情報や物質の遣り取りで系が安定状態から十分離れた、不安定状態に無ければならない」
>しかし、この分岐は、前もってのシナリオに従ったわけではなく、置かれた環境の行きがかりで出て来た構造ですから、チョウがトンボより優れているのいないのという論述が意味をなさないわけです。そして、生物の世界でその複雑さの頂点に立っているのが人間、あるいは人間の脳味噌です。
:ということなんですね。
丁寧に、しかも非常にわかりやすく解説していただきありがとうございました。

>このように、異質物との摩擦による緊張感が、この宇宙に多様化を容認し、我々人類の存在を可能にしてくれているのです。
もちろん、今後、次々に現れる分岐点の通過で、人類がどの方向に行ってしまうかは、確率的に起こることなので、何が出てくるかは分かりませんが、過去の生物や人類の歴史を見てみると、もし生き残れたとすれば、前よりより複雑で豊富な存在形態に移行して来ております。ただし、どんな複雑な構造が出てくるかは、行きがかりによっているのであり、前もってシナリオが無いのですから、神様でも分かりません。
:個人的には、この段落を格別の興味を持って拝見しました。
次のような理由でです。

補足日時:2009/04/03 14:47
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
>異質物との摩擦による緊張感が、この宇宙に多様化を容認し、我々人類の存在を可能にしてくれている
:のはわかるような気がします。
刺激のないところに変化も進歩も兆さないということなのでしょうね。
しかし、どのような「>異質物」であるのか、ということにも着目する必要がありそうだ、と感じました。
つまり、異質物の定義は定まっていないように思われました。

そこで、
>どんな複雑な構造が出てくるかは、行きがかりによっている
:のであれば、その「>行きがかり」に私たちの意志が作用してはいけない、ということも無いように思うわけです。

私の考えるところは、均質性を求めているものではなく、程度の低い異質性にこだわることを無くしていくことが、おっしゃるところの「>前よりより複雑で豊富な存在形態に移行」できる、むしろ条件にさえなり得るのではないか、ということにもなりそうです。

「程度の低い異質性」とは、有体に言えば、肌の色の違いとか、信じる神が違うとか、たとえばそういったことです。
おそらく排他の原因となっているであろう、こういった程度の低い異質に対する感覚を改めることができれば、
より高度の「>異質物との摩擦による緊張感」によって、この宇宙により高度の「>多様化を容認し」、「>我々人類の存在を」より高度の段階で可能にしてくれるような気もするのですが、どうなんでしょうね・・・。
 

お礼日時:2009/04/03 14:47

なんかあれから、あまりなったことがない


妙な気分になっていました。
一度長文も書いたのですが消したり。
なんとなく調べごとをしていたのですが
なんて呼ぼうか、考えていました。
ティアマト?
リリス?

リリスとは、アダムに愛想を尽かして出て行った
神の創造した女性ですよね。
一神教からは酷い扱いだけど
神話の善悪は語る人によって簡単に変わるから。。。
もともとは女神らしい。

女神。


>私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
>互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

利害によって排他の関係になったり立場によって善悪が変わったり
守ったり批判したり、どうしようか。

この問題を考えるのに神話を分析すると良いかもしれません。
というのも神話はこういったことが時間と空間を越えて
物語として表現されているからです。

比喩と象徴に満ちて
何千年経っても人々に新しいことを教えてくれます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>一度長文も書いたのですが消したり。
:もったいない・・・、見たかったです。

>この問題を考えるのに神話を分析すると良いかもしれません。
というのも神話はこういったことが時間と空間を越えて
物語として表現されているからです。
:そうかもしれませんね。
漠然とですが、神話の構成は、
愛→抑圧→歪み→破壊・崩壊(→再生)
といったようなパターンが多いような気がします。

>利害によって排他の関係になったり立場によって善悪が変わったり
守ったり批判したり、どうしようか。
:利害や善悪は、確かに主観に左右されるものかもしれません。
しかし、共有が全く不可能なものとも言い切れないと思います。
瑣末なことかもしれませんが、近年では黒人大統領の誕生なども、その一例かなあ、という気がしますけどね。

お礼日時:2009/04/03 13:49

No.17です。


>人間は生物ではありますが、自然を失った生物です。
失ったがゆえに人間となって生きているわけですよね。
ですから、「>>生物である限りは」という前提は誤りではないかと思います。
なるほど、質問者様と私はお互いにいわば裏と表ですれ違いの議論をしていたようです。
私のいいたかったのは、古来から社会と個人の相互関係のごたごたに悩み、お互いがうまく折り合いをつけて生きていくために数々の思想と倫理を発展させて来たけれど、そして、その思想のために規範を示し、他人を生かすために自身を犠牲にする人すらいたわけだけれど、それでも、人間は問題を全面解決するには至らず、むしろ個々の面ではさほどの進歩はなかった。それは、人間が人間である以前に、やはり自分の生命だけがいとおしいといういきものとしてのエゴイズムを抑えきれないからだ、ということです。それが人間の生命体としての限界、原罪といっていのかもしれません。
質問者様が表題としておられる(ゆえに最初から分かりきっておられると解釈できる)「自分の身を守ることはいけないことではありません、貴方自身が守らなかったら、誰が守るんですか?」という自然の掟に帰着するわけですが、貴方はそこからまた試合を再開して、「でも、私達は人間なのだから、そこんとこもっとなんとかしてよ!できるだろ、人間なんだから」といわれても、問題は循環するばかりでどうしようもなくぐるぐる同じところを回るばかりではないでしょうか?
>「排他を発揮しなくとも生きることができる」。これは可能でしょう。人間が社会的動物であることをやめることです。一切の欲を捨てることです。右の頬を打たれたら左の頬を出すことです。あらゆることを自分を勘定にいれないことです。悪をなさず善を行い、身を清く保って生きることです。これらは2000年前には言われていた事で今でも真理だと私は思います。陳腐な言い方になってしまいました。
質問者様の期待される回答にはなっていないかもしれませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>、「でも、私達は人間なのだから、そこんとこもっとなんとかしてよ!できるだろ、人間なんだから」
:そうそう、そういうことなんです。

>といわれても、問題は循環するばかりでどうしようもなくぐるぐる同じところを回るばかりではないでしょうか?
:あ、そうなっちゃいますかね、やはり。
う~む・・・(-_-;)。
それも一理はあるんですけどね。

ただ、熊やライオンにこれを考えろと言ってるわけではないんですよね。
たしかに、熊やライオンと同じ要素も人間にはあります。
でも、それだけじゃないはずですよね。
熊やライオンと共通している要素を、それだけじゃない要素で制御できないだろうか・・・、と思ったりしたわけです。

>人間が社会的動物であることをやめることです。
一切の欲を捨てることです。
右の頬を打たれたら左の頬を出すことです。
あらゆることを自分を勘定にいれないことです。
悪をなさず善を行い、身を清く保って生きることです。
:個の喪失を意味しませんか?
共有し、共存する道を探るのが最も自然なように思うのですけどね。

>これらは2000年前には言われていた事で今でも真理だと私は思います。
:私は、真理へ辿り着くためのひとつの「手法・方便」であるにすぎないように感じました。
「>一切の欲を捨てる」ことはできないでしょう。
生きるということは最低限、(他の生命を殺して食べることも含めた)生命欲の顕現なわけでしょうから。
 

お礼日時:2009/04/03 13:32

kigurumiです。



>どうすれば「>対話を厭わない気持ち」になれるのか、ということになりそうです。

ジミー・カーターに嫌な相手との対話をも厭わないと思わせているのは、彼の強い信仰心だと思います。
(確か牧師でもあったような)


私は信仰が無いので「無理!」と思った時、撤退できる。
徹底する勇気を持つことで、守っていると思っている。何を?


>対話を拒否するということではなく、時宜を変えてみる、といったようなことになるのでしょう。

そういうことかも。

対話の相手によっては、自分が正しいということを認めさせるために、詭弁すら使っても勝とうとする。

真理の探求のための対話をしているのに、詭弁を使われたら、、、反則!!

だけど、相手に自分が何をやっているのか知らしめることはできない。
詭弁であると指摘したら、それについてまた詭弁を使って自分を正当化する。

決して自分を客観的に冷静に見ようとしない相手の前から、姿を消してあげることで、硬直した状態を変化させることできますね。



>ただ、礼儀と慇懃無礼が似て非なるものであるのと同様、礼儀という仮面をかぶった無視もあるにはあるわけで、難しいところですね。

慇懃無礼の無礼って、礼が無いってことじゃないですか。

礼って秩序・モラルみたいなものだと思う。
秩序が無い相手に、礼を払ったふりを装った場合、慇懃無礼ってことですよね?

例えば、詭弁使って自分を正当化する発言をする人に、「感動しました。 あなたの考えはすばらしい!!」と言った場合、慇懃無礼なわけです。

礼を失っている失礼な発言でしょ?
そんな<失礼>をする前に、 去るほうが美しい。



ジミーカーターは、どんな相手とも対話するその先に美しい何かがあるという希望がある と見ているのかも。

その先に本当に楽園があるのかどうか確かめるには、信仰に沿って実践するしか無い ってことらしいです。

(彼の信仰ってのは、宗教団体の言う信仰じゃない気がする。古代エジプトの人たちが持っていたような信仰に近い。)


私は自分が全くの善だとは思っていないし、全くの善になろうとも思っていない。
第一、普遍的な善など無い。

そして、私は生産と破壊の両方を起こす力を持っていると思っている。
(それは私ばかりではなく誰でもそう)

だけど、私は他の人より無謀という特徴を持つ個体なので、下手したら相手を壊してしまうほどのことをやってしまいやすい。

それを知っているので、破壊の力を私の支配下に置くよう注意を払っておく必要がある。
注意を怠ったり失念していると、相手を破壊しようとしてしまっている。
はっと気づいて「やってはダメ」と理性が働いたとき、撤退をすることで守る。
何を守る?
私の持つ破壊力から、何を守っているの私?

前あるサイトからID削除されたことを話しましたけど、あの管理者は、私がその快楽殺人妄想者をやりこめてしまい、このままでは破壊してしまう と思ったのかもしれないですね。
だから破壊者である私の方を殺した。
妄想はあくまで妄想で実体が無いが、私が彼の理論を突き崩し、追い詰める行為は、現実彼の精神を破壊してしまうとみたのか。

あそこで、快楽殺人妄想を賞賛しないまでも、無視していれば、私は殺されることはなったわけで、自爆行為だったのでしょうか? 笑

まあ 別にいいですけどね。
いつか、相手に自分が言っていたことがわかる時が来るかも。
相手の言っていることが今は私にわからなくても、将来わかることがあるかも。

そういう希望があれば、撤退すること、対話をやめることも、殺されたという事実を受け止めることにも、意義がある。

人間は普遍じゃない。だから人間には希望がある。



>排他を発揮しなくとも生きることができる

はい、共存できます。
古代ユデアは、ローマ帝国の属州になった。
自分たちのボスは神のみ って思っているゼロテ党(熱心党)は、ローマ皇帝を拝むなんてとんでもないって思っていたので、ローマをユデアから排除しようとした。

祭祀はローマとの共存を望み、人々をなだめたが、ゼロテ党が人民を煽るので、ローマ帝国への反乱を押させることができなくなってしまった。

シンプルに捉えると、ユデアの人々は、ローマ帝国から特別待遇され豊かに暮らしていたにも関わらず、ローマを自分たちの国から排除しようとしたってわけです。


ティトゥスのユデア反乱軍への最後通告。

『お前たちは我々の力を侮り、向こう見ずな激情と狂気で民衆と神殿を滅ぼした。当然緒報いとして、お前たちも運命も定められている。お前たちはローマ人が寛大であることに目をつけて我々に立ち向かった。我々はお前たちの祖先伝承の律法を尊重し、お前たちの間ではもちろん、異邦人の間でも、お前たちが望めば律法の下で暮らせるようにしたではないか。とりわけ我々は、お前たちが神に捧げる献金を、ローマ帝国で徴収し、奉納物を収めることを認め、それを携えてきた人々に手出しや口出しをしなかった。そうしてお前たちは数々の特権を享受しながら、それを豊かに与えてくれた者たちに対して武器を取ったのである。

神殿を失った今、お前たちは一体どのような保護を受ければ良いと思っているのか。神殿は消失し、都は私の支配下にあり、お前たちの命は私の掌にある。武器を捨てて身柄を引き渡しなさい。そうすれば命だけは保証しよう。』

反乱軍はそれに従わず、他の要望を出してきた。
忍耐の限界に達したティトゥス。

『もはや私の元に投降したり、保護を求めてきても無駄である。お前たちがどうしても生きながらえたいのなら、死にもの狂いになって戦うがよい。私の今後の行動は全て戦争の掟に従うだろう』

それ以降、この民族は2千年近く世界を彷徨いました。
国は20世紀に再建されましたが、神殿はまだです。

ローマ帝国と祭祀はローマとユデアの共存を望んだ。
ゼロテ党の排他精神が、自分の住む家を破壊することになった。

さて、この歴史から何を学べるでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>詭弁であると指摘したら、それについてまた詭弁を使って自分を正当化する。
:ただ、難しいのは、明らかな詭弁と、一見してそうとわからない詭弁があるかもしれない、ということなのでしょうね。
自戒しつつ読ませていただきました。

>例えば、詭弁使って自分を正当化する発言をする人に、「感動しました。 あなたの考えはすばらしい!!」と言った場合、慇懃無礼なわけです。

礼を失っている失礼な発言でしょ?
そんな<失礼>をする前に、 去るほうが美しい。
:なるほど、そういう考えもありますか。
詭弁自体が失礼になりますから、失礼に対して失礼で返すのは疲れる、ということなんでしょう。
しかし、その失礼を憎むことと、失礼をした相手の人格を憎むのとはたぶん少し違うような気もします。
kigurumi さんもある程度はどんどん言っちゃうほうでしょうから、今さらですが、やはり言うべき時は言うことが大事なのでしょうね。

>その先に本当に楽園があるのかどうか確かめるには、信仰に沿って実践するしか無い ってことらしいです。

>(彼の信仰ってのは、宗教団体の言う信仰じゃない気がする。古代エジプトの人たちが持っていたような信仰に近い。)
:ちょっと面白そうです。

>私の持つ破壊力から、何を守っているの私?
:バランス・・・?
生産と破壊、愛と攻撃は、生という合金の裏表を構成する要素で、どちらか一方だけでは生きていけませんしね。

>ゼロテ党の排他精神が、自分の住む家を破壊することになった。
:排他精神というのか独立精神というのか、その区分も難しそうです。
これを教訓にしていたら帝国主義からの独立などは一切無かったような気もしますが、そのほうが良かったのでしょうかね。
 

お礼日時:2009/04/03 13:01

> 弱者を大事にしないデメリットと言ったほうが適切なように思いますが


私は弱者に関わるデメリットの話を致しました。
> 同じ弱者でも、赤ん坊は将来自分たちを支える者として大事にされますが、
> 年寄りはそうでもない。
子育ても、老いた親の介護も
どっちが大変などと比較するのがおこがましい
どちらも大変なことであり
周囲の理解や協力なしには非常に困難な部分があり
時に虐待という悲しい行為を誘発します。
> 弱者を大事にすることによるメリット、というよりは、
> この場合、弱者を大事にしないデメリットと言ったほうが適切なように思いますが、
> それが明確でないと実践までの道のりは遠いでしょうね。
お礼の趣旨を誤解していたら申し訳ないと思いつつ
評論家気取りの傍観者目線を強く感じました。
他人事として論じられたようで
何だかとっても寂しいです。
> どのように考えれば「>弱者を何とかしてあげたいと思う人」は増えると思われますか?
上にあるような「評論家気取りの傍観者目線」をなくすことです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>私は弱者に関わるデメリットの話を致しました。
:そうでしたね。
あたかもそうでなかったような表現をしてしまい大変失礼しました。
申し訳ありません。

『弱者を大事にすることによるメリット、というよりは、この場合、弱者を大事にしないデメリットと言ったほうが適切なように思いますが、それが明確でないと実践までの道のりは遠いでしょうね。』
この部分は、私の勘違い(というか、くどくど言い訳はしませんが、全くの不注意だったのです)と不適切な語彙使用により、殆んど筋の通らない表現になっていました。
しかも、最終節などは最悪ですね。
全くもって傲岸不遜な表現でした。
相乗効果?もあって、大変不快な思いをされたことでしょう。
ごめんなさい。
許していただけますか?

(許していただいたと仮定して)
再度、本意を説明させてください。
以下のようです。

>つまり、弱者を保護する行為を尊重する社会。
弱者を保護する者を優遇する社会。
それを、哲学や道徳でなく、社会的に目に見える形で優遇する。
:これは具体性に富んだ、有効な方法ではないかと思います。
行政あたりで是非検討していただきたい内容です。

ところで、CUE009 さんは、
「>弱者に関わることのデメリット」
「>弱者に与することのデメリット」
を、「>声を上げた者が不利益を被る」という「怖れ」の意味でお使いになっているようですが、
私としては、同じデメリットでも、触れておられるところの、
「>排他によって優越感などを得ている場合」のデメリットに注目したい、と感じました。
弱者に対するそのような姿勢によって、その人の心を自ら貶めることになる。
そのようなデメリットです。
ここに対する(可能なかぎり)明確な哲学的論拠は存在しないものでしょうか。
それはとりもなおさず、質問内容でもある「排他を発揮しなくとも生きることができる」ための手法ともなり得ると思われるからです。
 

お礼日時:2009/04/03 00:27

自覚してしてこういう質問をしているそうだから。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>実相との乖離のしかたが。。。
:に関してですが、真理というのは実相と乖離しているように見えるところに近いところで案外見つかったりしません?
 
 

お礼日時:2009/04/02 21:30

左様なら

    • good
    • 0
この回答へのお礼

あらら・・・。
どうして?
 

お礼日時:2009/04/02 20:44
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す