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私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

A 回答 (81件中61~70件)

質問の傾向が同じ


なんですよね。

実相との乖離のしかたが。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>質問の傾向が同じ
なんですよね。
:そうでしょうね。

お礼日時:2009/04/02 20:12

No3です。


>プラトニズム
:ですか。
今ちょっと検索しただけですが、
「イデア界と現象界とが不可分であることを表現しているものだ。」
と書いてましたね。当たり前のように思うのですが、ここからどのように進歩すれば良いのか検討もつきません。

 わかったような書き方をしないでください。これはキリスト教に影響を与え、現在でも我々の思考が、これによって歪められています。

>ヴィトゲンさんを読まないとだめなんでしょうか。
糸口だけでも教えてくれればなあ・・・。

 ネット時代でも納得するということは、自分自身の思索によるしか方法はありません。他人の言葉尻をとらえてコメントするような書き方は控えたようが良いでしょう。
 あなたには、哲学以前に哲学史(人々がどのように哲学的問題に立ち向かったのかの歴史)を勉強することをお勧めします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> わかったような書き方をしないでください。これはキリスト教に影響を与え、現在でも我々の思考が、これによって歪められています。
:そうだったんですか・・・。
大変失礼しました。

> ネット時代でも納得するということは、自分自身の思索によるしか方法はありません。
:それはそうですね。

>他人の言葉尻をとらえてコメントするような書き方は控えたようが良いでしょう。
:はい、なるべく気をつけます。

> あなたには、哲学以前に哲学史(人々がどのように哲学的問題に立ち向かったのかの歴史)を勉強することをお勧めします。
:なんだ、結局何も知らないだけだったのか・・・。
 

お礼日時:2009/04/02 20:15

 ★ 排他性


 ☆ にかんする分析ですが これは 国家の形成という問題が いちばん 起点になっていると考えます。

 国家というものは 社会が 二階建ての構造になることだと わたしは見ていますが それは ひとりの人間の思惟・内省=生産・行為の形式に発していると考えられます。
 親が子らに対して 時には しつけの必要を思い 或る種の仕方で上からの視点をも持って 接するというとき それは 《二階建て》でしょうか?
 ところが 人間の中には どうしても 人間の群れを 階級に分けたいという欲求を持つ者が発生するようです。《クラス》のことですから はじめは さくら組・うめ組・きく組というふうに 並列・並立として 区分していただけなのでしょうが これが 階層構造を持つようになります。
 その起点は じつは 排他性では必ずしもなく 統合・統括の能力に発すると考えられるのではないでしょうか。つまりは クラスを統合し その一段上から統括するという・実に《経営能力》に発し それは 大きくは《愛》の行為であるとさえ捉えられます。

 江上波夫によると 農耕民族は この二階建て構造を 自分たちの社会(村)において 或る種の仕方で・という意味は 市町村次元の自治体として 持つことはあっても 村々を総括するようなかたちで・という意味は 国家という形態として 持つことはなかったと言います。
 クラスごとの指導者が出て みなが その者を支え クラスどうしで競い合い 互いに向上していこうとするという横に連関した経営形態ではなく そうではなく そこから 一段 飛躍して クラスの上へ上へと その想像力が飛び立って行った人間が 出た。これが 起点だと見られます。
 言いかえると 経営能力の特化 つまりは 専門的な経営者の出現という歴史的な事件です。

 江上波夫によるのですが トゥングース騎馬民族の考え方というのは 飛びぬけて特異だそうです。
 1. みづからは正体不明 (顔無しを装う)
 2. 目的を決め 結果を出すと決めるし その結果を出せばよいとする。
 3. 時にそのために手段を選ばない。 
 4. 手段を選ばずという選択をした場合にも 最低限のつじつまを――じつは とくに礼儀礼節のうえで――合わせられるように取り計らう。
 5. 経営に乗り出したところ〔の人たち〕に 自分たちは 同化してしまう。(顔は無い。しかし 顔が無いという顔を保守する)
 といったことらしいのです。
 これは 思惟・内省=生産・行為の形式として 特に経営能力をきびしく問うところの《ウタの構造》だと捉えられます。
 
 騎馬民族が日本に来たということではありません。そうではなく 国家の成立 この歴史的な事態には どうしても このような二段構造の《ウタ》が うたわれなければならなかった。のではないか。こういう一つの視点です。
 ここからの推移は もう かんたんです。
 二階建ての構造が出来上がれば あとは 礼儀礼節を重んじ 王化の徳を及ぼし 和を以って貴しと為すことになります。
 この出来上がった和を乱すものは 排除するという意味です。むろん 第三項として扱いますが いわゆる窓際には 居させるという愛を発揮するというものです。左遷扱いにしても ふたたび 呼び戻すことさえあるかも知れません。恭順の意を表明すれば いいのです。
 そういう包括および排除の構造です。統治術には きわめて 長けているのだと考えられます。
 クリスチアニスムも コミュニスムも 何やかやも 大きく日本教という愛の構造におさまる限りは 居心地がいいはづです。

 たしかに これは 排他性と見られるのではなく むしろ 包容力の大きな社会であり 経営能力に長けたアマテラス賢人たちが 知恵を尽くし知識を尽くし心を尽くして築き上げたあたたかい国であるというふうに 見られるのだと思います。
 という分析です。

 このエデンの園にあって 気力のない子どもは がんばれ しっかりせよと 愛の鞭としてのいじめを受けるのでしょうね。そういう思惟・内省=生産・行為の形式は われわれに刷り込まれているようです。《ウタの構造》だと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 国家というものは 社会が 二階建ての構造になることだと わたしは見ていますが それは ひとりの人間の思惟・内省=生産・行為の形式に発していると考えられます。
:私にとっては、非常に目新しい視点です。

> その起点は じつは 排他性では必ずしもなく 統合・統括の能力に発すると考えられるのではないでしょうか。つまりは クラスを統合し その一段上から統括するという・実に《経営能力》に発し それは 大きくは《愛》の行為であるとさえ捉えられます。
:興味深い内容です。
愛であるとも言えるのかもしれませんが、愛を与える必要がある、と判断した段階ですでに支配(少なくともその芽)が顔を出しているようでもありますね。
支配欲求というのは怖れから発しますから、この意味では排他性に通じるものがありそうです。
本来は「>統括するという・実に《経営能力》」ではなく、「単なる事務能力」だけであるのが理想であるように思うのですが、断言できる段階ではないかもしれません。

> 言いかえると 経営能力の特化 つまりは 専門的な経営者の出現という歴史的な事件です。
:そうなりますか。
>互いに向上していこうとするという横に連関した経営形態ではなく そうではなく そこから 一段 飛躍して クラスの上へ上へと その想像力が飛び立って行った人間が 出た。これが 起点だと見られます。
:今回のご回答中では、ここに最も注目したのですが、この起点が始まった理由に関してはどのようにお考えになりますか?

> これは 思惟・内省=生産・行為の形式として 特に経営能力をきびしく問うところの《ウタの構造》だと捉えられます。
:ここと、ここに至る件はよくわかりませんでした。

>  このエデンの園にあって 気力のない子どもは がんばれ しっかりせよと 愛の鞭としてのいじめを受けるのでしょうね。
:愛の何たるかを知らない者たちから鞭打たれるのですから、たまったものじゃないでしょうね、おそらく。

国家の構造について興味深いお話しありがとうございました。
 

お礼日時:2009/04/03 01:31

ちょっとした思いつきを投稿します。



> 排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど
> あらゆる場面で発揮されています。
苛め、虐待、偽装、そういう諸々を快く思わない人はたくさんいると思うんです。
でも、例えば「苛めをやめろ」と声を上げにくい、もしくは
声を上げた者が不利益を被るような状況から
まず改善してはどうだろう、と思った次第です。

排他によって優越感などを得ている場合も多いかと思いますが
それ以上に弱者に関わることのデメリットが怖い
弱者に与することのデメリットが怖い、という思いが強いのではと思います。
このような腰の引けた態度が苛めなどの行為を助長させている筈です。

一方で、弱者を守るべく、関わろうとする人もいる筈です。
(本当は弱者を何とかしてあげたいと思う人は少なくないと思います。)
弱者に関わりたくない人は、関わろうと試行錯誤する人たちに
もっと感謝すべきです。
つまり、弱者を保護する行為を尊重する社会。
弱者を保護する者を優遇する社会。
それを、哲学や道徳でなく、社会的に目に見える形で優遇する。

思いつきなんで、脇の甘い回答ですが
まだこの種の提案がないようですので、エイッ!送信しちゃえ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>それ以上に弱者に関わることのデメリットが怖い
弱者に与することのデメリットが怖い、という思いが強いのではと思います。
:これはあるのでしょうね。

>つまり、弱者を保護する行為を尊重する社会。
弱者を保護する者を優遇する社会。
それを、哲学や道徳でなく、社会的に目に見える形で優遇する。
:わかりやすくて良い、発想じゃないでしょうか。
ただ、同じ弱者でも、赤ん坊は将来自分たちを支える者として大事にされますが、年寄りはそうでもない。
といったように、弱者を大事にすることによるメリット、というよりは、この場合、弱者を大事にしないデメリットと言ったほうが適切なように思いますが、それが明確でないと実践までの道のりは遠いでしょうね。

どのように考えれば「>弱者を何とかしてあげたいと思う人」は増えると思われますか?
最終的にそれが(自発的に=自然な姿勢として)実践できるようになれば、「>社会的に目に見える形で優遇する。」必要性も不要になるでしょうしね。
 

お礼日時:2009/04/02 20:42

人間は獣から人間という文化的な生き物になるにつれて、こういった危急の問題について考え、悩み、次第に個人、家族、血族、部族、民族、国家と次第にその排他性を発揮する範囲(うちと外)を広げてきたという歴史的な経緯がありますね。

それは、そういった問題をなるべく日常では考えなくても済むように、いわば安心して平和で過ごせる時間を長く持てるように工夫してきたんだと思います。そのための有用なツールとして言葉を持ち、倫理というものを発案し、法律なども整備するに至ったわけです。最終的にはその範囲を人間すべて包括する地球国家というようなものが考えられているのでしょう。
もちろんこういった外面的包括的なものとは別に、個々人の心における様々な排他的感情はいわば人間が生物であるかぎり特有の本性であり、根絶は難しいので、社会が進んでも取り残されているわけで、それらの弊害が法律だけですべて解決できるのかといえば、質問者様のご指摘のように、社会の中では(法律の整備などで進歩の動きは見られるものの)まだまだのところが多いです。こういった風景がすなわち人間社会なのだとあきらめて流されるか、それとも社会を離れて山奥で超然と生きるか、これは個人の中で彼なりの哲学を見つけて解決するべき問題だと思います。
質問者様の意図に答えられたかどうかはわかりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>こういった風景がすなわち人間社会なのだとあきらめて流されるか、それとも社会を離れて山奥で超然と生きるか、
:あはは。
なるほど、それも面白いですよね。

>これは個人の中で彼なりの哲学を見つけて解決するべき問題だと思います。
:「べき」と断定される根拠にやや乏しいのではないかな、という印象を受けますね。

>個々人の心における様々な排他的感情はいわば人間が生物であるかぎり特有の本性であり、根絶は難しいので、
:とおっしゃっているように、人間は生物ではありますが、自然を失った生物です。
失ったがゆえに人間となって生きているわけですよね。
ですから、「>生物である限りは」という前提は誤りではないかと思います。
そういった側面、あるいは根幹は否定もできませんが、それだけでは人間たり得ないはずです。
人間として考えられることを考えてみるのは無駄なことではないような気がします。
この観点から再度ご投稿いただければ非常に嬉しいですね。
 
 

お礼日時:2009/04/02 17:00

どなたかも書いてらっしゃいますが、自他肯定すれば、排除する必要がなくなります。



「私の存在は正しい」「あなたの存在も正しい」

お互い、そこに"ある"だけです。

すべての事象が"ある"だけです。

"ある"のに疑問に思うと、苦しくなり、排除したくなるだけです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>すべての事象が"ある"だけです。
:事実としてはそうですね。
わかります。

しかし、
>"ある"のに疑問に思うと、苦しくなり、排除したくなるだけです。
:これは逆ではないでしょうか。
排除したくなるから「ある」ことを疑問に思うのではないでしょうか。

絶対的な納得に基づいて「ある」ことがあるわけではないので、疑問が生じるのはむしろ自然でしょう。
この疑問を解決できないからといって闇雲に「>お互い、そこに"ある"だけです。」と悟ったり諦観したりするのは、人としての可能性を放棄してしまうことにならないでしょうか。
あくまで、そこに至る認識の過程、根拠が明確になっていればこそ生きてくる言葉ではないかと思います。
 
しかし、基本的にはとても大事な視点ですよね。
大変参考になりました。
  

お礼日時:2009/04/02 16:52

多様であるとは、個性の違った存在が沢山ある状態のことですね。

生物の進化を見ていると、皆が単純で統一的な横並びの一線から出発して、各々が置かれた環境によって自然淘汰されながら、各個体が個性と言う武器を手に入れながら、生き残って来たようです。

個性とは、自分の存在の中に他とは違っている等部分を持っていることです。その部分が犯かされてしまうと、その個体は最早安定して存在できなくなり、絶滅してしまいます。自然界はそのことを経験上知っているのでしょう。そこで、体内に異物が入って来てその個性を壊そうとするものにたいして、ことさら排他的な行為をする機能が生物には出来上がっております。所謂、免疫系のことです。白血球がなかったら、我々は一変で病気になって死んでしまいますね。この免疫系のお陰で、生物の個体は自分の個性を理解し、自分に属さない異質物を選択的に排他し、排出ているのです。生物ばかりでなく、この世の中にある複雑な組織、例えば、人間やアリやシロアリなどは、その組織の一部として必ず免疫系をもっており、種の存続のために,必要に応じて異質物を排他しております。

この世界が、多様で豊富な個性を保持し蔓延させていることは、我々人類にばかりではなく、あらゆる生物に、どれだけの安定性や、安心感、あるいは幸福感をもたらしてくれていることでしょう。ところで、この世界が排他性の故に、なぜそのような安定した形態を保持し、多様で飽きない世界になってしまったのかについての考察は,皆様にお任せすることにしましょう。ただし、ここで確実に言えることは、生物の数十億年に渡る進化によると、あらゆる生命体や組織体には排他的な部分が在り、自己の個性を守る機能を獲得したから、今まで生き残ってこられ、これからも生き残れるのだと思います。

自然の歴史や人間の歴史が創り上げ辿って来た道筋は大変長く、複雑で経験豊かなものです。したがって、一見不合理に見える物でも、その皮を幾重にも剥くと、意外な肯定的な側面が見えてくるものです。

生物界を見ていると、排他性がその存在を保証してくれて来たことは明らかです。排他性を非難するりも、その排他性の持っている肯定的な側面を表層的でなく、本気で深く抉り出してみるべきです。そして、この生物の進化と言う一筋縄では理解できない経験を無視して、排他性を毛嫌いしてしまい「角を矯めて牛を殺す」ような愚行を慎むべきです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

最終節の前までは全く同感ですし、理解しているつもりです。
それゆえの悩ましさを持った質問であると思っています。

>一見不合理に見える物でも、その皮を幾重にも剥くと、意外な肯定的な側面が見えてくるものです。
:この点についてもわかります。
ただ、我の合理と彼の合理が必ずしも一致しない、ということについて考察する必要はないでしょうか。
なぜならば、我の合理のみ主張することによって我が幸せになれるとは到底思えないからなのです。
人間は本能の壊れた動物である、という表現がありますが、これはよくも悪くもではないかと思います。
壊れたものとして存在しているわけですから、壊れたなりに均衡を図ろうとすることが、また自然ではないかと考えるわけです。
人間は自然(界)には、おそらく同化しきれません。
この意味で、
>この生物の進化と言う一筋縄では理解できない経験を無視
:しようとされているのは cyototu さんのほうではないでしょうかね。
 
>排他性を非難するよりも、その排他性の持っている肯定的な側面を表層的でなく、本気で深く抉り出してみるべきです。
:とおっしゃる意味はわかりますが、そもそも「排他性」の(存在に気付いていないわけではないと思うのですが)意識化さえなされていません。
ここを意識することが先決のように思われます。

>「角を矯めて牛を殺す」
:心配よりも、角によって殺されている、あるいは殺される予感に怯えている牛に着目すべき段階に入っているのではないでしょうか。

>人間やアリやシロアリなどは、その組織の一部として必ず免疫系をもっており、種の存続のために,必要に応じて異質物を排他しております。
:そうですね。
アリやシロアリと根本では大差ありません。
しかし、大差ないということは小差はあるわけでしょう。
アリと人間とを隔てる何かがそこにあるのだとするならば、その視点から排他について考察してみることは無駄ではないように思うわけです。
その視点から、よろしければ再度ご意見を伺うことができればと考えます。
 
  

お礼日時:2009/04/02 16:45

これは、動物本能の世界と直結しています。


つまり、争い、排他によってその種を豊かにする、あるいは生存を強化するということにつながります。
バッファローやらがオスどおしでつばぜり合いやらやりますね。あれで強者がメスをめぐって生殖権を与えられる。
人間も、排他によって各々が強化される動機付けが出来上がる、ということのような気がします。

hakoburuさんもそのくらいはお気づきなのではないでしょうか。

つまり、人間社会も一皮向けばどうしようもない自然そのものなのだということがいえる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり、人間社会も一皮向けばどうしようもない自然そのものなのだということがいえる。
:たしかにおっしゃるとおりですよね。
ただ、自然そのものだけではないはずなんですよね、おそらくですが。
自然は悩みませんし、思考しませんからね。
何かを模索するようにできているわけでしょうから、その属性を活用してみるのは面白いんじゃないかと思いますよ。
 

お礼日時:2009/04/02 15:52

No12


>>事実と真理が存在という措定が噴飯ものです。
訂正
>>事実以外に真理が存在するという措定が噴飯ものです。
 プラトニズムから進歩していないようですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>プラトニズム
:ですか。
今ちょっと検索しただけですが、
「イデア界と現象界とが不可分であることを表現しているものだ。」
と書いてましたね。
当たり前のように思うのですが、ここからどのように進歩すれば良いのか検討もつきません。
ヴィトゲンさんを読まないとだめなんでしょうか。
糸口だけでも教えてくれればなあ・・・。
 
  

お礼日時:2009/04/02 15:49

No3です。


> 生きるとは、単に「排他」でもなく、「排他を発揮しない」ことでもありません。
>>:ということは、「どちらかである」ということですよね。
ドイツ観念論の時代でもあるまいし、ポストモダンにおいてAかBかという選択(Aが理性でも、Bが感性でも何でもかまいませんが)をすること事態が現代の哲学状況を全く知らない言明ですね。

>人間世界とは、1個人の主観性ばかりでなく、間主観性によって成立していることを忘れないでください。
:事実はそうでしょうが、事実と真理とは別物でしょう。
>>事実と真理が存在という措定が噴飯ものです。
昔は、絶対的と思われていた自然科学にも、社会構築主義の波が押し寄せてきています。
 ヴィットゲンシュタインを勉強してみてください。
哲学における問いとは、どのようなものか分かるでしょう。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>現代の哲学状況を全く知らない言明ですね。
:これを知らないとやはり解決は難しいものなのでしょうか。

>事実と真理が存在という措定が噴飯ものです。
:哲学全くの素人でして噴飯させてしまい申し訳ありません。

> ヴィットゲンシュタインを勉強してみてください。
:なんか難しそうだし、たぶん理解できないように思います。
ご専門家のお立場で、今回の質問に関連する部分だけで結構ですから、わかりやすく概説していただくわけにはいかないでしょうか。
「>哲学における問い」と大上段に構えられずに、一般的な言葉で平易に解説していただければ、大変うれしいんですけどね。

only fools rush in と無視していただいても結構ですが。
 

 

お礼日時:2009/04/02 15:42

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