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西田典之「刑法総論(第一版)」における故意・過失の捉え方

西田典之「刑法総論(第一版)」(第二版ではありません)における「故意・過失」捉え方でよくわからないところがあります。
69頁第二段落12行目では「構成要件的故意を認める必要がない」として、西田は構成要件的故意を否定しています。
しかし、83頁(3)1行目では「主観的構成要件要素には責任要素もある。 その典型は故意・過失である」として、「主観的構成要件要素」として故意・過失を認めています。

主観的構成要件要素として故意・過失を認めるということと、構成要件的故意・過失を認めることはどのようにちがうのでしょうか? 主観的構成要件要素として故意・過失を認めるのならば、それは構成要件的故意・過失を認めることにはならないのでしょうか。

A 回答 (2件)

ズバリ解答をするならば、解釈体系が違うというのが適当だろう。



主観的構成要件要素としての故意という部分は、行為者が実在する限り説明できるが、構成要件的故意は、それを採用する体系において解釈される。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます

主観的構成要件要素として故意を認めることは行為無価値・西田ともに共通で、その主観的構成要件要素を「構成要件的故意」ととらえるかどうかの違いだ。 そして、そのような違いが生まれるのは、主観的構成要件要素としての故意をどう解釈するかが、解釈体系によって異なるからだ、ということですか? (間違っているかもしれません)

しかし、解釈体系が違うからだ、ということだけではちょっとよくわかりません。 なぜなら、「構成要件的故意」として行為無価値論者により認められているものと西田の言う「主観的構成要件要素としての故意」が「具体的に」どのように違うのかということがわからないからです。「解釈体系が違う」というのはもちろんそうだと思いますが、具体的にどのように違うのか、そしてその違いがどのような根拠に基づき生まれているのかが知りたいと思い質問しました。

お礼日時:2010/05/19 16:53

主観的構成要件要素である故意は、その構成要件における意思そのもの、ないしその評価であるが、構成要件的故意は、『客観的評価基準』でもあるわけです。


意思そのもの、あるいはその評価が裁判上弁論などにに現れるわけですが、構成要件的故意はその事実が構成要件に該当し違法なものであるとの判断のための基準であります。
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