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河童のモデルはポルトガル人宣教師
という説が西日本にあります。
その根拠は
1.河童の鼻は西洋人のようにとがっている。
2.頭のてっぺんが禿げている
3.宣教師はミサのとき、カッパ(合羽)を着るが、それはなんとなく甲羅を思わせる。因みにカッパ(合羽)はポルトガル語です。

それに私は次の項目を付け加えたいと思います。

a.河童はきゅうりを好むという。わたしはポルトガルの文化をそのまま受け継いだブラジルに長年住みましたが、ブラジル人は毎日サラダを食べます。サラダに不可欠なものはレタス、トマト、たまねぎ、そしてきゅうりです。昔の日本にはレタスとトマトはなかった。玉ねぎはどうか知りませんが、たぶん普通のネギしかなかったでしょう。ポルトガル人はポルトガルで食べていたきゅうりが日本にもあると知り、喜んで食べたとしても不思議ではありません。

b.夏の暑い日、宣教師たちは裸になって川で泳いだ。宣教師たちは泳ぎが上手かった。そして泳ぎ方も日本のものと違っていた。それが河童の伝説に繋がっていった。

c.川で泳いだ宣教師の肌は異常に白かった。化け物のようだと日本人は思いました。しかしながら白は色白の美人と言うように褒め言葉です。化け物のイメージと繋がらない。河童は白くてはいけない。なにか別の色を考えました。バテレンたちはきゅうりを好むのできゅうりを食べすぎて緑色になると連想し、河童の肌の色を緑色としました。

d.河童は川に人をおびき寄せておぼれさせるという話し。これは宣教師が人々を教会に勧誘して宗教に溺れさせるということを連想させます。

e.河童の皿が乾かないよう水をかぶるということ。カトリックでは生まれたばかりのこどもに洗礼を行います。洗礼は頭から水をかけます。これを見た日本人はバテレンは水を頭にかけることでなにか特別な力を与えるのだと思いました。それで河童の皿に水の発想が生まれました。

上記の推理をどう思いますか? ご感想をお願いいたします。

A 回答 (6件)

 日本に宣教師が来たのは1549年のフランシスコ・ザビエルが最初ですが、河童の原形であると言われている河伯と呼ばれる水神の伝説を、1374年に記した書が大分県にあるそうです。



【参考URL】
 神奈川大学ホームページ|常民研News
  http://www.kanagawa-u.ac.jp/05/ken_nihon/05/16/0 …

 江戸文化in熊本|河童伝説~水神信仰と深いかかわり~
  http://lets.kumanichi.com/kumamoto_rena/simen/18 …

 尤も、この頃の河童の姿は現在ポピュラーとなっているものとは異なっていた様ですので、必ずしも河童=宣教師説を全否定する証拠にはならないと思います。

 それからbとcですが、キリスト教では元々は他人に肌を見せる事を恥としていて、そのためにローマ帝国時代の入浴の習慣が廃れて、入浴する事が極めて珍しい事になり、体臭を誤魔化すために、香水の文化が発達したくらいですから、一般人なら兎も角、キリスト教を広める立場の宣教師が、暑いくらいで肌を晒して泳ぐ事は無かったと思います。

【参考URL】
 ヨーロッパでの水着の歴史
  http://egao-life.jugem.jp/?guid=ON&eid=38

 これに対して、河童が人間に化ける話や、水に濡れると正体を現すという話を、殆ど聞いた事がありませんから、少なくともポピュラーな伝承では、河童が水に濡れる事を嫌う理由は無いと思います。
 ですから私個人は、水に入る事を嫌う宣教師を、河童の正体とするのは、多少不自然な事である様に感じました。
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この回答へのお礼

科学好き様
科学が好きなお方ですから研究もご熱心なのでしょう。詳しいご回答ありがとうございました。勉強になりました。一つだけ反論があります。

>それからbとcですが、キリスト教では元々は他人に肌を見せる事を恥としていて、そのためにローマ帝国時代の入浴の習慣が廃れて、入浴する事が極めて珍しい事になり、体臭を誤魔化すために、香水の文化が発達したくらいですから、一般人なら兎も角、キリスト教を広める立場の宣教師が、暑いくらいで肌を晒して泳ぐ事は無かったと思います。

貴方は入浴と水泳を混同しています。入浴に関しては同意します。
水泳は事情が異なります。ポルトガルは船乗りの国です。その頃の船は容易に沈みました。すなわち船乗り=泳ぎ達者でありました。泳ぎ達者になるには訓練しなくては達者になれません。泳ぐのは服を着て泳ぎますか? 水の抵抗を受けて泳ぎにくいです。ポルトガルの男たちは下着だけで水に入り、泳ぎを学んだと思われます。貴方は男性と女性を一緒にしています。日本の夏はポルトガルに比べ湿度が高く西洋人には耐えられませんでした。宣教師は男です。付近に川があれば水浴びしたくなって当然です。私はブラジルで神父さんの友人がいましたのでよく教会へ行きましたが、神父さんだって教会で信者さんの前ではまじめな顔をしていますが、普段はごく普通の人です。心がきれいで人を助けるのが好きというだけで結構面白い人たちです。未開国の日本まではるばるやってきた度胸のある宣教師が、上品な貴婦人みたいに裸になるのをもじもじ躊躇したなどとても思えません。ざんぶと水に飛び込んだと思います。

お礼日時:2010/06/08 07:15

そうだったのか・・・。

知らなかった。
それが、島原の乱に行きつくんですね。

うちの方にはカッパの伝説というか妖怪の類は聞かなくて、せいぜい「キツネにばかされる」程度なので、なぜかあこがれます。

東北の遠野(ざしきわらしつながりの話で)の方だったっけかな、飢えた我が子を手にかける時に庄屋の台所の排水場所付近の河で沈めたとの言い伝えがあるそうで、河の中に流れ出た米つぶのひとつでも口に入ればとした親の念があったそうです。そうした子供たちがカッパになって河でいたずらをして遊んでいると言われているそうです。
聞いていて涙が出てきてしまいました。

あちらこちらで、いろんな話がありますが、水木しげる は どう考えているんでしょう。

話は変わりますが、
当時の宣教師って頭のてっぺんを剃っていたんでしょ?・・・って聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
かなり感受性の高いかたのように見受けられます。

>当時の宣教師って頭のてっぺんを剃っていたんでしょ?

はい、剃っていました。

お礼日時:2010/06/09 08:47

例えばツチノコ。


このツチノコでさえ実在するかわかりません。
にもかかわらず、2mくらいジャンプするとか、猛毒を持っているとか、「シャー」と鳴くとかいろいろな情報がありますが、これらの話に裏付けがとれていません。
河童に対しても然りです。
もともと存在しないモノの尾ヒレの付いた側聞的データで論じても意味を持たないと思います。
私は概ねあなたの考えに賛成です。
アルシンドなんかは河童に見えますからね。
国を追われたボートピープルが日本に流れ着き、ひっそりと暮らしていたのではないかと。
生活するには飲み水が必要になりますから、河川が近くにある場所を求めるはずです。
下流には日本人が住んでいたかもしれません。
そしてその地元住人が山に散策に入ったときにこの異人を目にしたのでしょう。
どう見ても日本人とは違う面立ち及び体格。未知のものと遭遇した恐怖心から正確に記憶することが困難になることはしばしばあります。
高い鼻は嘴のように、頭頂部のハゲはお皿のように見えなくもない。
血相かいて逃げ帰って村の仲間に「妖怪がいた!」というところから、この伝説は始まったのだろうと思います。
その後のキュウリが好物であるとか相撲が好きとかいうのは、ツチノコが「シャー」と鳴くことと同程度の不毛な論争だと思います。
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この回答へのお礼

今回の質問は私自身楽しめました。よく死刑論議とか右翼対左翼の丁々発止はエキサイティングですが、疲れます。そこへ行くと河童のようなどーでもいい話題は議論していて余裕があり、楽しいですね。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/06/09 08:40

 推理というよりも仮説に仮設を重ねているだけのような気がしますが。



1.容姿について
 1で河童の鼻は西洋人のように尖っている、とされていますが、河童の鼻については明確な記述がありません。葛飾北斎は鼻のない河童の絵を描いています。鼻のある河童の絵もありますが、大抵は上を向いたいわゆる獅子鼻になっていることが多く、西洋人のように高く尖った表現になっているものはほとんどないはずです。
 また、河童には通常くちばしがありますが、それに関する説明がないですね。当時の宣教師達は髭を生やしていたはずですが、河童に髭はありません。戦国大名や武士達は髭を生やしていた人が多かったですから、くちばしと髭を見間違うはずもないでしょう。
 それから、当時も今も西洋人は日本人よりも通常大柄ですが、河童は子供くらいの体格です。「童」という字が使われているのもそのためです。この点も大きな矛盾ですね。

2.生態について
 河童が好物とされるキュウリですが、当時はあまり食用とはされておらず、食べる場合でも十分に熟して黄色くなったものを食していたようです(キュウリは黄瓜がなまったもの)。このことはポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書いた「日欧文化比較論」にも記述があります。ですから、当時の河童が食べていたキュウリも、熟したものだった可能性が高いですね。

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/2493/ac074 …

 それと、#1さんが云われている「お尻から血を吸う」というのはあまり聞いたことがないです。おそらくごく一部の地域でのみ言い伝えられているもので、必ずしも一般的な事ではないでしょう。よく云われているのは「尻児玉を抜く」ですが、カトリックの行事にこれと似たようなものがあるとは思えません。
 それから、河童といえば子供たちと相撲をするのがすきである、というのがありますが宣教師達が相撲を取っていたとは思えません。当時の相撲は武士の武芸のひとつとされていましたから、宣教師達が自ら相撲を取るはずがないですね。
 また、河童は人を川におびき寄せたりはしません。泳いでいたり、洗濯や漁などのために川辺にいた人をその怪力で引きずり込むのです。

 想像を巡らすのは自由ですが、具体的な根拠(当時書かれた文書など)を示さないと単なる妄想になってしまいます。

 ちなみに、西日本で河童の起源としてよく知られている河伯という河の神ですが、「日本書紀」にはすでに登場しています。河童に関するものとしては、これが一番古いでしょう。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。勉強になりました。一箇所だけ反論いたします。

>河童といえば子供たちと相撲をするのがすきである、というのがありますが宣教師達が相撲を取っていたとは思えません。当時の相撲は武士の武芸のひとつとされていましたから、宣教師達が自ら相撲を取るはずがないですね。

貴方はおそらく海外生活の経験がないかたでしょう。私はブラジルに17年住み、カトリック神父さんの友人もいましたのでよく教会に行くことがありました。神父さんは信仰心が篤かったり、親切だったり普通の人と違う面もありますが、ほとんど普通の人と変わりません。
宣教師がはるばる異国に来てそこの住民と親しくなるにはどんなことをしたと思いますか? 言葉が通じないんですよ。まず物おじしないこどもと遊んだのでしょう。われわ現代人だって親しくなるのはまずこどもです。相撲などはコミュニケーションをとるのに最適だったと思います。武芸などという勇ましいものとしてではなくこどもたちと触れ合い日本人と仲良くするための手段だったと考えます。

なお、私は河童宣教師説は古来からある河童伝説をより具体化させたものとして考えています。そうでないと説明がつきません。河童の風貌およびそれにまつわるエピソードがあまりにもポルトガル宣教師に該当することが多いのです。

お礼日時:2010/06/08 07:37

 実に説得力のある推理だと思います。

それが真実かもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
賛同を得て自信が深まりました。
ただ、東日本にはもっと古くから河童の伝説が存在していたという説がありますのでもしそれが真実であれば、川には泳ぎの上手い化け物がいるという荒唐無稽な話が西日本に伝わり、それがバテレンと重なった。バテレンは実在したので荒唐無稽な化け物がどんどん具体化していった。
早い話、おやじが町工場をやっていたのを息子が継いで立派な企業に発展させたみたいな話だろうと推理しております。

お礼日時:2010/06/07 10:34

かなり面白い発想ですね。


河童にまつわる伝説で「お尻から血を吸う」というのは、どのように解説できるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
お尻から血を吸うについては、接吻から発想したものだと考えます。宣教師はキスをします。ローマ法王が日本に到着したときも大地にキスをしました。当時の日本人たちはバテレンたちはなんでも吸う化け物だと気味悪がりました。尻の穴から血を吸うという発想が出てきたとしても不思議ではありません。

お礼日時:2010/06/07 10:10

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