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なぜ人間は宗教をつくりだすのか?
猿などの動物は宗教をつくりませんが、人間は宗教をつくりだします。これは人間が猿などの動物よりも優れているからではありませんか?

A 回答 (27件中1~10件)

未だ閉じていなかったものですから、別の切り口から書いてみたいと思います。



人間が宗教を求める理由は、この有限の世界から、飛び出して、真の自由を獲得するためと思います。或いは飛び出してと言うよりも、有限の世界に縛られない自由を求めていると言う方が、合っているかも知れません。

大人になって、出来る事が多くなって自由になってゆくに従って、自由が利かなくなって、『本当の自由』と言うものに憧れを感じるという事かも知れません。

思いを馳せて、自分自身を客観的に見る事も出来ます。猿や動物との違いがはっきりします。自分を反省したり、内省したり、他と比べる事が出来ます。つまり自分自身を、客観的に見たり、その主体としてみたりすると言う意味ですが、つまり『自分自身が二つになった』ものの見方が出来ることによると思います。

そうして、元々は一つであった『心が』二つに分かれてゆきます。一つは『有限』と云う限界の中に言葉を持った存在『自我意識』として人生を学んで、成長してゆきます。

他方の意識(心)は『元々』生まれた時から、命そのものを賄っています。赤ん坊が生まれた瞬間から、怖い事も、安心できる事も分って、そうして泣いたり、笑ったり、心臓も肺も働かせています。その者が『無意識界や潜在意識界』の主人公として、隠れた形になってなってしまいます。

そうして、学ばなくとも分っている者として、秘密裏に『自我意識に働きかけています。』その働きかけとは言葉ではない情報として、脳梁を通して絶えず送られてきます。

高い処に上がった時の感じとして、或いは人に会うときの感じとして、或いは初めての人に合う時の感じとして、或いは鋭い刃物を見たときの感じとして、絶えず自我意識に伝えています。

そうして、この者と自我意識は常に同居しています。同じものを見たり体験しています。或る時は『殺気として、或いは、その場の空気として』様々な情報を脳梁を通して送っています。

例えば、結婚を決める時には、その人の事を自我意識に『如何いう具合に如何言う事で』結婚したら幸せになれるのかも教えています。この情報を間違って受け取った場合に、成田離婚が待っているのかもしれません。

そうして人生最大の悩み、つまり永遠と有限との対話が始まる場合があります。それは『死期が迫った場合です』迫らなくとも対話が始まる場合もあります。

死期が迫らないにも拘らず、対話が始まる事を、不安障害や、恐怖症になったと言う言い方も出来ます。その事を宗教的に表現するなら、天国から追放された、地獄に落ちる、或いは妄想の中で苦しむ、と云う言い方になります。

つまり心の矛盾に苦しむと言う事になります。此処に宗教文化が発展してきた理由があります。人間の苦悩とは『心の矛盾』という事になります。この苦しみからの解放を宗教が担ってきたと言う時代背景と、心の癒しの究極なものがあります。

今は精神科医や心療内科の処に、救いを求めて、宗教離れが進んでいるように見えていますが?

そうして究極の癒しの心理学が『宗教』の中に存在する事になります。

それは、悩みがなかった時代、キリスト教で『天国に一番近い存在』と云う幼子に帰ると云う意味になります。心の矛盾を解消して、おとなの幼子になる、と云う意味です。キリスト教的に言うならば『(内在する)神と和解する。』という事になります。

仏教的、禅的に言うならば、(禅問答を解いて)自分に苦悩を引き起こしている者に出会って、その苦悩から解き放たれる、と云うほどの意味ですが、『生死の問題を解決する』という事になります。

いずれにしても、自身に内在する、『命の働き』と仲直りすると云うほどの意味です。心を病むと云う事、神経症で苦しむと云う事、自律神経失調症で苦しい思いをする事、或いは深刻な悩みに苦しむと云う事の元には、今言った『心の矛盾』が内在しています。

意識と無意識は交替制を取っています。メンタル面が強い人とは、自我意識が出難い人の事です。メンタル面が弱い人とは、自我意識が出やすい人ですが、意識と無意識が二つに分かれる瞬間、或いは交替する瞬間に、二つの意識が出会う事があります。

この事を、宗教的には、色々な言葉で表現しています。ですが心を病むと云う場合、この事が心を病む事が、完治したと言います。もう二度と自我意識に圧迫が加わらなくなるという意味です。

自我意識のみで自分は成り立っている訳ではないことを知るからです。そうして『症状』として嫌っていた事の本当の訳を知ることになります。症状として嫌っていた事が間違いだった事に気が付きます。

症状を心から受け入れた時、心の病は完治となります。その瞬間から『心の矛盾』が解消するからです。症状とはもう一つの意識からの、大事な情報と分ります。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/30 15:08

補足をさせて下さい。

本当に宗教は素晴らしいのか…疑問です。動物にとって宗教等必要で無いから作らないのかもしれません。或は人間に見えないだけでもしかすると彼らにも私達が宗教と呼んでいるものが有るかもしれません。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/30 15:08

宗教とは何かというと、



人間が神的なもの、永遠のもの、普遍的なもの、或いは、神そのものを実感するための過程や結果ではないかと思います。

人間は神ではないですが、少なくとも神というものがどういうものかは、猿よりは知っています。創造主とか、全知全能とか、なんでもいいですがそういうイメージを持っているし、実際そのようなイメージによって神がどういうものかを示すからです。

猿ももしかしたら、何らかの神的なものを仄かに感じ取ってはいるかもしれません。が、それを明確に自己と対象化し、それに向き合って考え、更にそれを表現するというところまではいっていません。逆にここまでいけば、宗教の初期段階のようなものが生まれるかもしれませんが。

もし人間が神そのものであれば、現歴史上の宗教のようなものは存在しないだろうし(別種のものは存在する可能性があります)、動物であれば、上記猿のように表現できません。人間は動物でありながら、動物ではない何物かであり、この何物かがあることによって、ないものより優れているということはできると思います。そしてそれによって、人間は神ではないが、何らかのかたちで神に近づこうという姿勢が、宗教の内容を形成するのだと思います。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/30 15:07

No.3です。


皆さん長文で哲学的なコメントばかりで、私が回答するのはお恥ずかしいのですが…(+_+;)
追加です。
人間の勝っている所…手先が器用な事ぐらいかな?

言葉を覚えて、脳みそが活性されて、科学が進んだ。
と、言う人も居るかもしれないが、猿やその他の動物なんてキーキー、メーメー言っているだけで意思の疎通が取れて生活しているので「言葉」自体の深みは意味が無いように感じる。

やっぱり、手先が器用な事が人間として勝っている事だね。
原爆とかミサイルとかそれで地球上に生き物が住めなくなっても、太陽の様にマグマに包まれても、地球の歴史の一ページとなるだけでたいした問題でもない。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/30 15:05

 たくさんの有益なご回答の中で、始めて、一つだけ、ANo.15の場香玻偈さんのをコピーさせてもらい読みました。


 私達(ヒンドゥ哲学の勉強と精進の者)もfeelingは最重要視することを指導されています。
 私達は一応、創造の意識存在から創造の説明、そして人間たる意識存在への移行を研究します。
 人間意識が経験しそれを紡ぎ、構成するには第一にこのfeeling機能の出現がどう出てきているかを研究し、判断と構成という紡ぎのための能力とカテゴリの根拠と基点を学びます。
 人間に一番に出てくるのがこのfeeling機能であり、次が推論演繹の能力とカテゴリですから、バカハゲさんの論述は両方を触れているわけです。
 そういう意味で貴重な回答です。でも南無 阿弥陀仏なんですね。
 まぁそれは結構であります。人間のこの機能と能力の基本性についてもいつか、どこかの回答でご披瀝下さるでしょう。
 創造と認識の本源を明かしたお話ですが、これがどう架空で、どう本質かはまた別の話でしょう。
 しかし宗教というものの本源を知的に語る素晴らしいものです。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/30 15:05

世界中のほとんどの政府(日本も含む)のように、国民あるいは信者から自主性を奪い、自分達の言うがままにしたいため。

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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/17 01:21

 人間には 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性を この宇宙の中で 持っていると考えられる現象が見受けられます。

その昔 アイヌの間で こういうことが起こったそうです。

  一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。
  巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た
 してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。

   ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし
    の体を重ねてみる。
     そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに
    あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。

 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないでしょう。
 神体山に神木に身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があった。アニミスムともよびます。

 これをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。
 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突があったりすると もはや上のアニミストたちの素朴な対処法ではなく そうではなく このシャーマンの出番となる場合です。
 何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて 何ものかの世界に身を置き そこから何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。

 さらに時を飛びます。
 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも新たな心性を 人は獲得した。単純に それは 時間の獲得によるものでしょう。
 農耕をとおして つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおして つまりその種まきから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。
 要するに自分たちは 老いると ただ倒れるのではなく 死ぬのだという認識がからんでいるはずです。時間的存在であることは 心性を高めて その精神および身体において歴史知性を獲得したと考えられます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。
 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。
 
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスムのほうをも備えているでしょうから(むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。
 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり食糧の収穫に感謝し供え物をして共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。
 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの歴史知性を超えたところの精神において) マツリゴトとして 制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。

   オキナガタラシヒメのミコトは 当時 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されます。
 これは あたかもその昔のシャーマンを思い起こさせます。違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。

 要するに ここに 神の代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税や献金を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。《おしえ》は あとからついて来ます。ヨセなる知性は 頭がいいのです。猿ではありません。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/14 15:45

宗教とは「教え」です。

だから神道は宗教に括られることを嫌悪しています。
逆に欧州を主に、仏教は思想で会って宗教ではないとする学者も少なくないようです。

つまり、宗教という概念が未だ明確ではありません。
で、文字通り「教義があること」を主に考えれば、およそ生活に影響しない思考力を使うのが人間に限られているから宗教が人間にしか存在しないと考えるべきでしょう。
ひょっとしたら動物には死後どうなるのかが判っているのかもしれません。どう生きるべきかを理解していれば宗教など存在しえません。

但し、信仰は全く異質です。特定の宗教を信じる事が信仰ではありません。
相手に思いを託すこと、崇敬の念を抱くことなど自然の心の発揚が信仰です。
野に倒れた者に哀れを感じてか、自然と近寄り思うこと、黙祷すること。これが信仰です。

一部の動物も仲間の屍に近寄り、しばし悲しげな声を上げていることが判っていますし
実験用動物を殺処分する時に飼育舎全体で泣き声を挙げる現象も私は経験しています。(処分を受ける動物は安楽死なので声をあげる事はありませんが、死の直前に聞こえぬはずの飼育舎から泣き声が上がります。)
この原因は判りませんが、動物も死を憐れむ心は持っているとも考えられます。
とにかく動物の思考を正しく理解していない以上、ないということもあるということも断言は出来ません。
でも現象的に、これこそが信仰だとすれば、けっして信仰が人間特有とはいえません。

逆に全ての生物に信仰があり、人間だけが信仰を否定する思考があるのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/14 15:44

#4の者です;



>人間は生まれながら宗教心があるので

例えば、集団主義的な稲作農耕文化の日本人は、大多数が無宗教です。
正月は神社に行き、教会で結婚を誓い、お寺に葬られる、これを「信仰している」と言えるでしようか?
非宗教的な儒教(集団主義的な東南アジアに普及した)と同じ「マナー」扱いされている(儀式宗教化)。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/14 15:44

意識や無意識の根底に、何か分らない不安や恐怖と言うものが存在しているからだと思います。

得体の知れない『何者か?』を自身の心に内在させられている事に対する不安と言うものだと思います。

分ってしまえば、その者とは内在する『識られざる神』と言うものです。その意識その者が『宗教』で出来ている事が判ります。

人間の心は宗教によって出来ていて、その宗教によって悩まされ、苦しめられています。そうしてその宗教によって『救われています』その事を昔の人は『汝自身を知れ』と言っています。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/08/14 15:43

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