意識はあるがその場で認知した出来事を記憶することができなければ、後日その経験を思い出すことはできません。その状態は意識がない状態いわゆる無意識と区別ができるでしょうか。
もしできないとするなら、無意識とは記憶がない意識状態ともいえます。
例えば、生まれる前にあの世で生活していたとしても、あの世の経験は現世の脳にはインプットされていませんので記憶がないのは当然ですが、それはもしかすると記憶のない意識状態だったかもしれないとは言えないでしょうか。
だとすると出産(受精でもいいですが)と意識の発生のタイミングは必ずしもイコールとは言えないのではないでしょうか。
あくまで主観的にみた場合です。
No.16
- 回答日時:
再度の御邪魔を致します。
目に見せられていない場合にも、色彩は皮膚によって認識されていまして、
既に鍼灸の臨床現場で、其の現象が技術的に応用されております。
しかも人間の場合の展開と同じく、
言語記憶に関係せずとも、
動物達もが鍼灸治療に「適切な」反応を示してくれ得ます。
従いまして、たとえ言語記憶が伴なっておりませんでしても、
対象への意識に基づく行動は普通に叶っており、
其処から窺われます通りに、
『脳神経細胞叢が生きているからこそ、対象への意識が可能になり得る』
と言えましょう。
つまり『生前に「無意識」が存在していない』とは言い切りませんが、
『其の頃に「意識」が存在している必要性は無い』筈です。
ご回答ありがとうございます。
>目に見せられていない場合にも、色彩は皮膚によって認識されていまして、
>既に鍼灸の臨床現場で、其の現象が技術的に応用されております。
>しかも人間の場合の展開と同じく、
>言語記憶に関係せずとも、動物達もが鍼灸治療に「適切な」反応を示してくれ得ます。
ここまでは分かるのですが、
>対象への意識に基づく行動は普通に叶っており、
どうしてこういう結果になるのでしょう。
鍼灸と意識とは別の話ではないですか?
>脳神経細胞叢が生きているからこそ、対象への意識が可能になり得る
なぜこのような結論へ至るのでしょうか。
皮膚の反応と脳神経、意識があるないとは別の話ではないですか?
>其の頃に「意識」が存在している必要性は無い
必要性というのもこれもまた別の話では?
No.15
- 回答日時:
こんばんは。
>昨日の入浴中に意識があったかどうかを主観的に今日!説明ができるか?
ですか・・
証明ではなく、説明でしょうか?
主観的な説明・・なんでもいいのなら、気がついてる状態(心理学でいうアウェアネス)までも行っていないような。
朝目覚めるときの細かい分類で、
1,最初ぱちっと目が覚める、ただ景色が目に入ってきてそれがなにかという判断はない。未知のものとしての風景が見えてる状態。
2.自分がベッドの上に寝て天井が見えてることを知る、自分のいる場所を理解する(空間把握)
3.一日のうちの朝という現在時間を理解する(時間認識-時間は目で見えないので遅れます)
4.更に細々した世界観の構築
という風な段階がすごく細かく分けるとあるとします。
すると、お風呂にいるときは、1だと思います。
気がついてはいないけど、意識はありますよね、外から観測する限り。
それが意識がないと思うのは、哲学ぞんびだ、というのと同じですから。
「お風呂に入ってる状態」、をただぼーっとしてた時と捉えるか、擬似的完全性とみなすかで解釈は違いますが、
上の目覚めたときに例えた説明は、ぼーっとしてると受け取るときの解釈。
下は、擬似的完全性とみなすときの解釈です。
擬似的な完全性とみなすと
これが痴呆症の人や未開の人(ちょっと例え悪いですがお許しを)のようなのと違うのは、そう知って納得が行って、あえて1のレベルにとどまり続ける、ということを自覚的に行う人がいますし、それは先の投稿で書いた、意識があるともないとも言えない状態に相当すると思います。(投稿では意識の代わりに記憶でしたが)
それは乖離した意識、自覚的意識があるかどうか=普通に大人が使うところの意識、という点では、無いでしょうし、
目覚めてるという意味では意識はありますし、
赤ちゃんや痴呆の人みたいに無自覚ではない(かつ自覚とも言えない)、という意味では、意識はあるともないとも言えると思います。
って、これは前の投稿の焼き直しです。
お風呂での状態が擬似的完全性と観るのは、生前や死後になぞらえるときの話です。
でも単なるボケボケっとした状態でもあるので。
>気がついてはいないけど、意識はありますよね、外から観測する限り。
外から見るとそうなのですが、質問にある通り主観的という内から見てどうなのかということが今回のテーマであり検証すべき部分です。
私にお風呂の中で意識があったかどうかを主観のみを用いて説明してみてください。
なるべく平素な言葉で小学生でもわかるように。
No.14
- 回答日時:
ANo.13
【私はまずはじめに感覚ありきなので、それがあるものに似ていると感じたというただそれだけなのです。解脱という言葉の明確な意味は私にはわかりません。ただイメージが似ているというだけです。】
krya1998:ここでshift-2007さんが“感覚”ということで観念している事と私が”感覚”ということばで思い抱くことに或いはずれがあるかもしれませんね。
それは単なるイメージやそれこそ感覚的な側面の違いかもしれませんね。feelngの問題は個別的ですよね。
だからshift-2007さんが【私はまずはじめに感覚ありきなので】ということは多分私も、そして誰もがそうしているのかと存じます。
【解脱】は状態や境地でしょうから、それを“解脱”ってことばで言っているだけですよね。
それがイメージされていることで、似ているとお感じになることを私も一概に知ったかぶりで否定や批判してはいけませんね。そのように思われたということですよね。
私はそれで、egoという自我の超克の意味がお陰で更に理解できてきているのです。
【言葉の定義は正直興味はありませんが、何故にていると判断したのかは調べてみる価値があると思います。】
krya1998:正にその通りと存じます。自我とかegoというもの出自と機能について理解が深まることは重要だと存じます。
言葉の定義にご興味がない:そうですね。ことばが指し示す、或いは内容とするものの区別、その使用の仕方の区別大事ですが、それは第二義的なんでしょうね。
方法でしかありませんでしょう。
No.13
- 回答日時:
shift-2007さん、krya1998、No.9です。
コメントありがとう。まわりくどく表現しないために敢えて断定的言い方をしまして偉そうにみえますが、あくまでも私の経験的見解の限りでしかありませんので、最初に不遜をおわびしておきます。
【「意識があって想起のない状態」、この状態って何かに似てませんか?自我のない状態、つまり解脱です。】
“解脱”ということばで何を指すかの問題になるのではないでしょうか。そして“似ている”という表現は微妙というか曖昧です。そうであるのか、外見が似ていて非なるものなのか。とか、とか。
私が「意識があって想起のない状態」というフレーズで伝えたかったことは、《「意識があっても思い出せない状態」もあるでしょう。だから仰せのような記憶が意識に上らなくても、意識がないというのとはちがうのでしょうね。》ということなんです。
記憶は意識の照射したことを編纂記号化した結果であり内容です。それを記銘・刻印して意識の中に存在し続けます。どんな意識か、どんなレベルか。存在であり光である意識は様々です。
私たちは大きな意識の各パートを担って、経験した結果を自分であると思いこんでいます。
自分の意識、自分というものは全く意識の極小の一部にもならないものですので、其処での記銘や想起をする意識は互いに別のレベルや質となるので、記憶の有無が意識の有無にも繋がらないし、そして無意識とはまったくなりません。
意識を意識することはできません。無意識の状態とは存在しない状態ですが、通常個人が無意識であってもある意識があるからこそ存在しております。
行のお勤めで、意識内容、経験内容、記憶などがない状態に入る事は重要ですが、これが継続的常住的解脱だということには必ずしも繋がりません。
【自我を通さずに世界を見ることができたとすれば「意識があって想起のない状態」或いは「意識があって記銘のない状態」が出現するかもと想像します。】
その通りであると私も思います。この個別的執着感情性でしかない、自我を振り払って、自己の存在性である意識になりきる状態のことだと存じます。
【自我にとっては蚊帳の外なのでそれ(自我)からすると無意識といえるかも・・・・】
自我という自分性は残滓だけになるのでしょう。しかし自分性はある。でも大洋の意識界と自分性との区別がつかなくなっているでしょう。これを解脱(解脱の或る側面)っていうのでしょう。
偉そうに書きましてすみません。冗長な表現を避ける為だけです。私はそう思う、そう学んでいます、そのように修行をしています。ということでしかありません。
ご回答ありがとうございます。
私はまずはじめに感覚ありきなので、それがあるものに似ていると感じたというただそれだけなのです。
解脱という言葉の明確な意味は私にはわかりません。ただイメージが似ているというだけです。
ただ、私の感覚がそれに似ていると私に告げたことに意味があると感じていますし興味があります。
言葉の定義は正直興味はありませんが、何故にていると判断したのかは調べてみる価値があると思います。
No.12
- 回答日時:
No.7です。
>>無意識状態(5感が働いていない状態)とは厳密に異なっているといえます。
>つまりこれは五感こそが意識であるということでよろしいでしょうか。
そうです。
人間もある意味電子機器の一種ですから、第六感(電波などの直接感受)の存在の可能性は否定できませんが、今の科学ではなお未確認です。
>また、五感が働いていない有意識状態というのは想定できないでしょうか?
有意識状態と言う言葉はフツウ使いませんが、これを覚醒状態という意味にとれば、これは言葉の矛盾になり想定できないということになります。
無意識状態での内部記憶の動きと再編は、たとえば夢のようなものが上げられますが、これを外部からの情報が直接脳内に取り込まれた結果による現象の可能性もありうるとは思います。現状では5感以外には確認できていないですね。
ご回答ありがとうございます。
例えばある人が五感を刺激しても何の反応も示さなければ、客観的に見て無意識状態であると判断します。
でもこれは無意識と判断せざるを得ないということを含んでいないでしょうか。
もちろん覚醒状態とは他人とのコミュニケーションがとれることや自発的な行動ができる状態を意味しますが、客観性によってどこまでその人の意識を認知できるのだろうかという疑問が残ります。
No.11
- 回答日時:
抜けてたので
>出産(受精でもいいですが)と意識の発生のタイミングは必ずしもイコールとは言えないのではないでしょうか
これは、なので、優先順位が逆転するタイミング、意識の機能が主導権を握るタイミング、と言い換えられると思うんですが、
人間の内面は、多分複数の階層上になってると思うので、それは睡眠の深さが5段階有ることなどから想像するのですが、
各階層において、優先順位逆転のタイミングは違うように思います。と言っても覚えてないけど。
出産は、幾つかあるうちの一つだろうと思うんですが、全く分析進んでません。
出産後も、節目は色いろあるなーとは思ってます。
たとえば、寝たり起きたりを繰り返す赤ちゃんが、24時間周期の睡眠覚醒リズムを刻むようになる時などは、どう見ても、ある種の意識の覚醒はあると思うし、
小さい子供のいわゆる反抗期も、自我と意識の目覚めに思うし、
思春期の自覚が芽生える時も、純粋意識の発生ですし、
動物などと比べたら面白そうなんですが。
もうこのあたりは今はまださっぱりです。
No.10
- 回答日時:
・・いまいち自信ないのですが
返事もらったのをもとに考えると、
やっぱあまり自信ないのだけど
現実に目が覚めていて、かつ意識的な自覚がなく記憶がない、というのであれば、それは完全性の一種だと思います。
なので、死後とは違うと思います。
僕はお風呂の例をあげたけど、これが24時間続いてる人は、悟りを開いてる人、完全な信仰のある人の精神レベルじゃないかなと思います。
前に何処かで書いたんですが、人の内面が仮に意識と精神で出来てるとすると、(この精神は=無意識と読み替えてもらってもいいんですが、おおまかに)
起きてる時は、意識ー精神
寝てる時は 精神ー意識
という風に、優先順位がひっくり返ると思うのですが、
それは、覚醒ー睡眠でひっくり返るように、生前ー死後でもひっくり返ると思います。
夢がそうであるようにです。
夢の内容が、例外を除きほとんど記憶がないように、死後、生まれてくる前の記憶はありませんが、
でもその記憶の無さは、意識が不活発で、ループしない、つまり、自分で自分のことを認識することが全く許されないような条件の制限下にいるからと思います。
夢はまさにそうですし、精神ー意識の順で、自覚を司る意識的なものが主従の従として控えてる状況でも記憶は生まれないとは思います。
一方、質問文で言われてるような状況では、意識と無意識の境目壁がなくなってる状態だと想像します。自己の完全な統一です。
この場合、記憶がない、というのは不正確だと思います。
主観的心理的に表現するなら、悟りや完全な信仰下においては、未知こそこの世の本質であり、一切合切なんも分からん、という状態だと想像するなら、
わかってても分からない、未知だから記憶はあってもない、そんな感じになるんじゃないでしょうか?
いわゆる我が消滅すれば、記憶は、有るともないとも言えますよね?
記憶は、自分のことを考えても、そもそも不安だから記憶します。恐怖が記憶の原動力のように思います。
恐怖がないなら、記憶する必要はありません。
また普通に言う記憶というのは、意識が意識を意識するというような、ループの結晶です。
意識が対象を意識してるだけの状態は、つまり不安のないときは、認識はしてもそれが記憶にならないのかなとも思います。
ループしない、認識しただけ、という一方通行の矢印はあると思うし、それは自分の全体性そのものとして残ると思いますが、その永遠にあるものには、改めて自覚して記憶に~有限の記憶に変形させない限り、それは記憶と普通に呼ぶものとは違うと思います。
記憶とは、現実に見た真理と比べると、必ず個人のフィルターを通して歪められ、無限が有限に変形したものですし。記憶は、真の現実のある種の象徴に過ぎないです。
すべての経験が自分自身であり不安がなく自覚の必要もないのなら、すべてが分かっているなら、それを覚えることもないかと。それも心深くの本音の自分において。
心の底のそこのそのまたそこまで恐怖が払拭されたら、記憶に回すエネルギーが馬鹿馬鹿しいのではないでしょうか?
完全性を持つ人は多分それがわかってるので、意図して必要なとき以外は記憶しないと思いますし、
質問で言われてる人の内面状態は、これに相当するか、・・あるいは一番近いんじゃないかと思いました。
別の言い方だと、記憶とは、普通の人は精神集中が低いために、無理やり象徴によって作った高い集中の物質的結晶宝石みたいなものかと。
つまり、質問文にあるような状態は、悟りや信仰のある人のように非常に高い純粋な精神状況下では、成り立たない、あるいは変質するのかなと思います。
うまく説明するのが難しいですが、
記憶という名の高い集中の結晶を、例えば石とします。水=集中とします。
この石をコップなどに入れて、水もちょっとだけ入れると、石があると見て取ることができます。
でもコップに水をなみなみと注いで石が見えないくらい入れたら、石はあるけど無いことになります。
つまり、純粋になって集中が極限まで上がれば、記憶と司る機能や記憶そのものが、自分と一体になるので、記憶はあってないものですし。
より深い意味で記憶は記憶でなくなるのなら、それは記憶がないと表現するより、有るともないとも言えないという方が正確と思うので。
乱文になったので、チョットまとめます。
記憶がない状態と、記憶があるともないとも言えない状態は、違うのでは? という憶測です。
記憶のない状態と、記憶のある状態は、いつも対として存在しますが、記憶があるともないとも言えない状態は、また別物です。
途中から自分でもちょっとまとめ切れずに、回答になってるかどうか・・
ご回答ありがとうございます。
ご意見は参考にさせていただきます。
お礼に書いたお風呂の問いに対してはどのような回答が出るでしょうか。
証明できる、できない、できるなら何をもって証明するでしょう。
No.9
- 回答日時:
shift-2007さん、krya1998と申します。
ご質問文で【あくまで主観的にみた場合】っておっしゃっていますね。
このことですが、【主観的】って“個人の経験”とかでもなく、【客観的】というのとも違うんですね。
【理論や科学的】とも違うんですね。
意識の中に記憶するって記銘(つまり刻印)と想起(意識上に浮かびあがらせる事)で、対(つい)になっている動作ですよね。
まぁハード的には肉体の一部である大脳の中の動作ですよね。
そしてその記銘って、どのレベルかとか、どういう側面とか、どんな性質とかっていうように場所や場面ってあるんでしょう?
そして想起にも同じことが言えますよね。
だから通常の経験では、・・・・
記銘がの強弱や場面、側面では、ある時には想起できないこともありましょうね。
それだからって、その事項があったことを記銘していないともいえないし、意識がなかったともいえないですよね。
【意識はあるが記憶がない状態と無意識は区別できるか】というご質問文を、
“意識があって記銘がない状態、これを無意識と呼べるかどうか”と理解させてもらうと、無意識と呼べないと存じます。
意識があっても、或る事項に注意がいっていなかったが故に気付きもしなかったし、記銘もしていなかった。という場合がありますね。
それは経験していても(行為したり知覚していても)そのことを記銘できないですよね。
とても当たり前なことや、希薄な事柄については往々にしてそうなりますね。まぁ意識がなかったといえましょうし、意識(注意)が向かなかったとか。これを無意識というのですか?
【意識はあるがその場で認知した出来事を記憶することができなければ、後日その経験を思い出すことはできません。その状態は意識がない状態いわゆる無意識と区別ができるでしょうか。】
この状態も無意識というのかどうかわかりません。
意識(注意)がその事柄に差し向けられていなかったというのでしょうか。
そして無意識でなくても、記銘を保存刻印していない状態や想起できない状態もあるでしょうね。
【無意識とは記憶がない意識状態】は部分的には正しいのかしらね。
【無意識では記銘がされない】とはいえるかも知れません。
【生まれる前にあの世で生活していたとしても、あの世の経験は現世の脳にはインプットされていません】が、何かのどこかに、そして別の刻印の仕方で記銘され、形象化されているかも知れません。
ですので【記憶のない意識状態】とはいえないのだろうと存じます。
そうなると、記憶(記銘・想起)ということの範囲や定義が問題かもしれませんね。
意識って、光の照射であり、それで顕れた(現象や経験した)事項は意識の内容事項になるんでしょうね。
いしきの光はどこに源があり、それはどんな存在か。
それを私たちのSelf-Realization Fellowshipという哲理は究求しております。
一つは生命であり、存在でありましょう。
意識のない状態は創造界では存立しえないかな。
意識がその内容を持たない、或いは創造界に照射しない状態はあるが、無意識っていうのは創造者がいない状態でしょうか。
それはありえない。
そんなふうに私は総合的に理解しています。
つまりヒンドゥから伝わるバガヴァッド・ギータの私個人の読解の一部ですが。
ご納得頂けないかも知れませんが、先ずは私の感想を書かせていただきました。
説明はできないかもしれません。
ご回答ありがとうございます。
話が少し脱線しますが、
krya1998さんの言葉をお借りして「意識があって想起のない状態」、この状態って何かに似てませんか?
自我のない状態、つまり解脱です。
自我を通さずに世界を見ることができたとすれば「意識があって想起のない状態」或いは「意識があって記銘のない状態」が出現するかもと想像します。
自我にとっては蚊帳の外なのでそれ(自我)からすると無意識といえるかも・・・・
ちょっとへ理屈ですかね。
No.8
- 回答日時:
生きている間の出来事につきましての考察には、
現時点で申し上げられることが、余り残されていない、と思われますが、
生前と死後との頃に於ける意識の有無につきましての部分が
未だに拾遺されていない、と感じられましたので、再度の送信を試みました。
意識さえもが脳神経の機能の内に留まっておりますので、
誕生前とか死後とかには脳神経叢が生きていられない以上、
たとえ意識が記憶に依存しておりませんでしても、
遺憾乍ら、意識が生前とか死後とかに存在し得る訳では御座いません。
「無心」の概念にも話題が及んでおりますので、
関係性の存在が窺われますから、下記のページをも御覧になって下さいませ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6533937.html
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6550099.html
そしてそれ等へ参加して頂けると、連動で盛り上がるのではないでしょうか?
ご回答ありがとうございます。
私の知る範囲では未だ脳の中に意識の存在を確認していないそうです。
なので、私は前世もあの世も否定しません。
もっとも今回の質問は思考実験の意味合いが強いのですが。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2756493.html
No.7
- 回答日時:
>意識はあるがその場で認知した出来事を記憶することができなければ、後日その経験を思い出すことはできません。
これはそのとおりです。ただ、記憶したかどうかを確認することは出来ません。その場では忘れていても、数年経ってから思い出すこともあります。意識があれば5感に触れた現象はすべて記憶している可能性があります。ですから
>その状態は意識がない状態いわゆる無意識と区別ができるでしょうか。
無意識状態(5感が働いていない状態)とは厳密に異なっているといえます。
厳密な無意識状態では外界からの情報は取り込みようがないので、それらを記憶することは不可能です。ただ自身の記憶を反芻したり思考したりしていれば、その状況と展開を再記憶することは可能かもしれません。その状態でも記憶能力がないとはいえません。
>もしできないとするなら、無意識とは記憶がない意識状態ともいえます。
ですからこれは × です。
>前世での記憶の残留の有無は別の問題になると思います。ただ、DNAに当人の記憶が残る可能性についてですが、たとえば、日本人の子孫に他国人よりも日本語の習得が早い傾向が見られないということを考えれば、疑問は多々あります。
ご回答ありがとうございます。
ちょっと確認なのですが、
>無意識状態(5感が働いていない状態)とは厳密に異なっているといえます。
つまりこれは五感こそが意識であるということでよろしいでしょうか。
また、五感が働いていない有意識状態というのは想定できないでしょうか?
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