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表層的な話ですけれど、表層的なことがじわじわと人心に食い込んでくる場合があると思います。

いろんな組織があり、それらに名前が付けられていまして、
苗字から自治体名、国名、企業名などの名前があり、その名付けをすることの功罪について考えるのですが

人の群に名を付けることで、人々(組織の構成員)の一体感や、他の組織との助け合いや支え合いに、寄与するという功の側面があり、

反面、その集団に明確な名前があることで、組織の輪郭が際だち、所属の有無が二分され、組織内部の縦割りや、他組織への排他性や、集団同士の争いが起きる一因にもなっているように思います。

人は群れて生きるものですし、色んなものにすぐ名前を付け、名前があると呼べて便利なのですが、人の集団には力がありますし、人の心には闘争心や排他性があり、安易に人の群に名前を付けると、固定される不穏さが起きてくるような気がします。

構成員やしている事が周知されれば、名前がなくても済みそうですし、名前があっても組織の内実に通じていれば安心できて良いのでしょうけれど、名があるとその組織名を呼ぶだけで言い表した気になってしまいますが、名前だけでは信頼できません。内実を明かさない組織を信頼はできません。
組織に名前が付されると、とかくその組織の内部と外部の別、隔てが出来て不穏なのです。

名があることによる功罪の罪の側面がより大きいと思いますが、誤った考えでしょうか。人の群に名を付すことは安心や平和に反するか、あまり簡単に為すべきことでないように思いますが、どう考えますか。

A 回答 (6件)

人間の群れに特化して考えます。


群れる以前に人間個々は自分と言うものを持っています。名前をつけなければ他と区別がつけられません。
個人に名前をつけるのはそういった経緯があります。
これは問題がないのですか?
その上位に家、家族というくくりがあります。
これも個人から出発したもので名前がついています。歴史的な経緯があります。
やはり他の家族と区別する必要からなくならなかったのでしょう。部族単位になると戦いが始まります。イラクなどではいまでもやっています。しかし日本ではもう見られません。

ずーっと省略して、国になりました。
これも歴史があって名前がついています。国の構成員は国の名前の下に自分の存在理由を知り、誇りを持って他国と区別し、相争うようにもになります。これらのことをいっておられるのでしょうか?国に名前は不要だとでも?
さて、

>その集団に明確な名前があることで、組織の輪郭が際だち、所属の有無が二分され、組織内部の縦割りや、他組織への排他性や、集団同士の争いが起きる一因にもなってい

貴方はどの時点でそのような観念を持ちますか?
名前を持たないで済む集団を想定してください。
フクシマへ出稼ぎに向かうひとつの作業集団とかですか?
>人の心には闘争心や排他性があり、安易に人の群に名前を付けると、固定される不穏さが起きてくるような気がします。
必ずしもそうとはいえませんね。むしろ名前をつけることでいい面も出てきます。

彼らにやる気を起こさせるために「第25分隊」とか、出身地にことよせて「新宿無宿2号グループ」とか名前をつけ、他のグループよりもよく仕事が出来るとか、背が高いものが多いとかいう特性を誇るようになります。いわゆるアイでんテティの誕生です。
昔の旧陸軍の軍隊が出身地別に団結力を高めたのがいい例です。

>名があることによる功罪の罪の側面がより大きいと思いますが、誤った考えでしょうか

左翼のひとたちが悪く言う愛国心とか、群れて悪をなすとか、例は考えられなくもないと思いますが、名前それ自身はニュートラルなものではないかと私は思います。

1私見です。
ご参考まで。

この回答への補足

原発へ作業しに行く人たちの志気が上がることは、他人からすれば好都合ですが、人命を危険に曝す、残酷なことで

作業内容を伏せられつつ原発に行き、劇的な名目と金と薄い防護服を与えられ、企業や見知らぬ他人の都合で必要以上に奮起させられ、無理する方へひた走らされ、賞賛や感謝という圧力で過度な犠牲精神へ追い立てられ、被曝して、死んだりして、悲惨です。

東電とか原子力保安院とか、県とか国とか政府とか、文部科学省とか厚生労働省とか官僚とか、教育委員会とか、そういう組織名なんかではなく、個々人名を出して応答したり、動いたり、意見を言ったりするべきで
こんなニックネームのわたしも良くありません

補足日時:2011/05/23 01:35
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

爆発した原発に行く人々に集団名を付ける必要はなく、個人名のまま一人一人を呼べば良いと思います。その方が個人ごとの存在や健康や人生を丁寧に見る態度になります。集団名でパッケージして個人を隠して無理させ死なすのは冷ややかです。

個人名は問題ないと思います。
苗字からが問題ありだと思います。
くくり方が固定されるので問題です。

コマスさんの話では、集団への名付けも良い方に影響するらしいですが、例示された軍隊の戦闘意欲の強化は、わたし個人的にはそれは悪い方の影響で、名付けによる功罪の罪の側に傾いていると思います。

世界大戦の時はやらなきゃやられる状況だったらしく、軍隊を成し防衛し命や暮らしを守ろうとしたものの、敗戦し生活様式が乗っ取られましたが、今後は戦争を要請しないことが大切で、大戦の頃よりは地球規模のネットワークが個人間に可能となり、情緒的・共感的な理解も進み、相手の土地や資源を乗っ取って壊して殺してやろうという人は、少なくなっていると思います。
けれど今も企業や国々は、お互いにやらなきゃやられるのふるまいを続け、名付けられた人間集団を演じ続けるために、構成員としての民や社員から、個性的な暮らしや全人類的な同一性や日々の時間や労力を奪っています。

部族、市町村、国などの単位が、名前を付けられたり持ったりすると、始めは心理的に、そして実際に戦い始めますから、名前という外郭を放棄・廃止するか、初めから名前を付けない方が良いと思います。

何らかの集団に所属すると、同一性が安定し幸福感が湧き、誇らかであっても、争いを生むような誇りはまずく、人類を縦割りにして名前を付け、いずれかの組織に限定して所属することがアイデンティティになると、組織とともに個人も争いや競争をする存在になります。すると自らや遠く近くの他者たちの暮らしが阻害され、暮らしの呼吸が乱され他集団と自集団とのせめぎ合いに集中力も注意も時間も削がれてしまいます。

人類を割って構築する人間の集団に、名前を付けて分断の度合いを高めたり、分割された人間集団と関わったりすることは、平和で地味な暮らしを紡いでいく場合、すべきでないことだと思います。個人と集団の力関係の片寄りを思うと、集団への名付けはニュートラルな位置にはなく、個人にとって分の悪い、恐ろしい出来事の兆しに見えます。

お礼日時:2011/05/23 00:45

完全燃焼したとは言いがたい状況ですので、もう少し書かせていただきます。



仰ることの内容は私なりに理解出来ていると考えていますが、お互いのガチンコ勝負にはなっていないと感じます。

個人名は問題ない、と仰る。でもそれが複数、集団になり、家族、部族名になったらそこで個人が消え、集団の悪い面が出てくるのだ、ということですね。その結果他の集団との間に埋められない溝が出来て、お互いを排除するしかなくなる…。

これは名前の問題ではなく、それ以前の、人間が持っている”群れる”という避けられない習性自体の問題だと私は思います。分かたれて互いに群れなければ、全体の中で渾然としていれば当然ながらそれぞれひとくくりに名前をつける必要はないのだし、分けること自体が不可能なのです。

質問者様は人間は群れて生きるものだということは認めておられます。群れた以上組織化されようとそうでなかろうとそのくくりに何らかの呼び名が発生するのは必然だと思います。群れるのには理由があり、その理由に応じて集まった個々の人間は、その群れの名前によって更に群れる力、結びつく力を強めていくというフィードバック現象をも享受します。

人間は常にその行動に理由を求めたがる生き物です。集合した人間は集合することに酔い、その集合力を更に強めようとして他の集合に対して排他性を奮います。これらはどうしようもない人間と言う生き物の習性だとしかいえないでしょう。
もともと人間にそれらの習性がなかったら、ここまで他の野獣を排除して自然を制覇することはなかったでしょう。もっといえば
人間は戦い、殺しあって結果的に人間と言う種そのものを鍛え、強くし、進化してきた生き物なのだともいえるわけです。

まさにその習性が現代において人間のこれ以上の進化を阻害しはじめたということでしょう。

もちろん、私は戦争を賛美しているわけではありません。おおくの有為のひとたちがこの困難な問題に直面して途方に暮れているというのが現状だということです。

>東電とか原子力保安院とか、県とか国とか政府とか、文部科学省とか厚生労働省とか官僚とか、教育委員会とか、そういう組織名なんかではなく、個々人名を出して応答したり、動いたり、意見を言ったりするべきで

私も、そういうご意見には賛成です。彼ら組織の一員は組織の名前の陰に隠れて、あるいはそれを笠に来て自在に個人を隠蔽しながら巨悪をなしています。官僚は組織の名前を使うのはかまわないけれど、やはり菅さんのようにいざというときには裸になって顔を晒し、いさぎよく責任を負うべきです。

この回答への補足

あとそれからヒエラルキー(階層型の権力構造)について
人は自然と集って暮らす習性があるにしても、ヒエラルキーを採用するかどうかでその集団全体や構成員たちの様子が変わってくると思います。
集団がヒエラルキーを採用すると、成員間の関係が硬直化し、個々の声が潰されます。抑圧された怒りが組織外への排他性となって現れますから、組織名も厄介ですがヒエラルキーが更に曲者です。
集団への名付けを排して内外の区分けを避け、ヒエラルキーを採用しないなら、少しは穏和な、ぱらっとした集団になると思います。

補足日時:2011/05/24 00:27
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私はだいぶ燃え尽きていますが、人は群れるものの、個人が個人である状態と、群れている状態とのバランスが必要だと思います。
組織に属せない無能なので、組織なるものを否みたい気分です。

組織の力は個人の声を潰しやすく、殺し合いの状態では特に、殺す側が殺される側の声や言葉を聞きません。それは恐ろしいことだと思います。命乞いも届かないのは。

ひとが群れて組織に名が付くことを必然といいますけれど、群れることや名付けが争いを呼び招くことに寄与するという、自覚というかためらいが人々に訪れれば少しは平和に近づくかなと思います。
私は集団が怖く人付き合いもほぼできない習性があり、群れられないことに理由を求めたいのですが、、人々がせっかく集って何かを営むのであれば、そこに外部への排他性が知らぬ間に醸成されることは勿体ないと思います。
群れたから自動的に無自覚にその組織に応名前を付けるよりは、あえて命名しないという選択肢もあると良いと思います。

争いたくないという習性も人や個人の声にはあると思うので、そういう習性をなるべく壊さないような環境や工夫が要り、群れて組織に名を持ち争いやすいという古い習性に、新たに平和的な習性を足し、その一つに組織名の有無を選ぶということも加われば少しは進展だと思います。
べつに群や組織に名がなくても争うかもしれませんし、群れてさえいなくても人も動物もせめぎあい、悪いこともするでしょうけれど。争いへの流れに少し水をさす工夫が増えればよいと思います。

個人や集団による営みに名前を付けるなら、ツイッターやインターネットや私的な琴線などに与え、組織ではなく個々間や集団間の結びつきの方に名を付け、チームやグループというくくる輪ではなく、線状・網の目状の絆にどんどん名と内実を加え、個人同士や集団同士の仲に意味や理由を求めていくと良いと思います。

幼稚で簡単なことしか書いていないので、ケンカにもなりません。

お礼日時:2011/05/23 20:24

とても深遠な問い掛けであると観ています。



ぜひ、この場だけでなくて、色んなところでも投げ掛けて頂きたいなぁと思いますし、僕もこうした問い掛けを色んな人との交流の中に入れ込んでいきたいと思っています。

>名があることによる功罪の罪の側面がより大きいと思いますが、誤った考えでしょうか。

ここについて、お応えしていきたいとは思いますが、現段階で僕が思う事は、今までの歴史を観ると人類歴史を観た感じでは僕は功の方が総じて大きかろうと観ています。ですが、ここ近年と申しますか、ここ何十年間の間で大きく変貌を遂げ、更に十数年の間には明確に罪の方に明確に傾いたであろう事を感じております。

ところで、更に話を深めていければと思うのですが、一つ尋ねさせてくださいませ。___na___ さんは、主題では「人の群の名」という様に触れながら、組織についての名付けを取り上げていらっしゃいますが、個人若しくは単体のモノや自然について名付けをする事に関しては、この質問の限りではないという事でしょうか?

名がある事による功罪の罪の側面は、組織や群についての名付けのみという事でしょうか?個や単体に関する名付けに関してはどの様に捉えていらっしゃるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
わたしなき後はよろしくお願いしますという感じです。

功のほうが多いですか。集団どうしの激突が文明や家電を発達させてきたからでしょうか。怖がりなので戦争や集団や権力構造が恐ろしく、悲観して罪のほうに注目してしまいます。

個人への名付けについて
個人の名前は、苗字を付けなければ良いと思います。苗字を取り払い、それから名前のみを、北斎とか出世魚とかのように、自分で勝手に気ままに自由に刻々と変えていくと、生きやすいように思います。
苗字というものは、家という枠に囚われた呼び方なので排し、下の名前の方を充実させれば良いと思いますが、氏名のうちの上半分を取ると軽くなり、減りすぎると心細くなるかも知れないので、戒名みたいな長さの名前にして文字数を多めにします。
名前の話なのでやっぱり表面的ですが、
戒名というものは派手だったり、何とか院とかいって枠組みくさかったりするものの、その量感や字数や響きの長ったらしさからすると充実感があり、加えて地味で爽やかな感じをとりいれれば、名前だけでも立派な、不良の人が刺繍してそうな名前になり、芯の通って強く自立した個人のような趣になり、気合いです、何を書いているのやら

単体への名付けについて
靴下は靴下、ハンカチはハンカチで良いですし、ぬいぐるみに好きな名前を付けることには問題ないと思います。
けれど企業名への疑問にちなみ、商品名を付することにもクレームがあります。
この問いのきっかけがそもそも商品名への違和感で、わたしは和室で足の指毛を抜いていて、いちいち痛かったのですが、その抜いた毛をなすりつけるためにポケットティッシュを一枚ぬいて使おうとしたら、ポケットティッシュのパッケージ表面に英会話教室の名前と広告が印刷されていて、鬱陶しいなと思いました。
それから指毛をティッシュになすりつけながら、ぼんやりと企業のロゴや商品名について思い、そのどれもこれもが(モガ?)競争・競合により他の企業に勝つために付され謳われている名前なので、うんざりなのです。
ティッシュのみならず、洗濯機や冷蔵庫や掃除機にもあほな名前が付けられ、そんなら名前ない方が良さそうなくらい家電が可哀相ですし、ノイローゼの主婦ではないのですが自販機から買うお茶には、既にお茶という名があるのに更にいちいち商品名が付加され、それも固有名ではなく、画一的な、同じパッケージのペットボトル全てのお茶が同一の名前で、げんなりします。どうせ名付けるなら一本ごとに別々の名前を丁寧につける方が、物の存在を大切にする態度になりましょうに。という意味のない愚痴です。


自然への名付けについて
大陸や海や島、丘や森、星や川や山に名前を付けることは良いと思います。その名前を並べて地名や住所にすれば良いのです。
竜巻や台風や地震や津波にも名前を付けるのは、それが危なっかしいものだからで、集団や組織に名が付されることも、元々そういう群が威力を持ち、危険性も暴力性も排他性も含まれていることを、内外の人々が自覚してのことなのかも知れません。
名前など付ける必要がないくらい、威力も危険性もない集団が平和的なのか知りません。脆弱な頭の私には強者の意識が分かりません。

人間集団の名を排する目的は、結局のところ国や企業や民族や部族の解消で、皇室や王室や、各国の財閥グループ、とりわけロックフェラーやロスチャイルドという、権力や富のてっぺんを解体することを含むので、万能感的に夢が膨らんでしまいます。
名を付けることや名付けられること、名前を取り払うことは、なかなか破壊的なことです。
そして名前を好意的に呼ばれることは何とも嬉しいことなのでした。

お礼日時:2011/05/23 22:34

zakky74でございます。



>ありがとうございます。わたしなき後はよろしくお願いしますという感じです。

これはどの様に理解すれば良いのでしょうか(笑)。何だか、とてもシリアスでもあり、冗談っけも感じますし、正直を申しますと笑顔が綻びました^^

ですが、シリアスであったとしても、シリアスのものとして受け取っている僕も確かにおります。

ところで、

>人間集団の名を排する目的は、結局のところ国や企業や民族や部族の解消で、皇
室や王室や、各国の財閥グループ、とりわけロックフェラーやロスチャイルドと
いう、権力や富のてっぺんを解体することを含むので、万能感的に夢が膨らんで
しまいます。

こうした背景があってのご質問であると伺えて、やはり深いなぁと心を新たにしました。聞いてみないと分からない事、聞いてみて分かる事、というのをしきりに感じました。

僕のお応えは、もしかしたら___na___さんの背景や思惑には応えるところまではいかないかもしれませんが、それでも何かしらの参考になればと思っています。

話を深めてみたいと思い僕から質問を投げさせて頂きましたが、お応え頂きありがとうございました。

>>個人若しくは単体のモノや自然について名付けをする事に関しては、この質問の限りではないという事でしょうか?

この質問の真意は、名付けるという事そのものをどの様にみていらっしゃるのかについて知りたかったのでございます。それと、一体どうしてグループや組織についての名付けを取り上げているのかを鮮明にさせたかったからです。

それで、

>功のほうが多いですか。集団どうしの激突が文明や家電を発達させてきたからでしょうか。怖がりなので戦争や集団や権力構造が恐ろしく、悲観して罪のほうに注目してしまいます。

なんですが、功の方が多いという観点については次回以降に触れますね。実は、僕も___na___ さんの観点が分からないではないんです。余りにも争いとか戦争は多すぎました。また、国レベルの戦争だけでなく、名前がある事によって個人レベルでも多様な争いや戦いが起きている事を胸痛く思っていた一人です。

功に関しては後日触れますね。

>個人への名付けについて

とても個性や個人を大切にする印象を受けました。それは、人間の尊厳性や一人ひとりが有する権利から来る発想でもあると理解しております。もし、間違っていたり足りなければ、修正や補足などをお願いします。

>単体への名付けについて

ここで受け取ったのは、___na___さんはご自身の経験をとても大切になさるという事と、その表現の仕方が何とも可笑しさを誘います。

それはそれとして内容については、人間が集まった組織や群について触れているかと思えば、人間以外のモノに対しての名付けに関しても思うところがあるかの様に見受けました。

用途・機能・目的に沿って必要だから生じた名付けであるのか、それとも名付けが先にあって名前によって用途・機能・目的を宣伝しようとしているのか、という主客転倒に対しての怒りの様なものでしょうか?

商品らしく、商品で勝負して欲しいとの声が聞こえてきそうです。

>自然への名付けについて

ここでは、自然に名付けるのは好感を持っている一方で、人間や生命に対して危害の多い自然(の猛威)に対しても名付けがある事を認めつつ、認識する機能として受け止めている___na___さんを感じました。

危機意識、問題意識を持つ道具としての名付けの延長として、集団や組織の名付けについての一定の理解を示すかの様な表現がありましたが、その整理では見ているこちらとしてもスッキリしませんし、___na___さん自身も納得のいく説明ではないのではないでしょうか?

>名前など付ける必要がないくらい、威力も危険性もない集団が平和的なのか知り
ません。脆弱な頭の私には強者の意識が分かりません。

そうですね。

名前を付ける良さもあります。
名前を付けた事のまずさもあります。

中々、その線引きとは難しいものがありそうです。

>名を付けることや名付けられること、名前を取り払うことは、なかなか破壊的な
ことです。そして名前を好意的に呼ばれることは何とも嬉しいことなのでした。

僕は、名前の良し悪しや○×に関心を置くと話がややこしくなりそうな気がしております。それよりは、一旦は○×や善悪を置いておいて、名付けには一体どういう用途・機能・目的があって、人間にとってはどんな意味・価値があったのだろうか?という観点によって、一旦は整理するのが宜しかろうと思いましたが、そんな僕の提案については___na___さんはどの様に考えますか?

ぜひ、現段階での名付けに関する用途・機能・目的・意味・価値についての___na___さんの理解をお聞かせ願いたいものです。

___na___さんなき後は胸に刻んで生きようと思います(笑)。

この回答への補足

だと思います。

夜に書いているから長ったらしいのでしょうか。そろそろ寝ます。

商品について
商品を作ったり売ったり買ったりする時間や手間があるなら、その頑張りを自らの暮らしの自然化に注ぐ方が良いと思います。自治体は自ら治めることができるはずなのですし、自治体ごとの自給率を上げ自然の恵みを大切にしつつそれを(マネー的な意味でなく)利することに労力を使うと良いと思います。企業も国も人間集団は大規模志向や統一志向を捨てて、中規模で修身すれば良いと思います。
商品や看板や広告ってのは下らないです。娯楽というものは良いものらしいですが、人まで商品になってしまって、商品を売るために言葉や態度や意思表示の情報兵器化が進みます。
マネーなしの経済は成立しっこないとネットで言われます。経済を回すものは動機であり欲望で、欲望は他者から受け取るものなので、人々が情報兵器化されたメディアから欲望を吸い込み合ってるのですが、金を人々から吸い取るために作るものはとかくくだらないです。時間も労力も吸い取られます、くだらないものに。パチンコが韓国で禁止になったとか。

むかし広かったチベットがあるときから小さくなり、それは中国によるイジメの前に、チベット仏教が征服的な欲望を抑えたそうです。ヒエラルキーはあるものの、修身でした。そして自然との暮らしに自足しえたことが、美しいのでした。
資本主義の場合は修身による欲望の弱化は悪なのでしょう。
自然生活の動的な保存を、各自治体で達成し、伝達してゆくことこそ人類の宝だと思いますが、一人の人が正しいと思うことって、現実世界の広がりや自然の複雑さからすると、かなりズレたものらしいですから、人々の暮らしについては、そこに生きる人々に任せきりにして、他人は何も口出ししないことが良いのだと思います。自然と共に生きていないと、広告的なイメージや言葉なんかでしか生き方を思い描けず、ズレるのだと思います。すると自然に即した暮らしの営みが破壊され、それもまた自然破壊と呼べるのだと思います。
ひん曲がった社会・共産主義に壊されたり、資本主義に砕かれ汚染される前の小規模な村々のように、各自治体が地味に自足すれば良いのにと思うのですが、分業するという人々の本能みたいなものに反するのでしょうか。地球規模の分業って、過度な移動だと思うのですが、喜ばしいものなのでしょうか、分かりません。

言葉の進化について
資本主義は忙しくて騒がしくて、私的言語による思考や対話を退化させます。私的言語の個人的・相互的深化を求めます。なかなか疲れますが、他の言語の使い手どうしでもですが、まずは各自治体というか、各家庭とか、各人とか、社会、流通する会話の方法において、国語ではなくて私語の精緻化をし、輪郭のない自治体において、集落や生活の諸場面ごとにある言葉の使い方をもっと本心に即したものにしながら言い交わし、聴き交わし語らい、せわしくなく忙しくなく感情と理性を自己分化しながら、私的な言葉の使い方と内容を展開させ、深めることは良いです。zakkyさんの言葉の使い方ですか。

補足日時:2011/05/29 01:38
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この回答へのお礼

zakky74さんありがとうございます。返信が遅くて済みません。中国の本を読んでいました。もう後日になってしまっています。私はすぐ退会したくなりますから、また簡単にいなくなると思います。
自主退会による消失は幾度もですが、アンウント停止とか、暗殺されるとかは、まだありません。

zakkyさん、ツァイトガイストとかルースチェンジとか見ましたか。どう思います? 陰謀論について。
名付けることについての橋爪功さん的側面とともに、後日、語ってくださればうれしいと思います。

名付けについて
詩の本なんか読んでいました。名義することについて考えた人の本は、とくに外国の哲学するおじさんたちの本は、本自体はお洒落みたいですがとっつきにくいので図書館から借りてもあまり読みませんでした。
なので詩人などからみた言葉についての考え方ばかりが頭の中にあるのですが、名付けることは、存在の輪郭をくっきりさせて、操作可能な言葉の世界に引き込むことだとか、そんな感じらしいです。停止させて決めつけることで、詩じゃなくすんですって。武器化みたいなものですか、道具化。支配。大事なものとしての所有。
存在の末節を削いでスリム化し合理化する、説明可能なものにまで単純化するという剪定作業。そして社会的文脈に混ぜ合わせ、つなぎ、くっつけ合う。いわばちゃんとした世界、整理された環境に、存在や現象を置くということ、が名付けなんだろう思います。
詩人といえば吉本隆明や、萩原朔太郎や、谷川しゅんたろうや、金子みすずとか、あと今もネットに沢山いるでたらめな言葉の玩具箱をひっくり返している人々です。詩のサイトにいます。いっぱい。

名付けには上下関係も入り込んでいると思います。人間への名付けの際には、親とかお寺の住職とか湯屋の婆が上から目線で子に名前を付けたり奪ったりしますし、あまり、赤ん坊が生まれた時その赤ん坊よりも年下の子がその子に名前をつけるということは少なく、目上の嫌な人に対しては、心の中でか陰からこっそり変なあだ名を付けると、自分の精神的立場が少し上がったようになり気分が変わります。

物事に名を付けて呼ぶことは、対象を制御すること、御することであって、対象を自分より一つか二つくらい下に位置させるようなことなのだと思います。ヒエラルキー型の組織内では、相手を本名そのもので呼ぶことが許されるのは、上の人から下の人に対してである場合が多いような気がします。また宗教において、自分よりかなり上のもの、神の名前なんかは、ヤハウエとかだったらしいですが、名付けるなとさえ言われたようですし。名付けることは、目を下に向けて読み切ることだと思います。子供の名を親は付けますが、読み切ることはできず、それでも邪悪や不幸を除外しての幸福を子にただ予感するだけで、その親により剪定された予感を脱ぎ捨てて子は、辛くても自らの生と名を更新していけば良いと思います。

線……腺……もっとも大切で、忘れられがちな言葉の使い方。あまりにナイーブな分泌物なので人々はそれをさらけ出しません。けれど失っては個人が灰色になるもの。
琴線とも呼ばれ、胸の奥あたりか、両肺の半ばか、心臓の肌か、お腹の底にあるらしい心のひだ、から放つその声は、存在の尊厳を言っているし、そうでない声は邪悪なので、精神兵器化します。
決まっている俳優や軍人や甲子園球児がはっきり言わせられる不気味な言葉なんかではなく、テレビやラジオでアナウンサーや大統領が間違えなく読み上げている言葉なんかではなく、そんなものは人の言葉のふるさとに対するダメージであり、あまねいているべき言葉づかいは私的で自由な言葉の詩で、他者により言わせられる言葉は、偽の言葉で、世の中の放送という放送のすべてがそういう偽の言葉で満ちているから、たまらない気分になる私は、メディアを情報兵器とみなすのでした。
だいたい本音は自由なものらしく、詩人にとって自分の言葉の根拠なんかは理論の埒外にあり、あんまり根拠のない心で生きていると、言語化しえない場面ばかりのただなかにあって、軋みが出てきて、だんだんそろそろ理論療法なんかを検索しなければならなくなります。疲れています。

zakkyさんの言葉というか頭というか、やりとりの仕方は、透明な赤ん坊を生み出す産婆術というか、透明化ですか、来し方の。相手の産道や直腸を透視することで、出会いですか。ニンシキを深めさせるべく、内省させ、自分自身をより高解像度でふり返らせる鏡ですか。
自分の頭が脆弱なという私のボヤキが、そうですねと返されて少し消沈しましたから、そのボヤキは半ば謙遜だったらしいです。薄々わかっていました。いつも薄々わかっています。じぶんのことについては。でも他人によって少しはっきりくっきりしますね

言葉って自分なんだと思いますが自分の一部ではあれ全体ではなく、存在も世界も言葉ほどには単純じゃないんですよね。言葉も、それは名付けたいという欲や、名付けたくないという欲や、名付けなくても良かんべという怠惰が流れ込んで保存されているもので
単純な方式で世の中を見ようとしたらダメみたいですね。マルクスや毛沢東やロックフェラーなどが一人で見ている夢じゃないのでこの世は、もっと複雑なニンシキが必要なのだと思います。一番マネーを持っている富豪が見る夢でもないはずですし。押し付けられるニンシキや言葉はパワー持ちな人や集団による陰謀であり企て(くわだて・ザクッとした削り取り)です。

人々が集団に名を付けることをずっと無自覚にしてきたところへ、疑問をこんなところから投げ込めるなら、指の毛しか抜けない自分にも何らかの価値があるか、無職な私にも時の仲で仕事ができたのかも知れないと思いました。そして派生が起きれば更に価値が増すと思いますからzakkyさんよろしくお願いします。
キヅキやらトイやらが、とにかく声がアーカイブの森に大切に保存され沈み込むのではなく、人々のニンシキの表面へ奥へ深みへ、汚染ではなく何かしら、届くべきところへ届くべきものが派生してゆけばエロスというか甲斐だと思います。言いたいことがこんなことばかりなので現実の友達が少ししかいません。少しでもいて奇跡です。ありがとうございます自然。

自然を自然としか呼ばないことは慎みか怠けです。和語でむかし自然のことなんて呼んだのでしょう。なんとかやまとかかわとか。いま自然を漠然と自然とのみ呼んでばかりいるのは、人工に対する自然としてしか自然とを認識しないくらい、人々の生活がやまとかかわとかから離れているせいだと思います。自然な暮らしが大事ですよと言いたいんです平凡に。そして自然でない生活は邪悪だという怒りみたいなものも含んでいます。

怒りは認識を狭隘かつ頑ななものにするものであるものの、怒りのない人間はこのクニでも信用されず、怒りは誠実さのあらわれであり、また怒りは悲しみと喜びを引き連れてくる感情の先兵であって、うごめく感情への名付けと脱ぎ捨てが心の健康だったり、目から出る水の名が涙だったりしても、涙に意味がなければ命乞いも通じず、言葉がないところには暴力が生まれるといいます、殺された者には殺される前から口が付いているとみなされません。名付けられないものには恐怖が湧きますから、名付けとその使用は、対象に対し高をくくることで、恐怖感を減らすことになるのだと思います。
なので私はこのように、あんまり、名付けることの効能とか、機能、価値、それから目的とか用途とかは、考えてきてません。整理することとはもはや無縁です。片づけられませんでした。私から見ると意味をもち関連づけられ整理されている言葉の部屋なのですが。
めちゃくちゃだと思います。

 (そうですね)

ああ…。

そろそろなくなろうと思いますが、
すっきりしない点について

危険なパワーをもつ組織――天災に似た集団に対する名付け行為が、危機管理上は肯定的な意味も持つこと、について。
人の群に名を付けることはよくありません、という意見を書きながら、組織名を付すことにもよい面がありますねというので、自己矛盾というか、ぶれているのだと思います。例外ってあるよねと逃げれば単に丸い尾のウサギです。
苦手な整理が確かにすっきりしない普段ですが、要らないものを言葉に包んで捨てる、という機能があると思います。台風も竜巻も過ぎ去りますし、無くならない国家もないと思います。仏教の無常という言葉は言葉にしては詩の世界の言葉だと思います。名付けられる程度のものは消え去るのだと思います。大切にされ、パワーを持っても。無常を克服しようとする健気さが名付けなのかもしれません。

あと名前があると責任の所在がはっきりしますね。

群に名を付す場合、集団の内側から自身で名付ける場合と、外部から付けられる場合とがあり、内部からなら、だめ連とか自虐的でない場合なら誇らかなものになりやすく、外部からは愛称を募る場合もありますが、中国が日本を矮小の矮と呼んだように、蔑視の気持ちから名付けることもあると思います。

ヒエラルキーと非ヒエラルキー、名と非名、言葉というものの国有・私有、外郭ありの組織となしの非組織、長城と自然、国と無国、征服欲と宗教的修身機能、中国とチベット、について考えたいのですが。

チベットには、国家という概念がなかったらしいです。中国にはありました。
中国という名前は、天動説みたいな名だと思います。チベットは地動説であり自然の循環の中に生活しているのだと思います。自然な生活が一番よいのであって、それを情報兵器で破壊しながら、破壊されていない郷のことを、遅れているとみなすことは余計なお世話

お礼日時:2011/05/29 00:45

浅学で私自身も教えて頂くような身ですが回答します。


直接問題を解決するのではないのですが、この問題については、書籍「世論(W.リップマン)」が考えるヒントを与えてくれます。

世論〈上〉 (岩波文庫) [文庫]
http://www.amazon.co.jp/dp/400342221X

世論 (下) (岩波文庫) [文庫]
http://www.amazon.co.jp/dp/4003422228


この中でリップマンは群集の意見がどのように形成されるのか、という点について次のように述べています。原文を記載しようと思ったのですが、字数制限もある為、私なりにかな~り咀嚼して書きました。分かりやすくする為に私自身の言葉なども少し差し込んでいます。どちらかと言えば私の読後感想ですので、原文を当たりたい場合は、上記の書籍をご覧下さい。この書籍は名著です。一読の価値はありますので、この問題に興味があれば読むことをお薦めします。

「人の意見がどのようにして形成されるかというと、その形成の一因には新聞が挙げられる。新聞がとある記事を掲載した場合は、一定の人が読む事によってその記事から個人差はありながらも経験を想起し、感情をもたらし、その記事について意見を発生させる。
 しかしながら、新聞記事は物事を100%正確に伝えている訳ではない。本来であれば、100%正確な事を民衆は受け取る権利があると思われるが、何故このような事が起きるのか。その理由としてまず、新聞は限られたスペースがあり、その枠内でニュースを伝えなければならない。字数制限がある中で実際に起こった100%の物事のうち、100%全てを伝える事ができないのである。
 次に記者の取材である。記者の取材も、人間の労働であるので限界がある。発生した事象100%の内、100%を取材する事ができない。
 そうした限られた枠内で取材され、情宣され、不完全な情報から形成されるのが世論であり、人の意見である。

 また、別角度から捉えれば、人の意見は抽象的存在に対する人の個々の意見によって形成される。政治家が『州政治の為』と具体的に言って民衆に呼びかけるよりも『正義の行使の為』と言えば、個人の正義に関する想念が、その心の中のイメージに直結しやすく行動も起こしやすい。」

代表名称(あるいはそこから発生するイメージ)がある事により、全てを捉えうる正確な情報が共有されない、というのは確かに問題があるように思えます。
但し、上記のような記述からすると、その組織を代表する名称がある事の功罪については、それが良いか悪いかについては、情報の完全性を求める立場からすればどうしてもマイナスからスタートする事を避ける事はできず、良くも悪くもそれが人間社会であって、結果としてそのように形成されてしまうのだ、と言う事ができるのではないでしょうか。
私としては、社会とはこんなものなんだな、としか思っていないので、この不完全性をマイナスとは捉えていません。

全ての情報を把握していない事に不安はあるとは思いますが、人間社会はその不完全な情報の中で生き抜いていかなければなりません。
かつて湾岸戦争の時の米国統合参謀本部議長であり、その時の米軍を指揮したコリン・パウエル氏は、情報の不完全性の中で物事は決めなければならないという趣旨を、自著の「マイ・アメリカン・ジャーニー」で次のように述べています。これも私なりに要約・補正しましたので、原文についてはこの書籍を当たって下さい。

「作戦上、軍の安全面などを考えれば100%の情報を集めて物事を遂行したいが、それはできない。大抵100%の情報を集め終わった時は、作戦対象となるものごとも終盤に差し掛かっており、作戦遂行を行うには遅すぎる。かと言って、情報が1割しかない時に作戦を始めるのも無謀すぎる。私としては、全体の4~7割の情報が集まった時、作戦を行うのが妥当と考える。」

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完全という言葉の定義を「人がもう手を加えなくても済むもの」とした場合、人間社会においては、その求めるイメージとその能力限界から、未来永劫「完全」にはなり得ません。
しかし、完全を求めて社会が発展して行くのも事実です。

そうした代表名称から想起されるイメージによって、その組織が不完全に表現されているものというのは、そういう風にできてしまっているのですが、そこから不完全な部分というのはどこの部分であるのか? という指摘がきちんと存在するのが健全な社会なのだと思います。
言い換えれば、どうしてもマイナスがスタート地点となってしまうので、それを私達の手でプラスにしましょう、イメージから来る全体の不完全性は、後から具体的な事象を指摘して完全にしましょう、という事です。

ナショナリズムは過激であればあるほど正当とされる、という言葉の通り、ある種のイメージから発生する集団心理は、個人の意見を侵食し、回帰的な自己強化と増殖の様相を帯びます。
人は皆、集団心理の奴隷だとは言えど、個人の意見は守られなければなりませんので、そうした個人の意見が言えなかったり、言った場合に立場が無くなる、などの状況を排し、公明正大に個々の意見を言える社会を作っていくのが、今後の我々の役目ではないでしょうか。

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そもそも個人の意見がなぜ言えない状況になっているのかというと、それはその個人が経済、生活、心情や信条的に独立した生計を立てられていない事情が主にあると考えています。
私としては意見を堂々と言う為に、次の書籍を薦めています。
上記の「世論(W.リップマン)」「マイ・アメリカン・ジャーニー」と併せて読んで頂ければ、この問題に対する理解を深める事ができると思います。

学問のすゝめ 伊藤 正雄校柱版
http://www.amazon.co.jp/dp/4061597590

学問のススメには色々な版があるのですが(原文、校柱、全訳、マンガなどなど)、上記の校柱版が一番良いと思っていますので、こちらを薦めています。
難しいですが、頑張って読めば読めない事はありません。
私などは、生涯の読書は「学問のすゝめ 伊藤 正雄校柱版」の一冊で良いと思っているくらいです。何か一冊読書をしなければならないという機会があれば、こちらを読んでみて下さい。

まず、「学問のすゝめ 伊藤 正雄校柱版」を読んで頂き、その後に「世論(W.リップマン)」を、時間があれば「マイ・アメリカン・ジャーニー」を読む、というのが一番良いように思われます。
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この回答へのお礼

 回答と本の紹介ありがとうございます。
 返信が遅くなりすみません。アフリカの本を読んでいました。

 世論というか、世論操作のような、マインドコントロールに近いものについて書いているのでしょうかリップマンさんは。読んでみるかも知れません。

 福沢諭吉は、かなりアナーキストだったという噂をネットで見かけたことがあります。国家がてっぺんから発行するマネーに印刷されてある顔ですが、かれは国家を超えようとする思想の持ち主だったのかも知れません。

 パウエルさんは農民的な発想をするのだと思いました。農民というか狩猟する人のように、動態において情報収集しながらさらに動くというか。
 あまり、作戦というものは良くないと思います。人間が人間に対し作戦なんかを企てて実行することは、よくないと思います。

 人間社会は、人間集団際社会になっていて、困ります。こんなものなんだなと感じることができません。大人げないと思っています。
 人間集団どうしの分け隔てが、区分けが、アフリカでもなされ、そこでは反諭吉的な、階層構造の上のあたりの人々によって部族同士が意図的に分断され、隔たりが強調され、階層構造がアフリカの人たちをいがみあわせ、殺し合わせたそうです。切ったり食べたりレイプしたりの大騒ぎだったらしいです。

 福沢諭吉の言った、天は人の上に人を作らず、という言葉やアナーキーな感じや考え方は、広く世界へ輸出し、アフリカへも、企業やマネーの世界へも浸透すると良いと思います。

 まなざしのこちら側から、洗脳とか世論操作とか、マインドコントロールとか、作戦とかばかり考えながら、人や世界を見ていてはならないと思います。

 名著の紹介ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/30 23:46

zakky74でございます。



>zakkyさん、ツァイトガイスト・・・と思います。

すみません。僕はどれも詳しくは無いです。

名を付ける事について、僕の観点から少し語ってみたいと思います。___na___さんの観点からとは違う解析となるところもあるでしょうから、もしかしたら読みにくかったり聞きにくいところがあるかもしれませんが、少しの間お付き合い下さいませ。

人間には判断基準の問題性がある事には、もうお気付きかもしれません。

1.誰もが皆、判断基準を持っている
2.一人ひとりの判断基準は全部バラバラで違う
3.違うからといって、一つにさせたらもっと問題
4.人間の判断基準は不完全
5.不完全なのに無意識では完全だと思っている

この事の意味は、どういう事でしょうか?

判断基準が違うので、人と人は分かり合えません。判断基準が違うから摩擦や衝突が起きる様になっています。かと言いまして、判断基準を一つにさせたらロボットや機械の様に、みんな同じになってしまいますのでもっと危険です。歴史的には、ファシズムやドグマとして確認できますね。

更に、人間の判断基準は不完全ですので、何と出会っても満足する事がありませんし、何と出会っても問題と出会う様になっています。そんな不完全な判断基準なのに、無意識では判断基準は完全だと思っています。

そして、そんな自分の判断基準に固定されています。

これでは、人と人が集まって何かをやろうとするのは無理です。ですから、人間が判断基準を持っているという事は、人間の出発はカオス(無秩序)であるという意味でもあります。

このカオス(無秩序)に対して何らかの向き合いがあったからこそ、秩序(人類文化文明歴史)が理解出来ると観ています。

カオス(無秩序)に対して、人間は力を使ってきました。

人類へと進化してきた人間は、誕生当初は自然の厳しさや動物たちの猛威と闘ってきました。

10人の人間たちとトラが一匹出会うとどうなりますでしょうか?人間の出発がカオス(無秩序)の状態ですから、10人の人間はトラに食べられてしまいます。ところが、秩序立った10人、団結された10人でしたら。何と逆にトラを食べてしまいます。

実は、団結できなかった人間たちは、全部滅びました。生き残っている人たちは、団結したり協力する事が出来た人間たちです。そうして出来上がっていくのが共同体です。

やがて、その中の一人がリーダーとなって後の王様となります。カオス(無秩序)に対して、人間は力をもって秩序立てようとします。まず一番に使われた力とは王様による暴力でした。

これは、当初は食べていく為に、生き残る為に、とても大ヒットします。王様の暴力を中心とした共同体は、食べる事も、生きる事も安定するからです。

これによって、動物や自然との闘いから自由になりました。

しかし、程なくして王様による暴力、王様の判断基準でも限界が来ました。王様は、農場を広げる事によって富を拡大しました。当時の社会プレートは農業社会です。ですが別の土地にも王様はいますので、王様と王様による戦いが始まります。

国同士の争いへと発展し、負けた国の人間は奴隷とさせられてしまうので、負ける事は出来ません。ですから、王様の判断基準と如何に一つになるかがとても大事な事でした。

王様の判断基準と無理矢理に一つにするという事は、個人から観ればかなり抑圧されますし、自らを押し殺さねばなりません。特に、この頃の王様は、神・聖書・教会・牧師と繋がっている事が多く、宇宙自然の仕組み・メカニズムは個人が解析する事は赦されませんでした。

これが天動説から地動説へと変わると激変します。

数学・物理学・経済学など学術がヒットしだし、個人が宇宙自然の仕組み・メカニズムを解析できる様になりました。個人から観ればとても嬉しくて有り難い事です。

そんな学術の恩恵も受けて、フランス市民革命・イギリス産業革命まで起こりました。王様の権力が、市民(当時の商人)に取って代わられ、王様を中心とした判断基準が市民を中心とした判断基準へと変わります。

市民は、商人たちですので財力。つまり、王様による暴力は、市民による財力へと推移し、社会プレートも農業社会から産業社会、富の象徴も農場から工場へと移動しました。

それまでは個人が抑圧されていたので、学術が大ヒットすると共に個人が主体となっていきます。そうしながら、個人戦・個人主義を先導し、まず個人がお金持ちになる事が幸せの象徴だとしながら、個人が王様の真似をする様にさせます。

王様の○○、王様の△△、・・・と言う様に、自分のお家、自分の部屋、自分の車、・・・という様に所有欲を刺激しながら、所有する事が幸せだと先導し、だから働かなければならない様になりますし、その形で経済が回りながら商人へとお金が集中する仕組みが出来上がりました。

これが今にまで続いています。

人間は、昔々は食べる事も生き残る事が出来ない時代がありました。これを安定化させるために、力(暴力)はとても役に立ちました。大ヒットです。

ですが、それが安定しても、未だ未解決問題がありました。どうしていつも王様や神・聖書・教会・牧師だけが・・・の抑圧されたキモチです。

それを安定化させたのが、次なる力(財力)でした。
これも大ヒット、とても役に立ちます。

抑圧された個人が解放され、今では個人には結婚の自由も引越しの自由もあります。王様の時代には在り得ませんでした。

その様にして、人間は確かに進化発展しています。人間の出発カオス(無秩序)と向き合う程に幸せや夢、そして自由が広がっています。

言語や文字の理解に入ります。

10人のバラバラな人間が一致団結する事は組織化された行動ですね。それは、10人がそれぞれ違う動きをしながら、しかし一人の人間であるかの様な連携が取れている事です。つまり、役割や機能を次の人へと伝達する意思疎通が要です。

この意思疎通に使われたのが、言語・文字です。結果的に、それが組織化された人間を生み出し、後の共同体や社会や文化文明にまで発展します。

言語や文字の功績が見えてきますでしょうか?
それを持たない文明・人間は滅んでいます。

どこまで柔軟でしなやかで繊細な10人一体の動きを果たせるのかと言いますと、機能や役割を細分化させて、尚且つ意思疎通によってつなげる事です。そこに役に立つのが名付けです。

名前をつけて、部分的な領域、範囲へと閉じ込めます。ですが、人間は意思疎通があるので、部分的な領域や範囲を意思疎通によってつなげる事が出来ます。動物は、感覚的な生き物ですので条件反射だけで動きます。

部分的な領域を動物の前に刺激として与えられたら、動物は条件反射に反応してしまいます。後は、人間が意思疎通を通して、その役割・機能を次の人間へとパスする事で、動物はワナへと掛かります。その動物が調理され、人間に食べられるという訳です。

名付けがなければ、こうした一致団結や協力が出来ず、カオス(無秩序)に対して為す術もないままにトラに食べられ、自然に滅ぼされたでしょう。

名付けの素晴らしいところです。

僕は、名付けには功の部分も多かったですが、しかしここ最近は残念な点が増してきましたとお伝えしています。今度は、功では無い残念な点について触れます。

先ほども述べておりますが、現段階では市民による財力を中心とした産業社会の秩序ですが、そもそも個人戦・個人主義が酷くなりすぎて、全体が持たなくなっています。そして、全体が個人をいじめる様になってきました。

人間は、外の王様を倒す事には成功しましたが、未だに自由になりきれていないのは、実は未だ中の王様を倒していないからですし、中の支配権力から自由になっていないからです。

それが、判断基準です。

個人一人ひとりが持つ判断基準から自由になっていないから、個人は組織・共同体・社会に負けてしまいます。

自分の判断基準から自由になった個人は、組織・共同体・社会からの判断基準からも自由です。そんな大自由な個人が誕生する事ですね。

それは、今までの暗記言語では無理です。

暗記言語は、動物や自然と戦う時に開発された言語です。そして、それがどういう役割や機能であるのかを明確に理解した単語や名付けではなく、ただ食べるために、生き残る為に開発された単語や名付けです。

ですから、人間らしい人間としての生きる意味や価値を追求する言語や名付けではありません。動物らしい人間としての言語や名付けに留まっています。

だから、食べる事に安定し、生きる事に安定し、そろそろ人間として果たすべき役割や使命の事に意識がむき出そうとする頃には、旧い動物時代の言語や名付けでは新しい秩序化が成されません。

名付けが動物と闘い、食べる為に、生き残る為に、使ってきた暗記言語レベルに留まっているからです。

ですから、暴力時代に抑圧が酷かった様に、今の財力時代にも次元こそ違いますが抑圧が酷く感じるんですね。それは、判断基準から自由になる真の個人として目覚める前段階として起きている危機であるとは思いますが、つまり言語の進化や名付けの進化が求められている時だと僕は観ています。

それができるのが、今の時代であり、この日本であると観ています。この国には大きな仕事があります。新しい次元、今までとは次元の違った言語を開発し、人間らしい生き方、人間を完成させる生き方、幸せや平和を実現する為の新しいステージへと向かう為に、今の時代、この日本はその仕事をする時ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ザッキーさんの歴史観をありがとうございました。

陰謀論な動画も歴史というか暗黒史なのですが、

名前を設けながらの組織化が、人々の営みを豊かで力強く安定したものにしてきたのですね。

集団名や個人名がないと、組織も自己・他者イメージもばらけて、統合失調症になりますね。

自らの価値観に縛られるのは良くない……べき論はダメだとエリスさんも言います。論理(認知)療法です。

私はけっこう病んでいるので、メラニー・クラインという女性の、部分対象関係とか、全体対象関係とかの言葉を学ぶのですが、
人ととことん付き合っていないせいか、他人というもののイメージが日々断片的で、その人の名のついた袋に、他者の断片を放り込むのですが、そうしてようやく、わけのわからない他者に一応の感じを持つわけで、その際に個々人の名は必要だなと思います。

でも本題は、個人への名付けではなく、群への名付けなんですよ。
集団心理というものの危険性がテーマなのだと思います。

やっぱり国という大規模な枠組みは、もうしばらくは在るほうが良いという考えなのですか…。
国粋は危ないですよ。と思いのは敗戦やアメリカのせいかもしれませんが。

歴史は国家群史で、ひたすらせめぎあいの世界観ですから、そういう過去からの長い腕は今を生きる個人の価値観にも伸びてくるので、厄介だと思うのです。

国、って危ないです。今の価値観のまま国を営んでも何も守れそうにないです。

お礼日時:2011/06/06 01:13

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