プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

二十代後半の男性です。
先日からカウンセリングに通い始めました。
人間関係が上手くいかずに限界を感じてしまったからです。

子供時代を「この家は俺が全てのルール」と言い切る父親と
その父親に何も言えずにハラハラしている母親の元で育ちました。
比較的、裕福な家庭でしたので金銭的に苦労ということもなく、
教育方針や英才教育を求められたことはありませんが、
親の望む「子供らしさ」については強く求められました。

外で遊びたくなくても、子供と外で遊びたい父親に付き合いました。
外食の際は次から次へと色々な物を頼んで子供に食べさせたい
父親のために沢山食べる子供になりました(隠れて吐いていました)
「~するぞ」という提案に対し、少しでも「イヤだ」という顔をすると、
露骨に不機嫌な表情と態度を取られるので応じるを得ませんでした。
気付けば他人の顔色ばかり伺っていた少年時代を思い出します。

子供というのは物事を大げさに捉える癖があるのか、いつからか
「これはボクの人生じゃないから」とか「ボクが我慢すれば上手くいく」
そんな風に思うことで自分を納得させ守っていたような気がしています。

親として子供のために色々としてくれようとしていたことは今になれば
分かる部分もありますが、当時の自分は何かを貰っているという感覚より
自分が我慢して両親を楽しませていると思っていました。
サッカー好きの父親の為に始めたサッカーを辞める時はこの家に
いる権利がなくなってしまうと本気で悩んだ記憶があります。

大人になっても人間関係は何一つ上手くいきません。
相手に与えるということが出来ないのです。
無償で愛されるのは家族だけ、赤の他人に愛されたければ、
与えられる能力がなければ与えられることは決してありません。

自分に余裕のある時には手伝える範囲で手伝ったりはしますが、
(それでも普通の人よりも余裕がないので範囲はとても狭いです)
普通の人のように献身的に与えることが出来ません(自分はそう見えます)

子供時代の自分が「何でボクばかり与えないと(我慢しないと)いけないんだ!」と
与えることを拒んでいる、イヤだイヤだとごねている、閉塞感を感じます。
与えられたことがない(と思い込んでいる)子供時代を引きずったままです。
当然、他人からすればメリットのない人間なので認められません。
そして、他人も親も自分自身も憎んで苛立ちを感じすぎた結果、
底がつきて、カウンセリングに行きました。
自分の人生には虚無感しかありません、この先も一人の自覚もあります。

与えなければ、認められない、愛されない、価値がない。
でも与えられない、苦しい、与えるのがとても悔しい。
与えること=自分から何かを奪われるような気持ちを強く感じます。
何もせずに何かを貰おうなんておかしな話ですが、抵抗感を凄く感じます。

カウンセリングで少しでも普通の人間に近づきたいと思っていますが、
「与えなさい」という言葉には恐怖や重苦しさを感じざるを得ません。

普通の人のように健全な子供時代を過ごせれば、
自分も普通に与えて与えられる人間になれたのかもしれませんが、
不良品なので、その当たり前に与えられる感覚が分かりません。
与えることが怖くないというのはどういう感覚なのでしょうか?
(そもそも普通の人は意識せずに出来るので不毛な質問です・・・)

A 回答 (9件)

40代の男性です。



 あなたは、無償の愛というものに渇望なさっているようにお見受けいたします。
多くの子供たちは、保護者から何の見返りも求められない無償の愛を受けて育ちます。しかしそれが条件付きの愛情ばかりの家庭環境だと、機能不全家庭ということになります。

 人には誰しも、良い点も悪い点もあるのが普通ですが、自分の悪い点を受け入れることが出来ず、特に思春期を過ぎたころから、自分の理想と現実とのギャップに悩み、自己評価が極端に低くなる、AC(アダルトチルドレン)という心の病があります。もしかしたら、あなたもそうなのかもしれません。

 機能不全家庭等で育っても、まったく発症しない人もたくさんいます。これはACになりやすい体質を持っていた場合、機能不全家庭の条件がそろったときに発症することがあるようです。

よろしければ下記のサイトで、自己診断なさってみてください。

http://kantei.am/17619/
http://kantei.am/28521/

ACの本質と治療
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/acetc.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
被害者面をして生きるのは一番嫌なのですが、
打開策が見えないのも息苦しく感じてきました。

教えて頂いた診断では私はACみたいです。
カウンセリングに通い始めた自己判断は適切だったと思います。

「与えられなかったのに、また与えないといけないのか?」

この恨みや憎悪みたいな感情がなくなればと思います。

お礼日時:2011/08/09 00:31

>与えること=自分から何かを奪われるような気持ちを強く感じます。


何もせずに何かを貰おうなんておかしな話ですが、抵抗感を凄く感じます。

これは現代日本では当然の感覚です。与えて貰う=自分が得をする 与える=自分が損をする という考え方です。
聖書では、一番になりたければ、他人に仕える者になれと書かれている箇所があります。聖書はキリスト教の経典ですが、他にも論語、仏教経典も同様な内容は必ずあるでしょう。
聖書は特に他者に与えるという発想が強く、命を捨てよと明記されている箇所が複数個所あります。物を与えるのではなく、命をも与えよと言うのですから究極的です。

私はこれが非常に困難で、仏教の瞑想系の教えに傾倒した時期がありました。
目の欲、耳の欲、舌の欲、その他の欲から自分を解き放ち、与える事からも与えられる事からも逃れたかったのです。

【質問に対する回答】

なぜ与えることが怖くないのか
まず逆に与えられることが素晴らしいのは
○自分の得を優先して自分中心に発想し、どこまでも他者を利用して死ぬまで自分を充足させていけるから
○自分の所有物を増やし、他人の所有物を減らしても自分の安全を図っていけるから

与えることが怖くないのは
(1)死ぬ時。モノを抱えて死ねないので不要だから。
(2)自分がつまらない人間だと悟った時。つまらないのだから、思い切って与えてみよう。
(3)自分が世界制覇した時。世界の帝王に君臨できないなら、一生その時は巡って来ない。


【検討】

(1) ⇒  死ぬときまで待つしかない
(2) ⇒  自分を神仏に対比させ、経典の教えの中で「与えよ」「許せ」と説かれているので実行している。
     神仏を自分より偉大であると認識する事が不可欠である
(3) ⇒  一般的日本人の価値観

釈迦は王子として何不自由ない生活を捨て悟りを開きました。愛された経験は果たしてあったのでしょうか?キリストは無実の罪で十字架上で磔になり死の途中で父に苦しみを述べています。

>与えなければ、認められない、愛されない、価値がない。
と書いておられますが、
まず「認められるとはどういうことか」というテーマについて書かれた書物を自然科学、動物学、哲学、宗教学等において読まれ考察される事をお薦めします。
動物学を例に挙げれば、北極熊、ラット、チンパンジー......色々な動物が認められる為にどういう生殖活動や闘争をしているか考え最後に人間に関しても考察してみる、次に「価値」とは何か考えてみる.....企業家の価値観、僧侶の価値観、冒険家の価値観、多種多様な人に次々に会ってみて(会えないのであれば講座等)最後に自分の価値観に関して考えてみる.........そこでまた、「価値」という観念について哲学や宗教や歴史(第二次世界大戦前の日本社会上の価値観など)における価値を考えてみる.....とやってみてはどうでしょう。

子供時代がどうこう、といった定義をしているのは、心理学だけです。
心理学だけかじっていても人生は広がりません。人間は自分に都合の良い事を、自分に都合良く学ぶこともありますので、必ずある定説に対する反対意見の学説も読んでみる必要があります。ひいては、一つの分野だけではなく、様々な分野に触れて『与える』という行為に関して考えてみてはいかがでしょう。

与えるという行為は確かに宗教に親和性の強いものですが、他分野でも取り扱う機会は多数あると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2011/08/09 00:18

小さい時の親の育てられ方は社会人になる頃さが出ますよね


それに気付くかどうかだと思いますが

因みに私は親が嫌で卒業後家を出ましたが

あなたは言いなり親のために親に合わせて生きてきたんですね
だから自分がないんじゃないですか
だから与えることも与えられることもわからない
ただ言いなり親の望むことをすれば与えられる
それで生きてきたんだと思います
それは過去でいい
これからは自分は頭から離し
相手が何を望んでいるかを考えられれば人間関係はうまくいくと思います
これは見返りではない
その人が喜べばそこで終わりです
ありがとうという言葉が見返り
これなら出来ると思います
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「ありがとう」の言葉も見返りなんじゃないのでしょうか?
ありがとうと言ってもらえたらまだ救いがあります。
「要らない」と言われる方が自分を否定されてみたいで
苦しいかもしれません。
(受け取ってくれない人をわざわざ無意識に選ぶことも問題ありますが)

お礼日時:2011/08/09 00:17

文章が長すぎて、どこで論点が変わったのか気がつきませんでした。



お父さんの指令に対して、絶対服従をしていた子供時代ですよね。
そこでは「与えること」のみが存在していたはずなのに、それが怖いというのは、未だに自分自身のシナリオが書けないのですか。
「普通の人のように健全な子供時代を過ごした人」がどこに居るのか、僕は見たことがありませんので、その様な子供は居ないと思いますよ。いない子供が羨ましいのですか。
「普通に与えて与えられる人間になれた人」が普通に居るなら、この世にはイエス・キリストの手本になるような人ばかりに成りますか。見てみたいですね。

普通のカウンセリングですと、あなたの望まない性質と、望む性質を取り替えるには、望まない性質をあなたに与えてくれた人に、その性質を返すと宣言することで、入れ替えることを行います。
持っていたくない物をいつまでも持っている必要はないですからね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
認知の歪みを直してゆけたらと思います。

お礼日時:2011/08/09 00:15

このスペースで私の感想を答えられるか心配ですが


簡単に書いてみます

誰もが催眠術にかかっています

生まれてから、まわりの大人、もちろん両親からも
いろいろなことで催眠術にかかって育ちます

質問者さまの年齢くらいになると
(というより、年齢には関係ないのですが)
自意識が出はじめ
とくに両親からかけられている催眠術との葛藤がおこります

質問を読んでいると、とくに育てられた環境、教えなどに
催眠術を解こうという葛藤が起こり始めているようにみられます。

もう少しがんばって、自己の考えを突き詰めていくと、
親からの教えの正しかったこと、間違っていたことなどが
つかめてくるのではないでしょうか。

わたしからすると、ほとんどの人たちが
幼少時代からの催眠術にかかったままで生活をしている
ようにみられます。

わたしなんか、催眠術にかかってないもんですから
みんなから変人あつかいされます。


与える、与えられるの問題ですが
これをモノとして考えていらっしゃるからでしょう。

愛情抜きで考えたら、これは損得の問題です。

愛情抜きで与えることはやめたほうがいいのです。
それは傲慢です。

愛情抜きで与えられたら、屈辱です。

あ、仕事で教える、教えられるというのとは
また別ですよ。

愛情があれば、病気ケガの人に、
自分のからだを提供することだってできます。
幸福な気分になれます。

自分が100持っていて、好きな人がゼロだった場合
相手に50与えれば、50,50で
お互いが幸福になれます。

誰だって知らない人には、10円だって
あげたくないですからね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
葛藤から抜けきれない、大人になりきれない自分を恥じています。
どこまでが自己責任、どこまでが他人の問題かが見えません。
与えるのが怖い、というよりも与えても受け取ってもらえなかったらが
本音なのかもしれません、見返りを求めてはいけないのにダメですね、

お礼日時:2011/08/09 00:15

質問者さまは決して不良品ではありません。


早い機会に消滅させたいのは被害者意識です。
被害者意識は質問者さまを決してシアワセにしません。
とりあえず、この時季、
被災地を訪れて
ヴォランティアでお役に立ってきませんか。
作業療法の感覚で進めてみてください。やることは
無数にありますので与えることに困ることはありません。
歓迎され喜ばれ感謝される感覚を知ってみてください。
それを励みにして
より大活躍されて自信をもってください。

ヴォランティアで活躍できる場は
世界の難民キャンプなど無数にありますので
活躍してみてください。それで、早い機会に
幸運は偉大な教師である。
不運はそれ以上に偉大な教師である。  (William.C.Hazlitt)
とおもえる日が来るといいですね。

森瑤子さんの『女ざかりの痛み』
お勧めです。投影やシャドーなど男性である質問者さまにも
大いに参考になります。図書館などでお読みください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
前回の質問にもご回答頂きましたよね。
先ずはカウンセリングに行く、ということで一歩は踏み出せました。
ここからどう進むかは他人(カウンセラー)任せでなく、
自分で認識の歪みを正してゆけたらと思っています。

おっしゃられるように被害者意識が強いです。
「なぜ自分だけ」という気持ちは子供時代から手放せないままです。
今の家族とわだかまりがあるわけではないのですが、
過去の両親と自分との関係については消化出来ないままです。

誰かのためにすることが自分の損になることはない、という
認識を持てるようになれたらとは思っております。

お礼日時:2011/08/06 02:48

"与える"というのは、物質的なものだけじゃなく、気持ちや行為についても?



"与えられなければ、与えない"では物事は成り立たないよね。始まりがないんだから。
"与えるから、与えられる"。そう考えれば多少は気が楽なのでは?
もしくは、人間関係というのは一対一ではなく、輪になっていると考える。
「この人からは与えられてないから、自分も与えない」ではなく、「右の人から与えられたから、左の人に与える」。
それを続けていけば、また自分が与えられる番がやってくる。

とはいえ、個人的には"与える、与えられる"で考えてることに問題があると思う。
人になにかをしてあげる。これは"与える行為"じゃなく、"自分がしたい行為"でしょ。
したいからする。別にしたくないなら、他人に何かをしてあげる必要はない。
ということは、"したい"というのは、自分の中から生まれてくる気持ち。自分が得られるものだ。
だから、「与える」という行為をすると何かがマイナスになるんじゃなくて、与えないことで何もプラスにならないってことだ。
人に与えるということができないことによって、得られるものが得られない。
つまり、損害を出したくないと思ってやっていたことが、利益を手放していることで、結果的に全体の損益で考えるとマイナスになっている。

というのが、まさに現在のあなたの状況でしょ。


モノは言いようだね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自分の中では物質的よりも気持ちや好意を与えると指しています。
「与えるから、与えられる」と思えればよいのですが、
過去の経験則から「本当に?」と思ってしまうのが現状です。
欲しくても手に入らなかったという恨み節が今の根底かと。

「与えられる」ことに飢える余りにおっしゃられるように、
何も得られていない(何もしていないから)、そして、その状況に
マイナス感情を勝手に感じているだけです。
頭で理解できても(出来てはいないかも・・・)実践は出来ていません。

結局は痛い思いをしないと何も得られないのでしょう。

お礼日時:2011/08/06 02:45

過去はどうであれ、成人したのですから、


親からどんな影響をうけようが、
あなたの行動は全てあなたに権利と責任があります。
何か問題が生じたとき、親に責任転嫁はできませんよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
今更しょうがない、恨んでも仕方ない、過去は過去だ、
自分に言い聞かせ、今の人生は自分のものだと
認識しているつもりですが、躓くと恨み節が出てしまいます。
責任転嫁したところで何も変わらないので、
過去を過去と割り切れるように考え方を変えてゆこうと思います。

お礼日時:2011/08/06 02:40

 苦悩されていますね。

「でも与えられない、苦しい、与えるのがとても悔しい。」素直な言葉だと思いますよ。私の仕事は…どちらかというと、その与える側?の仕事かもしれません。でも、質問者さんと同じこと思いますよ。損をするんじゃないか、この情報を渡せば自分を追い込むんじゃないか…。よく思います。いや、今も思ってるかも><。
 でも、実際やってみると、そうでもなかったことが多いし、ほとんど。昔、人に席を譲るのに、とても抵抗がありました。席を譲って、何で俺がこんなに顔真っ赤にして胸がドキドキしなくちゃならないんだろうって。でも、何度も同じことしていると、席を譲るという気持ちが間違っていて、今座っている席は借りているものだから、返すって気持ちになったら当たり前のことに感じられるようになりました。あまり、参考になる話ではないですが…。
 ただ、一つだけ、質問者さんの与えなければならないという断定的思考(~べき思考)は改善していかなくてはいけないと思います。あなたは不良品じゃありませんよ、皆、多かれ少なかれ同じ思いをもっていますよ。
 出来れば、小さなことから試してみて、本当に失われたものがあったのか、相手がその情報を得て自分の損は?逆に感謝され、その後の自分にどんな影響があったかみてほしいです。すぐに完璧を求めないでください。カウンセラーの先生と相談して小さなことから人に何かをしても自分に不利益になることは少ないと感じてほしいです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自分に余力のある時に何気なく親切(自分で言うのもおかしいですが)を
することは出来る(頭より先に体が動く)ことはあっても、
意識してしまうと見返りを求めてしまうので動けなくなります。
与えられたいと思うと献身的にならなければと思うものの、
自分を切り売りするような感覚が常に付きまとってしまいます。
きっと「与えてもらえるのか?」という不安感を感じてしまうから
自分から何か奪われる(無くなる)ような感覚がしてしまいます。
少しずつ自分の棚卸を始めた程度ですが、もっと自分自身を
客観視出来るようになりたいと感じています。

お礼日時:2011/08/06 02:38

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