2~3年ほど前から『運命』と言う言葉の持つ意味について何となく考えてきました。わかりそうでわからない。微妙な感じです。
「最初から定められたもの」「自分で切り開いて行くもの」「その人が通ってきた道を、後に誰かが(もしくは自分)運命と呼ぶ」
等など、例をあげていくとこんな物しか出てこないので是非皆さんの「運命」に付いての考えを教えてください。
至極真面目な回答でなくて全然構いませんので、色々と聞かせてください。

宗教的な回答は出来れば避けて頂けると嬉しいのですが・・・。もちろん、あまりにも詳しすぎなければ、というか知識としての宗教でしたら大丈夫です。(押し付け気味な回答はちょっと遠慮します。すみません)

A 回答 (10件)

運命・・・・ってきくと、どうにも都合よく自分をある事柄から抜け出させるための(納得させるための)アイテムにおもえてほかならない。

いろんなことが起こって、その場、その場で、言い訳してる自分がいる。前もって定められてる、自分で切り開いていく・・・・etc。ねぇ、うまいこといって逃げてるよねぇ―。なるだけそうは、思わないというか・・・・『いかにも』自分が遭遇した事柄に対して真摯に受け止めたかのごとく振舞っちゃうんだよねこれがまた・・・催眠術にでもかかったように『運命』って、一つのキ-ワ-ドを耳にしちゃうとさからえなくなる。そんなときおもうの、『だれだ!勝手にこんな言葉を作ったのはぁ-???』ただの言葉なのにそれに意味もたせて人を面白おかしく翻弄させてくれちゃってぇ-・・・・やめてくれよぉ~~~♪あたしなんかねぇ、すっごくわかり易いヤツだって自分のこと思ってたけど・・・・ここのとこちょこちょこ自分のこと考えてるとなんか複雑におもえてくる。おぃおぃ、、、あたしって、こんな面ももちあわせてたのねぇ-ってことも今まで気づきもしなかった自分の内面が見えたりもしてる。自分のことさえまだまだみていけば、一枚、二枚、三枚、・・・・と、いっぱいいっぱい知られざるあたしがあたしの中に潜んでるかもしんない?!なんか~♪神秘的だよねぇ~~♪うふふぅ・・・ナルシストになってませんよ!!いや?いま一瞬、なったかも???まぁ、まぁ、それは、こっちへと置いといてっと・・・・運命は確立なんていってる人いるけどこんなあたしでもちょっとみ、単純構造の生き物に見えてこれがなかなかややこしい。それを確立で語り尽くせるわけがない。もし、運命っていうものが単なる言葉じゃなくて存在するならそれは、単独ではその存在があるなんて考えにくい。一方に何か?事象があって、それに伴う結果を運命とするなら存在してることになる。それでも、ここで出た結果をこうこうこうこういうものですと厳密には言い切れない。出てきた答えにはいく通りもの答えがある筈?(出た答えの見方を変えればねぇ。)神秘的なんだもん~♪それ故、運命なんて言葉に惑わされちゃダメ!!

ありゃ?また、また、トンチンカ~ン―☆なこと書いてしまいましたでしょうか?

この回答への補足

皆さん、色々と意見頂き本当にありがとうございます。
私の今現在の考えとして、結局の所、私は「運命」と言う言葉、その意味についてさほど気にしていないと言う事に気がつきました。「運命」とは私にとって一つの単語であり、また言葉以上に大きな意味を持っていないものでありました。例えば、家族、友人、大切な人を信じがたい事故等で亡くした時「これは運命だった」と一言で言ってしまう事(それに至るまでに様々な過程があったのでしょうけれど)これは「運命」の一言で片付けたくないのです。多くの方々のご意見を読ませて頂き、こういった考えに至りました。
もしも「運命だった」と誰かに言われたら、私は抗います。諦めたくない、そしてそれが運命なんてもので決められていたなんて信じたくない。というか、運命が力持ってたら危ないんじゃ。やはり運命は運命と言う言葉であって、人が都合のいい時に使うものであり、また意味を深める為に使う「単語」なのだと。意味が一人歩きしている「運命」ですが、やはり言葉は私達生物(人間以外も種類同士で会話しているので敢えてこの言葉で)が使うものであり、けして使われるものではないと思います。言葉を作ったのは我々の祖先、生物なのですから。
言葉に使われて何が楽しいか。言葉に使われる事になんの意味が持てるのか。
「運命」も同じく、使うものであって使われるものではないと、こう信じております。万が一、「運命」と言うのであれば、それは必然でなく、偶然でありますが運命とそれを称するのならばそれはそれで良いでしょう。ただし、あくまでも意味上のものです。
やはり、「運命」は私にとって言葉であり、多岐にわたる使用法がある使い勝手の良すぎる(悪くもある)「言葉」なのだ、と。

結論付けてしまいましたが、これは今現在の私の考えであり、この先変わるとも知れません。
まだ長い人生半分どころか1/3もいってませんので、経験の足りない未熟で浅はかな考えともいわれるかもしれません。しかし、今の私にとっての「運命」がこんなかたちで決定付けることが出来た事に、皆さんに感謝致します。

また、ポイントはどなたにしようか迷ったのですが、serpent-owlさんに20P、sokuraさんに10Pずつそれぞれ差し上げようと思います。
本当は、こう言った一人一人の意見に点数をつけるのは嫌だったのですが(だって、こう言ったものには一つの答なんて無いし、全てが答なのですから)私の考えと、似ている、またはなるほどと納得させられた意見に対し、ポイントをつけさせて頂きたいと思います。(本当は全員の方に20Pずつ差し上げたいのですが・・・)
色々とご意見ありがとうございました。また、機会がありましたら回答欄上にてお会いしましょう(笑)

補足日時:2001/05/01 18:58
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この回答へのお礼

確かに、「運命」と言うのは都合のいい言葉です。
都合がいいからこそ使いにくく、また使いすぎてしまうのが問題ですね。
そして、何か事象が起こり、そして存在がなければ「運命」など存在し得る筈も無し。火の無いところに煙は立たぬよろしく物無きところに「運命」あらず、でしょうか?(かなり意味が違う)
運命に惑わされてはいけない、同意見です。
どうもありがとうございました。(あ、とんちんかんなんかじゃけしてありませんよ。ありがとうございますv)

お礼日時:2001/05/01 18:52

おいしいものを食べたときに言う言葉かな?


「うンめ~!」

……失礼しました。

私の好きな運命は、避けようのないもの、
ギリシヤ悲劇のオイディプスの話みたいな
雰囲気のものですね。
「最初から定められたもの」に近い感じ
ですが、あることをキッカケに定められて
しまうもの、というパターンの方が多い
かもしれません。

ちなみに、
運命に対しては、人はたいてい、苦悩し、徹底交戦をし、
果断に自分としての決着をつけるわけですが、
そういう血みどろの生き様が、人々の「浄化」に
つながるわけですので、簡単に諦めてしまうのは、
美学的に(?)正しくありません。

などと言うのは、所詮他人事だと思っているからなの
でしょうか...(?)
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この回答へのお礼

ブハッ。と、お約束ギャグの牛乳吹き出しをやらずにすみました。いやいや、これで本当にやってたら画面が真っ白に・・・(ヒィィィ)

ギリシャ神話・・・とはまた違うのでせうか。<ギリシヤ悲劇のオイディプス
うう、まったくそう言ったものはわからなくて。
ある事をキッカケ・・・ですかぁ。想像がちょっとつかないです、す、すみません(汗)
何となくある私の考えとはまったく逆のご意見で、おもしろいです。反意見を聞いていると、自分が今考えてる事って、本当に自分の考えなのか?!と改めて考えてみる機会が出来るので嬉しいです。
ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2001/05/01 18:32

yuan_kouさん、はじめまして。

mori0309といいます。44才、会社員です。

 私にとって運命とは、絶対に自分の力では変えることのできないもののことです。
とくに生い立ちや能力です。生まれた国、生まれた土地、時代、言葉、性別、ふたりの
両親、兄弟、自分の知能、感性、性格。これらは、生まれてものごころついたときには
もう決まっていたことで、生後にまわりを眺めて、自己の安楽・安泰や保身のために、
選んだり獲得したりしたものではないです。

 これらは私という存在の基本前提であり原始基盤です。私そのものです。ちがう前提や
基盤から生まれた私を想像することはできません。私は私の、この運命を、客体化・相対化
できないし、してはならない。私は私の運命に意味と価値を見出さなければならない。
これは私がすすんで望んだ運命だ。いつのころからか、そう決心して生きています。

 生い立ちや能力だけでなく、人生のなかにたち現れる、あらゆる悲劇・不幸・失敗・
挫折。意志的には決して望まれない、およそ好ましくないすべての出来事。それらも運命と
いう内容深い言葉で呼ばれるべき、人の精神の糧のようなものではないでしょうか。

 人は運命を知り、運命と出会うことでしか人間になれない。悲劇・挫折・失敗に遭遇
してはじめて、その人の人生が意味を帯びてくる。それらのない人生は生きるに値しない。
それらを見据え、自ら望んだものとして受け入れることで、人は真の強者になれる。
生まれてきた意味をまっとうできる。そんなふうに思います。(クライですね)

(本当はこんな生意気なことは言いたくないんです。若いころ日記にこんなふうなことを
書いたら、私の人生は失敗と挫折の見本市みたいになってしまいました。こうなることを
望んでいたわけでは、もちろんなかったです。きっと運命の神の仕業です。「のぞみどおり
にしてやる」という)

 私が愛蔵している写真集のひとつに「トランクの中の日本」(米従軍カメラマンの
非公式記録:写真ジョー・オダネル)というのがあります。その96ページの写真と文章は
何度見ても、何度読んでも、私の魂をはげしくゆさぶります。初めてみたときなどは
恥ずかしながら、衝撃と感動で涙があふれ、こみあげた硬いものがいつまでも消えません
でした。この少年の立派さの前には「戦争はいけません」とか「いのちは大切にしましょう」
などと言う現代人のあまっちょろさは、吹っ飛んでしまうと思います。戦争はなくなっても、
大地震や大災害や病いなど、人間を脅かすものはなくなりはしないのですから。運命が人間
から離れることは、ありえないのですから。

 以下にその文章を紹介します。

 長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。
 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着て
はだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い子どもがくくりつけられていた。
少年は焼き場のふちまで進むと、そこで立ち止まる。わき上がる微風にも動じない。係員は
背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく脂の焼ける音がジュウ
と私の耳元にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、たちつくす少年の顔を赤らめた。
 私は彼から目を離すことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけ
た。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で、彼は弟を見送ったのだ。
 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守っ
た。私は彼の肩を抱いてやりたかった。
 急に彼は回れ右をすると、背筋をピンと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろ
を振り向かないまま。

(哲学カテゴリの回答じゃないですね。すみません)
(ニーチェの運命愛について、どなたか教えていただけませんか。靴下開放戦線の隊長さま)
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この回答へのお礼

はじめまして、mori0309さん。ご意見ありがとうございます。
一つの結果の過去を総じて運命と言う場合、これは絶対に変えられない事と考えられている事が多いですが、mori0309さんのおっしゃるとおり、自分のデータ(生まれた国、時代、土地、言葉、等など)もけして変わるものではありませんし、変えようにしても変えられないのですよね。
そう言った事も確かに「運命」と言えるものかも知れません。
が、ごめんなさい、ええと、「人は運命を知り、運命と出会うことでしか人間になれない。悲劇・挫折・失敗に遭遇してはじめて、その人の人生が意味を帯びてくる。それらのない人生は生きるに値しない。それらを見据え、自ら望んだものとして受け入れることで、人は真の強者になれる。生まれてきた意味をまっとうできる。」というのが、ちょっと私的にはキツイお言葉でした。生きるに値しない人生、今現在の自分はmori0309さんから見るときっとそうなんだと思います。これが、きつい意見でした。けれど。mori0309さんの人生は、きっとずっと悩みながらもそう言った意味や価値を見出して行くのだろうか。って、思います。私もちょっとは考えた方が良いですね(苦笑)
(気に障った文などありましたらどうぞご指摘下さい)

お礼日時:2001/05/01 18:26

ええと,難しく書いちゃったようでごめんなさい.


私,文章上手くないですね.
文学部なのに.

自分の文章を読み返しましたが,
何だか大事な部分が抜けていたかもしれません.
sokura様が下に述べられているように,
運命に関する思想を全て言語に返せるような気がします.

但し,ここに書いてあるのは,全く答えになっていないかもしれません.
そんなことで悩む必要はない,ということを主張しているからです.
ただ,完全に諦めろ,というわけではないのですが…….

私自身は言語というより<理性>に帰結させたいです.
<理性>といっても科学万能主義的な話ではありません.
人間が全てを<理性>で捉え切れるなら,
運命について悩む必要はありません.
ですからここでは<理性>を,
「自分が自分であり更に外に世界があると理解すること」と思って下さい.

私たちが持つ世界を理解するこの方法のせいで,
私たちは悩まねばならない気がします.
この世界理解の方法は不完全であるということです
(近代的<理性>が哲学史上でも崩壊してますし).

世界を理解する方法,と難しく書いているようですが,
私たちが,私たちや世界について考えたりしていること,それ自体のことです.
この,考えることそれ自体,というのを,ここでは<理性>と云うことにします.

考えてみれば<理性>というのは,世界を捉える1つの方法に過ぎないと思います.
けれど,少なくともいわゆる先進諸国の人々を見てみると,
この<理性>という方法でしか世界を理解していないようです.

私たちが<運命>について考える時,まず<直観>的に捉えます.
でも<運命>について悩む時は,まずこの<理性>を使用してるはずです.

<理性>は方法の1つに過ぎないと書きました.
単なる方法の1つに過ぎないのに,
自分自身や世界を全て上手に捉え切れるなんて,
そんな都合の良い話があるはずはありません.
それはハサミが道具の1つに過ぎないことに似ています.
ハサミで紙は切れても,湯を沸かすことはできません.

<運命>というのも,<理性>で捉えきれないものの1つではないでしょうか.
今の哲学では捉え切らないのでしょう.

ただ,<理性>というものが成長すれば,いつかは捉え切れるかもしれません.
クルト=ゲーデルという人が<不完全性定理>を証明し,
<理性の限界>を示したことがありましたが,
この<運命>論とどう関係があるのかは,私には解りませんけど…….

結論です.

<運命>が現在のyuan kou様の<理性>では捉えきれないものなのかもしれません.
その場合,yuan kou様の<理性>の方が成長すればいいのだと思います.
そのためには(もちろん<運命>とは何か,悩むのも大事ですが),
<理性>を少しでも成長させるように,たくさんの経験を積むとよいと思います.
それで自分なりの<運命>についての考えをまとめればよいと思います.
哲学的な,人類全体に通用する<運命>論といった大それたものは,
打ち立てることはできないかもしれません.
それでも自分なりの考えを持つことは,この問題に関しては十分だと思えます.

長々とすいません.
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この回答へのお礼

こちらこそ、もう一度回答して下さってありがとうございます。あぅ、なんで理解できないんだ自分の脳味噌・・・(涙)
ええと、「運命」を<理性>で捉えきれないと言うよりも、もとよりそう言った考え方をしていなかった様に思います。確かにreneさんのおっしゃった<理性>は充分成長しておらず、また「運命」を捉える事はかなり困難な事だと思います。
そうですね、もっと私が大人になって(ここで言う大人とはもちろん成人迎える、って意味じゃないです)より広い範囲の視野を広げて行く事が、<理性>の成長となり、「運命」の結論が出るのではないかと考えさせられました。

reneさん、なんだか反論したような文章になってしまい申し訳ありません。けれど、どうかそんな意図は無いのだと理解して頂けたら嬉しいです。色々とご意見頂き本当にありがとうございました。もっと、じっくりと自分自身を考える事からやってみます。

お礼日時:2001/05/01 17:46

運命という言葉を考えるのは人間だけのような気がします。

その最も大きな理由は
肉親、最愛の者の死です。「死」を巡って人は、意識を先鋭化するようになります。
 しかし、「死」んだことのない人は「死」すらわかりません。わからない事柄を
ああでもないこうでもない、と解釈することから、「運命」という語感の良い文字が一人歩きを始めたのでしょう。
 たった一人のために考えれば、「そうやって考えることがあなたの運命です」とでも言えば、わかりやすいでしょうか?
 しかし、たった一人のあなたは、「意味もなく、継続性もなく、訳のわからない
瞬間に消滅します」。こうした一瞬におこる、あなたの意識にとって不合理な、不条理な出来事を、「運命」といってみたいのではないでしょうか。
 すると、運命は偶然起こる、というかも知れません。しかし、人は犬は生まれたら必ず死ぬ、と他人様のことになるとやたら客観的に表現したがります。
 でも、犬には必然も偶然もありません(きっとないでしょう)。
 したがって、私は、運命は、意識の言語ゲームです、と解答したい、と思います。
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この回答へのお礼

成る程、確かに運命なんて言う言葉、意味を考えるのは人間だけかもしれないです。いえ、犬とか猫とか、言葉がわかればもしかして何か考えてるのかもしれないですが。今の科学では無理ですかね?

動物に「明日死ぬよ」なんて言っても通じませんし、更に「これは運命なんだ」とか言われてもどこ吹く風。犬は呑気にお昼寝をしてらっしゃいます。犬、可愛いですよね。(話をずらさない様に自分)
失礼しました。本当に、言葉について考えるのなんて人間だけですからね。動物だって実は話してますしが・・・。人間は頭でっかちになった分だけ無駄なことを考えますね。まあ、それが楽しいと言うのも事実ですが・・・。
「意識の言語ゲーム」なかなか素敵な言葉だと思いました。ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2001/05/01 18:07

 「運命」とは何か。

それはベートーベンの交響曲第5番である。

 …しーん…

 あ~あ、やっちゃった。
 それはさておき、ムツカシイことは一旦置いときまして、日常私たちの口に上る「運命」という言葉の意味合いから考えてみましょう。
 用例1:「小豆相場に手を出して、とうとう破産してしまった。これも運命と諦めるしかないか…。」
 用例2:「ああ、ケメ子ちゃん! キミと僕の出会いは運命なんだ! 靴下の右と左のように、僕たちは離れては生きていけないんだ!」
 えー、他にも用例はございましょうが、似たようなものです。

 結論的に申しますと、これらの用例で共通しているのは「運命という言葉によって、何らかの形で意識を単線化している」ということです。「意識を単線化」というのは、今思いついただけの言葉ですので、少々わかりにくいでしょうね。
 用例1につき。プロの相場師に言わせれば予測はある程度可能なのでしょうが、面倒ですから「相場予測は不可能」ということにして考えます。すると「相場に手を出して破産」というのは偶然の結果でしょう。実際には偶然の結果なのです。ところが人間という弱い生き物は、後からうじうじと「ああ…あそこは買いだったなぁ…買っておけば…」と思ったりするものでしょう。もう過ぎたことなのに。
 ここで「運命」という言葉は、その後悔にケリをつけて、そこから卒業するための役割を果たしています。ある一定の結果を生じて完結した現実を心の中で引き受け、それを足場に新たな一歩を踏み出していくため、とも申せましょうか。
 用例2ですが…。この二人の出会い…んなもん、偶然に決まってます。ケメ子ちゃんが満員電車の中で「僕」くんの足を踏んだとか、たまたま二人が共に靴下フェチだったりとか、そういう偶然の出会いです。なのに人は、これまた「運命の赤い糸」とか何とかぬかしてですね、「運命」だと思いたがるのです。偶然を「運命」だと思おうとするのです。
 何のため? この場合は、「愛を強めるため」でしょうね。出会いを「運命」と表現することで、互いに別の女性/別の男性と出会えた可能性を意識の外に排除しようとし、また将来において二人の愛が破綻する可能性を意識の外に排除しようとしているわけです。でもって…これ、一歩間違うとストーカーの心理だったりしますが。

 共通しておりますのは、両者とも偶然の大海であるところの現実の中に、一本の道というか、一本の橋のようなものを架け渡して、その一本線の上で自分を理解しようとし、その線の上で生きていこうと考えている点です。そういう意味での「単線化」です。
 時々必要になるでしょうね。これなしには生きていけないでしょう。でも反面、他の可能性を見えなくしてしまって、自分の生き方・考え方を縛ることにもなるでしょう。時には。
 そういう点で、「運命」という言葉ないし考え方は、道具として有用ならば使えばいいし、邪魔になったら捨てればよいものということになるのではないかと思います。

    *

 ではここらで、少し話をムツカシクしましょうか。
 さきほど、何ら検証することなく現実を「偶然の大海」と称しましたが、この点について。
 これは、世界の移り変わりが実際に必然であろうと偶然であろうと、「事実上偶然であると考えざるをえない」ということです。
 reneさんが挙げておられるスピノザですと、「世界が神である」以上は世界の流れは神の自己意識に映じる必然となりましょう。スピノザの説明によらずとも、何らかの超越者がこの世の必然を司っているという想定は可能です。想定だけは。
 しかしながら、人間はその必然を認識することはできません。ある程度「必然」を見出すことができるのは、すでに過去のものとして完結した歴史上の事柄や、余分な要素を排除して反復再検証可能にした科学実験や、太陽系の惑星の運行などだけです。私たちが現に生きている「ナマの現実」については、時間的に過去のものとするなど、何らかの仕方でそこから超越しないと、「必然」を見出すことはできません。
 このことは決して直観的な思い込みでも、宗教的な教条でもありません。自然科学の領域でも指摘されていることです。量子力学の知見による「ラプラスの悪魔」の否定とか、決定論的カオスの発見による未来予測の原理的否定とか。
 「ラプラスの悪魔」というのは、「宇宙にあるすべての粒子の質量と速度(速さと方向)を知っており、未来永劫いかなる瞬間についても予言可能である」ような、大層エラい悪魔さんのことです。科学全能への信仰を象徴するものでした。ところが、不確定性原理によって「量子の位置と運動量を同時に確定することはできない」ことが示され、この悪魔さんは死んでしまいました。ハイゼンベルグって、偉大なエクソシスト(悪魔祓い師)だったんですね。
 「決定論的カオス」というのは、例えば x=ax(1-x) という単純な式に、aやxを色々に変えて代入して反復計算してやると、出てくるxの値が事実上予測できないものになる、とか、そういうものに見られます。…これ、どこか別のところにも書いたんですが…忘れた。まあその、とにかく自然界には原理は単純でありながら、その振る舞いは複雑極まりなく予測不可能という現象が随所に見出されるのです。
 ということで、ある一つの系の中、現在進行形で生きる人にはその系の「必然」は決して認識できないのです。よって、「現実は偶然の大海」。

 総じて「運命」なるものの定義は…と申しますと、それは「とりとめのない偶然の大海である現実を、なんとかとりまとめて理解しようとする際、人間が想定する枠組み」となりましょう。完結した過去についてのみ言えることであり、未来に関しては言うことができず、言うとしたら多かれ少なかれ無理やり言うことになるもの、ということで。

(なお、「靴下」に関しては下記URLを参照のこと。)

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=54125
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この回答へのお礼

あやや、頭の中を交響曲第5番が流れてる~・・・
って、冗談は置いといて。(すみません(>Δ<))
serpent-owlさんの回答を読ませて頂いた時、「これだぁ!」と思わず叫びそうになってしまいました。何故ならうっすらと私の中にあった「運命」と言う意味を見事なまでに言葉として表現されていた為です。まったく一緒、と言うわけではありませんが(あ、当たり前か/苦笑)凄く、近いものとして感じられました。

内容に入りますと、「運命」と言う言葉によって、けりをつける。また意味を強くすると言う事にとても頷かされます。時々、悲劇や惨劇に対し「運命だった」と決定付けてしまう方がいらっしゃいますがそれにはどうも納得が行かないと言うか、反発してしまいたくなります。
話がずれました、現実は「偶然の大海」とおっしゃいましたが、これも同じくなるほどと思います。全ては偶然から、teiz様が「確率」と言う言葉を使ってましたが、これに私の考えを上乗せして(teiz様、失礼な言い回しで申し訳ありません)「必然は偶然のより集め」からなるのではないかと。起こるべくして起こったといっても、それに至るまでの過程は全て偶然であり得る訳で、となると必然も偶然と言っても良いのではない・・・かな~・・・と。
とすれば、偶然の中から選ばれた(と言うとまた意味が違うのかしら?)たった一つの結果、またはその結果に至るまでの過程を「運命」と枠決めされるのであろうと。
意味の通じない文章に加え、過程、結果とうるさくてすみません。なんだかお礼と言うよりも自分の意見みたいで申し訳無いです。ご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2001/05/01 17:56

>知識としての宗教でしたら大丈夫です。



大丈夫でなかったらごめんなさい。アラブが出たならインドもと思って(笑)。

古代インドでは運命を「風」のようなものと捉えます。
「ニルヴァーナ(涅槃)」という言葉の直接の意味は「風が止む」と言う意味です。

実際の人生何が起こるかわかりませんし、どう転ぶか判ったものじゃありません。
>「最初から定められたもの」「自分で切り開いて行くもの」
この二つは矛盾していますけど、実際どちらも云えることだから仕方がない(笑)。

それを、風に吹かれてどこに飛んでいくか判らないことに例えたのでしょう。
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この回答へのお礼

nekoucchaliさん、インドの「運命」を教えて下さってありがとうございます。
風と捉えられた運命ですか、それも面白い考えです。けど、確かにそんな気もします。そうですね、人生何が起こるかわからないですが、それを楽しいと感じられたり、色々な方向へ持って行くのが風と捉えられた運命なのかもしれません。
意味不明な文章書いてたらどうかお目をお瞑りください(苦笑)文章表現力がまったくないものでして・・・。

お礼日時:2001/04/30 22:35

別に宗教的な回答じゃないです.




私たちはある行動を起こす時,
背反する2つ以上の行動を同時に起こすことは不可能です.
例えば,眠ることと起きていることを同時にすることはできません.
つまり,私たちは,いつでも1つの行動しかしていないことになり,
この1つの行動の流れを<運命>と呼べるのではないのでしょうか.


スピノザ的な必然性を問題にする決定論的思考においては,
その必然性自体が以上の<運命>に直結していると考えられますし,
ヒューム的な偶然性を問題にする非決定論においては,
いくら偶然性を説いても,私たちは1つの行動しか取れないわけですから,
その1つの行動を取らせる,超越自然的な力を運命と呼べます
(この場合,「超越自然的な力」は,いわゆる神のように宗教的な仮定ではなく,
私たちの全ての決定から抽象して考えられる事態を
便宜的に呼称しているに過ぎないと考えればよい,と思います).


以下は蛇足かと.


こう考えると,スピノザ的な決定論が現実に合理的かと思われますが.
それが近代科学の問題で,近代科学が行き詰まった原因の1つだそうです.
現代科学はそれを克服しようとしています.
文系的な方法論とかでは克服の兆しが見えているかもしれませんが
(現象学とか構造主義とか),
物理学などにおいては,まだ大きく停滞している分野もあるそうです
(物理学については友人に聞いただけなので,情報が不確かで,すいません).


唯物論において,全て決定していると捉えるのは,機械論的人間論,
つまり,人間を完全な<対象>=<客体>objectとしてしまうものです.
しかし,現実には<主体>subjectとしての人間もあるわけですから,
機械論的人間論は現実にそぐわないことになります.
かと云って,観念論的おいて,人間の営みを全て人間の思考に回帰し,
全ては人間の見ていることに過ぎないとし,
ただ純粋に思考していればよいとするのは,逆に人間を<主体>と見て,
<客体>,つまり物理的存在としての人間を見落としていることになります.


現代の大きな課題として,
この<2項対立的主客>をどうクリアするかということがあります.


この<運命>の2面性,つまり,

>「最初から定められたもの」「自分で切り開いて行くもの」

というのは,この<2項対立的主客>にある程度は還元できると思います.
つまり,スピノザの立場から云えば,全て決定されていると云えます.
これは人間のみならず,自然環境(動物や植物を含みます)全体に適用できます.
かたや,ヒュームの立場では,
いくら決まっているとは云っても,
決定するための「超越自然的な力」は
<主体>という能力を持つ人間に他ならず,
その人間が<運命>を切り開いていると云えます.
但し,これは<主体>と成り得る自我を持つ人間に限るわけで,
植物は自己の運命を切り開いているとは云えません.
もちろん人間の生き方のアナロジーを植物に働かせれば,
植物に適用できないこともないですが.

つまり,運命をどう捉えるかは,自分の
思考によるもので,
自分の思想の1つの試金石として考えることもできるのではないかと思います.


私は「自分で切り開いて行くもの」として捉えた方が面白いので,
そう考えてますけど.これも思想の反映として.
この場合は,そんな大した思想ではないですが.

堅苦しくて解りにくいところは指摘してくだされば結構です.
また,哲学についての誤りがあれば,どなたか御教示頂けると嬉しいです.
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この回答へのお礼

む、難しい(汗)
単純な私の頭には少し(かなり?)難しかったようです。けど、読んでいて面白かったです。お礼を書くにあたって、どんな事を書けば良いかな、といま頭を悩ませながら書いております。お馬鹿な事書いて的が外れに外れすぎていたらどうしよう、と(苦笑)

二択、またはそれ以上の選択があった場合に選び取ると言う行動の流れを便宜上『運命』と呼ぶ。ううん、難しい。
「運命の分かれ道」とよく言いますが、それとはまたちょっと違う意味に取るべきなのかな?いずれにせよ、道を選ぶのは自分であり、また自然の流れでもあるのだろうかと考えました。
(見当外れの事を言ってましたらご指摘下さいませ)

お礼日時:2001/04/30 22:30

「運命」とは「予めそうなる事が決まっていた結果」を意味していると思われます。

よって、そう言う「予め決まった物事」と言う概念が気に入らない人は「運命は自分で切り開くもの。」と主張したくなるのです。

私はこの様に解釈しています。
例えば、私の父親の性格は一つです。彼の職場では3年以内に転勤がありそうです。彼の性格ではその辞令を断る可能性は少ないです。
よって、私は3年以内に転校するのが「運命」です。
更に、新しい学校で誰かと友達関係になるのが「運命」です。

これは私に限った事ですが、次に「運命」の神髄(?)を付け加えます。

私が転校するであろう学校には、一人の子供がいます。
その子は私と同学年で、その子の父親は私の父親同様、3年以内に転勤する
可能性が高いです。

どうでしょう。私とその子が出会える可能性は?

もし仮に、私の父親が確率的に低いのですが、転勤しなければ、
私も転校しないので、その子とは出会いません。
また仮に、その子の父親が確率的には低いのですが転勤しなければ、
私は転校し、その子は転校しないので同じ学校に通うことになる事になります。

全ては確率でして、確率が高い程、「運命」を感じる事ができず、
確率が低い程、「運命」を感じますよね。

私は「運命」とは確率だと考えています。低ければ低い程、「運命」なのです。
確率が高ければ、それは「必然」だから。
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この回答へのお礼

確率の如何によって運命か必然か。これもまた面白い見解でした。
確かに、普段何気なく生活している中でそうそう「運命」なんて言葉使いませんしね。思ってもいなかったことが起こった時、人はそれを運命と呼ぶのかも・・・。
そして「予めそうなる事が決まっていた結果」というのはなるほどと思います。
これから起こる事に対して『運命』だなんだと言ってもあまりしっくりこないものもあります。起こってしまった事で、尚且つ確率の低い事象だった場合に人は「運命」と呼ぶのかもしれませんね。
答えてくださり、ありがとうござぃました。

お礼日時:2001/04/30 22:22

「運命」というのは簡単なようでつかみどころのないものです。


まず最初にアラブの方での「運命」の用法についてお話しします。
彼らは何か自分が過失を犯して、それを他人に責められた時に、(日本人の見方からすると随分責任逃れですが)「これは運命だ。私の過失ではない」と言い張るのだそうです。

運命の「運」は「めぐる」と読み下すのが正しいのでしょう。決して誰かが運んできたり、自分で運んでくるものではないと思います。自然の流れの中に運命は息衝いているように思います。自然の偉大さに思わず畏敬の念を抱いてしまう瞬間などに運命は存在するのではないでしょうか。人為というのは決して運命ではないと思うのです。

どうでしょう。他の人がどういうことを言うのか楽しみですが。
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この回答へのお礼

面白い例を教えてくださり、ありがとうございます。
そうか、アラブの方ではそんな用法が・・・!運命を盾にしてると言いますか、良い訳に使っているように感じられました(違ったらごめんなさい)

運命は人為的でない、そういう考え方もあったのか!となるほどと思いました。私にとって新しい考えです。
まめ知識(笑)をどうもありがとうございました。

お礼日時:2001/04/30 22:17

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