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本来の中道の意味は、極端から極端に生きるという意味なのに、何故、一般では中道は両極端に偏らず、中間の意味になっているのですか?
お釈迦様の説法では苦行に偏っても何も得られないとおっしゃっておりますが…
昔は、庶民の間では中道では救われないという意味で、いつしか変わってしまったのでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

中庸とは物事に偏りがない事で、白黒がはっきりしない事で、あいまいだから脳が休んだ状態、隙間になるので、癒しが多くなります。

日本人は中庸を好みます。和食は中間の淡泊な味、人間関係などでは、中間で妥協します。イデオロギーでも中間派がもてはやされます。ファッションでも中間色が、好まれます。季節も中間の春秋です。言葉でも中間の灰色が好まれます。理由は癒しが多くなり癒されるからです。あなたも中間派になって癒されてください

この回答への補足

中庸と中道は全然意味が違いますよ
極大~極小がやっぱり中道としてはシックリきますね。
一般人の人生では、極大~極小、零サムライのような生き方は危険が伴いますので、中間でいった方がよいと思います。

補足日時:2011/12/01 19:32
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白か黒という概念は中道からどう読みとれるのでしょうか



○ 中道とは両極端を捨てるという意味ですが、真ん中を取るという意味ではありません。他の回答にもあるように、自分にとってより自分を良くする道をとるという意味なのです。自分にとって正しき道が中道ですから、例えば、白、黒はっきりせよと問われると、例え、自分が不利になろうとも良心に従って白か黒を選ぶこと、それが中道の道です。孔子はこれを「天命に従い則を越えず。」と言い換えています。
多くの人は自分かわいさのあまり、良心とは反対の道を選ぶかもしれません。それを道を外すというのです。仏教ではこれを外道といいます。仏典を間違って解釈し、あらぬ方向に進むことも外道ですね。
中道の道は仏陀が指し示す白い道ですから、これは二河白道にある道のことですが、それと同じものですね。参考に

この回答への補足

一切聖衆に守護せられて白道を行かん

ということですか?

補足日時:2011/11/15 05:06
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こんちは



竜樹の中道は、竜樹のオリジナルではなく、元々の初期仏教の
教えをアレンジしたものです。

質問の趣旨に答えますと、
中道の考えから導き出されるものは八正道である
と表現できると思います。

だから、中の道は、正しい道と解釈するのが普通だと思います。

ですので、竜樹以前から中間の意味あいは含まれています。

どちらかと言えば、元々、正しい(=中)とだけ、言っていたものを
両極端に拡張したのは、竜樹です。

この回答への補足

零 ゼロ に 戻る

極大 極小

零の中に満ち満ちてる

中間ではない

グレーゾーンではなく、曇りもなく、澄みきっている状態

なのでは?

補足日時:2011/11/15 13:07
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こんばんは。



「決め(極め)付けない」ということが、あると思います。


例えば、(近代)刑法では、罪刑法定主義によって、「構成要件に該当し、違法で有責な行為」が、(一定の)刑に値するというわけですが、(仮に)それ(罪が確定)でも、まさに予め定められた刑に処せられるだけで、それ以上に「悪」だ、ということではないわけです。

そして、やはり基本的には、「裁判を受ける権利」が保障されているのであり、・・・そうした「(本来あるべき)過程」を経ない「決定」などは、(基本的には)「論外」であるわけです。

・・・そうした「(本来あるべき)過程」を以ってしても尚、「誤審」という問題を免れ得ない(可能性)という問題が、「司法」には、あるのですが、。
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○竜樹の「中論」に説く中道。

「不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不出」の八つの否定を通して説明されるものは釈尊の苦楽の中道とは明らかに違うものです。
釈尊の中道は悟りの道を歩む修行僧の生き方を示したものであり、これは明らかに両極端の生き方では悟れないと言っているのですね。釈尊の中道は「琴の糸は緩くても張りすぎてもよき音は出ない。」の例えの通りです。
竜樹の中道は、修行僧の悟りの道ではなく、ある悟りそのものを表現しているものですね。八つの否定を通して説明されるものは悟りにおける霊的人生観のことですね。これは文字で理解できるものではありません。それ故、竜樹の「中論」は一般的な中道とはまったく異なるものですし、概念的な極端を超越する「極端から極端に生きる」という意味でもありません。霊的人生観に立脚したものの見方を中道といっているのです。
まあ、簡単に言えば生まれてくる前のあなたから見て今のあなたは正しい生き方をしていますか。というようなものですね。だから、理解できなくともおかしくはないのです。殆どの人が修行僧のようなものですから、中道とは釈尊の教え「両極端を捨てる。」ことで正しいと思いますよ。

この回答への補足

白か黒という概念は中道からどう読みとれるのでしょうか

補足日時:2011/11/06 18:26
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お釈迦様が説かれた中道は苦行も快楽も否定したものであったようです。


その事は修行の規範の概略を対機説法として示したものと見るならば
人それぞれの実際の中道とは、すべてが違うものである可能性があると思います。
八万四千ともいわれる法門のすべてが中道であるといえなくもないのです。
中道という選択は、人によってなされる適切な法門であるともいえるかもしれません。
多種多様な法門の道筋を比較するところに、唯一の中道を見出すことは出来ないと思います。
悟りという結果に至った人それぞれの選択が中道なのでしょう。
そうした意味では、お釈迦様にはご自身の選択があり、その事を中道として説かれたのだと思います。
別な見方をすれば、人それぞれの正しい選択が中道である、ともいえそうです。
戒の上に立った正しい選択が出来るかどうか、という判断がその事を決めるのでしょう。
また、一時的にではなく、常にその新たなる判断が求められていくところにも、中道と呼べる新鮮さや確かさ、また困難さがあるように思います。

中道とは、人それぞれに正しい選択をしなさい、という呼びかけのようにも聞こえます。
それは困難さを乗り越えるべき人それぞれの道が必ずある、という事ではないでしょうか。
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ともかく、



左右への触れ幅が少なければ少ないほど良い。

刺激が少なくて満足するならそれに越したことはない。


「極端」の幅も人それぞれでしょう。


そして時にとまり、また動き出す。


理解するかしないかはあなた次第です(。・ω・)
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返事の内容を読むと


もしかして質問内容は、もう中道の意味はわかっていて、聞きたいことはいつからどのように中道の意味が誤解されるようになったかの 歴史の考証的な意味の質問でした?
早合点・・

・・すんません、もしそうならただの勘違い投稿・・
何で中道の意味が変質したのか? という質問文ですもんね、そう書いてあります・・


もしそうなら何で意味が誤解されるようになったかは聞いたことありません、すみません。
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なんどもすみません



先の補足で

いたたまれない、というのは、その場にいるのが辛い、という意味です。(辞書をひくといろいろ出るとは思いますが、普段生活で使うぶんにおいては)

これは、下の人の書いた「今ここ」というのが、それを理解しない人には、居心地の大変悪い場所であることを指します。
板挟みも同じで、板で挟まれたその中間とは今ここの中道にいるのですが、それが理解できてない場合、ただただ辛いだけです。
なのですぐ中間にある道から離れて、右や左の極端なことを言いたくなります、僕も。
これは、高い精神集中は、その解釈を伴って初めて無理なく維持できるので。



後、死と再生の概念は、中道と言うより、止揚により近い表現方法だと思ったので、修正します。
止揚は非常に客観的で、死と再生は非常に主観体験的なのが違うところですが。

表現方法と切り口の違いに由来します。
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ちょっと追加・・



中道の例えとして、日常会話にその例を探すなら、「いたたまれない」という言葉がありますが、
この言葉は、中道や中庸を、擬似的に表します。

板挟みですね。
親しい友達同士が絶交していたたまれない、とか。
板挟みは、先に書いた壁やロープの例え通りの単語だと思います。


もう一つ、死と再生も、この中道と似た概念だと思います。


あと、中庸や中道を、50:50ではなく、100:100,と書いたですが、
もうちょっと改良すると、50:50ではなく、∞:∞(無限)と書くほうが、より近いと思いました。
 
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