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平安仏教である真言宗の寺院が9000以上もある理由について考えています。

以下の点についてアドバイスいただければうれしいです。

1.平安仏教は山奥での厳しい修行により、密教を体得する宗派で、病気平癒や五穀豊穣などの加持祈祷を行い、主に貴族や皇族を商売対象としていた。一方、鎌倉新仏教は新興の勢力たる武士や民衆への布教を目指した。

2.天台宗系仏教寺院は、約4000ほどに対して、真言宗派は9000もある(臨済宗派、浄土真宗派は1万超だが、浄土宗、日蓮宗、曹洞宗より真言宗派寺院が多い)。

3.いわゆる新義真言宗は、室町時代以降のため、どちらかというと鎌倉新仏教の布教方針に近く、民衆布教のため、各地に末寺を多く抱えた。(豊山派などの寺院は5000強ある)

新義真言宗は、平安仏教の特色をもちあわせてない?と考えるか、何か真言宗寺院が増える要因があったと考えるか・・・・。

A 回答 (2件)

煎じ詰めると真言宗は金を持っていた。


ということかと。

政治と宗教との関係
安藤正純 大正12年著作 190ページによれば
江戸時代に朱印地は寛文年間(家綱)で 3678箇所 181730石
宗派別では
天台 360
真言 110
浄土  91
禅宗 146
日蓮 45
一向 41

高野山 21000石 ← 真言宗
輪王寺 13000石 ← 日光
寛永寺 10740石 ← 上野

最大の寺領を持っていたのが、高野山であり、輪王寺と寛永寺が徳川家の菩提寺としての機能がある分を考えると、高野山は突出しています。

さて、ここで、江戸時代の寺院を考える上で、寺単位では宗派替えも行われていたこと、浄土真宗以外では、妻帯出来なかったコを考えることが必要です。さらに、江戸時代は、宗教は脱臭されて、村単位で考えれば、どんな宗派でも良かった。

高野山は、2万石という大名並みの寺領を持つことで、宗教者の育成に成功し、宗教者の供給源になります。
ある村のお寺の僧侶が死亡した時、宗派に拘らないならば、もっとも宗教者を供給している宗派から僧侶がやってきます。
その供給源が高野山=真言宗 ということになります。

1番の仮定は、現代から宗教史を整理すると
という話であって、室町中期くらいまでは、兼学が当たり前
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%81%B5
栄西禅師が尊敬した明恵上人は、華厳・真言をおもに学んだ人で、北条泰時に強い影響を与えています。
また、蓮如が生まれるまでは、浄土真宗も「自称親鸞の子孫がいる寺」くらいのレベルで、親鸞なんかしらん。というのが実情でした。
いろんな戦国時代の有名人が高野山に行ったり、葬られていますが、真言宗を信じていたというのではなく、日本最大の霊場の一つだからというくらいのものです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。
高野山が江戸時代、広大な土地を持っていて、一大霊場地として多くの僧侶を輩出したため、彼らの寺院が現在でも真言宗系として残っているということでしょうか。
実は、真言宗系でも高野山系は約3000、他に智山系と豊山系がそれぞれ約3000となっています。智山系、豊山系は分裂したと思います。高野山から根来寺に、根来が秀吉に弾圧され、江戸初期に家康によって再興したようです。となると、高野山の僧侶と根来系の僧侶とのつながりはどうなのでしょうか。分裂してもお互いに連携していたのであれば、高野山の広大な土地と多くの僧侶を輩出する一大霊場地だったからという説明でも合点がいくかと思います。この点をもう少し調べてみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/11/15 17:05

http://anshin.co.jp/affiliated/kona18.html

元のソースがわからないが、1815年の段階で95万9042寺の寺院があったそうだ。
江戸時代の僧侶人口比率が 1-2%程度だから、3000万の日本人の中で、30-60万人。
どう考えても、僧侶不足です。
※ 1-2%は一部の藩での調査数字より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8% …

江戸時代は、僧侶不足の時代。それでも寺請制度により寺院は存在しつづけた。
明治になり、不必要な(僧侶のいない)寺は減った。

なので、僧侶を供給し続ける体制にあった宗派の寺院が残った。

なんていう想像です。
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