閲覧ありがとうございます。
私が現在、26年間生きてきて、物心ついてからいままで、世界で戦争が止んだことがありませんでした。
小さなころ、ベルリンの壁のニュースを聞き、戦争を不思議に思ったものです。
でも高校などで世界史を勉強して、あらゆる時代・場所で人間の争いがありました。26年なんてものじゃない。
そして、私が出した答えが題のとおりです。
人が争いを止められないのは、その中に変えがたいお互いの真理が根ざしている、つまりは思想信条が関係していると思います。
日本には八百万の神々への信仰、先祖信仰など昔から信仰があり、例えば元日は初詣に行き、葬式は僧侶に来てもらうなど、よく考えればちぐはぐなことですが「普通」と捉えられます。
しかしキリスト教や仏教(日本で広まっている主な宗教と考えあげています)のように、「宗教」に対しての偏見が強いです。
なぜ善い部分は認め合い、取り入れて生きられないのか。
こんな狭い日本でさえ。
悲しくなります…。
政治家が堂々と犯罪を犯す。
それに目を向けている人は何割か。
マスメディアは世の中を、流行を、思考を「洗脳」していることを、気付いているのか。
どう生きたいか。
何をもって、善か悪かを判断するのか。それが信仰によるのではないか。
こんなこと、話題にするのは「重い」と煙たがられる世の中。
哲学を嫌煙するのが今の世の中…というか私たち若い世代です。
ストライキだらけだったろうが、昭和の日本はまだ人間が「生きていた」のでしょう。
宗教とは何なのか。
今、日本人に必要なものは何なのか。
私は、差違を認め、関係を育む、大きな意味での「包み込む愛」ではないかと思うのです。
A 回答 (17件中1~10件)
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No.17
- 回答日時:
戦争の根本原因は、人間の動物的な本能だと私は思います。
つまり一般にいわれるところの「闘争本能」です。宗教は、戦争をするための道具として利用されることがあります。また愛国心や経済、民族・人種も戦争を始める道具としてよく利用されてきました。
動物はみな闘争本能を持っています。例えば、鮭は川で生まれ、まだ成魚になる前に闘争を始めます。勝った者だけが川に残り、負けた者は海に追い出されるのです。百獣の王ライオンも同じです。オスライオンはメスを奪い合って闘争します。あのおとなしい羊でさえ、交尾期には闘争して、勝ったオスだけがメスを得て子孫を残すことができます。
このように動物が闘争するのは、良いとか悪いとかいうことではなく、環境に適合した強い遺伝子を持った者だけが子孫を残すために必要な形質として残ったものです。もし、闘争しない動物がいたとすると、環境が変化したときに遺伝子を残せず絶滅してしまいます。その結果、闘争本能を持たない動物は存在しないということになります。したがって闘争本能の強い動物ほど繁栄するわけです。
ひるがえって人間は、現在地球上で最も繁栄した動物でしょうから、それはつまり人間が動物の中でも最も闘争本能が強い動物だということです。
人間の闘争本能はあなたも私も持っています。それは「うぬぼれ」です。我々人類は全てうぬぼれています。だれもが自分は偉い、自分は賢い、自分は強い・・・と思っています。表立っては謙遜して、そんなことは言いませんが、だれもが人の評価より自分自身を高く評価しています。それは企業の人事評価をすればよく分かります。上司の評価について、多くの人は「自分の評価はこんなに低くない。」と思っています。実はこの「うぬぼれ」が人間の持つ闘争本能なのです。さあ正直に言いましょう、あなたも「うぬぼれ」を持っていますよね。
ただ、人間の闘争本能がほかの動物と違うのは、自分が優秀だと思うだけではなく、自分の所属する組織や仲間が優秀だと思うことです。つまり自分自身だけでなく自分の属する宗教や国や地域や会社や学校などについてうぬぼれるのです。
例えば、韓国では自分の出身地がうぬぼれの対象になります。あるいは中国では自分の姓がうぬぼれの対象です。自分の出身地は他の土地より優秀だ、自分の姓の祖先には優秀な人が多いなど。日本では学歴がうぬぼれの対象です。東大出の人は「他の大学を出た人間はみんなバカだ!」と声に出しては言いませんが、みんな心の中ではそう思っているのです。(東大出の人。そうですよね?)
日本人は日本民族は優秀だ、日本という国は優れていると、心の底ではみんな思っています。これが愛国心です。ある宗教を信じている人は、自分の信じている宗教こそ真実だと思います。そして、自分の属する集団以外は全て何らかの形で劣っており、排斥してもかまわないと思います。それが対立につながり、戦争に発展します。人間の場合は、闘争本能がこのような形で現れるわけです。
もともと人間は、他の動物と同じように(あるいはそれ以上に)闘争本能によって争おうとします。人間が他の動物と違うのは、自分ひとりで戦おうとせず、仲間を集めて戦おうとすることです。その仲間集めに宗教や、愛国心や、民族・人種やその他のもろもろの組織が使われてきたというわけです。
宗教で戦争が起こるわけではなく、その本質には自分以外の人間や自分の属する以外の組織を排斥したいという人間がもともと持っている闘争本能があります。それが戦争を起こすと私は考えます。
ありがとうございます。
宗教そのものというよりも、それに伴う人間のおごり・欲、そういったものが深く関わってくる問題でもあるんですね。
沢山の回答をいただき、ひとまず質問を締め切りたいと思います。
ベストアンサーは選べないのですみません。
本当に皆様ありがとうございました。
No.16
- 回答日時:
追記しますね
神社の件は興味が湧いたらご自分で考察するのがベストなので控えます
これは基本が争いに疑問を持たれていると思ったので、それを考察する材料にして下さい
「争いの本質」として
前回宗教組織やそれの例えで社会の組織の話をしましたがこれは人間の本質の話です
争いといっても意識的に人を傷つける争いだけが問題となります
人間が向上したり成長する為に競争して切磋琢磨する事は大切な事ですから
逆に争いを避けるような人間はダメな人間になってしまします
過去の戦争を良し悪しではない目で見るとその元にあるのは
自分達とは異なる他者を敵と見なしたり、自分達の主張だけを正義とたりしていたからですが
更にその源にあるものは人間の生存欲求なんです
人間通しが争うありとあらゆるケースを考えてみて下さい
そこに必ず存在してるのは醜い欲があります
無論、人間の行動の源は欲なので欲を持つこと自体が問題ではないと言っておきます
醜い欲とは、
妬む、羨む、僻む、蔑む…などのような憎しみに繋がる欲求です
解決した殺人事件の犯罪心理を知るとより実感すると思います
端的な説明でしたが、要はそういった欲求が争いを生むという事です
この後、
「醜い争いが起こる要因について」
・現代社会の争いの本質
・争いのない人間関係や組織
と話は続きますが、もしかしたら本質的な話には興味がないかも?と思ったので辞めておきますね
興味があればまた追記しますよ
追記、わざわざありがとうございます。
仰るとおり、争いについて根本は考えていました。
>人間が向上したり成長する為に~大切なこと
本当ですね。
とても大事なご指摘。一方からしか考えておらず、目から鱗です。
ありがとうございました。
No.15
- 回答日時:
宗教、特に一神教は戦争に利用しやすいでしょう。
宗教Aと宗教Bの教徒とが諍いを起こし、お互いが和解のための話し合いをする場面を考えて見ましょう。はじめに「我が神の御名が(あなた方の上にも君臨しておられることを)讃えられますように」と祈るわけです。平和よりも「我が神」が上位にあることを確認する、それも双方が。ですから「平和とは重要度二番目以下」であるとしていることが一神教では確実です。平和のために、相互のへの愛のために宗教を捨てようとは絶対に言いません。神の愛とはその信者だけに与えられるものです。全世界が宗教Aに帰依したときにのみ平和がやって来ると信じているはずです。一神教が流布してきた歴史には戦争・暴力などが伴なっております。平和裏にのみ流布した経験はごくまれです。宗教特に一神教が口先の反戦は別として、正味反戦的であることは困難です。一神教でない人々の間でも戦争があることから、戦争を起こそうとする理由はもっと別にあるはずです。「そこをもうちょっとうまくしたい」「それをさらに強くしたい」「もっと立派にしたい」との衝動こそが戦争意欲の核心だと小生は考えます。どの戦争の口実にもこれが明瞭に認められます。「○○を願うより立派な私」への衝動が他人の領域をも侵すしそうなほどに強くなったとき、それがすなわち諍い・戦争です。戦争を無くすことが困難な理由は、「立派な私」を願う心が人間の本質的なものであり、それが戦争に繋がっていることにあるのでしょう。
No.14
- 回答日時:
回答じゃないんですけどね。
この種の議論する上で意外にもまだこの本に触れられていないので、紹介しちゃおっと。http://www.circam.jp/page.jsp?id=1853
http://100satsu.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/p …
http://tkido.com/blog/3922.html
http://blogos.com/article/30555/
No.13
- 回答日時:
戦争に宗教が絡んでいることもあるかもしれません。
1970年代レバノンからイスラエルへの報復攻撃を装った攻撃は、ある宗教に関係する重大な資料が発見された為、その資料を奪還するだけに行なわれた攻撃です。No.12
- 回答日時:
こんにちは。
★ 私は、差違を認め、関係を育む、大きな意味での「包み込む愛」ではないかと思うのです。
☆ 《差異を認める》ことの出来るように 《神とは何か?》または《信仰類型》について考えたものです。よかったら修正をもしつつ活用してください。
*
神とは何か? または 信仰類型論
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること)。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X=考えても分からないこと。
(いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
とがら。 )
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在 = Z
とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。
§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。
しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。
信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。
もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。
以上の定義だけの理論は 次が その心である。
吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。
No.11
- 回答日時:
宗教が戦争を生むのではありません。
宗教を掲げて自分が正しいという大義名分のために宗教を利用しているのです。イエスキリストは次のようにいっています。
**********************************************
『あなたの敵を愛しなさい。』
『わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』
『悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。』
(新約聖書イエスの言葉)
**********************************************
このような戒めを守っているクリスチャンが戦争を起こすはずはありません。戦争を起こすのはクリスチャンでなく、偽クリスチャンです。
本当に戦争や犯罪を起こす原因は仏教の『貪瞋癡』です。
貪 =欲望(性欲・物欲・金銭欲・自己顕示欲)
瞋 =怒り・恨み・嫉妬・不満など
癡 =無知(空を知らない・十二因縁を知らない)
ありがとうございます。
私は、クリスチャンと仏教徒が世界にいるのも事実で、仏教徒だけが悪という訳ではないと認識しています。
また2つ以外に多岐に渡る信仰があることを。
No.10
- 回答日時:
宗教が戦争を生むとは必ずしも思っていませんが
歴史を見ると戦争と宗教が深くかかわっているのは明白です
※ここでの戦争とは主に内紛の事です
1つ例を上げると
インドは治安が不安定なんですが
最大の要因はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在するからなんです
何故宗教が対立するのか?
それは教義が違うから衝突するんですよ
あの無差別テロなんかは宗教思想でしていますしね
僕の個人的な考察では
宗教の問題は組織化している事にあると思っています
それは社会の組織が参考になる筈です
要は組織内で派閥ができたりM&Aや組織が生き残る為に他の組織を蹴落とす行為など
宗教でも組織を拡大しようとして信者に勧誘させたり他の宗教と衝突したりするのは普通にありますから
因に僕は宗教に偏見はないので宗教を知るために実際に色々話を聞いたりなどもしました
そして僕が出した結論は
もし宗教を良いものとした場合、組織化した宗教は宗教と呼べるものではないというものです
理想は全ての宗教が日本の神社のようなものになる事
以上が宗教についてです
分析考察されるなら宗教と歴史、原始宗教と新興宗教、宗教の教義を
隔たらず多角的な視点で独自に調べる事をお薦めします
それと争いについて
過去の偉人が言っているように未来永劫無くなることはないでしょう
これが愛のある無しとは無関係の問題で特定の欲求の問題だからです
詳細は長くなるので省略しますが
それは人間が文明の発展を望む事と関係がありますがその真理を知ればわかるようになります
以上ですが考察する材料になればいいですね
1つ。正義とは正しい事ではなく権力のことですよ
何故なら正義とは争いから生まれた思想ですから
ありがとうございます。
大変分かりやすい言葉で、読ませていただきました。
参考にさせていただきます。
>すべての宗教が日本の神社のようになれば
これは具体的には…?
と、あまり質問ばかりでもいけませんよね。
自分なりにも考えてみます。
>正義とは権力
歴史を知ると、やはり勝者(ナポレオン然り革命においてはまた別かも知れませんが)が正義となるケースがほとんどですね…。
しかし綺麗事かもしれませんが、言い切るにはまだ整理がつきませんので、個人的には追求してまいります。
No.9
- 回答日時:
宗教を含む世界観や価値観が異なれば、如何なる
言語の共通性も、相互理解の可能性を損ない、
偶然うまくいく事もあれ、また不和に反動するのが
必然である(相互理解していなければランダムな
関係になる)。
愛とは、互助的な組織性の内において生じるもので
あって、相互理解の不能な対象は、道具に近い愛玩
以上(自己犠牲)にはならない。
「差異を認め」ても、それが組織性=分業化を可能に
する多様性ではなく、価値観そのものの差異である
場合、その差異が原理主義的(キリスト教やイスラム教
のような一神教はその性質が強い)であればあるほど、
物質的対象に順ずる「愛」にしか結果しない。
昭和はまだ、人々が世界観を持ち(それが幻想であれ)
個人の意思で世界を動かせると信じていた。
その挫折により、人々は社会の歯車として、お金や出世
といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって、他律的
に社会行動をとらされるようになった(社会生命的自覚と
しての愛を見失った)。
必要なのは、何だか曖昧な感情的「愛」ではなく、自己
の生存が世界の順調な営為に依拠し、また労働とは
「お金をもらうため」ではなく助け合いである、といった
広く深い認識の高まりによる、社会生命的自覚化である。
回答いただきありがとうございます。
色々考えさせられました。
>ランダムな関係
確かに、そうですよね…
>労働とは~助け合いである
すごく納得しました。
参考になりました!
No.8
- 回答日時:
「戦争」を抽象化すれば「対立」となり、その「対立」は異質なモノと異質なモノの「衝突」と理解することもできます。
ではこの「異質なモノ」を具体的に考えたならばどのような言葉がそこに入るでしょう。大きく括ってみるなら「体制」であり、それは同時に政治体制や経済体制など様々な次元でとらえることも可能です。その中には「宗教」も含まれます。けれどこの「宗教」も現代では仏教やキリスト教、イスラム教といった分類の他に「原理主義対非原理主義」としての価値観の対立もその範疇に含まれ、むしろそのウェイトが大きくなっているようにも感じられます。イスラムは信仰としてのイスラム教であると同時にモスリムとしての政治・生活全てを含む原理であることからその「政治的スタンス」としての「非キリスト教文化圏(非欧米もしくは反欧米的スタンス)」を前面に出すことも必然でしょう。個人的には信仰レベルの「愛」に対して「嘘くさい」との立場を僕はとりますが、人間が理性的な存在であることを前提にするならば「差違を認め、関係を育む」とのスタンスには大筋での同意を示したいと存じます。「哲学すること」が「自らの言葉で社会や世界を語ること」ならば、その前提には「自らの目でモノを見る姿勢」を持つことがあることとなります。この辺りは戦前および戦中派の世代の方々には耳の痛い言葉かもしれません。また同時に大量生産された戦後の70年代から80年代生まれの人にとっては異質な響きの言葉かもしれません。2つの世代に共通するのは「与えられた情報」を疑わずに受け入れてしまった点にあるともいえましょう。
心ある戦中派の方は「墨塗り教科書」などの経験から一夜にして自らのアイデンティティを転回させても平然としていた大人達を見て「大人は信用できない」として「自らの目でモノを見て判断すること」を何よりも大切にしてそれを将来に伝えようとしていますが、殆どの方は自らの経験を情念化することで戦中・戦後と自らを同化させてしまう傾向から逃れることができない。簡単にいえば「自らを対象化できない」点に僕自身は苛立ちを感じます。
まもなく戦後70年の節目が訪れると同時に「戦後の思索者」の一人、吉本隆明氏が昨日、他界しました。国家と個人の関係を鋭く問い続けた人物でした。最早「問う」ということすらがこの国ではタブーとなりつつあるのかもしれません。盲目的に一つのモノに縋り付く、そうした姿がある意味での「日本教」と呼ぶに相応しいのかもしれません。意見を戦わせること自体は決してオカシナことでもないのに、この国では「意見(または異見)」を口にすると排他的に扱われる風潮が未だに残っています。こうした部分で僕は「日本社会での理性の開花」が訪れるのは何時のことかと絶望にも近い感覚を持っています。
宗教が政治との関わり合いを持つことに近代日本の政治史的過程からも僕は否定的です。血盟団事件や北一輝そして大川周明、西田税には日蓮教団が影を落としています。鎌倉時代に他宗派を全て邪教として排撃した原理的姿勢からは「大きな愛」などの表現に嘘くささ以外の何物も感じられません。
ありがとうございます。
戦後日本への深い洞察、ご意見、参考にいたします。
>「日本社会での理性の開花」
まさにこのように願ってます。
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